第七章

【四】

 背後から放たれるカルの攻撃。アリカは引継ぎの間へ走りながら階段の影や像に身を隠し、その攻撃から逃れていた。開け放してある部屋に飛び込み、無駄だと知りながら扉を閉める。扉は音もなくすんなりと閉まった。
 アリカは閉じた扉に背中をつけ、もたれながら荒い呼吸を繰り返す。激しい動悸に眩暈がする。何度か瞳を瞬かせて落ち着こうとした。
 カルに破壊された王座の間を改めて眺め、瞳を細める。
 エイラが息絶えたこの場所には、まだ彼女の残り香が残っているようだ。
 息を吸い込んでかぶりを振る。
 カルが破壊した、引継ぎの間への扉。エイラはあの扉がなければ行き来は不可能だと言っていた。しかし引継ぎの間、そのものが破壊されたわけではない。ただ行く術を失っただけだ。だが、それだけならば、また創ればいいのだ。
 アリカはいくらか呼吸を落ち着けて歩き出した。床に散らばる石片を踏むと、乾いた音がして細かく砕かれる。その中でアリカは辺りを漂う光の粒子を感じた。魔法を扱うために必要な魔力の欠片たちだ。
 正確に知っているわけではないが、今のアリカにはそれらが懐かしいものに思えた。黒魔に出会ってから常人の感覚から外れていく気がして、わずかに恐ろしいと感じたものの、それが必要だとも感じていた。トゥルカーナを救うには常人ではいられない。
「どこかで会った気もするけど……」
 呟きながら壊された扉に歩き出した。
 歩きながら脳裏に懐かしい景色がよみがえる。風が渡るみどりの草原。翡翠を溶かして広げたように艶めいた大地。幼い頃に隠れ住んでいた楽園。なにも知らずに暮らしていた日の幻影。
 アリカは泣きたくなるような衝動に見舞われた。
「……っ」
 胸を押さえて唇を噛み締め、かぶりを振る。清冽な輝きを宿す銀の一房が肩を滑って音を立てる。
「私が、カディッシュ=リーゼ=アルマの娘なら」
 ここに送り込まれたことが彼女の意思なら、その目的を遂げるのは義務なのかもしれない。
 アリカは壊された扉を前にして瞳を閉じた。そうしても辺りを漂う魔法を欠片を視ることができた。瞳で見るのではなく、それらが持つ温かな光を感じる。壊された扉の付近ほど、その粒子が多く集まっていると分かる。壊されて行き場を失い、漂っていたのだろう。
「もう私の目的は達せられていたのね」
 瞳を閉ざしたまま微笑んだ。
 トゥルカーナに来る前の闇の中で聞いた声の主。イリューシャの歌声が響いていたあの中で聞こえた声は確かに母親のものだったと分かる。トゥルカーナに来るのが当然で、罪の代価を支払えと言い切った声。
 アリカは瞳を閉ざしたまま両手を前に伸ばした。壊された扉の向こう側、その更に奥深くにうごめく、見通せない深い闇。あの場所まで道を繋げばいいのだと分かった。
 ――私にも、母が魔法を教えてくれていたのよ。
 銀色に輝くアリカの髪が魔力の風を孕んでふわりと舞った。
 ――魔法は想いの集合体。生き残るのは、生きる意志が強い者のみ。
 遥か昔、歌うように流れた声がよみがえる。アリカの華奢な肢体が淡く発光して、彼女の前に扉を造り始めた。一度見たきりの扉を正確になぞる。優美な形を崩すことなく生み出される。アリカの脳裏には、宙に舞う光の粒子が凝縮されて扉となる様子が浮かんでいた。
 瞳を開けると、脳裏に描いていた通りの扉が目の前にあった。
 完全に形を取り戻した扉は静かに佇んでいる。重厚に構えながらアリカが押し開けるのを待っているように思える。
「できた……」
 信じられないように呟いたその刹那、背後から誰かがアリカの腕をつかんだ。突き刺すような痛みが全身を貫く。短い苦悶に眉を寄せ、振り返ったアリカは瞳を瞠らせた。そこにいたのはカルだ。追いつかれた。表情を強張らせ、震える唇を開く。
「放し」
