第八章

【六】

 背に広がる翼は古から守り継いできた、一族の力の証なのだと言っていた。王になれば滅びかけた一族を救う夢を紡ぎ、世界を構築する要となってすべてを叶えることができる。
 自信に溢れた言葉は年を重ねるほどに曇りを帯びて、笑みは消えた。

 これが邪魔なの?

 母が困っていた。
 どこまでも延々と広がる薄い幕の前で、途方に暮れたように。
 この幕が邪魔をしているせいで、遠くへ行くことができない。

 そんなに邪魔なら取っちゃえばいいのに。

 困り顔をする彼女の力になりたくて、唇を尖らせながら提案してみた。けれど彼女の表情は晴れず、更に困った顔をして笑うだけ。幕を見つめた。小さな手を伸ばして幕に触れる。

 だって、邪魔なんでしょう?

 それが、幻想界と人間界とを隔てる結界だとも気付かずに、扉を開いた。


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 ジュナンが谷底へ落ちていく。
 アリカはもう片方の手が宙を切った瞬間、なにも考えず、ためらうことなく、彼女と同じ闇に飛び込もうとした。追いかけるのは必然のように思えた。
 その刹那。
 服の背中を物凄い勢いで引かれ、アリカは体が宙に浮くのを感じた。ジュナンから遠ざけられる。そしてそのまま後方に投げ飛ばされた。
「……っ!?」
 なにが起きたのか分からないまま息を止めたアリカの側を、風が通り抜けた。瞳を瞬かせ、リィー=ザウェルだと知る。彼がアリカを崖から引き剥がし、投げたに違いない。常とは違い、ずいぶんと乱暴な止め方だった。
 アリカはザウェルに手を伸ばすこともできずに投げ飛ばされ、同じく背後に走りこんでいたフラッシュに抱きとめられた。理解している暇もない。ザウェルが崖から飛び降りたのを見て、アリカもまた彼を追いかけようとした。けれどフラッシュの腕は解けない。崖の側へ近寄らせても貰えない。まるで、遥か下で二人がどうなったのか、見せるのをはばかるように。
 アリカは呆然とした次に恐怖を覚えた。フラッシュを振り返って縋りつく。
 お願いだからもう覚めて、と何を思っているのか分からないまま強く願う。逃れたいと思っていた、過去の映像が走馬灯のように脳裏を流れる。膝を抱えていた日本の家が懐かしく思える。私を早くあの家に帰して、と。そうすればいま抱き締めてくれている温かな腕を失うことは分かっていても、アリカは強く願った。それが叶うことは決してない。
 悪寒が体中を駆け巡った。肌が粟立ち、フラッシュから離れて両手で顔を覆う。
 頭上で哄笑が響き渡った。
 涙に濡れた瞳で睨みつけると、デューラ=ジュイール=カルがおかしそうに体を折り曲げて笑っている。
「忌まわしい半端者もこれで消えた。アルマはようやくただ一つの存在になれる」
 狂ったように告げる彼を呆然と見上げる。とても正気だとは思えない。否、彼は狂人だ。
「あとはトゥルカーナを壊すだけ……」
 笑い終えた男は笑みを残したまま視線を向ける。同時に、ほとんど消えていたバールが次々と姿を現した。
 幾らでも創りだすことのできる、不出来な彼の人形。
 忌まわしくて、許しがたくて、アリカはフラッシュに縋りつく。言葉がまるで出てこなかった。体が熱くなる。想いが激しくのた打ち回っている。
 ビトは死に、イザベルとライラは共に重傷。そして、ジュナンとザウェルは崖から落ちた。翼がないという言葉が真実なら、二人は二度と戻らないだろう。アリカを助けた銀の少女でも、あの二人を助けることはできない。状況が違うのだから。
 皆が死んでいく。誰もが消えていく。残されるのは一人だけ。またあの広い家で小さくなって、帰りを待つ日々。先ほど帰りたいと願ったことなど忘れ、ただ怯える。
