第八章

【五】

 ジュナンが谷に投げ出されたのを見たアリカは跳躍した。絶対に失うものかと腕を伸ばす。
 重力のまま落ちようとするジュナンの体をつかみ、崖に腕を突っ張って堪えた。激痛が右肩に走る。抜け落ちそうなほどの衝撃だ。
 アリカは顔をしかめて何とか耐える。つかんだ手が衝撃で放れなかったことに安堵した。ジュナンと共に投げ出されたバールだけが、昏い瞳をアリカに向けながら落ちていった。
「……っ?」
 一瞬、意識を失っていたらしいジュナンは崖の壁に打ち付けられて正気に返った。にわかには自分の状態が分からなかったらしく、見上げて絶句する。双眸をかたく閉じたアリカが必死で引き上げようとしていた。しかし彼女の力では、共に落ちないように支えるだけで精一杯だ。崖の端が脆く崩れてジュナンの頬にかかる。
「手を放せアリカ!」
「馬鹿言わないで!」
 怒鳴りつけられたアリカは、それ以上の強さで怒鳴り返した。額には汗が滲む。ジュナンをつかむ手は早くも限界を訴えるように震えている。
「ビトが、死んだ! 私、助けようと、したのに……!」
 ぼろぼろと涙を零し、アリカは嗚咽を堪えるように肩で息をする。
 アリカの腕が大きく震えた。落ちかけたジュナンを慌ててつかみ直す。限界だが、それでも、その手を放したらジュナンは死んでしまう。それに比べたら自分の腕が壊れるくらい、なんともない。
 ジュナンは悲痛な表情で見上げた。


 :::::::::::::::


「アリカが!」
 ライラの止血をしていたザウェルは、その姿が見えないことに遅まきながら気付いた。今までアリカがいた場所にはビトの遺体が静かに横たわり、呼吸を止めている。どこへ行ったのだろうか。ライラから手を放すわけにはいかず、同じくフラッシュにも捜させるわけにはいかない。彼がいなければバールの攻勢に耐え切れない。
 見える範囲で首を巡らせたが、バールの群れに阻まれて見通せない。
 ライラを抱えたまま立ち上がろうとしたザウェルは、フラッシュの背中が緊張したのを感じた。反射的にザウェルも緊張する。彼の視線を追った先に、デューラ=ジュイール=カルの姿を認めた。彼はこちらに近づいてくる。自然と緊張感が走り、ザウェルは抱いていたライラの肘を、無意識に強く握り込んだ。
「ん……」
 足元でイザベルの声がした。視線を向けると、出血は止まったものの満身創痍となった彼女が目覚めたところだった。
 紫紺の双眸は一番近くにいたザウェルとライラを映す。その瞳は見る間に大きく瞠られた。
「ライラ……!」
 ライラの右腕は肘から下がなくなっていた。それを見たイザベルは悲鳴を上げて手を伸ばした。イザベルだとて安静にしなければいけない重傷人だ。起き上がろうとする彼女を慌てて留め、ザウェルは座り込んだ。しかしイザベルは彼の手を払って体を起こす。次いで視界に入った、ビトの遺体に気付いて絶句した。
「つい先ほど……」
 ザウェルが囁くとイザベルは唇を噛んだ。もう少し早く目覚めていればと自責の念が浮かぶ。焦燥したままライラに手を伸ばす。その意図に気付いたザウェルが慌てた声を出した。
「その体で力を使ったりなどしたら」
「トゥルカーナの民は私の肉体に等しい存在よ。これ以上、失わせないわ」
 強い意志を宿す瞳にとらわれ、ザウェルは大人しくライラをイザベルに預けた。止めても無駄なことは承知している。それに、これ以上ライラを治療もせず放置しておけば危ない。傷だけでも塞がないことには安心できない。
 イザベルは直ぐに治癒を施し始めた。
 そしてその間。
 静かな表情でデューラ=ジュイール=カルが近づいてきていた。バールたちは何を命令されたわけでもない大人しく見守っている。
 バールたちの行動に意味を図りかねていたフラッシュは『忠実なシモベだな』と鼻で笑った。剣を握る手に力を込める。デューラ=ジュイール=カルには数え切れないほどの仲間を殺された。ここに至ってはビトまで奪われた。怒りを覚えこそすれ、怯えなど欠片もない。
 デューラ=ジュイール=カルは冷笑を浮かべて足を止めた。距離は少しあったが、対峙するフラッシュに怒気を見て笑う。彼がこのとき思い浮かべたのは静かな怒りの表情だった。否、真に思い浮かべたのはフラッシュの父親の表情だ。
「私を睨むその眼差しすらも瓜二つだよ、お前らは」
 そして腕を上げて指し示す。先ほど黒魔がアリカにそうしたように、デューラ=ジュイール=カルもまたフラッシュに方向を示す。
 フラッシュは彼の態度に訝りながらも視線を向けた。警戒心を男に残したまま振り返り、そこに見えた光景に目を疑った。
 絶壁に座り、下に向けて手を伸ばしているアリカ。
 何を引き上げようとしている?
 明白だ。この場にいないのはジュナンだけだ。
 フラッシュと同じくそちらを見ていたザヴェルも双眸を見開いた。そして二人は同時に悟る。アリカに、ジュナンを引き上げるだけの力があるとは思えない。いくらジュナンが女性だからと言って、彼女の肉体は武人として作り上げているものだ。アリカの細腕でどこまで耐え切れるのか。そしてジュナンであれば、アリカと心中するよりも、落ちることを必ず望む。
 デューラ=ジュイール=カルに対する警戒など忘れたように、フラッシュとザウェルは同時に駆け出していた。


 :::::::::::::::


「アリカ。手を放せ」
 静かなジュナンの声が響く。アリカは震える腕に力を入れ直して保たせる。勢いよくかぶりを振った。手をついて支えている崖の端からは先ほどから土がパラパラと零れている。人間二人分の重みを乗せていられる耐久力がないのだろう。近いうちにその地面は崩壊する。
「放せ、アリカ」
「嫌だって言ってる!」
 崖についてる手が汗で滑りかかり、慌てて拳を握る。けれどアリカが座る位置は最初よりずいぶん崖に近い。今もじりじりと崖に寄っている。ジュナンの体重に天秤が傾き、全力で引き上げていてもまだ足りない。
 アリカは己の無力さに歯噛みする。
 ジュナンがビトのようになってしまうなど絶対に嫌だった。呼びかけても返事をしない。抜け殻を見るなど耐えられない。ジュナンだけではなく他の皆にも言えることだ。あのような想いは嫌だ。誰かが失われてしまうことが恐ろしい。
「私は、もう、誰も!」
 腕が震えた。アリカの膝が崖の端からはみ出た。ジュナンと共に落ちるまで、あと数秒もない。
「早く翼を……!」
 アリカは知らない。聖気が薄れすぎたトゥルカーナで、双子の背から翼が失われたことを。
 疑いもなく「翼を出せ」というアリカに、ジュナンは笑みを浮かべた。その笑みは悟ったように穏やかだ。
「俺にはもう、翼を出す力は残っていないんだよ」
 双眸を瞠らせたアリカの目に、ジュナンの笑顔が焼きついた。
 つかんでいた手が強引に解かれた。反対の腕を伸ばしたが、その手は宙を切る。
 笑みを残したままジュナンは落下した。