第八章

【一】

 命を干上がらせた大地は埃を舞い上げ、瓦礫の山の中で幾多の悪意が芽生え始める。崩されたものが元はどのような形だったのか、想像することもできないくらいに無残な姿。
 誰かが怒りの咆哮を上げていた。身を竦ませる大音声で地面が抉られていく。その合間に聞こえる鋭い剣戟は、突き刺すように脳を刺激した。
 体全体に虚脱感があった。アリカは無意識下で緊張を感じ取りながら意識を浮上させる。
「アリカ?」
 強く揺すられて目が覚めた。
「……フラッシュ?」
 名前を呼ぶと、視界一杯に映りこんでいた彼の表情が綻んだ。安心したように離れていく。アリカはその腕に抱えられて横になっていた。気付いて体を起こそうとしたが、フラッシュの腕は解けない。きつく抱き締められて困惑した。
「フラッシュ?」
「ジュナンが教えてくれた。倒れてたお前を見て心が冷えた」
 ジュナンは無事に合流できたのだと、小さく口許が綻ぶ。
 アリカは首を傾げた。
「イリューシャは?」
「え?」
 戸惑うフラッシュの腕を無理に解いて立ち上がり、広がった景色にアリカは絶句した。アリカがいたのは瓦礫の中だった。先ほどまで喉を乾燥させ、埃っぽさを覚えていたのはこのせいだったのかと納得する。
 ずいぶんと見晴らしが良いその場所から視線を遠くへ向けると、崖が大きく口をあけているのが分かる。その崖は周囲を一周して繋がっている。
 陸の孤島。トゥルカーナの城。
 この瓦礫が王宮の成れの果てだと教えてくれた。
「なに、これ」
 イリューシャに会ったことが夢でも夢ではなかったとしても、自分が知らない間に何が起きたというのだろう。
「アリカ!」
 呆然としていたアリカは強く腕を引かれて息をつまらせた。フラッシュに引き寄せられて足が浮く。体が投げだされるような感覚に陥る。直ぐに受け止められて眩暈がした。それまでアリカが立っていた場所を、槍の形をした闇が薙いでいった。
「な」
 アリカはフラッシュの腕の中から、ただ呆然とそれを見ていた。闇の気配が濃いと感じて上空を仰ぎ、更に絶句する。
 空一面を覆い尽くす闇の群れ。点々と灯る赤き不浄。
 見渡す限りをバールたちが覆っていた。
「どういうことっ?」
 叫びながら思い出したのはデューラ=ジュイール=カルのこと。城がこのような瓦礫となった今、王座の間にいた彼と黒魔はどこにいるのだろうか。
「アリカ、走れるな? 向こう側にはジュナンたちがいる。行って合流しろ」
 指された方向には森があった。城と外界を繋ぐ橋はすべて落とされていたはずだが、フラッシュに示された方向には一本だけ光の橋が架けられていた。
 ――この向こう側にジュナンがいる。
 アリカは心が急くまま走り出そうとしたが、“合流しろ”という言い方が琴線にかかって振り向いた。
「フラッシュは行かないの?」
「行くさ。ただ、あいつらを何とかしなけりゃいけないだろう」
 示されたのは上空のバールたち。翼もないのにどうやって浮いているのか疑問だが、彼らは剣を構えて一目散にアリカ目掛けて突進してきた。フラッシュが前に回りこむ。
「一緒に……!」
「無理に決まってるだろう。さっさと行け!」
 背中を突き飛ばされたアリカは二、三歩よろめいて逡巡した。足手まといな自分が側にいればフラッシュの集中力を欠くだけだ。けれどここで彼と離れてしまったら、二度と会えないような恐怖があった。
 アリカは足元の瓦礫の中から小石を選り分けて拾い、フラッシュの右側から襲いかかろうとしていたバールに投げつけた。
