第九章

【三】

 言葉が信じられなくて、アリカはそのまま動けなかった。動けばこの夢が幻と散ってしまうかもしれない。それが恐ろしくて双眸を瞠ったままフラッシュを見つめた。
 一方フラッシュは何の反応もしないアリカに瞳を翳らせて体を離した。
 ジュナンの想いを知っていたから、いらぬ争いを避けたくて無関心を装った。アリカに応えるつもりはなかった。それなのに今はこうしてアリカの肯定を望んでいる。勝手すぎる自分に呆れ、軽蔑されたのではないかと恐れが湧く。
 拒まれても良かった。けれど、どこまでも傷つこうとするアリカをこれ以上傷つけたくない。これからもアリカの側にいて、自分が守りたいと思った。そうなれたら素晴らしいだろう。
 アリカが翼を引き裂かれたときには側にいることもできなくて、ただ見ているだけだった。あのような、胸が張り裂けるような姿を見せられて、何もせずにはいられない。ザウェルやジュナンも側に行けるのに、自分一人だけが叶わない。あのときばかりは翼を持つ彼らを恨めしく思った。
 フラッシュはアリカを見つめる。やはりアリカからは反応がない。
 自嘲し、フラッシュは肩を竦めて寝台から降りようとした。けれどそれは許されない。アリカが引き止めるようにフラッシュの服をつかんでいた。
 それは恐らく応える行為ではなく、彼女の不安をそのまま表しただけ。孤独さを彼女は何よりも恐れる。
 その行為をそう捉えたフラッシュは誰かを呼ぼうと入口に向かいかけたが、アリカが放さないせいでそれはできない。その行為はかなり嬉しいものだったが、嫌われたまま側にいることは苦痛だ。守りたいと思う気持ちは変わりないが、気持ちの整理がつくまではあまり近くに寄れない。
 フラッシュは葛藤しながらアリカの腕を取った。
「誰か呼びに行くだけだから、少し待ってろ」
 フラッシュの瞳にかすかに悲しみが宿る。
 人の感情に敏感だったアリカは容易くそれを読み取り、泣きそうな表情でフラッシュを見上げた。つかんでいた腕を解かれそうになって、抵抗するように力を加える。
「今の、本当?」
 アリカはしぼりだす。声と共に涙が頬を伝い落ち、フラッシュは息をつまらせた。視線を逸らし、眉根を寄せながら葛藤する。細い行きを吐き出す。
 アリカはそんな彼の表情に、やはり幻聴だったのではないかと不安になった。それでも一縷の望みをかけて、もう少しだけ体を乗り出す。バランスが上手く取れない体は直ぐに倒れかけ、フラッシュに支えられた。
「もう1回、言って」
 フラッシュの腕につかまりながらアリカは懇願した。
 小さな声を拾った彼の瞳が大きく瞠られる。
 アリカの頬を伝う涙は止まらず、顎から滴り落ちる。黙ったまま見つめ続けているとフラッシュは苦笑した。どこか張り詰めていた彼の瞳が揺らぎ、アリカに近づく。寝台に腰をかけ直してアリカに体を向ける。
「アリカに忠誠を誓う。何があっても守り抜き、決して一人にしない。お前が縛った俺だ。好きに使え。それなりの代償は貰うがな」
 銀と黒曜石の視線が絡み合った。
 滲んだ視界の中にフラッシュを見ながら、アリカはその言葉を噛み締めた。何から伝えればいいのか分からず唇を震わせると抱き締められた。強い力に息苦しさを覚える。嫌ではない。湿った頬に熱い体温を感じる。
「いつから?」
「え?」
「だ、だって、今まで全然、そんな素振り……」
 アリカが言わんとしていることを悟ってフラッシュは苦笑した。
「それは重要なことか?」
 アリカは顔を上げた。潤んだ瞳でフラッシュを見つめる。その眼差しに惹かれるままフラッシュは口付けた。
「恐らくは最初から」
 イオの森で出会った最初の頃から。イリューシャとはまったく異なるアリカに惹かれていた。近づけば不幸になるだけだと否定ばかりを続けていたが、そのせいでアリカを危険に晒した。守ることもできなかった。近くにいても遠くにいてもアリカが危険に晒されるなら、欲望に従って近くにいた方が得だということだ。
 口付けに応えるアリカを抱き締める。彼女の頬に手を滑らせた。アリカの格好は、上衣を着ないで包帯のみを巻いた状態だ。アリカに触れるのは結構な抑制が必要だったが、触れないでいることはもっとできない。
「二度と、あのようなことにはさせない……」
 アリカは赤くなった顔を隠すようにしがみついた。フラッシュの胸に顔を埋める。自分は幸福だと思えた瞬間だった。
「……アリカ?」
 あやすようにアリカの髪を撫でていたフラッシュは、ふとアリカが酷く緊張してうなり声を上げたことに気付いた。眉を寄せてアリカを見ると、苦しげに顔をしかめている。アリカはそのままズルリと滑った。フラッシュはそれを助けて寝台に横たえる。
