第八章

【八】

 男は自分の計画を邪魔されることを何よりも嫌っていた。何の力も持たないだろうと過小評価していたことを認めざるを得ない。予想外の出来事など幾らでも転がっている。警戒心を忘れていたことが信じられない。
 男は焦燥し、追いつめられた瞳でアリカを睨みつけた。肉親の情など欠片もない。憎しみだけが育ち行く。
 双子の剣を弾いた彼は、真っ先にアリカを消そうと体を滑らせた。他の者など多少の犠牲を払っても後回しだ。
「させるかよ!」
 男の目的を悟ったフラッシュは叫ぶ。サイキ女王から賜った光の指輪に触れる。身の内でようやく形を示し出した力を駆使して呼び起こす。応えた指輪は見る間に黒曜石へと姿を変え、指輪から伸ばされた一条の闇が弓矢となる。
 フラッシュは狙いを定める暇も惜しく、弦を引き絞ると直ぐに放った。アリカに触れようとしていた男の外套を引き裂いて宙に縫いとめる。男の瞳が忌々しくフラッシュを捉えた。
 危ういところで逃れたアリカは安堵にため息をつく。そんな彼女からさらに男を引き離そうと、双子が間に入り込む。具現化させた長剣で男に襲いかかる。
「アリカ!」
 慣れぬ翼で体勢を崩したアリカをジュナンが支えた。
 ザウェルの剣を避けた男はスルリと体を翻し、一度距離を取る。まるで何かに憑かれたような表情で状況を確認する男の顔はどす黒く歪んでいた。一度混戦を抜けると彼は再び強固に防御の姿勢を取る。隙を見出すことは困難になって、アリカは悔しく歯噛みした。何とかしなければこのまま滅ぼされてしまう。
 アリカの前に再び双子が回りこみ、守る盾となるように立ちはだかる。その様子にカルは怨嗟の声を吐き出した。アリカの背筋を冷たいものが流れ落ちる。だが逃げることは許されない。双子に戦う意思がある限り、彼らを置いて先に下降することはできない。いざとなれば彼らを護る盾になる。
 もう誰も失いたくない。
 もしかしたらその裏には、カルに誰の命も奪って欲しくないという気持ちがあったのかもしれない。これ以上奪われなければ、アリカが彼に向ける憎しみも強くなることはない。今のアリカには分からない。息を整えている間に男が腕を振る。空間が音を立てて凝結し、彼は一瞬だが聖歌の呪縛から逃れた。取るに足りない聖歌であっても、まるでぬるま湯に浸かってふやけるような、漫然とした億劫さが体を包んでいた。それらが取り払われると鋭敏な感覚が彼に戻る。
 一瞬で眼前に迫った男に息を呑んだアリカは、腕をひねり上げられて悲鳴を上げる。覚え始めた魔法を繰り出そうとしていたが、集中させていた光は霧散した。
 カルが側を通り抜ける様を目視できなかった双子は驚いて振り返る。渾身の力を込めて斬りつける。だがカルはその攻撃を避けようともしない。あえて受け止め、痛みに呻く。双子にかける手間も惜しいほど追いつめられている。
 “元”ではあるが闇星界王としての威厳を見せつけるように、カルは双子を一瞥しただけで力を発動させ、彼らを地上に叩き落した。そのままアリカの翼に手をかける。
「お前には誰も救えぬよ」
 残酷な言葉でアリカの自信を奪う。彼女の瞳が涙に濡れた。悔しさに歪む様を心地よいと感じて笑みを浮かべる。そうしながらアリカの翼を引き寄せようとしたとき、男の背に矢が突き立った。
「……っ!」
 まだ邪魔しようとする者がいるのか。男が振り返る先、地上にはフラッシュがいた。わずらわしい存在にカルの眉が跳ね上がる。けれどフラッシュにはこの高度まで昇ってくることができないのだと思いなおし、溜飲を下げる。彼の両脇に降り立った双子が、再び飛び上がろうとしていることなどどうでもいい。
「放して!」
 アリカが叫んで体をよじらせる。
 カルはそちらに意識を向けながら、背中に突き立てられた矢を意識した。じわじわと内部に広がろうとするフラッシュの力の残滓。その不快感に眉を寄せる。だが、それらは後回しだ。今は無視してまでアリカを手にかける必要があった。彼女をこれ以上放置しておけば、近い未来に必ず不吉な影をもたらすだろう。それは自分の未来にも関わることだ。見逃してはおけない。芽は早い段階で摘み取った方が安心できる。
 カルはそう考えながらアリカを押さえつけた。
 ――そして何より、目障りなこの翼――
 片翼にかけた手に力を入れるとミシリと軋んだ。
 彼が何をするつもりなのか悟ったアリカは驚愕に双眸を見開いた。背後に回りこむカルの姿は映らないが、遥か下でどうすることもできずに見上げているフラッシュが映った。そして再び向かってこようとする双子の姿と、聖歌を紡ぎ続けるイザベルとライラ。
「嫌だ!」
 仲間たちの姿に抵抗を強めて振り解こうとしたが、カルの手は放されない。今までとは比べ物にならない力がアリカを包んで圧迫する。体を宙に繋がれる。カルの表情が脳裏に浮かぶかのようだ。
「忌み子は消されるべきだ」
 まるでそれが正しいのだというように囁かれた。
 耳の奥に響いていく。翼が軋む音に息を呑む。逃れられない恐怖を予感して、両目を限界一杯に見開いた。地上にいる仲間たちまでは遠い。手が届かない。
(嫌だ……!)
 言葉は声にならず、ただ胸中で激しく叫んだときだ。
 翼が音を立てて折られた。
 その瞬間、世界は色を失った。真白い翼があった箇所から血が迸る。どこまでも赤く、鮮やかな血。糸を流すように落ちる。雨のようにトゥルカーナの大地へ降り注ぐ。
 まるで祝福された呪いのようだ。
「これで、お前らの望みも終わりだ」
 男の声がゆっくりと響く。引き裂かれた片翼は、彼が力を込めるだけで容易く炎に包まれて消えた。
 一部始終を見ていたジュナンが唇を噛み締めた。ザウェルは瞳を瞠り、ライラとイザベルはそれでも歌を紡ぎ続ける。トゥルカーナを腐土にはさせない。
 アリカは息を止めていた。痛みと現状を理解できずに震えていた。見ないまでも、片翼が失われたことは悟っていた。朧な記憶にある母は常に翼と共にあり、翼は母と自分とを結ぶ、目に見える唯一の絆のようだと思っていた。得体の知れぬ自分への恐怖の裏には、確かに歓喜があった。それが今、消されてしまった。
 視界から光が消えていく。翼を失えば宙に留まることなどできないはずだ。体もその通りに傾いたのだが、墜落はしなかった。なぜだろうと考えて直ぐに答えに辿り着く。
 ――ああ、もう片方の翼をつかまれているからか。残った翼も引き裂くつもりなのか。そうしなければ気が済まないのか、この男は。
 痛みに思考が混濁していく。翼を強く引かれ、空を仰ぐ直前に見えたフラッシュの姿。
 大きく見開いたままの瞳から、涙が零れた。


