第八章

【二】

 遠くの鮮血に息をつまらせた。その赤は鮮やかにアリカの瞳に焼きついた。もうその色しか見えなくなる。心臓の音がやけに強く耳に響く。体中が熱くなって爆発しそうな何かが巡っているのを感じる。それでも、心のどこか奥底で、冷めた諦めがあることにも気付いていた。
 あの男に敵うはずがない。私たちがどう足掻こうと、あの男にとってこんなことは初めから造作もないことだった。
 喧騒の中でアリカは、独りだけが別の空間に切り離されたかのように、静かにそんなことを悟ってしまう。けれど言葉としてその思いを自覚した途端、痛烈に反発する何かがあった。相反する思いに心が悲鳴を上げる。逃避しようとしている自分を感じながら、負けずにつかもうとした。そんな思考すら払拭するかのように、アリカの目の前を一条の光が通り過ぎた。
「え?」
 急速に現実に立ち返ったアリカは、目の前を通り過ぎた光がバールたちを消滅させ、一直線にビトたちの元まで道を作り上げる様を目の当たりにした。
 驚いて振り返るとフラッシュがいた。
 サイキ女王から下賜された指輪に触れて、一瞬にして魔法を完成させたフラッシュ。渾身の力を込めたものがなんであったのか、彼は剣を手放すほど消耗した。
 アリカは彼を見ながら呆然とする。
 ――違う。
 光だと感じたのは錯覚だ。彼が放ったのは、光と見紛うほどに深い、闇だった。
「ザウェル! さっさと何とかしろ!」
 フラッシュは疲労を振り切るように怒鳴りつけた。そうしながら再び剣を手にし、今の攻撃で怯んでいたバールたちを屠りだす。
 せっかくイザベルたちまで道ができたというのに、それは押し寄せるバールたちに、直ぐに塞がれてしまった。
 ――なぜ行かなかったのだろう。
 アリカはまだ茫然自失状態のまま、そう思った。自分の側を離れずに剣を振るい続ける彼を不思議な思いで見つめた。どうして彼は私の側にいてくれるのだろう、と。
 そこで気付く。力を増したはずのバールたちは、ザウェルたちが屠っても再び姿を取り戻し、襲ってくる。しかしフラッシュに屠られたバールは完全に消滅し、甦ることはない。彼はバールが再び形を取り戻そうとするのを許さない。強い意志でねじ伏せる。
「あいつがお前の父だということを知ってるんだろう」
 フラッシュが剣を振るう間際、そんな声がかけられた。
 アリカは体を震わせて視線を上げる。フラッシュの漆黒の瞳と視線が絡む。
「ごめ」
「謝るな。あいつが道を踏み外したのはあいつ自身の意志だ」
 たとえ誰かの誘惑があったとしても、最終的に選ぶのは自分自身。その責任までを背負うのは重過ぎる。
「お前が自分を卑下する必要はどこにもない」
 強い視線だった。それはアリカがフラッシュを救い出したときの想いに重なるものだったが、アリカは気付かない。ただその強い眼差しに圧された。
 瞳を見開かせて彼を見返し、彼の剣に触れただけで滅びるバールを見る。フラッシュの力は明らかに強くなっている。
 一振りで周囲のバールたちを一掃したフラッシュは、再びバールたちが集結するまでの時間差を利用してアリカを引っ張った。
「お前がトゥルカーナにいることも、お前自身の意志のはずだ」
 虚を突かれたようにアリカは彼を見返した。黙っているとその顔が近づいてくる。アリカが以前、フラッシュへ贈ったように、勇気付けるように。
「お前が何者でも」
 口付けられて肌が粟立った。自分を本当に否定しない者もいるのだと――泣きたいほどに嬉しかった。
 アリカの胸に温かなものが広がる。吐息を洩らして瞳を閉じる。
 けれどその時間は長く続かない。フラッシュはアリカを背に回し、バールを屠りながら空を仰いだ。そこには諸悪の根源であるデューラ=ジュイール=カルが控えている。
 フラッシュの唇に挑戦的な笑みが浮かんだ。