 大怪我を負ったばかりのアリカに無理は禁物だ。ましてやアリカには、まだ面会許可が下りていない。すっかりアリカの主治医と化したイザベルが、まだ早いと跳ね除けていたのだ。それでもフラッシュがこの部屋に入れたのは、ひとえに彼の戦闘能力の賜物だった。忍び込んできたのだ。
 フラッシュはアリカの苦しげな様子を見て立ち上がる。
「イザベルを呼んでくる」
 忍び込んだ咎めなど幾らでも受けよう、と部屋を出ようとしたフラッシュだが、その袖をアリカがつかんで引き止めていた。振り返ると不安そうな瞳をしたアリカが見上げている。
「直ぐに戻るよ。独りにしないから」
 フラッシュは安心させるよう、努めて優しい声と笑顔で告げるのだが、アリカの表情は晴れなかった。その眼差しにフラッシュはためらう。だがイザベルを呼ばなければと葛藤し、アリカの手をつかんで解く。
「直ぐに、戻るから」
 アリカの額に口付けを落とし、彼女の顔を見ないまま踵を返す。背中にアリカの視線を感じたが振り返らない。罪悪感を覚えるまま部屋を出ようとし、不意に止まった。部屋の扉を睨みつける。
「……お前らな」
 立ち止まって苦々しい声を出すフラッシュの背を、アリカは不思議に見つめたが、直ぐに納得した。部屋の扉が開き、向こう側からはイザベルが顔を出したのだ。続いてジュナン、ザウェルと部屋に入ってくる。
「私の許可も待たずに抜け駆けするからよ。好きで盗み聞きしたわけじゃないわ」
 イザベルは同意を求めるようにジュナンたちを振り返る。ザウェルはもちろん、ジュナンまでもが賛同した。彼らの瞳は一様に面白そうな光を浮かべていた。
 フラッシュが嫌そうに舌打ちする。イザベルは笑い声を一つ上げるとアリカに近づいた。
「もう大丈夫? 気分は悪くない?」
 フラッシュにかけた声とは明らかに違う、労わりを含む声音だ。
 アリカは努めて笑顔を浮かべた。体中が悲鳴を上げたが、無理に平常心を装って体を起こそうとする。そんなアリカの嘘をあっさりと看破したイザベルは慌てて止めたが、アリカは弱々しくかぶりを振りながら起き上がった。
 イザベルはため息をついてザウェルを振り返る。合図を受けたザウェルが前に進み出て、手にしていた物を無言でアリカの前においた。アリカは首を傾げる。そして、イザベルたちの雰囲気がいつもと異なることに疑問を抱いた。
 彼らは旅装束ではなく、立派な仕立ての衣装に身を包んでいた。イザベルは王族特有の正装として用いられるドレス。ザウェルやジュナンは王宮騎士としての正装。更に言えば、ジュナンは男装を解いて本来の姿に戻っている。そのせいか少し落ち着かなくも見える。そんな彼女をアリカは不思議な思いで見つめる。
 いったい何があったのだろう。
 白い光を放つような服も、彼らの雰囲気も、戸惑うばかりだ。旅をしていた頃の気安さは消えていた。簡単に声をかけてはいけない雰囲気だ。自分と彼らの距離は遠く離れてしまったのだと漠然と思った。
 そういえばカルはどうしたのだろうと、アリカは状況を何一つ知らず、聞くことも忘れていたことに気付いた。
「あの」
「話はアリカの治療が終わってからよ」
 イザベルは先回りして釘を刺した。そうして先ほどザウェルが置いた荷物の中から包帯を取り出して解く。
「ほら。包帯をかえるから」
「包帯?」
 首を傾げたアリカは初めて自分の格好に気付いた。
 白い包帯をさらしのように巻かれている。恐らく治療のために何度も着脱させるのがわずらわしいと思ったのだろう。上衣は着ていない。胸から腰にかけて幾重にも巻かれた包帯は固く、容易に体を動かすことができない。身動きが取りづらかったのはこのせいか、とも納得した。
 首周りや肩がむき出して、こんな格好をさらしていたのだと思うと恥ずかしかった。思わずシーツをつかんで隠れてしまいたい衝動に駆られる。
 ふとアリカは背中に意識を向けた。気を失う前は確かにあった翼が、今はもうない。その名残も感じない。
 アリカは瞳を翳らせた。
「さ、僕たちは外へ出ていよう」
 空気を変えるようにザウェルが明るい声で告げた。
 アリカは弾かれたように顔を上げ、イザベルを残して出て行こうとする皆を見つめる。心細さを感じた。急に泣きたくなって、唇を強く引き結ぶ。ここで泣くのは不自然だと自分でも思い、耐えようとした。
 そんなアリカの心情に気付いたフラッシュは瞳を細める。外に出ようと促すザウェルの腕を避けてアリカに近づいた。イザベルに触れぬよう包帯を取り上げてアリカの側に立つ。笑いかけた。その笑みに気付いたイザベルは顔をしかめたが、アリカは分からずに泣き出しそうな顔で見上げるだけだ。