 ぎゃんっという、獣のような悲鳴を出したバールは赤い瞳をアリカに向けた。それだけでアリカの足は竦んでしまい、動けなくなる。素早く剣を生み出したフラッシュは、今しもアリカに襲いかかろうとしていたバールをまず一匹仕留めた。赤い血飛沫が吹き上がる。
 ――置いて行くなんて嫌だ。視界に入る場所にいてくれないと、安心できない。
 アリカは震えながら彼の背中を見た。剣を一振りするごとに、確実にアリカからバールを遠ざけている。誰がいつ死んでもおかしくないこの状況で、目を離していたくない。
 アリカの心に深く根付いた不安が首をもたげた。
「アリカッ?」
 いつまでも走り出そうとしないアリカに気付いてフラッシュが叫んだ。その声に勇気を奮わせて視線をバールたちに据える。顎を引き、彼らを一瞥したあとにフラッシュを見た。
「私は大丈夫だから。フラッシュが行かないなら私だって行かないよ」
 フラッシュはその台詞に驚いたような瞳をし、次いで複雑に苦笑した。まるで彼にはアリカの不安など分かっているようだ。押し切ろうとしていたバールたちを斬り付けて蹴り飛ばす。
「なら、隣にいろ」
 追ってきたバールを一閃のもとに切り捨てる。
 アリカは頷いた。これまでジュナンたちの戦いを間近で見てきたが、フラッシュが完全に力を揮う場面は稀だったような気がする。側にいるだけで猛々しさを感じ、放たれる生気にこちらが負けてしまいそうなほどだ。太刀筋には一つの迷いもない。彼らしさに笑みが洩れる。
 なるべくフラッシュの邪魔にならぬよう気をつけながら橋を渡る。対岸に小さく映る影に瞳を細める。
 光の橋を維持させているのはイザベル。隣にはライラが立ち結界を張ろうとしている。結界が張られるまでの間、襲いかかるバールたちを先陣としてビトが薙ぎ払う。イザベルとライラが集中段階に入るまで隣にいたジュナンとザウェルは、二人が力を広げる段階に入ってから側を離れた。返り血を避けながら円を描き、イザベルを中心として徐々にその輪を広げて行く。バールたちは倒されれば肉体ごと消えていくので、その死体に足が取られるようなことはなかった。
 アリカは見つめる。ジュナンの指には金色に輝く指輪がある。そして、紛れもない指輪の力だと思われる、変幻自在の剣がジュナンの手に戻っている。
 心の底から滲み出た歓喜に表情を綻ばせて、アリカは駆け寄った。


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 光の橋を渡りきったアリカはイザベルの抱擁を受けた。それまで橋を保つことに集中していたイザベルは、糸が切れたように抱きついて泣き出した。アリカはその背中を抱き返し、撫でた。自分には居場所があるのだと妙に安心した。イザベルといつも共にあった宝石がなくなっていることに気付いたが、不思議に思っただけで深く追究はしなかった。
 ライラの結界内に入ってしまえば、バールたちは迂闊に手出しできなくなる。アリカに次いで結界の中に入ったフラッシュは剣を下げて周囲を眺めた。悔しげなバールたちは結界を取り囲んで唸り声を上げている。剣を一振りすると、血が滑り落ちて剣は元の輝きを取り戻した。刃こぼれ一つしていない。
「無事で安心したよ、アリカ」
 ライラの結界が完全に定まるまではイザベルの側から離れなかった双子がアリカを迎えた。その態度はジュナンが消える前とまったく変わらない。アリカは驚いたが、嬉しさの方が大きくて微笑んだ。
 これ以上トゥルカーナを破壊してはいけない。争いの芽は摘み取られるべき。異常は正されるべきなのだ。アリカは取り巻く温かな周囲から自分を外しながら強く思った。自分の意思というより、洗脳といってもいい。他人を強く肯定しながら自分を否定する。それが当然だと思っている。
