第八章

【七】

 最初こそ驚いていたが、カルはすでに冷静に戻って眼下を眺めていた。
 結局はフラッシュも自分と同じ人種だ、と諦観する。強い光に焦がれて近づく哀れな愚者。まるで、炎に群がる羽虫のように。彼もやがて狂っていくのだろうかと思った。それを見ているのもまた一興だ。唇に笑みが浮かぶ。
 けれど――とカルは視線を移した。
 真っ直ぐに駆けてくる娘にカルは笑いかける。
 ――アルマと同じ翼は必要ない――
 アリカはカルと同じ高度に達すると停止してカルを見つめた。様々な感情を含む瞳だが、それらがカルに届くことは決してないのだ。視線の先ではカルが歪んだ笑みを浮かべてアリカを見返していた。アリカの真剣さすら滑稽だと笑う。
「私をどうする。お前の父だと知っているのだろう」
 アリカの肩が揺れた。飛び慣れていないためアリカの体は風に煽られる。墜落しそうになるたび持ち直し、なんとか留まる。
 カルは瞳を細めた。
 アリカを通してアルマの姿が見えた。アルマの髪は闇を内包するゆるやかな緑色で、目の前の鋭い銀色とは髪質も違い、似ていないのだが、不思議だ。髪と瞳の色を除けば、顔立ちも眼差しもアルマそのものに思えた。
 破壊衝動が強くなる。肉親の情など要らぬ。アルマさえいれば、それでいい。
 カルは地上に視線を向けた。そちらにはフラッシュがいる。飛ぶことのできない彼はただ見上げている。カルは複雑に笑った。
 ――今のお前ではここに辿り着くこともできまい。地べたを這い、自らの無力を嘆けばいいのだ。数年前に自分がそうしたように。
「トゥルカーナから出て行って。そうすれば私は貴方を追わない。もう、思い出すこともない」
 交渉に来たとでも言うつもりなのか。
 アリカの言葉はカルを失笑させた。本当は誰よりも縋りつきたいだろうに。その言葉は身を切るように痛むだろうに。アリカの葛藤すら面白いと思いながら口を開く。
「この星は滅ぶべきだ。新たな王を抱いた時点で決まっていた」
 狂気に埋もれた独占欲。アルマと血を分け、その背に同じ翼を抱いたサイキ女王。そのような存在は要らない。目の前に佇む、アルマの血を継いだ娘もまた。
 カルは両手に力を凝縮した放った。しかしまるで本能のように、アリカは翼を羽ばたかせて避ける。危なっかしい滞空方法だったが、アリカはなんとか墜落せずに留まった。銀の双眸がカルを見据える。言葉が微塵もカルに届いていないのだと知り、銀色は翳る。
「それにしても不思議な存在だ。お前は」
 昔話でもするかのように囁いた。アリカの瞳が怪訝に揺れる。
 自分の言葉や態度に一喜一憂するアリカがたまらなく滑稽だった。自然と笑みが零れる。その様子にアリカはますます訝りを強める。穏やかとすら言える笑みは、明らかな侮蔑と嘲笑。
「一族同士。純血種同士の婚姻からしか翼の民は生まれないんだ。それなのにお前は、当然のようにそれを掲げている」
 闇と光を混在させた不安定な忌み子の存在で、なぜ翼を持つことが許されているのか。
「先ほどお前が発揮した力にしてもそうだ。なぜあのような力がお前に備わったのか不思議だ。忌み子は必ずあのような力を持つのか、それともお前だけなのか。これまでの忌み子が処分されてきたのが残念だな。検証が取れない。こんな興味深い存在だと知っていたら、会議で提案してみるのも面白かったかもしれない」
 あくまで実験材料として、だ。
 聞いていたアリカは唇を噛み締めて彼を睨む。アリカの言葉は届かない。
「両属性を宿す忌み子だからこそ出来る技なのか」
 喉を鳴らして笑うカルに、アリカは心が冷えていくのが分かった。父母という存在に甘い幻想を抱いていた自分が哀れにさえ思える。アリカもまた唇に笑みを浮かべる。
「もう、あなたはいらない」