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 血の雨が降り注いでいた。
 ようやく光を見せたトゥルカーナの大地は見る間に赤く染まる。その上から注ぐ輝かしい陽光はどこか悪意を持ってフラッシュに笑いかけているようだった。
 アリカの血が降るただ中で、呆然と見上げていたフラッシュはカルの笑みを見る。肉親だということは、彼には何の価値もないのだと悟ってアリカが哀れになる。一瞬だけ絡んだアリカの視線を追いかけていたフラッシュは、わなないた彼女の唇が自分の名前を刻んだ気がして、理性のたがを吹き飛ばした。
 指に嵌めていた指輪が漆黒に染まった。
 周囲にいたライラやイザベルが不穏な空気に驚愕したが、フラッシュは気付かない。感情のままに地を蹴ってアリカを目指す。
 常なら届かない距離。だがフラッシュは易々と限界点を突破してカルに近づく。大剣を生み出し、背中を向けているカルに斬りつける。
「なにっ?」
「誰が、渡すか……!」
 カルは奪われたアリカに驚き、また、奪い取ったフラッシュにも驚く。
 アリカを抱えたフラッシュの腕に血が絡みついたが構わない。腕にかかる確かな暖かさと重みに安堵しているのは、きっと自分自身。
「……誰」
 下降していく最中、弱々しいアリカの呟きが聞こえた。
 フラッシュは悔しさに唇を噛み締めながら、下で待つ皆の元へ戻った。


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 誰の声か分からない。誰かが側にいる気がするのに、夢のように意識がふわふわとしていて定まらない。
 視界が回る。カルが映る。柔らかな羽毛が風に乗る。
 アリカは遠ざかっていくカルを見ながら瞳を細めた。
 今ここで私が死んだら、誰があの人を止めるのだろう。誰がトゥルカーナを守ってくれるのだろう。
 心に浮かんだのは純粋な疑問だけだった。
 風の音も、案じる皆の声も、カルが上げる哄笑も聞こえない。脳裏に繰り返される疑問だけが波紋のように広がっていく。カルの姿を凝視する。
 アリカの瞳に、突然驚愕したカルの姿が映った。
 ただそれを見つめていたアリカは、彼の周囲が歪んでいることに気付いた。
 ああ、あの歪みが彼をとらえて連れ去ってくれればいいのに。
 そう願えばカルを取り巻く歪みは格子状の檻となって彼を包み込んだ。
 アリカは満足して微笑む。
 そう。そうして彼をそこから出さないで。
 願う脳裏に誰かの笑い声が響き渡った。
『それがお前の望みならば叶えてやろう。これからお前に果たしてもらうことの、返礼前払いだ』
 横柄な態度を崩さない言葉に、アリカはかぶりを振る。とはいえ体は思い通りにならず、ただ小さく頬が歪んだだけだった。
 ――貴方には頼らない。貴方には渡さない。どうか、誰の手も届かない場所へ。
 麻痺した感覚の中でアリカはそう願った。
 瞳を閉ざした直後、アリカの意識はプツリと途切れた。