「イザベル様! 上に!」
 ビトに抱えられていたライラが声を張り上げた。同時にアリカの背に悪寒が走る。ライラの結界に阻まれて侵入できないはずのバールだが、彼らにも個々の能力差があるらしく、中でも強い力を持ったバールが今、頭上から入ろうとしてきていた。
 数は多くない。ボトボトと雪の塊が落ちてくるように侵入してきたバールたちは、フラッシュやザウェルたちに、たちまちの内に斬り倒された。
 零れてくるバールたちを何とかしないとと見上げていたアリカは鳥肌が立つのを感じた。上空に広がる闇の中から人影が現われた。
「デューラ=ジュイール=カル……!」
 長い髪をした闇の化身。広がる闇に溶け込むようにしてアリカたちを見下ろしている。その姿を睨みながらアリカが名前を叫ぶと、イザベルが驚いたように振り返った。
「イザベル! きりがない!」
 ジュナンが悲鳴を上げる。ザウェルの息も切れていて、フラッシュも辛そうに眉を寄せている。だがバールは幾らでも替えがきき、攻撃の手は休まらない。
 カルが無感動にアリカたちを見下ろしていた。抵抗する様を観察しながら、手を動かしもせずに追いつめている。
「え……?」
 悔しさに表情を強張らせていたアリカはふと、周囲の様子が一変した気がして視線を戻した。ジュナンたちが無に還したはずのバールが、同じ場所で再び闇を纏い、瞳に輝きを取り戻した。倒したはずなのに、彼らは不死身の体を持つように、消えなくなった。
「そんな……っ?」
 事態に気付いたジュナンたちも驚愕の声を上げる。バールたちの甦りは結界内だというのに留まらず、結果的に相手にしなければいけないバールの数が増えていく。対抗するフラッシュたちの攻撃も間に合わない。
「……ごめんなさい……」
 アリカはポツリと呟いた。イザベルが怪訝な顔をする。
 ――彼がトゥルカーナにいるのは私のせいだ。彼を止めることができるのも私だけ。けれど――
 バールたちの力を増したのも彼の仕業だろう。アリカはカルを見上げながら思った。
 ずっと望んでいたこと。憧れていた平穏。両親がいて自分がいて、誰もが味わう平凡な家庭は、もう訪れない。望んでいたすべてがトゥルカーナにあるような気さえしていたのに、それを壊すのは他でもない父親。
 トゥルカーナはアリカの理想だ。
 カルまでの距離は遠く届かない。いくら声を上げようと無駄に思える。
「ごめん、ね」
 イザベルから離れたアリカは結界の外側に一歩を踏み出した。
「アリカ……ッ」
 一匹のバールがフラッシュたちの牽制から洩れ、アリカを止めようとしたイザベルに襲いかかった。イザベルが悲鳴を上げてしゃがみこむ。アリカは腕の一閃で彼らを下がらせた。彼らの強靭な体に当たった瞬間、腕が折れそうなほど痛みを訴えたが、バールたちはアリカから飛び退いた。致命傷など与えられるはずもないが、イザベルから離すことができれば上出来だ。あとはフラッシュたちの攻撃範囲に含まれる。
 結界に包まれて淡い光に覆われた空を見上げ、アリカは捜した。カルと共にいた黒魔の姿を。敵なのか味方なのか分からないが、黒魔がいるときだけ、敵として君臨するカルは肉親の顔となる。出現を願うのはエゴだろうか。
「アリカ、待って!」
 呼び止めるイザベルの声にフラッシュたちも気付いて振り返った。彼らの視線を受けたアリカは寂しく微笑む。
「イリューシャがトゥルカーナを支えてくれているから。あの男だけは私が連れて行くわ」
 イザベルの手を払ってライラの結界を出た。アリカの気配は瞬く間にバールたちへ伝わり、彼らの格好の標的となる。アリカは身構えた。けれどバールたちの爪がアリカに向く前に、フラッシュが隣に降り立ち剣を振るった。
