第七章

【五】

 無音の世界。幽玄の間。
 闇に包まれた世界は何もない寂しいところだと思っていたけれど、世界は色づいて、確かにあった。瞳に優しい淡色で彩られた世界だ。
 太陽の光はとても懐かしい。荒廃したトゥルカーナにはありえない光だと分かっている。ここはトゥルカーナではないのだろうか。日本を離れて半月も経っていないが、太陽の光はアリカを温めて望郷を抱かせる。
 アリカは瞳を瞠って世界を眺めた。安堵に心を落ち着ける。しかし直ぐに、その場に漂う、芯まで凍えるような悪意に身を引き締めた。
「馬鹿なことを。アリカ」
 冷たい空気の中でかけられた声はどこか暖かかった。
「アルマ女王が何よりも望んだ未来を自ら放棄するなんて」
 できれば関心を示したくなかった。ただこの景色に溶け込んで、風景の一部と化してしまいたいと思う。しかし琴線に触れた名前は嫌でもアリカを現実に呼び戻す。振り返った先には一人の女性がいた。それが誰なのか悟った瞬間、アリカは逃げられないのだと漠然と悟った。驚愕に瞳を瞠らせる。
「イリューシャ……?」
 ビトたちの住まいがあったユピテルの森で、別れを告げたのは最近だ。星の中央へ渡ったイリューシャがなぜ目の前にいるのだろうか。
 そこまで考えたアリカは辺りを見回した。
 トゥルカーナと良く似た場所だった。
 日本で感じたことのない雰囲気を持つ場所だった。
 佇むイリューシャの背後には輝く城が見える。それは、イザベルたちと目指したトゥルカーナの城だ。陸の孤島に建てられたそこには、対岸から幾つもの光の橋が架けられている。アリカはその一つである橋の前に座り込んでいたらしい。
 ――ここはどこ?
 アリカは凝視した。引継ぎの間に入ったことは覚えている。そこが外に繋がっていたのだろうか。
 詳細を思い出そうとし、アリカはカルを思い出して表情を強張らせる。思い出したくない単語が脳裏を占める。
 アリカの自問の一部にイリューシャが答えた。
「ここは引継ぎの間」
 目まぐるしく混乱する思考から救い出すかのような声。
 アリカは弱々しくイリューシャを見上げる。彼女の言葉に耳を傾け、自分の思考を停止させる。ただ彼女の言葉だけを受け入れようとする。それはとても楽なことに思えた。
 アリカの記憶にある引継ぎの間は、近寄りたくない深い闇に満たされていたはずだ。この光溢れる場景はどうしたことだろう。
「望むままの夢を見せる、優美な牢獄」
 イリューシャは告げながら腕を振った。
 途端に陽光は消える。賑やかに舞い踊っていた小さな精霊たちも一瞬で凍りついて儚く消えた。まるですべてが夢想のように。
 形を崩したのはそれらばかりではない。草も樹も、音までもが消えた。輝いていた城も溶けるように消えていく。それらをアリカは目を瞠って眺めていた。そして、アリカの座る大地までも揺らぎだして、慌てる。
「な……っ」
 立ち上がって怯えるように後退した。しかし揺れているのは地面だ。後退しても逃げられない。楽園に思えたこの場所が一瞬にして地獄へ飲み込まれていく。
 アリカは信じられない思いで視線を巡らせた。
 アリカの様子を見ていたイリューシャは軽く瞳を伏せた。そのままもう一度、腕を振る。そうすると崩壊しかけていた世界は時を巻き戻し始めた。何事もなかったかのように地面は存在を取り戻し、溶けていた王宮も輪郭を戻す。窺うように駆けた風は呆然とするアリカの頬を撫で、アリカが顔を上げるとおかしげに強く吹いて髪を乱し、過ぎ去っていく。顔を上げたアリカの視界には太陽が映る。いつの間にか温かな陽光が降り注いでいる。渡る風は翡翠の大地を駆け抜けていき、奏でられた音が静かに響いていく。
 アリカはそれらが急に存在感の薄いものに感じられて、無意識に腕を抱いた。
「どういうこと?」
「これは私が作り出した幻。私の夢。過去の――私のトゥルカーナ」
「どういう、こと?」
 瞳を伏せていたイリューシャはアリカをその場に残して歩き出した。
「待って!」
 彼女の腕をつかもうとしたアリカは、手が彼女の体を突き抜けたことで驚いた。
「イリューシャ?」
 突き抜けた手を呆然と見つめて、イリューシャの背中に呟く。
「私はまだ消えないわ。だから、貴方がこの星の王になることはない」
 背中を向けたままの言葉にアリカは立ち尽くした。谷底から城まで駆けたときに決心したけれど、それは容易く瓦解した。決意を固めて扉を作ったはずだったのに。
「でも……死んでから中心に行った、って。だから、長くはもたないって、そう聞いたわ」
「そうね」
 イリューシャは勢いをつけてアリカを振り返った。長い銀の髪は鮮やかな光を宿して揺れる。アリカよりも少しだけ長いその髪は風に吹き上げられた。
