第九章

【四】

 意識して感情を閉ざしている瑠璃色の瞳がアリカを見つめていた。
 アリカはその瞳を見返して呟く。
「帰る……」
 意識したわけではないが、アリカの声には心細さが含まれていた。それ以外の言葉が出てこない。急に突き放されたかのように感じた。
 やはり私がここにいてはいけないのか。迷惑なのか。
 命を賭してトゥルカーナを守り抜いた仲間だと信じていただけに、その言葉はアリカの感情をかき乱した。
 そんな様を敏感に悟ったのか、イザベルの態度がふと崩れる。破顔してアリカを見た。
「やぁね。何て顔をしてるのアリカ」
 白いイザベルの手がアリカの頬を包んだ。銀髪を梳き、アリカの頭を腕に抱く。クスクスという笑い声はどこか辛そうに響いた。
「貴方のおかげでトゥルカーナは光を取り戻すことができたわ。感謝こそすれ、疎ましく思うなんて大間違いよ」
 アリカの胸が痛みを訴えた。泣き出しそうに眉を寄せる。嫌われていないのならトゥルカーナに置いて欲しかった。
 物言わぬアリカの想いを理解していたのか、イザベルは言葉に迷うように視線をさまよわせる。瞳を閉ざして言葉を浮かべた。
 王者としての力。トゥルカーナが再生へ向かう証拠として、彼女にはトゥルカーナを治めるために必要な力が徐々に備わってきていた。言葉にされなくても、ある程度は他人と意志の疎通が図れるのも特殊能力の一つだ。言葉を持たない精霊たちとはそうして意思確認をする。相手が人間となると感情の波が複雑で非常に難しくなるが、アリカの心は良く言えば純真無垢で、誰よりも読みやすかった。
 表面上はただ静かにイザベルの言葉を拒否しているかに思えるアリカだが、その内は激しく揺れていた。居場所を渇望している。イザベルに縋りついて泣き喚いてしまいたい。
「トゥルカーナはまだ不安定なの。完全に安定するまで、他のことに力を使わせたくないのよ。私はまだ成人ではないし、アリカを受け入れて安定させるだけの力を持っていない。貴方の存在は稀有すぎて、トゥルカーナは疲弊してしまうの。だから一度、アリカを元の場所に戻さないといけない。トゥルカーナを侵略が始まる前の状態に戻すの」
 両腕を解放されたアリカはイザベルを見上げた。そこにあった姿は弱々しい少女ではない。涙もなく、毅然とした女王の決意に満ちた表情をしている。為政者としての道を歩み始めている。
 初めて見るイザベルのそんな表情に、アリカは縋りつきたいと思った自分が恥ずかしくなって涙を堪えた。笑顔を見せる。
「分かった」
 告げるとイザベルは泣き笑いのような表情を見せた。拳を握り締める。
「……ごめんね。姉さんから聞いたわ、アリカのこと。あちらに知らしめることになってしまって、それなのにトゥルカーナから出さなければいけないなんて、凄く……悔しい。トゥルカーナの結界を出れば、今度は幻想界から追捕がかかると思う。それでも」
「大丈夫」
 アリカはゆっくりと微笑んだ。
 脳裏に浮かんだのは一人の男。深淵の闇が人型を取り、見覚えのある青年を突きつけてくる。酷薄な笑みを浮かべて見下ろしてきた男性だ。
 アリカは胸騒ぎを覚えながら半眼を伏せた。
 ――あの者なら知っているだろうか。母の行方を。
「トゥルカーナが落ち着いたら、必ず迎えに行くから……」
 イザベルが泣きつくように付け足した。真剣な彼女の表情に胸を熱くさせてアリカは微笑む。また泣きたくなるような感情が胸を衝いたが、飲み込んで唇を引き結ぶ。衝動をやり過ごして一番の笑顔を作り、頷いた。
 その時、扉を叩く音がして二人は振り返った。
「どうぞ」
 イザベルにうながされて扉が開く。
 二つの視線が注がれる中、現われたのはライラだった。
 両の瞳は閉ざされていた。けれどまるで見えているかのような足取りでライラはアリカに近づく。その姿からは右腕が欠けていた。トゥルカーナを潤したアリカの力でも癒せなかった怪我だ。時間が経った今ではイザベルが治癒を施しても元に戻らない。
 ライラの体から穢れはすべて落とされていた。惨劇を連想させるものは身につけていない。だがアリカはビトの死を思い出して喉を鳴らせる。胸を押さえた。
 すべてはカルが為したことだ。その狂気を生み出し、助長させたのはアリカ。
「戻られる前に、お礼を言いたかったのです」
 お礼なんて、と叫びかけたアリカを、ライラは残った腕で制した。その瞳が開かれることはない。彼女の瞳からは光も永久に失われた。生涯を闇の中で過ごさなければならない。