「放してやったらどうだ、デューラ=ジュイール=カル」
 アリカの声にかぶせて男の声が響いた。
 破壊された部屋は廃墟然とした雰囲気を醸していたが、響いた男の声はこの場所が荘厳な場所であったことを示すように悠然としていた。壊されようとも物ともしない力強さを感じさせる。
 耳に深く染み入るような低音。
 アリカは自分をつかむ男の手が震えたことに気付いた。
 恐る恐る見上げると、カルはアリカから意識を外して黒魔を凝視していた。黒魔は王座の間に入る扉にもたれかかるように存在している。この場所がしっかりと整えられた玉座であったなら、まるで自分こそがその場所に相応しいとでも言いたげな雰囲気だ。
 面白そうに口の端を持ち上げ、瞳は揶揄るように細められている。絶対的な強者として君臨し、アリカたちがこれからどうするのか観察しているようだ。
「あ、貴方」
 アリカは黒魔の姿に目を瞠った。ヒマリアの谷底で道を示してくれた者だと気付く。彼の助言は結果的にアリカをジュナンのもとまで導いたため、アリカの信頼が黒魔に傾くのは当然だった。カルから離れてそちらへ行こうとしたが、カルは決してアリカの腕を放さない。より強く腕を握りこまれた。
 アリカは顔をしかめる。体全体を襲う痛みは消えたが、物理的につかまれた腕が痛くなる。そして次に、カルがまるでアリカの前に立ちはだかるようにして黒魔に向き直ったことに驚いた。それはまるで黒魔からアリカを守るような構図にも思える。
 カルの意図が分からずにアリカは混乱するが、男二人はアリカの様子など関係ないように互いに見交わす。
「ずいぶんと捜し回った。アルマも余計な手間をかけてくれる」
「お前を喜ばせるだけだと分かっていながら、みすみす渡すと思うか」
 黒魔から洩れた名前にアリカは瞳を何度も瞬かせた。抵抗をやめて耳を傾ける。イザベルから聞いていた母の名前だろうかと困惑する。
 黒魔を見て、そこに浮かぶ嘲笑を見て、この場所に自分の味方はいないのだと思い知ったような気がした。
「渡してもらおう。それは確実に受け継いでいるからな」
 黒魔の視線は真っ直ぐにアリカをとらえていた。視線を受け止めたアリカは背筋が凍る思いをして息を止める。このまま体を縛られて動けなくなるような気がした。それまで大して気にしていなかった黒魔が、得体の知れない大きな恐怖に思えた。
「父なら父らしく娘の願いを叶えてやるべきじゃないのか。アリカはお前よりも俺のそばに来たそうな顔をしている」
 アリカは限界一杯に瞳を見開いた。銀の双眸に、腕をつかむ男の横顔を映したが、彼に動揺は見られない。何を考えているのかも伝わってこない。この二人は何を言っているのかと、頭痛を覚え始めた。
「これはアルマの娘だ」
「ふん、いまさら」
 黒魔が宙に舞った。片手を腰に当てたまま、もう片方の腕を伸ばす。手の平には底知れぬ恐怖が凝り出す。
「嫌だ!」
 アリカは本能的に叫んで逃げた。たった今、知った事実を確認するのが嫌で乱暴に暴れる。その拍子に腕が外れた。アリカは必死で逃げ場を探す。
 部屋の入口は黒魔が塞いでいる。黒魔へ至る道はカルが塞いでいる。逃げ道は背後にしかない。
 アリカは自分で作り出した引継ぎの間へ意識を向けた。振り返ればそれは、開かれるのを待ちきれないように扉の淵から力を溢れさせている。
 カルから逃れたアリカは考えるよりも先に、体当たりするようにして転がり込んだ。追いかけてくる手を感じたが、それよりも早く扉の中へ飛び込んでしまう。
 ――扉の向こうは地面のない深淵の闇。
 聴力を失ったかのような静寂が身を包んだ。凍りつくような冷気に包まれて息を止める。まるで幾千の針山をかすめて落ちているような気がした。体中が切り刻まれていくかのようだ。頭の奥が痺れて意識が遠のいていく。
 アリカはそのまま闇に包まれた。