 私の中に根付く幻想に、貴方は必要ない。
 これが現実。夢を見るのはもうやめようと、何度も思っていたというのに、本当には分かっていなかった。先ほどビトを亡くしたばかりで、アリカも心が疲弊していたのかもしれない。
「あなたを父と思いたくもない」
 静かに目を閉じて願う。
 それでも、私は――
「消えて」
 口に乗せた途端、カルの雰囲気が一変した。
 そう遠い昔ではない過去、アルマからも同じ言葉が放たれた。それは鋭い槍となってカルの胸をえぐった。アリカはもちろんそれを知って告げたわけではない。しかし嫌な古傷を揺り動かされたことに対する怒りと屈辱は強い。
「お前もあの双子と同様、消し去ってくれる!」
 忌み子の存在で、本当の血筋として与えられた彼らよりも余程アルマに近い――それ以上の翼を持つアリカに向けて。
 カルはアリカを包む結界を張った。護るためではない。押し潰すための結界だ。
 翼が結界に当たり、アリカはわずかに狼狽する。
 アリカの力は先ほど目覚めたばかりだ。どれほどの力を持っているか知らないが、制御方法など知りもしないだろう。まして、闇の王であった者の結界を壊すなどできやしない。
 手の平に結界のイメージを乗せる。わずかに握るとアリカを包む結界も収縮した。広げられた翼が無理やり押し込まれて窮屈そうに軋む。アリカの表情が翳る。なんとも呆気ない幕引きに思えた。このまま握り潰そうとしたカルだが、不意に聞こえてきた音色に眉を寄せた。
 アリカによって復活したトゥルカーナの大地で、ライラとイザベルが手を繋ぎ合せてアリカたちを見上げていた。彼女たちは祈りの歌を響かせていた。遥かな太古からトゥルカーナを包み護ってきた王家の者の聖歌。成人として認められていないイザベルの歌はまだトゥルカーナの深くには届かない。けれどライラと力を合わせることで、力不足を補っていた。
 カルは奥歯を噛み締めた。耳障りな音色だ。闇に生まれて闇に還る者にとって、その旋律は心をかき乱されるしかない。エイラの歌ほど衝動は強くないが、不快な気分にさせるには充分だ。
 早く消しておかなかったことを後悔するが、それは一瞬で消える。彼女らを消すには一瞬あれば充分だ。アリカを包む結界を操る手はそのままに、もう片方の腕を、不快な音を奏でる者たちに向けた。
 例えトゥルカーナ自体が復活しようと、彼女を消せば王の血は途切れる。力を補った星は新たな王を呼び寄せるだろうが、それは自分がさせない。常に目を光らせ、召喚した瞬間にも新たな王を葬り去る。絶望へと落ちていく。
 バール一つ分作る力を人差し指の先端に凝らせて放った。
 風を切ってイザベルたちに迫るそれは、周囲一帯を巻き込んで爆発を起こすだろう。あの者らにはそれで充分。
 笑みを浮かべてアリカに向き直ろうとしたカルは眉を寄せた。イザベルたちにぶつかるはずの力が途中で軌道を変えられた。力は彼女たちの背後に落ちて爆発した。肝心の者たちには爆風が届いただけだった。
 何が起こったのかは明白だ。地上で様子を窺っていたフラッシュが剣を持ち、カルの力を弾き飛ばしていた。
 睨み上げるその瞳が不愉快だった。今のお前たちなど、本気を出せば一瞬で消し去ることが可能なのだ。
 苛立ちと共に先ほどより大きな力を紡ぎ上げようと集中した一瞬、結界の中でアリカが両腕を交差させて強く抵抗した。アリカから意識を放したのは一瞬だけだというのに、結界は内側から強い抵抗を受けて砕け散る。アリカがその場から消える。
 視界をよぎる銀の残像を目で追った刹那、それよりも早く間合いに入り込んだアリカが男を見上げていた。
 大きな銀の双眸。
 息を呑んで瞳に囚われる。次には腕に、鋭く冷たいものを感じた。冷たさは一瞬で消える。熱を感じ、それが痛みだと気付くまで数瞬かかる。右手首から肘まで走った裂傷。