「でもアリカがいなければトゥルカーナはもっと酷いことになっていたと思います。それに、最終的に私を助けてくれたのはアリカだもの。だからお礼なんです。“もし”アリカが生まれる経緯にあの男が絡んでいなければ、トゥルカーナがこんなに荒廃することもなかったけど……」
 アリカはイザベルを見た。イザベルが話したのだろうかと思ったが、イザベルも驚いたようにライラを見ていた。しかし直ぐに理由が分かったようで、納得する。緊張を解いた。
「ライラには私の補助をして貰うの。私は半人前だけど、そんな理由でトゥルカーナの復興を遅らせるわけにはいかないから。ライラの優秀な力が、私の記憶も読み取ってしまったのね」
 ライラは巫女としての資質を備えていた。もしトゥルカーナが荒廃しなかったらライラはイザベルと出会うこともなく、資質を目覚めさせることもなかっただろう。
 ライラはイザベルに「そうです」と頷いてアリカに向き直った。
「でも、あの男がいなければ、とか。アリカがここに来なければ、とか。そういうことは、もう起きてしまったことだから、責めるのは違うと思うんです。ビトが死んでしまったのは、それはとても哀しい……ことです。誰かを責めなければ自分を保っていられないくらい……。だけど……それはアリカを責める理由にはならない。最終的に手を下したのはあの男だから。ビトが死んだのは、あの男のせいなんです」
 小さな体で必死に言い募り。伝わるだろうかと言葉を重ね、紡ぐ。途中で声が震えた。ライラは見えぬ瞳でアリカを見つめて吐き出す。
「“もし”じゃなくて、アリカがいるのは“今”だから。だから……助けてくれて、ありがとう」
 言いながら混乱してきたように、ライラは迷った様子を見せると強引に締めくくった。バツが悪そうな顔をしたライラだが、アリカは胸が軽くなったのを感じた。飲み込んでいた鉛がようやく取り除かれたようだ。アリカの方こそ礼を言いたいくらいだ。
 泣き笑いのような表情を浮かべて、アリカはライラを見つめた。
「大人だね」
「違うわアリカ。それは前向きと言うの」
 イザベルが諭すとアリカは破顔した。ライラも微笑む。
「では、私はこれで下がりますね」
「ありがとう、ライラ」
 ライラが出て行くとアリカの肩に軽い上着が被せられた。
「連れて行きたい場所があるの」
 イザベルは微笑んだままそう告げると宙を振り仰いだ。そちらに何があるのかと視線を辿ったアリカだが、何も見えない。イザベルは頓着した様子もなく、そちらに向かって何かを語りかけた。アリカには理解できない魔法の言葉で話しかける。
 話は直ぐに終わったようだ。イザベルはアリカに視線を戻し、手を取って立ち上がらせた。
「貴方が起きたら、必ず連れて行こうと思ってた」
 アリカは体に鈍く走る痛みに顔をしかめたが、我慢できないほどではないとして無視をした。床に足をついて首を傾げる。動きにくい体で必死に立ち上がる。
 イザベルはそんなアリカを見ながら瞳を翳らせた。
 幻想界からの追っ手に気付かれぬよう、アリカには魔法がかけられていた。幻想界の者たちは魔法の気配に敏感だ。アリカが魔法を使えばたちどころに発見されてしまうだろう。だからアリカが決して魔法を使えぬよう、カディッシュ=リーゼ=アルマは戒めの魔法をアリカにかけた。アリカが意識して魔法を使おうとするとき、思い通りにならなかったのはそのせいだ。それは今も続いている。
 だから翼が現われた。
 魔法が使えないなら物理的な手段でカルの元へ行くしかないと思ったのだろう。魔法は操れないが、アリカの内には両親から受け継いだ強大な魔力が秘められている。翼を無理にでも作り出せたのは、アリカの魔力が、追いつめられたアリカの願いに反応したからだ。アリカの肉体を削ってまで作り出された翼だが、それは誕生して間もなく失われ、バランスを欠いた片翼だけになってしまった。
 イザベルは苦々しく瞼を伏せる。
 扉が叩かれ、イザベルは振り返った。フラッシュが扉を開けたところだった。
「呼んだか?」
「ええ」
 視線で「入りなさい」と告げ、立ち上がりかけたアリカを制する。
 アリカを寝台に座らせたまま、イザベルはフラッシュに触れぬようにして廊下に出た。振り返る。
「アリカを連れてきて」
 怪訝な表情をするフラッシュにイザベルは淡々と告げた。
「引継ぎの間に」
 二人が瞳を瞠らせる様を見ることなく、イザベルは歩き出した。