「離れるなと言った!」
 苛立つような叫びにさえ嬉しさを覚え、アリカは泣きたくなった。
 背後で絶叫が上がって息を呑んだ。
「ライラッ?」
 双子たちの焦る声と舌打ち。視界の端でイザベルが体を翻して走り出すのを見た。同時に、結界が霧散する様を見る。広範囲に渡って張られていた結界の中心で流れた鮮血。アリカも瞳を瞠って駆け寄ろうとしたが、フラッシュに留められた。バールたちに囲まれる。
 アリカが外へ出ることで彼らの攻撃はアリカだけに向けられるかと思っていたが、結界が破れた今、彼らは再びその照準をイザベルたちに合わせる。幻想界側の人間にはさほど効果を持たない結界だが、バールにならば充分な効力を発揮していたものだったのに。結界を破られたイザベルたちは今、バールという大勢の敵の前に、無防備にさらされた。後の展開は容易く一方的なものだ。
 歓喜の咆哮が響く。耳を覆いたくなるような甲高い叫び。イザベルたちの元へ、数を三倍にも増やしたバールたちが押し寄せる。ジュナンたちの体がバールの群れに飲み込まれた。
「散るな、イザベル!」
 フラッシュは体勢を立て直そうと叫ぶが、彼の声は届かない。イザベルは結界の残骸に力を滑らせ直し、強固な結界を張ろうと試みていたようだが、時間が足りない。
「くっそ!」
 誰もがバールを振り払うだけで手一杯だ。フラッシュの指示通りに動けそうな者は存在しない。
「あいつ」
 アリカは蒼白な顔で呟いた。沸々と怒りが湧き、頭上を仰ぐ。カルは先ほどと変わらない表情で、ただ下界を観察していた。
「あんな奴!」
「ぼさっとするな!」
 見上げていたアリカは怒鳴り声と共に頭を押さえつけられた。首を竦めたその頭上を、バールの爪が薙いだのを見て背筋が凍えた。
「皆は!」
 バールの攻撃から逃れているうち、元の位置からはずいぶんと動き、皆からは引き離された。傷を負ったライラを癒そうとしているイザベルの姿が遥か遠くに見える。そんな彼女たちを守ろうと、ビトも負傷しながら剣を振るう。この時点に来てようやく、ザウェルとジュナンの姿も確認できた。彼らはイザベルに群がろうとするバールたちを何とか撃退している。
 アリカはひとまず無事である彼らに安堵したが、表情は直ぐに曇り。ビトが守る一角が明らかに押されているのだ。無限に生まれるバールたちを相手にたった三人で挑もうとするのが土台無理な話なのか。満身創痍になりながらも双子は何とか死守しようと立ち回るが、誰が見ても時間の問題だった。その証拠にバールたちは劣勢なビトを見て歓喜する。そちらから切り崩そうと攻撃が殺到する。
 様子を確認したフラッシュが舌打ちしたが、彼にもどうすることはできない。アリカを守るだけで精一杯だ。
 アリカはフラッシュと背中合わせになるようにしながらバールたちの攻撃を必死で掻い潜った。近づきすぎたバールには蹴りを入れ、何とか距離を保とうとする。一瞬でも気を抜いてしまえば簡単に貫かれる。常時、ビトたちに構っていられるわけではない。
 バールの腕をつかみ、彼らの勢いを利用して投げ飛ばしたアリカはビトに視線を向け、驚愕した。
「ビト!」
 視界の端を掠めたバールの爪を避けることも忘れ、アリカは必死で叫ぶ。アリカの右腕に鋭い裂傷が走った。続いてアリカの頭を狙ったバールだが、彼はフラッシュの剣に一断ちにされる。
 一瞬のできごとだった。
 助けられたことに感謝を覚える暇もなくアリカは叫んだが、届かない。もし届いたとしても、前から来たバールをさばいた直後にビトに、アリカの声に応えて体勢を立て直し、頭上からの攻撃を受け流す余裕があったかどうか。
 アリカの視界に鮮血が流れた。