「もう……っ」
 大きく息を乱したアリカが腕を振り上げた。
 何の力もないただの娘に。
 そう思い込もうとしていたカルの背筋に冷たいものが伝い、とっさにその腕をつかみあげる。触れた手の平から伝わる恐怖。
「放して!」
 何も持っていないはずのアリカの手には微かな光。
 拒絶の言葉と共にカルの中で何かが反発するような感覚を覚え、その途端に怒りが湧いた。上位の者から下位の者に下される絶対的な命令。服従の力。魔力が強い者ほどその力は強くなり、力の弱い者は逆らえない。
 囚われかけたのだと悟った。闇星界の頂点に立つ自分が。
 手の平から伝わる属性の反発などよりもよほど強い恐怖。
「アリカ!」
 カルの雰囲気が一変したことを敏感に悟ったフラッシュが叫んだ。アリカにも分かる。腕をつかむ彼の力は強い。腕に爪が食い込んでいた。
 ここで死ぬわけにはいかない。カルをトゥルカーナから離さなくては。
「トゥルカーナは光の世界。その心は何度でも転生を繰り返し、外見は、生み出す者の力によって定められるもの」
「……なに?」
 アリカは呪文のように、痛みを堪えながら“彼ら”を呼んだ。トゥルカーナの奥深くで、わずかに満ちていたイリューシャの聖気。それに包まれながら眠りに就いていた彼らを。一瞬後には殺されるかもしれないという恐怖と戦いながら、一族から派生したという彼らに呼びかける。イザベルとライラが紡ぐ聖歌に、自分もまた願いを乗せて。
「精霊を生み出すのは人の心だと、アルマから聞いた」
 草原に隠れ住んでいた頃、遠い目をして、どこか懐かしむような柔らかな声で、彼女は歌っていた。
 泣きながら叫び、勢い良くカルの腕を振り払う。彼の間合いから逃れた直後、アリカの声に『彼ら』が応えてくれた。
 カルの両脇に現われた、翼を持つ双子たち。聖気が満ちたトゥルカーナで、翼を大きく広げる。
「お前ら……っ?」
 驚愕するカルに、指輪から紡いだ細長い剣を振り下ろし、双子はその両肩を傷つける。アリカを追いかけようと手を伸ばしていたカルはまともに浴びてうめき、二撃目を繰り出そうとした双子に怒りをぶつけた。目に見えぬ力。双子は顔をしかめながらアリカの位置まで吹き飛ばされた。
「よくも――やってくれる」
 血を流す肩に手を触れて、体を折り曲げながらアリカを睨んだ。
 トゥルカーナに生まれる者は、その存在すべてに精霊の命が吹き込まれている。純粋な人間としての命と、精霊としての命。それを生み出し人間界側の属性を調節するのがトゥルカーナの役目。
 精霊ならば“気”があれば生きられる。
 精霊ならば“想い”さえあれば、形作られる。
 翼も持たずに崖下へ転落した彼らは確かに死んだはずだ。いや、死んでなどいなかったのかもしれないとカルは歯軋りした。星を包む微かな光の気配は感じていた。それはまだ完全にこの星が再起不能になったのではないということを示していた。気配は星の中心へ行くに従い強まっていくだろう。崖から落ちた彼らがどこまで落ちたのか知らないが、もし光が満ちる中心近くへと落ちたなら、翼を広げて傷を癒し、眠りに就くことも可能だと思えた。
 どちらにしろ、彼らを再び現世に戻したのはアリカの力だ。『魔法』という名の『想い』を紡いで、『願い』を『形』にする。サイキ女王やアルマと同じ一族の力。大気を精練し、子どもとして生み出す能力。
「そんな、馬鹿な……!」
 どこまで力をつけるつもりなのか。荒い呼気のまま信じられぬようにうめくと、静かな答えが返ってきた。震える唇で、自分の存在を肯定する言葉を、初めて伝える。
「不確定要素で存在している忌み子なのでしょう、私は」
 強い眼差しに、男の空気が凍えた。