「これは誰も知らないこと」
 イリューシャは綺麗な笑みを浮かべてアリカに告げた。
「私が消えることはない」
 アリカはイリューシャを見つめる。
「貴方がここに来なければ、貴方にも話さなかったことね」
「なにが……もう、わけが分からない」
 アリカは眉を寄せてかぶりを振る。つめこんだ情報が溢れてしまいそうだ。頭が痛い。それでも知識は圧倒的に不足している。与えられた情報をすべて整理して納得することは難しい。
 アリカは頭を抱えて叫んだ。
「いったい何なのっ?」
「私はサイキ女王に創りだされた貴方の影。最初から生きていない者が死の定義を下されることはないのよ」
 その言葉にアリカは顔を上げる。ヒマリアの絶壁でジュナンに殺されかけたとき、彼女も言っていたことではなかったか。イリューシャはアリカの身代わりとして創られた偽物だと。
 アリカは目頭を熱くしながらその言葉を聞いた。初めて会ったときから、強い女性だと思っていた。自分の生きざまを貫き、自分の意志をしっかりと持っていた。彼女が偽物だと言われても納得できない。姿を同じくする者のどちらかが偽物だとするなら、自分の方が偽物だと、アリカは思った。
 見つめているとイリューシャもアリカを見つめた。微笑みを消した彼女の表情はどこか硬いままだ。その瞳の中には、まるで責めて憎むかのような意志と、哀しげな光がある。その瞳が辛くなって、アリカは視線を落とした。
「どういうことなの? 何も分からない」
 まるで道化だ。
 トゥルカーナが滅びるのを止めたい。トゥルカーナに生きる者たちが大好きになったから頑張ろうと決めた。それなのに、何もかもが自分の決心を通り過ぎて嘲笑っていく。何も知らないくせに、と。
「あの男。父だと言った。あれは、なに?」
 ひとしきり混乱した後に残ったのはその疑問だった。アリカがアリカであるために一番知りたいこと。同時に知りたくもないこと。問いかけておきながら答えは望まない。
「デューラ=ジュイール=カル」
 アリカと同じ声でイリューシャは紡ぐ。アリカの知らないことを。
「闇星界の王。アルマ女王の伴侶となった罪深き男。貴方の父親」
 イリューシャの言葉は呪文のようにアリカの心に染みた。アリカは「ああ」と瞳を閉ざす。
 イザベルから諭された世界の概念を思い出す。衝動のままに緩く首を振る。
 光と闇の忌み子。
 母親は光星界王カディッシュ=リーゼ=アルマ。
 母親がいれば当然父親だっている。その父親が、闇星界王のデューラ=ジュイール=カル。
「馬鹿みたい」
 アリカは自嘲しながら呟いた。
 誓いが音を立てて崩れていく。罪の代価を支払い終えることなど出来やしないのだ。トゥルカーナを滅ぼそうとしているのが父親である限り。トゥルカーナに足をつけているだけで新たな罪科が増えていく。
「どうして私をここに連れてきたの」
 こんな真実は知りたくなかった。母親を待ちながら暮らしていた生活の方がどれほど良かったことか。本当に母親が来ることはないと今では知っているが、知らないままであれば、来るかもしれないという希望を抱いていられた。
「アルマ女王が貴方を幻想界から連れ出したとき、本当はトゥルカーナへ預けるつもりだった。けれど彼女には時間がなくなった。貴方は人間界へ留まらざるを得なくなった。貴方がここへ来たのはアルマ女王とサイキ女王の意思だわ」
「それでも、トゥルカーナを助けるためにと願って喚んだのはイリューシャだ」
 イリューシャでさえアリカを召喚しなかったなら、アリカはあのまま迫害を受けながら、それでも暮らしていけた。たとえ迫害されていても、アルマ女王が願う“生きる”という言葉には適っている。平和なトゥルカーナならまだしも荒廃したトゥルカーナに召喚されれば、その願いに適わないのだから、本来のアルマ女王の意思に反する。それでもイリューシャはアリカを召喚した。
 アリカははぐらかされる意図を感じて眉を寄せた。
 周囲の思惑が何であるのか知っておかなければならない。そうしなければ無数の選択肢は狭まり、なにも選べなくなってしまう。
 イリューシャを見つめていると、彼女はようやくアリカに向き直って嘆息した
「ここへ来てしまったら、もう戻れない」
 イリューシャの銀瞳と視線が絡んだ。その瞳が自分とまったく同じものだと告げられても、そうは思えなかった。イリューシャはアリカと違う経験を積み、違う道を歩み、違うものを見続けてきた。何を考えているのか分からない、銀色の瞳がアリカを見つめる。
「引継ぎの間は、王を逃がさないための部屋だから。一方通行の通り道。来ることはできても、戻ることはできない。王はこの世界に一生を捧げることになる」
 幻を見せる不思議な空間。真実など存在していなくても、王が望めばそれは容易く真実になる。