 荒い呼吸が耳障りだった。周囲の声は聞こえない。ただ銀の双眸を大きく見開き、胸の中で暴れようとする力に耳を傾ける。静寂の中で波紋を広げる音。
 助けたい。力が足りない。死なせたくない。
 トゥルカーナの奥底にひそむ光が、イリューシャが、二人を助けてくれるようにと。
 誰か。誰でもいい。それでも、誰か。
 そんなことを一瞬のうちに強く思ったときだ。
 アリカは瞳のずっと奥の深いところが、眩い閃光に包まれたことを感じた。強く抱きしめてくれるフラッシュの腕も、地面にしっかりとついているはずの自分の足も、分からなくなった。突然湧き上がってきた強烈な恐怖に翻弄された。
「い、や、だ……!」
 こんな想いを抱きたくて会いたいと願っていたわけではなかったのに。
 体中の熱が背中に集中して、まるで沸騰するかのようだった。痛みと吐き気と眩暈とで世界が回っている。突然暴れ出した激情に、自分自身ですら流されてしまいそう。そう思った刹那、急激に心が冷えた。自分でも御しがたい、ひどく獰猛な何かが首をもたげたのを感じ、歓喜する。
 ――違う。歓喜するのは私じゃない。それは、誰。これは、誰の意志。
 ヒマリアの絶壁で出逢い、城でも見かけた男の姿が脳裏に浮かんだ。深い絶望に似た闇が、この胸の奥に巣食っている。なぜ、という疑問が浮かぶ前にアリカは激しい怒りを覚えた。私に私以外の意志が入り込むなど許せない。
「ああああああっ!」
 頭の中を、瞼裏を灼き尽くすかのように溢れ出した真っ白な光。
 今までただアリカの中にたゆたい、ときおりその存在の片鱗を見せていた、目に見えない力。それがアリカの感情に支配されて形を成した。奔流となって外に弾け出た。
 アリカを中心として鮮烈な光が走る。触れたバールは跡形もなく崩れて消滅した。
 突然の光にデューラ=ジュイール=カルは驚愕した。本能のまま結界を張り、アリカの光に触れることを忌避した。なにが起きているのか分からないまま、生み出した分身たちが消えていくのを見ている。
 激情のまま放たれたアリカの力。
 以前にもそのようなことはあった。けれど今回は小規模なものではなく、トゥルカーナ全土に及ぶほど強いもの。憤怒や哀惜の念がアリカを包み、それを可能とさせる。
 瘴気を浄化させ、滅びかけた命を再生させ、滅びた命には優しい風を贈り、空には光を呼び込んだ。暗雲が晴れる。鮮やかな陽光が、封じられていた分を取り戻すかのように降り注いだ。アリカが呼び込んだ光は、ライラやイザベルの怪我も一瞬にして癒してしまった。光で構成された者たちは、光さえあれば消えることはない。
 すべてはアリカを中心として迸った光が成した離れ業。構成を理解しても力が足りない。たとえ光星界の重臣であっても為し得ないような、トゥルカーナの復活。それが、ただ一人の、一時の激情によって解き放たれた力で為し得てしまう。驚異的な異分子と判断されてもおかしくないものだった。
 そうしてアリカは、その“力”がさらに、確かな形を持って外へ出ようとしているのを感じた。受け止めきれぬほどの感情に翻弄されながら、かろうじて正気に戻ろうとしていたアリカは初めて己が持つ“力”を自覚し、恐怖した。強大さに押し潰されそうになりながら、背中に激痛が走り、音を立てて引き裂けたのを理解した。
 背中を突き破り、鮮血にまみれ、古く翼の民の象徴だった一対の翼。
 フラッシュの視界を埋め尽くすかのように巨大な翼が、アリカの背中を突き破って出現していた。
 何が起きたのか分からぬまま痛みに耐えていたアリカは、やはりどこか遠くで、誰かが笑う声を聞いた気がした。