 フラッシュは笑みを湛えたまま口を開いた。
「手伝ってやろうか?」
 何を、と問いかけようとしたアリカは涙も忘れて固まった。
 フラッシュの手には包帯が握られている。治療のため、イザベルを残して皆が外に出ようとしている。この流れでいくならフラッシュの言葉は、包帯を替える手伝いの申出だった。
 アリカはカッと頬を赤らめた。人並み程度の羞恥心は持ち合わせている。
「けっこうよ!」
 断るアリカだがフラッシュが行動に移すのは早かった。
「遠慮するな」
 まるで睦言を囁くように甘い声でアリカの羞恥を煽り、実際、アリカの背で留めてある包帯に手をかけようとする。追いつめられたアリカは真っ赤になって叫んだ。
「ジュナン!」
 思わず出てきた名前に、助けを求めた本人も周囲も驚いた。ただ、呼ばれた本人だけは驚かない。黙って二人のやり取りを見守っていたジュナンは微笑んでフラッシュに近づいた。フラッシュは少し気まずそうに視線を逸らせたが、ジュナンはそのまま更に近づく。
 そして。
「連行する」
 容赦なくフラッシュを蹴り飛ばした。
 ジュナンに触れられた一瞬は表情を強張らせたフラッシュだが、ジュナンはおかまいなしに追い立てる。唖然とする周囲をよそに、ジュナンはフラッシュの襟首をつかんでアリカから引き剥がした。王宮騎士だけあり、その力は強い。
 最初こそ声も出なかったフラッシュは、やがて堪えきれなくなったように笑い出した。ジュナンはアリカとフラッシュの間に入って腕組みをする。まるで番人だ。しかめっ面でフラッシュを睨む。
 フラッシュは楽しげに笑ったあとは伸びをして、素直に廊下に出た。ジュナンとザウェルもそれを追いかける。退室を告げて扉を閉めた。あっと言う間のできごとだ。
 アリカはまだ赤い顔のまま閉ざされた扉を見た。ジュナンの気遣いが胸に染みる。泣きたくなるほど嬉しい。
「じゃあ、替えるわね」
 賑やかな騒動が終了したあとイザベルは嘆息してアリカに向き直った。手早くアリカの包帯を解き始める。包帯の下からは白い肌が現われる。だが背中には赤い一筋が走っていた。イザベルは表情を曇らせる。
「まだ、治ってない」
 アリカが倒れてから今まで寝る間も惜しんで看病した。イザベルの体を心配した周囲が休息を促しても、イザベルは頑として聞き入れずにアリカの側から離れなかった。少しでも目を離したらアリカが死んでしまう気がして、離れられなかったのだ。
 ようやく離れたのは、アリカが落ち着いた表情で眠るようになってからだ。イザベルの体が限界を訴えた矢先のことだった。アリカの回復は目を瞠るものがあり、もう大丈夫だと判断したイザベルは一度だけ休息を取るためにアリカの側から離れた。しかしその間にアリカは目覚めていたらしい。戻ったイザベルが見たのは、寝台から落ちて再び意識を深く絶望の淵へ追いやってしまったアリカの姿だった。体の傷は癒せても心の傷は深い。それでもまた、アリカはこうして戻ってきてくれた。
「どう……なってるの?」
 無言のまま動かないイザベルに不安を抱いたのか、アリカの声には怯えが滲んでいた。
 イザベルは我に返ってかぶりを振る。アリカの背中に手を翳し、触れぬまま癒しの力を与える。治療にかける時間はほんの数秒で良い。イザベルは新しい包帯を広げる。背中の傷は再び白い包帯の下に隠されていく。
「あと少しで治るわ」
「あの後どうなったの?」
 先ほどまでと同じように背中で包帯が留められた。結構な力で締め付けられてアリカは顔をしかめたが文句はなかった。ようやく動くことを許されて問いかける。
「カル……は?」
 イザベルの双眸が瞠られる。
 ――アリカは何も覚えていない。
 カルを捕らえてどこかに転送したことも。残された片翼を自分の意志で体内に消したことも。そして、ジュナンとザウェルを、精霊としてトゥルカーナに呼び戻したことも。
「トゥルカーナから去ったわ」
 イザベルはそれだけを告げた。
 人は忘れる生き物だ。不可抗力でも、意識的にでも。今回の忘却がアリカの防衛本能として働いたものならば、伝えない方がいいのだろう。これ以上アリカに関わらせたくない。それは遠い地にいるカディッシュ=リーゼ=アルマも同じはずだ。
「そう……か」
 アリカは安堵を滲ませながら複雑な表情で呟いた。その横顔を見ながらイザベルは告げる。
「貴方を元の世界に帰すわ。アリカ」
 アリカは振り返った。
 何を言われたのか分からなかった。