第九章

【六】

 イザベルは執務をとるためアリカたちと別れた。まだ危なっかしい足取りのアリカにつけられた補助はやはりフラッシュで、部屋に戻るまで二人は一言も交わさなかった。引継ぎの間で見た光景が瞳にやきついている。
 アリカは部屋に戻ると寝台に座り、少し疲れたように瞳を伏せた。
「大丈夫か?」
 距離を取ったフラッシュが問いかける。天井から発する燐光が、彼女の顔に影を落としていた。
「大丈夫だよ」
 心配する彼にアリカは微笑んでみせた。イザベルはアリカを元の世界に戻すと言った。その発言は撤回されていない。それは恐ろしくて叫び出したいくらいの焦燥を与えていた。それでも、イザベルには従わなければならない。これは何でもないことだと、自分を無理に錯覚させる。
 明日にはトゥルカーナに別れを告げなければならない。
 フラッシュから視線を外し、どこか虚ろに部屋の隅を見ながら、アリカはそう思った。知らず自分の腕で体を抱きこむようにして瞳を閉ざす。小さなため息を洩らす。思い出したのは誰もいない広い家だった。一人で眠る、音のない世界。
 外の世界を知らない頃ならまだ良かった。これが普通なのだと、疑問に思うこともなかった。学校に通うようになってからもそれは変わらない。けれど、トゥルカーナを知ってしまった。暗闇ばかりではないと知り、自分に向けられる笑顔を見てしまった。
 再びあの家に戻るのがこれほど恐ろしいことだとは思わなかった。たとえアリカを守る砦だとしても、閉じ込められているようだ。鳥篭のなかにいる気分。
「カディッシュ=リーゼ=アルマって、今どこにいるのかな」
 アリカはぼんやりと呟いた。簡単に答えが返るようなものではない。顔を上げると複雑な表情をしているフラッシュと目が合い、アリカは驚いた。慌ててかぶりを振る。
「なんでもない」
 そう告げて、けれどそれは嘘だと思いなおし、ためらいながら口を開く。
「ずっと会いたかったし……もう一度会って、話をしたいし」
 膝の上に組んだ両手は震えていた。言い訳のような言葉にアリカは唇を噛み締める。彼に嫌われてしまうことだけは避けたかった。
 会いたいから会いに行けるという簡単なことではないことくらい、もう分かっているけれど、それでも会いたいと願う。あの家で、ずっと彼女の帰りだけを待っていたのだ。
「幻想界という場所にいるのでしょう?」
 それがどこにあるのか想像もつかない。
 フラッシュから視線を逸らしたまま呟く。
 やがて沈黙に耐え切れなくなって顔を上げると、フラッシュは先ほどと変わらない表情でアリカを見下ろしていた。漆黒の瞳はとても冷たくて、無謀を言い出すアリカを責めているようにも思える。アリカは再び前言撤回したくなったが、意識して唇を引き結び、彼の瞳を見返した。決して突き放されたりしない確信があった。
 ポツリと、滲ませるようにフラッシュは笑みを零す。彼の心情などアリカに分かるはずもない。人の感情や態度には鋭利な感受性をみせるアリカだが、それは本能で感じ取るだけのもの。そこに至る経緯や理由が分かるほど、アリカは人と関わってこなかった。
「それがどれほど困難なものか、言わなくても分かっていると思うが」
 漆黒の瞳に浮かんだのは糾弾するように強い光だった。アリカはただ頷く。
「代償は大きい。賭けられるだけの覚悟はあるのか?」
 できれば会いたい、という軽い決断ならフラッシュは諦めろと切り捨てるつもりだった。幻想界と人間界を隔てていた結界はアリカによって壊されていた。しかし現存する王たちにより、結界は直ぐに張りなおされた。その場しのぎの結界で、古からあった結界には遠く及ばない。けれど星の中枢を担う王たちが張った結界だ。やすやすと壊せるわけがない。唯一望みを持てそうなアリカには魔法を使うという自覚がない。結界の前に行っても、簡単に捕縛されてしまいそうな気がした。
