第九章

【一】

 頬に落ちた誰かの涙。空気は春の陽だまりのように温かだった。心配する大勢の声に応えたかったが体が動かない。瞳を閉ざし、心が熱くなるままに涙を流す。早く起き上がって安心させたいのに、指先すら動かない。
 アリカは心臓を鷲掴みされたかのようにうめいた。
 瞼裏に広がる暗闇。冷たく凍えたこの空間から抜け、誰かが待つ場所へと、駆けていきたい。けれど足は動かない。肉体が自分の意識を外れた場所にある。
 信じられないことだった。今までそのようなことはなかったのに。
 ――誰か。誰か。誰か。
 心で強く願うことしかできない自分は何て無力なんだろうと思う。唱えるだけで願いが叶うなどあり得ない。誰より自分が良く知っている。
 アリカは想いを現実にするように、指先に何とか力を入れようとした。疲れているのかと首を傾げようとしたが、それすら固定されてしまったかのようだ。
『早く迎えに来て』
 唇を震えた直後、舌っ足らずな声を思い出して驚いた。
 広大な草原の中に一人でいた日々が甦る。共にいた誰かが『見つからないようにしなければいけないの』と真剣な声で囁いたため、私は精一杯険しい顔を作って、重々しく頷いたものだ。彼女が飛び立ったあとは、背の高い草が茂る場所を見つけ、息を潜めて小さくなった。
 その場所は結界で閉じられており、本当はそんなことをしなくても誰かに見つかる心配はない。けれど幼いアリカは言葉をそのまま受け止めて実行した。しばらくして戻った人物はそんなアリカを見て、言葉にならないほど大笑いした。アリカが頬を膨らませて小さな拳を振り上げるくらい、長いこと。
 ずっと、早く迎えに来てと、願っていた。
 カディッシュ=リーゼ=アルマ。私の母親を。


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 光が差し込んできたことに気付いた。
 長らく暗闇にいたアリカには光が眩しい。閉じている瞳が焼けるように痛くなった。無理に瞳を開けようとはせず、ただ瞳が慣れるまでこうしていようと息をつく。そうしていても、外の世界に光が満ちていることが分かる。
 涼しくさえずる鳥の声。大振りの枝を揺らせる風。陽光が暖かく芝生に降り注いでいることや、その緑を育むように大粒の雨が濡らす様も想像できた。
 ――私はいま、どこにいるのだろうか。
 好奇心が疼いて瞳を開ける。けれど外の光はまだアリカの瞳を突き刺すだけで、確認はできなかった。唇を尖らせて大人しくなる。こうして瞳を閉じたままでも光の存在は感じ取れる。あと少し慣れたら目も慣れるだろうと我慢する。それでもやはり焦れて、体だけでも動かそうとした。
 体をひねった瞬間、全身に引き攣るような痛みが走った。アリカは体を硬直させて悲鳴を上げる。
 とても小さな悲鳴だったが、変化は直ぐに訪れた。
 はばかることなく注がれていた陽光がわずかに遮られた。体の上に影が落ちて寒さを覚える。けれど直ぐに、その寒さを払拭するように温かなものがアリカの手を包み込んだ。人の手だ。
「誰?」
 首を動かそうとしたが、鋭利な痛みが後頭部に突き抜けて諦めた。恐れるように瞼を震わせる。視界の端に不明瞭な人影が見えた。何かを言っているようだが、アリカには聞こえない。耳鳴りのような甲高い音が耳の奥で響いているだけで、肝心の言葉が聞き取れなかった。
 瞳を突き刺すような痛みが和らいだことで、アリカは瞼をゆっくりと持ち上げた。
 向けられる言葉を聞き取れないことが悔しくて顔を歪め、こちらから問いかけようとしたが、どうしたことだろう。確かに声を出している気がするのに、自分の声すら聞こえない。甲高い耳鳴りが強まるだけだ。
 恐怖に震え、自分の手を包む誰かの手に縋りつく。腕の筋が悲鳴を上げたが構わない。声も姿も理解できない今は、この繋がった手の温かさだけが本物。
 目尻からこめかみに涙が伝わったのが分かった。すると影が少しだけ近づいてきた。
 頬に触れる柔らかな熱。
 たったいま湧き上がった恐怖が霧散して安堵が込み上げる。心には余裕が生まれた。微笑みを浮かべようとして頬が引き攣ったが、それが今のアリカにできる精一杯。この繋いだ手が永遠に離れませんようにと願って瞼を閉じた。
 願った通り、手が離れることはなかった。頬に触れた熱は直ぐに失われて残念だったが、それでも一つだけ叶っていればいい。欲張りはしない。
 アリカは再び訪れる闇が悪夢ではないことを確信しながら眠りに就いた。



 次に目覚めたときは耳鳴りが止んでいた。前に目覚めたときの記憶はあったので落ち着いていたが、手をつかんでいた誰かのぬくもりが消えている。周囲からもどことなく寒さを感じる。光が強くて痛んだ瞳は何も映さなかった。視線を巡らせてみたが、認識できたのは闇だけ。
(どうしてっ?)