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 視界を灼く閃光に対し、腕を掲げて結界を張る。闇を浄化しようとする意志のもとで放たれた光に触れれば、たとえアリカの意志がどうであれ、フラッシュは消えるだろう。
 そうしながら彼は滅んでいくバールたちを見ていた。
 アリカが放った光はトゥルカーナを活性化させ、闇に侵食される以前の正常な姿に戻していく。
 張った結界が揺らぎ、フラッシュは慌てる。にわか覚えの魔法のため、やはりこのように強い光の前では無意味になるのか。結界は破られるというより、光に溶かされるように消えた。結界を張る前の状態に戻された。不可解な現象にフラッシュは眉を寄せ、光のただなかに晒されることを覚悟して奥歯を噛み締めた。だがフラッシュを飲み込んだ光は攻撃的なものではなかった。月光のように、ただ明るい。闇に属する者たちには何の変化も及ぼさないものだった。
 フラッシュは呆然としながら光を受け入れた。
 アリカが放った光は、反属性に位置する闇のカルやフラッシュに何の変化も及ぼさないまま、虚ろな器だったバールだけを滅ぼした。なぜそのようなことが可能なのか分からない。腕に抱いたアリカを見下ろし、そこでさらに信じられないものを目撃する。
 それは翼。
 アリカの滑らかな背を、文字通り突き破って出現する。鮮血を散らしながら裂け出てきたのは真っ白な一対の翼だった。細かな赤い雫は、柔らかな羽毛に染みこむこともない。翼に付着した血は珠を結んで零れ落ちていく。淡く白く発光しているかのような翼は妖しいほどに清廉としていて、強烈な存在感を誇示していた。アリカの意思か、かすかに震えた翼はすべての血を払い落とした。
 残ったのは巨大な――ジュナンやザウェルの翼とはどこか違い、幻のように思えるその翼は、一度だけサイキ女王の背に見た翼と同じものだった。
「アリカ……?」
 自分が触れてはいけない領域にまで到達してしまったような気がして、フラッシュは恐る恐る名前を呼んだ。彼女が放った光はいつの間にか消えている。フラッシュの胸に顔を埋めるように伏せていたアリカは震え、ゆるく首を振る。そしてフラッシュを見上げる。
 切羽詰ったような銀の双眸。不安そうにさまよう瞳に恐ろしいほど惹きつけられる。
 知らずに喉が鳴って、アリカを抱く腕に力が篭った。


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 何が起こったのか理解できなかった。体全体から鈍い痛みを感じる。この体は一体どうしてしまったのだろう。恐怖に体が竦み、呼ばれるままフラッシュを見上げる。驚いたように見開かれた漆黒の双眸が間近にあった。
「私……?」
 熱くなった吐息を洩らして身をひねったが、強い腕は解けない。体を反らせると晴れ渡った空が映った。その眩しさに瞳を細める。
 どうしてこんなに切ないのだろう。
 痛みが徐々に鋭さを増す。眠れと囁く内なる誘惑のまま瞳を閉じようとしたとき、哄笑が響いた。聞き覚えのある声にアリカは目を瞠る。彼を捜せば遥か上空に存在していた。引き連れていたバールを失っても、彼の優位は変わらないように思える。
 デューラ=ジュイール=カル。トゥルカーナを蹂躙する不逞のやから。
「お前も所詮は私と同じ人種というわけか!」
 なにがおかしいのか、彼の哄笑はますます大きくなる。
 あからさまな嘲笑にアリカは眉を寄せた。彼の言葉は理解できない。哄笑に気を削がれたのか、緩んだフラッシュの腕を解いて立ち上がった。
 ――貴方のそばへ。私の手で幕を下ろすために――
 バサリと翼が鳴る。起こされた微かな風。視線の先でカルが驚いたように瞳を瞠るのが見えた。
 ――どうか――
 アリカが放った光により全快したイザベルが呆然としていた。同じく起き上がったライラが、その場の異様さに怯えて兄の側に這いずった。すでに時を止めたビトだけは、アリカの光でも癒されることはなかった。
「あれは……アリカは……なに?」
 幼い少女に刻まれたのは恐怖。
 軋むような音を立てて翼が揺らぐ。異様に荒い呼気のままでアリカは一歩を踏み出す。
 ――貴方のもとへ――
 アリカはそのまま地面を蹴った。
 遥か高みに君臨する父と相対するために。アルマをほうふつとさせる巨大な二枚の翼をもって、空を駆けた。