 幻想界の中から外へ。外から中へ。入り込む力がないように。流れ去る力がないように。そうして張られた結界を壊して侵入すれば、当然ながら新たな罪科が増え、追っ手が放たれるだろう。そこまで理解しているのか。
 フラッシュは“命”に関してアリカを信用していない。ここまでの行動を振り返り、信用しろというのが無理な話だ。危地に飛び込み、アリカに死んでもらっては困るのだ。
 フラッシュは改めてアリカを見た。不思議な一対の銀が見上げている。
 彼女以外の一切が視界から消える。足元が揺れ、膝をつきたい気分にさせられた。サイキ女王に誓った忠誠とはまったく別だ。なぜこんな厄介な存在に惚れてしまったのか、後悔はないが不思議でならなかった。
 どれほどの時間を沈黙で問いかけたのか、アリカが口を開いた。
「覚悟は口にしないと伝わらないようなもの?」
 小首を傾げたアリカは軽く笑んだ。怜悧な表情に虚を衝かれたフラッシュは、とっくに覚悟を決めていたのかと理解した。思えば両親に関することだけは酷い動揺を見せていたと思い至る。トゥルカーナに来る以前から心にあったことだからだろう。自身の命が危うくなろうとも揺るがない。
 先ほどまでフラッシュに嫌われるかもしれないと震えていた気弱な娘は既にいなかった。
 見上げてくる大きな瞳に誘われるようにしてフラッシュは膝をついた。
「お前が望むなら」
 幻想界へ行くという、肯定の証。
 その言葉を耳にした途端、アリカは湧きあがる衝動を消化しきれずに拳を握った。銀の双眸に歓喜が灯る。白い頬には赤味が差し、小さな唇は笑みを刻んだ。
 今宵は新月。それはすべての月光をアリカが集めてしまったからではないのかと馬鹿なことを考えるほど、冴えた銀色がアリカにあった。透き通るように、どこか脆さを秘めた強さがフラッシュの胸に刻まれる。誰にも感じたことのない衝動を覚える。彼女が笑うだけで世界が切り離される。透明で柔らかな銀の光しか目に入らなくなってしまう。
 フラッシュは手を伸ばしかけていることに気付いて喉を鳴らせた。
 ――お前も私と同じ人種というわけか。
 何よりも深い漆黒の闇を抱く、男の嘲笑が甦った。狂気を孕んですべてを消し去ろうとした狂王。
 フラッシュはアリカに背を向けた。
「フラッシュ?」
 踵を返して扉に向かう彼に、アリカは慌てた。呼んだがフラッシュは振り返らない。そのことに驚いて立ち上がろうとすると、背中に痛みが走った。無理に勢いよく立とうとしたからかもしれない。翼のあった場所が痛みに疼き、アリカは寝台に倒れた。体が跳ねる。
 フラッシュが側にいないのは不安だ。
 アリカは滲んだ涙を慌てて払い、痛みを堪えて体を起こした。どんな言葉で引き止めればここに残ってくれるだろうか。背中の痛みに耐えながら必死で顔を上げる。縋りつくようにフラッシュを見た。視線の先には暗がりに沈む姿がある。奥歯を噛み締めながらその姿を脳裏に灼きつける。トゥルカーナを離れれば、次はいつ会えるか分からない。
 ――約束が、あれば。
「直ぐに迎えに来てくれる?」
 アリカは怯えるように問いかけた。トゥルカーナが落ち着きを取り戻すまで、どれほどの日数が必要なのか分からない。その間に彼の心が離れてしまいそうで不安だった。自分に好意を示してくれたことすら奇蹟なのに、それ以上の奇蹟など起きないだろう。
 そして不安はそれだけではない。一度彼らに触れた自分が、発狂しそうな静寂のなかで、誰もいない家で、待っていられるかどうか、不安なのだ。
「お願いだから……」
 最後の呟きは震えて消えた。軽く笑う声が重なる。アリカは少なからずムッとして顔を上げた。低く笑うフラッシュに不機嫌な顔を向けて睨む。
「フラッシュにとっては笑いごとかもしれないけど、私にとっては……!」
 息がつまって声が出なくなった。扉の前で呼び止められていたフラッシュは、固まったアリカに瞳を瞠る。発せられる悲しみが部屋の色を塗り替える。否応なく共鳴させられる。手に取るように、アリカの恐怖が分かってしまう。
 アリカは俯いて肩を震わせた。