 一瞬にして恐慌状態に陥ったアリカは飛び起きようとして腕を突っ張ったが、全身に痛みが走った。わずかに浮いた体を強張らせる。布団に逆戻りした。
 布団――そう、自分は眠っていたのだ、と理解した。
 ここは真の暗闇ではない。今は夜だ。それなら誰かの存在がなくても仕方ない。辺りが闇でも納得がいく。
 アリカは震え始めた自分に気付いた。震えを止めようと腕を抱こうとするが、動かない。先ほど力を込められたのが不思議なくらいだ。
(おかしいよ。変だよ)
 疑問と混乱は尽きることがない。
(皆はどこに行ったの?)
 ようやくそのことに思い至って眉を寄せた。
 フラッシュやジュナン、ザウェルたちなど。
 もしかして自分は天幕の中にいて、他の皆はもう外で旅の仕度をしているのではないかと考えた。それは城に行くための――違う、城にはもう行った。イリューシャとエイラに会った。エイラはいなくなってしまったけれど、イリューシャは引継ぎの間の向こう側でトゥルカーナを支えているはずだ。
 徐々に記憶を取り戻しながらアリカは必死で考える。それしかできない。
 なら私は今、どこにいる?
 直ぐにすべてを思い出せないのは自己防衛本能なのだろうか。ゆっくりと甦る記憶に苛立ちを覚えながら必死で思考を巡らせる。
 城の中を思い出す。
 玉座の間には男がいた。デューラ=ジュイール=カル。父親だという男。
 彼をトゥルカーナから追い出すために、彼と同じ高さを手に入れるために、翼を――母と同じ翼を手に入れた。
 アリカは瞳を瞠らせた。銀の双眸は天井すら映していなかった。過去の光景が甦る。
 そう。翼を失ったのだ。
 心の片隅で何かが悲鳴を上げた。それが徐々に体の隅々に浸透してくるのを感じながら、まだ冷静な部分で記憶を掘り起こし続ける。
 カディッシュ=リーゼ=アルマと同じ翼。他ならぬ父によって失われた翼。彼の狂気のために犠牲になった。
 アリカの体が震えだした。しっかりと合わせていた歯がカタカタと鳴り出し、表情は強張って歪み、目頭が熱くなった。翼を失ったときの痛みまで思いだす。
 私は片翼を失った。それでは、もう片翼はどうしたのだろうか。仰向けに横たわっているのに、翼が邪魔をしている様子はない。もしかしたら気を失ったあとに、あの男はもう片翼をも千切り取ったのかもしれない。
 絶叫した。
 耐え切れない恐怖に泣き叫んだ。抱き締めてくれる温かな腕を探した。
 幼い頃に守ってくれた腕。もっと小さな頃、生まれたことを喜んでくれて、その日に抱き上げてくれた腕。歌うように響く声が降ることを望んだ。
(嫌だ。一人は嫌。誰か来て)
 体を動かせもしないアリカには、そうして誰かを求めることで精一杯だった。
 腕がわずかに動いた。痛みが走ったが、この恐怖に潰されることを思えばそれくらい何だろうか。アリカは泣きながらもがいた。溺れるように、痛む体を滅茶苦茶に動かして寝台の端に寄った。
 長い時間をかけて、這うようにして寝台の端に手がかかった。嗚咽に変わる涙をまだ流しながら、とうとう床に手を伸ばすことに成功した。