「望むままの……」
 アリカは口ずさんでふと思った。ここで自分が望みを思い描けば、それも真実として現われるのだろうかと。
「無理よ。ここは一人の願いしか受け入れない。貴方の望みよりも私の望みの方が強いわ。貴方の望みをここで具現化することはできない」
 やけに強く言い切ったイリューシャの体が揺らめいた。アリカは消えかけた彼女の姿に目を瞠り、思わず手を伸ばす。この世界で一人になるのは嫌だった。
「イリューシャ!」
「なに?」
 どこか遠くを見ていたイリューシャは、悲鳴のように叫んだアリカを振り返った。首を傾げる。先ほど消えかけた体が嘘のように、再び確かな存在感を有する。
 アリカは安堵して急に不安になった。なぜこうも簡単に人の存在が揺らぐのだろう。
「私の影って、どういうこと?」
 黙っていると嫌な方向へ考えが傾いていくのを感じ、アリカはそれを振り切るように問いかけた。ただ隣に佇むイリューシャの存在を、声を聞くことで確かめたかったのかもしれない。
「サイキ女王とアルマ女王は姉妹なの」
 アリカは首を傾げた。
「二人は翼を持つ古い一族の末裔。派生した系譜はほとんどが廃れ、トゥルカーナに残るのみとなってしまった。それだって辛うじて、というだけ。力は純潔者の方が強いわ」
 イリューシャの言葉は黒魔の言葉と重なり、アリカの心に波紋を広げる。黒魔の言葉を詳しく思い出そうとしたが、イリューシャの声は続いた。
「貴方を懐妊したことが分かったとき、アルマ女王はサイキ女王に願って私を創り出した。貴方を幻想界から安全に連れ出すためには必要なことだった。もし追ってが迫れば、貴方の代わりに私を差し出して、貴方を生かそうと考えたらしいわ」
 アリカは何を言えばいいのか分からない。謝るのも頷くのも違っているような気がして、渦巻く気持ち悪さを感じたまま唇を固く引き結ぶだけ。
「生まれた瞬間から、貴方の代わりになることを定められた運命だった。貴方が人間界に留まることで私はトゥルカーナを生き延びた。私はいつでもその覚悟をして、貴方を待ち続けて――けど、やっぱり生きていくとね、アリカ。それだけじゃないって思ってしまうのよ。私は貴方になれない。貴方が知らないことも、私はたくさん知っている」
 アルマ女王と同じ一族であるサイキ女王もまた、大気を変換して形と成す“造形の力”を有していた。遺伝子を組み込まれて自然に生を受けたわけではないから、生まれた者の外見を自由に創作することができた。
 イリューシャは自分の意志すら要らぬ人形。それがいつの間にかトゥルカーナの第二皇女として自己を確立し、彼女は歩き出した。
「私がここにいるのは私の意志。定められていたことであっても、選んだのは私。それは私の誇り」
 イリューシャは微笑んで胸に手を当てる。そしてアリカを振り返る。凍えた空気はアリカに優しくなかった。
「だから、アリカがここに踏み込むことは許さないわ」
 憎悪すら含む瞳にアリカは肩を揺らせた。
「ようやく手に入れた私の居場所を、貴方はまた奪おうとしている。この場所がいかなる場所であるかなんてどうでもいいわ。私には貴方が許せない」
 イリューシャの背中を太陽が灼き、彼女の顔には濃い影ができていた。
「本当はずっと憎かった」
 否定の言葉。何度も投げられた悪意の嘲笑。
 アリカは拳を握り締めて視線を逸らせた。イリューシャはそれを追いかけるように座り、微笑みを見せる。
「……お願い。もう、あの人を助けてあげて」
 誰のことを指しているのか、唐突な言葉に瞳を瞬かせた。イリューシャは寂しげな微笑みを浮かべたまま、アリカの額に手を当てた。とても優しい、柔らかな手だ。
「イリューシャ?」
「貴方にはまだやることがあるはずだわ。ここは私に任せて、貴方は貴方の道を歩みなさい。外から繋がれる糸は、まだ、貴方を求めているから」
 額にイリューシャの熱を感じているのに彼女の声は遠ざかっていく。姿まで遠くへ行ってしまう。それでも額に触れている熱はそのままで暖かい。
「イリューシャ?」
 不安に呼びかけてみたが、応える声はなかった。代わりに、遠くなった彼女が微笑むだけだ。引継ぎの間から現実へと引き戻されているのだと分かった。出ることは決して叶わないと聞いていたはずなのに、なぜ、と思う。
 アリカの耳に、反響しているかのような声が届いた。
 ――貴方が生きている限り私は生き続ける。私はまだ生きていたい。だから、自分を軽んじる行動はやめて。貴方が諦めてしまったら、私も諦めてしまうから――
 イリューシャの姿も声も、それを境にぷっつりと途切れて消えた。
 無音の闇に還った世界。
 その中でアリカは、誰かの腕に抱き締められた気がした。