第九章

【二】

 目覚めたアリカが最初に見たのはフラッシュだった。アリカの左手を両手で握り締めている。
 アリカが目覚めたことに気付くと俯き、アリカの手ごと額に当てる。何かを願うような仕草だ。アリカはよっぽど呆けた顔をしていたに違いない。フラッシュの肩がしっかりと震えていることに気付いた。笑われているのだ。
 握り締められた力強い手に安堵しながらアリカは唇を尖らせる。
「ちょっと」
 声は普通に出せた。あれほど恐れていたことがこうも簡単に解決してしまい、半ば呆然とアリカは言葉を失う。
 フラッシュは首を傾げてアリカを見る。彼の瞳に宿るのは優しい光。
「気分はどうだ」
 落ち着いた声音。何も答えないアリカをどう思ったのか、フラッシュは少しだけ身を乗り出して覗き込んだ。
「熱は?」
 近づく彼の顔をただ見つめ、「そういえば」と瞳を瞬かせた。
 いつの間にか寝台に戻されている。床に転がったのはいつのことだったか分からないが、それほど遠い記憶ではないような気がした。それともすべては不安が作り出した夢だったのだろうか。
 暗い部屋に一人で残された絶望を思い出し、アリカは息をつまらせた。嗚咽が込み上げて瞳を細める。表情が大きく歪む。あの悪夢から抜け出せた今でも、こんなに恐ろしい。握られていない反対の腕を力を入れ、何とかフラッシュに伸ばそうとした。その意図に気付いたフラッシュは体を近づける。アリカの背中に腕を差し入れ、軽く起こした。抱き締める。アリカは思うように力の入らない腕を彼の背中に回してしがみ付いた。嗚咽を洩らすと頭を撫でられる。
 骨が軋むとギクリと怯えたようだが、その腕が離れることはない。癇癪を起こした子どもを慰めるように銀髪を撫でて頬に口付ける。
 あやすように結構な時間をそうしていると、アリカは落ち着いてきたのか鼻を啜った。少し体を離して涙を拭った。フラッシュの視線に気付いたのか、決まり悪げにそっと見上げ、直ぐに視線を逸らした。泣き腫らした顔は真っ赤で、今は羞恥の色も含まれている。
「ご、ごめん」
 フラッシュを押し返そうとした腕は震えていた。フラッシュはその腕を強引に引き寄せて寝台に腰掛ける。重みでギシリと寝台が音を立てる。
「謝るのは俺の方だ」
 うな垂れたアリカの頭上から声が響く。悔恨も露な声に驚いて顔を上げる。いつも強気な漆黒の双眸が、今はわずかに翳りを帯びてアリカを見つめていた。
 どうしてフラッシュに謝られることがあるのだろうか。
 誤解だとしても、彼にそんな表情をさせてしまうことに罪悪感が湧く。彼の頬に手を寄せた。
「守れなかった」
 フラッシュは頬に触れるアリカの手に、自分の手を重ねた。
 その言葉が自分のことだと悟ったアリカは勢いよくかぶりを振った。そんなことはないと告げようとしたのだが、今の動作だけで力は失われた。小さく「違う」と呟いて唇を震わせる。上手く動けない自分の体がもどかしくて再び涙が出そうだ。
 涙を滲ませるアリカを見つめていたフラッシュの瞳が、ふと和らいだ。思いがけず見られた微笑みと、間近にいるという今更ながらの状況に気付いたアリカは紅潮する。双眸を細めたフラッシュの気持ちは、アリカに知る由もない。
 一度意識してしまうと、彼に握られたままの手が酷く気になった。
 違和感が強くなるが、振り払えば彼の誤解を深めてしまうだけのような気がする。どうしようと困惑しながら打開策をひねる。
 不意にフラッシュが落ち込むようにうな垂れた。
「励まして」
「え?」
「さっき、俺がアリカにしたみたいに」
 アリカの頬が見る間に紅潮した。正気に返った今では恥ずかしいばかりの行為だ。
 声も出せないでいると、つかまれたままの手を引かれ、その手の平に唇を押し当てられた。くすぐったさと熱さに硬直してしまう。瞼を伏せるフラッシュは酷く妖艶に見えて、アリカは戸惑った。見つめられると心が騒ぐ。
「ほら」
 フラッシュが再び瞼を閉じて待った。
 その様を窺い、アリカは顔を真っ赤にしながら困惑する。ここで逃げたら駄目かしらと思うが、フラッシュを前にして逃げることもできない。
 それにしても慰めにキスを欲しがるなど子どものようだと思い、アリカは先ほどの自分を思い出しながら笑みを洩らした。痛む体を叱咤しながら近づく。労わるように口付けた。彼が言う通り、慰めの範囲を超えない程度のキスを頬に贈る。
 そうして瞼を開くと、本当に息がかかるくらい間近で見つめているフラッシュの視線と交錯した。アリカの頬に朱が走る。
「ちょ、ちょっと。そういうときは閉じてるのがルールでしょう」
 誰が作ったルールだかは知らないが、羞恥を覚えるままアリカは叫んだ。フラッシュは笑みを零す。
「そうか」
「そうよ」
 畳みかけるように返してそっぽを向くと、傷に響かない程度に抱き寄せられた。
「なら閉じていろ」
 その言葉に双眸を瞠る。直ぐに唇を重ねられ、目を瞑る。歯列を割って入ってきた熱いものに怖気づく。息をしたくてもできない。苦しさの限界に喘ぐとフラッシュは更に深く侵入しようとしてきた。明らかに“慰め”の域を超えるキスに肌が粟立つ。
「待たない」
 震える手で胸を押し返したアリカの意図を汲み取って告げる。フラッシュはあくまで傷に響かないように、唇でアリカに触れた。
「今度こそ、守りたいから」
 震えるように囁かれた言葉に双眸を瞠る。彼でも緊張することはあるのかと顔を上げ、アリカは次に絶句した。フラッシュはわずかに顔を赤くしたまま真剣に告げる。
「好きだ」
 と、そう確かに。