 城で一度対峙したときにはまるで勝てる見込みがなかった敵だ。今も見込みはないが、なぜか負けるという弱気は浮かばなかった。勝てるのではないかという、根拠のない妙な自信だけが浮かんでくる。
 たった一人と決めた者がいるだけで。
「アリカ」
「あ、はいっ?」
 ぼんやりとしていたアリカは背中を伸ばした。顔が熱くなって緊張する。フラッシュから苦笑を向けられれば羞恥心が高まった。それと同時に嬉しさも確かに感じ、幸福感に包まれる。
 フラッシュの視線がアリカから外れて遠くに向けられた。その視線を追いかけたアリカは幸福感も冷めるような現実を目の当たりにして唇を噛む。
 ビトとライラが負傷し、血の匂いに惹かれたバールたちが意識を向けている。双子が応戦してはいるものの、多勢に無勢で時間の問題。彼らが守る中央にはイザベルがいて、彼女は蒼白な顔でライラを治そうと治療に集中している。けれど気ばかりが焦って空回りしているようだ。最後の皇女を失うわけにはいかない。
 ジュナンやザウェルにしても、光が失われつつあるこの世界で戦力を保てているとは思えない。
「死なないと約束しろよ」
 歯噛みしながらジュナンたちを見ていたアリカは、落ち着いた声に視線を向けた。
 漆黒の瞳に同色の髪。それを見つめ、彼が唱えた意味を胸中で反芻させて頷いた。
 貴方が約束しろと言うのなら、私は絶対にそれを守る。
 言葉にはしなくても伝わったのか、フラッシュは小さく微笑んだ。それまで使っていた剣をアリカに握らせる。
「ジュナンたちのところに行け。あいつらは誰もが本調子じゃない。手伝ってやれ」
「……フラッシュは?」
 恐ろしい闇が湧き出して、フラッシュの背中に問いかけた。彼はアリカに渡した剣とはまた別の剣を指輪で創り出して振るう。範囲を狭めていたバールたちを、もう一度一閃させて退ける。
「イザベルが癒せば、ライラは直ぐに結界を張り直す。そのときに独りでも結界の外にいれば、バールたちの目はこっちに向くだろう」
 囮になると言っているのだ。以前、焚き火のそばで交わした会話と同じもの。
 見やればイザベルは懸命にライラの手当てをしている。彼女の隣ではビトが膝をつき、肩で息をしながらライラを見守っている。そちらに行けば、たとえ包帯を巻くくらいしかできなくても、このままフラッシュの負担になり続けるよりかは幾分ましな気もする。
 アリカはフラッシュを振り返った。
「フラッシュだって、死なないでしょう?」
 同じ問いかけをしてみれば、フラッシュはためらうように頷いた。そのわずかな間がアリカを不安にさせる。バールたちの間隙を縫ってフラッシュの手を取り、その小指に自分の小指を絡めた。
「なんだ?」
 トゥルカーナで育ったフラッシュには、その行動の意味が分からない。アリカだって長らく人付き合いをしてこなかったため、指きりなど初めての経験だった。子どもたちが遊んでいるのを眺めながら覚えただけだ。
「私がいた世界では、これで約束とか誓いを表すの。絶対に破れない約束よ。破ったら手酷い報復が待っているから――破らないで」
 いったいどんな報復が待っているのか、フラッシュは興味を覚えたようだが、聞く余裕などない。アリカに頷いて「誓う」と小指に力を込める。
「道を開くから、少しどいてろ」
 自信に満ちた態度でアリカを避け、指輪に力を込めて何事かを呟く。
 フラッシュもまた、黒魔に会ってから力を強くした者の一人だ。使ったこともない魔法の力が身のうちに溢れていると感じる。聞いたこともない不思議な言葉を、息をするように自然に発音する。幻想界に属する者に、本能として植え付けられている魔法の言葉だった。
 フラッシュはイザベルたちの方向に手を翳し、一息に力を解き放った。
 光と見紛うような闇の結晶。
 辺り一面のバールたちを一蹴し、イザベルたちまで道を繋げる。