 硬い床。石だろうか。冷たい温度はアリカの指先から広がっていく。凍えてしまう。
 誰かがいる場所に行きたい。トゥルカーナではなくてもいい。優しい人がいない学校でもいい。一刻も早く誰かに会わなければ、壊れてしまう。
 自分の体を引きずるようにして寝台の端に動いたアリカは、腕を床に必死で伸ばし、バランスを崩した。寝台から上半身を乗り出しすぎたのだ。床に伸ばした手でとっさに体を支えようとしたが力が入らない。硬い床に頭から激突し、痛み以外の感覚が失われる。
 少し間をあけて何かが床に落ちる音が響いた。それが、まだ寝台に残ったままだった自分の下半身だと気付き、新たな痛みに息を止める。もう何をする気力も残っていなかった。瞳を限界一杯まで見開かせて見た闇の向こう側に、死神が大鎌を持って佇んでいる気がした。頭蓋骨だけを白く残して体を黒い外套に包む――典型的な死神のイメージだ。
 狩られる者の瞳と髪の色を宿す銀色の刃。それに首を刈り取られて果てるのだ。
 アリカはそんなことを考えて、また涙が溢れてきた。どんなに流しても尽きることはないように思える。叫びすぎて声まで嗄れ、喉が潰されてしまったよう。これだけ願って叫んでいるのに、どうして誰も来ないのだろうか。
 淡々とアリカは考えた。
 ああ、そうか。私は要らない子だからか。忌み子だからか。
 そう考えると可笑しくなって笑いが込み上げてきた。力が入らず動くのが億劫だ。重たい腕を持ち上げると瞳を覆う。肩を震わせて笑い声を上げた。潰れた喉が奏でるのは、老婆のように嗄れた醜い哄笑。
 忌み子が卑しいならなぜ今まで生かしておいた。生まれた瞬間にでも殺しておけば良かったんだ。貴方たちが仕留め損なったりするから私は今まで生きる羽目になった。殺されるのなら今までの人生に何の意味がある。私の時間はすべて無駄だったのか。
 嗚咽の中に感情が含まれる。思考の中に反発心が芽生える。悔しくて唇を噛み、脳裏に浮かんだのはたった一言だった。
 生きてやる。
 ごくありふれた言葉だけれど、空虚になった心の中に一点だけ、その言葉が浮かんだ。水面に波紋が広がるように静かな変化だったけれど、変わらぬことを許さぬ強かさがあった。強い衝動が、次には自分の意志として生まれていた。
 生きてやる、と。
 貴方たちが私を要らないなら、私だけでも必要とする。絶対に死んでなどやらない。誰かの思い通りにはならない。私は私の意志だけで、私を動かす。
 声に出さずとも硬い決意は体力を消耗した。
 胸中で吐き出し終えたあと、アリカは上げていた腕をバタリと打ち伏せた。もう力は底をついて動けない。ぼんやりと見上げているのに映るのは空虚さを宿す闇で、心に響かない。耳に残る誰かの嘲笑が酷く不愉快で。鈍痛が体を支配しているのを感じた。それでも、自分では寝台に戻ることができない。
 アリカはふと笑った。
 ここで私が凍え死んでも、気にする者はいない。
 仲間の存在を無視した勝手なことを思って、アリカは瞼を閉じた。
 もう二度とこの瞳が何も映さなければいいのに。
 そう願った。