 フラッシュは動かない。二、三歩足を踏み出して手を伸ばせば届く距離だが、今のアリカにその距離は遠かった。二人の間に引かれた境界線を感じてしまう。アリカは唇を噛み締める。
「泣く必要はないだろう」
 呆れたようにため息をついたフラッシュに、潤んで輝きを増した銀の双眸が向けられた。フラッシュが息を呑むほど鋭い視線だ。
「なによ。泣かれるのが嫌なら不安にさせないぐらいの言動とってみせなさいよ」
 涙に彩られた銀の双眸は光を吸い込んで、まるで満月に淡い虹が懸かったような幻想さを思わせた。極限状態で揺れる心はどんな色か。フラッシュは戸惑いながらアリカを見返す。
「分かってるから」
「なにを分かってるって言うのっ? フラッシュなんかにこの不安が分かってたまるもんですか!」
 返すアリカの怒りは激しかった。『なんか』とはまたずいぶんと見下げられたものだとフラッシュは淡々と思った。今まで見たことのないアリカが目の前にいる。それに気付かぬほど追いつめているのは自分かと、楽しいような心地を覚えて苦笑した。そうしてまたアリカの不興を買う。
「誰もいない場所で、一人で待っているのがどれほど辛いか、知りもしないで!」
 どうすればフラッシュを引き止められるか考えていたはずなのに、アリカは追い出すかのような言動を取っていた。約束が欲しい。絶対、という一つの誓いが欲しい。感情の駆け引きなどする機会に恵まれなかったアリカには、直球以外のやり方が分からない。泣くか怒るか、極端に走る。どちらも自分が惨めで悲しくなるだけだと気付いても止められない。不器用だと、自分でも分かっていた。
「そばにいて」
 どう扱ったらいいものか迷っていたフラッシュは、アリカのそんな呟きに双眸を瞠る。アリカは「もういい」と投げ捨てて寝台にもぐりこんだ。背中の痛みが一層激しさを増した。苦しさに嗚咽を洩らす。
「分かったから」
 先ほどから同じ言葉しか繰り返さないではないか。アリカは頭から布団を被ったまま拳を握り締める。ずいぶんと頑なになっていた。フラッシュが近づく音が聞こえても、顔を出さない。
 どうすればこの孤独感が消えるか分からない。だから、ずっと側にいてくれればいいと思った。トゥルカーナの復興を待たないまま、家に戻るときも、ずっと隣にいてくれたらいい。
 自分の浅ましさに涙を浮かべたとき、再び近くで声がした。寝台の側に立っているらしい。
「アリカ」
「フラッシュ?」
 弱々しい声に驚いてアリカは顔を出した。間近にフラッシュがいて、その真剣な表情に瞳を瞬かせる。
「異属の交流が禁止されたのは、俺らに一番信用がおけなかったからかもな」
「え?」
 寝台に片膝をついて身を乗り出したフラッシュは苦笑するように笑った。そんな彼に首を傾げながら、アリカの心臓は早鐘を打ち始める。あまり近く寄られると緊張する。押し返そうとしたが、その手を取られて手首に口付けられた。まるで王女に対するかのように優しい仕草だ。
「月や陽と違い、光と闇は惹かれやすい」
 表裏一体を為すものだろうかと思っているうちにアリカは押し倒された。危機感に鼓動が早まる。漆黒の双眸を見返すと、その奥に消えない熱が見えた気がした。
「約束なら」
 どこか辛そうに微笑むフラッシュに、アリカは心臓を高鳴らせる。予感に震えながら腕を伸ばした。
「貴方なら……」
 フラッシュは誘惑に勝とうとも思わず、伸ばされた腕をつかんだ。体を沈めて口付ける。アリカは肌を滑った大きな手に瞼を閉ざした。二人の周囲では復活したトゥルカーナの精霊たちが踊っていた。まだ自我を持たない彼らは感情に共鳴して喜びに湧いた。二人の邪魔をせぬよう互いに目配せしあって部屋を出る。小さな光は瞬くように溢れだし、けれどそれを包み込む闇は銀を飲み込んで消してしまう。もがくように震えたけれど拘束を逃れることは不可能で、新たな交流を知った精霊たちは期待と不安をない交ぜにしたような表情で舞い飛ぶのだ。
 永遠を灼きつけて。