「その剣は俺の意志が消えない限り存在する。向こうに行っても持っていろ」
 指輪の力を借りてのことだろうが、アリカはとても頼もしく思えて剣を握り締めた。バールたちが来ないうちにと、素早く道を駆け抜ける。振り返りはしない。
 治癒を終えたライラが、弱々しいながらも新たな結界を張ろうとしていた。
 アリカが駆け寄った瞬間、ライラは結界を完成させる。負傷しながらの結界は弱々しいものだったが、それでもやはりバールたちには有効なようだ。
 アリカは安堵してイザベルの元へ走ろうとしたが、視界の端を掠めた赤い影に目を瞠る。
「嘘……!」
 ライラの結界を潜り抜けたバールが、アリカに歓喜を向けている。
「アリカ!」
 背後でジュナンの声が上がる。今まで結界の中にいたバールたちを殲滅することで精一杯で、双子の手はアリカにまで回らない。いまだに荒い呼吸を繰り返すビトに援護を頼むのも酷な話だ。
 アリカは唇を引き結んで剣を構え、侵入してきたバールを睨んだ。どうやら侵入できたバールは一匹だけのようだ。時間が過ぎればまた以前のように結界をすり抜ける強いバールが現われるのかもしれないが、今はこのバールさえ屠れば、時間稼ぎができる。
 誰もが負傷し、動きが鈍ってきている。今まで守られるしかなかった自分がここで頑張らなければと、アリカは緊張に息を上げながら思った。
 振り下ろされた爪に、アリカは必死で剣を上げて防御する。
 拮抗する力。力強いそれに奥歯を噛み締めて耐える。しかしその拮抗は直ぐに崩された。アリカ一人に狙いを定めていたバールは、後ろから貫かれたのだ。
 背中から一突きにされたバールは闇の霧に姿を変える。
 アリカは目の前にジュナンの姿を見た。
 気付いて助けに来てくれたのだろうか。嬉しさに表情を綻ばせたが、そのような場合じゃなかったと引き締める。ジュナンに斬られたばかりのバールは闇を集め、再び復活しようとしている。
「斬っても斬ってもキリがない! 浄化できないのかっ?」
 苛立たしげに舌打ちし、甦るバールを更に剣で霧散させる。それでもまた、バールは直ぐに甦ろうとする。ジュナンの苛立ちはもっともだ。
「でも、イザベルにはライラを診てもらわないと……」
 同じ結界内にはいるものの、やや距離をあけてしまったライラを見た。そちらでは先ほどより回復したライラが両手を空に掲げて結界を強めようと意識を集中させていた。
 ライラを癒したイザベルは次に、隣で見守っていたビトに向き直る。彼の怪我も酷いものだ。流れ出した血はまだ止まらない。足元の血溜まりは範囲を広げている。地面に膝をつき、剣を突き立てて縋り、なんとか倒れることだけは免れている。出血多量によりものか、遠目からでも彼の体が震えていることが分かった。
 イザベルは休む間もなくビトに両手をかざす。その手には白い光が宿り、ビトの怪我を癒し始める。彼女の顔色もまた、ビトに負けず劣らず白いものだった。そのイザベルにこれ以上の何かを望むなど酷だ。
「イザベルじゃなくて、お前!」
 ジュナンは一匹、バールを斬り伏せるとその剣をアリカに突きつけた。思わず身を引いたアリカだが、ジュナンは直ぐにその剣を別のバールに埋め込んだ。
「別世界の女王とやらの血を引いてるんだろう! カルとやらにだってお前を消せなかったし、何か一つくらい浄化してみろ!」
 そんな無茶なと思ったアリカだが、確かに自分には魔法が使えるらしいことを思い出した。遠い昔に覚え、今は記憶の底に沈んでいる。基本中の基本である魔法しか覚えてはいないのだが、それすら、自覚もなく揮っていた魔法だ。いざやれと突き出されると、どうしたらいいのか方法が分からない。
「無理よ!」
「役立たず!」
「ジュナンには言われたくないわね!」
 ぐさりと突き刺さった言葉にムッとして言い返したアリカだが、ジュナンの視線が不意に向けられて体を強張らせた。今の言い方はまずかっただろうか。嫌われてしまう。離れて行ってしまう。
 そんな不安が瞳に揺れる。けれどアリカの心配は杞憂で、ジュナンはただ笑っただけだった。
「ザウェル! まだ平気かっ?」
 双子の兄に声を張り上げた。
 イザベルの元で剣を振るう彼の表情は険しいものだ。さすがに一人でイザベルたち三人を守りきるのは無理がある。ザウェルは険しい表情のままジュナンに視線を向けた。
「ティナよりは平気だよ」
 軽い微笑みまでつけてアッサリと返してくる。
 ジュナンは片眉を上げて「嫌なやつ」と呟いた。アリカは二人のやり取りに笑みを零す。
「なんとか向こうまで戻らないと……」
 すでに誰もが限界だ。引き離されたことに舌打ちしながら、ジュナンはアリカを振り返った。
「死ぬなよ?」
 アリカは苦笑した。それほど自分は信用がないのだろうかと思いながら頷き、剣を握る力を強くする。バールたちはなぜかアリカに向かうときだけは勢いを弱めるので、戦闘に不慣れなアリカでもなんとか応戦できていた。
 それが道を開く突破口になればいいのだが。
 アリカは大きく息を吸い込んだ。


 :::::::::::::::


 イザベルに治療を受けている最中、ビトは力尽きて地面に倒れた。それを見たライラが悲鳴を上げたが、結界を解くわけにはいかなくて思いとどまる。心を閉ざすように瞳を閉ざし、結界の維持だけに集中する。
 倒れたビトはイザベルの治療を受けてなんとか傷口を塞いだが、体力までは戻らない。剣を杖代わりにして起き上がり、なんとか復帰しようと試みる。けれど彼のそんな努力は、ザウェルの足で呆気なく払われた。
「今のお前になにができる。素直にイザベルの治療を終えるんだね」
 常とは違った口調にビトが驚いて顔を上げる。
 ザウェルは軽く笑ってイザベルを見た。彼女の瞳は覇気を失ったように淀んでいる。だいぶ消耗しているようだ。このままビトの治療を続けていたら、終わった直後に彼女が倒れてしまいそうだ。
「大丈夫かい?」
 訊ねると、力を失っていた瞳が直ぐに開かれてザウェルを睨みつけた。
「まだ平気よ」
 イザベルは立ち上がりかけていたビトをつかみ、力づくで地面に戻す。
「まだ無理よ! 大人しくなさい、直ぐに治すから!」
 告げるイザベルの腕には金色の腕輪が装着されていた。ルチルからアリカに渡され、ジュナンの手に渡ったものだ。そこから更にイザベルへと渡された。イリューシャより贈られた力の媒体を失ったイザベルには、その代わりとなるものが必要だった。ルチルより贈られたその腕輪には、媒体としていた宝石と同じ性質がある。
 ルチルがアリカに渡したのは、アリカが自分の力に無自覚だったため。感情のままに力を発現させてしまえば、制御のない力はすべてを破壊するまで止まらない。力が曲がらないように、正しい方向へと導く意味も込められた、金の腕輪。
 イザベルは空を見上げた。
 一片の光も遮られた分厚い暗雲。赤い闇たちが瞳をぎらぎらと輝かせながら地上を窺っている。ライラの結界でなんとか総攻撃は免れているが、すべてのバールたちを排除するまでにはいかない。本来ならそれは、王家の血筋であるイザベルの役目だ。
 すべてを浄化し光で満たし、闇を排除してトゥルカーナを守る結界を張り巡らせる。けれどイザベルにはまだその力がない。成人を迎える間もなくトゥルカーナは闇に覆われ、浄化の力は発展途上のまま眠っている。イザベルの力もアリカと同じく、不安定なものだ。
「きっと……」
 イザベルは知らず呟いていた。
 何を願うのか。願うことは一つしかあり得ない。今度こそ役目を果たさなければならない。
 赤い闇の中央に佇むデューラ=ジュイール=カルを確認し、イザベルは視線を落とした。ビトの傷口は塞がりかけている。もう少しだ。イザベルは手を翳し、力を込めた。