第九章

【七】

 心臓が大きく脈打って眩暈がした。
「アリカ?」
 震えに気付かれ、隣から声がかかった。低い声は静けさの中に強く響く。不安を打ち消す声だ。覗き込まれた瞳には心配の色。肩にかけられた手は驚くほど優しい。
 その手に安堵しながらアリカはかぶりを振った。手足を体に押し付けて小さくなる。瞳を瞑る。月明かりのない闇夜でも分かるほど、アリカの顔は青褪めていた。
「分からない」
 震えが止まらずにアリカは自分を抱き締めた。何をこんなに恐れているのだろうと思う。考えても分からない。フラッシュに抱き締められても、恐怖はアリカを占領し続ける。
「どうして……?」
 アリカは自問するように呟いた。フラッシュを信じているはずなのに、恐れを抱いてしまうことが信じられない。フラッシュを裏切っているような気になってしまう。彼の胸に耳を当てると力強い心音が響いてきた。
「ひとりは嫌だ」
「俺がいる」
 声は直ぐに応える。強い言葉に泣きたくなる。アリカは黙ったまま頷いてフラッシュの背中に腕を回す。
 ずっと抱いていて欲しい。こうして守られていたい。そうすれば、怖いものはないと思える。自分がひとりではないと実感できる。安堵の裏には孤独という恐怖が潜んでいるが、それに駆られたとき、こうして側にいてくれれば、きっと負けない。
 アリカは顔を上げた。漆黒の瞳がアリカを映している。その瞳はまだ心配そうに翳っていた。構わずに凝視していると首を傾げられる。アリカは小さくかぶりを振って、再び彼の胸に頬を寄せた。服越しに熱が伝わり、強い安堵が胸を満たす。
「私より先に死なないで」
 フラッシュが瞳を瞠るが、俯いていたアリカには分からなかった。安堵で眠気に襲われる。
「男より、女の方が寿命が長いって言うから……」
 眠たげな声にフラッシュは声を殺して笑った。しかしフラッシュに抱きついていたアリカには敏感に伝わってしまう。アリカは眉を寄せた。
「フラッシュがいなくなったら、私はまた……」
 真剣に告げているのにフラッシュはまた笑う。まるで馬鹿にされているかのようで、アリカは唇を引き結んだ。苛立ちと戒めを込めてフラッシュの胸を強く叩く。無視してやる、と寝返りを打って背中を向けた。
「勝手に完結させるな」
 アリカの心情を読み取ったのかフラッシュはアリカの肩をつかんだ。だが彼の唇にはまだ笑みが刻まれている。アリカは唇を尖らせる。
「いいってば、忘れてよ。勝手に思ってるから」
「なにがいいんだ。お前の方こそ勝手に死ぬな」
 うるさげに手を払われたフラッシュは笑みを消し、ようやく真剣な表情でアリカに向き直った。告げられた内容にアリカは眉を寄せる。
「あとに残るのはフラッシュの方がいいでしょ」
「いいわけあるか」
「勝手に思ってるだけだから、って言ってるじゃない」
「思ってること自体が駄目だ」
 アリカは言葉を失った。そんな様を見てフラッシュは勝気な笑みを見せる。
「そこまで想われてるのは冥利に尽きるが――俺が迎えに行くまで、他の男に目移りするなよ?」
「するわけないでしょうっ?」
 アリカは枕を取って、笑う男に叩き付けた。真っ赤な顔でフラッシュを睨みつける。
「もう眠るから邪魔しないで」
 布団に潜ると直ぐに腕が追いかけてきたが、アリカを抱き締めるだけで邪魔をするわけではない。アリカは黙ったまま瞼を閉じ、心音を聞きながら眠りに落ちた。
 今度こそ恐怖で目覚めるようなことはなかった。


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 イザベルを筆頭にしてアリカ、フラッシュと続き、その後ろからはジュナン、ザウェルが歩みを進める。どうしても他より遅れてしまうライラはザウェルに抱えられ、見えぬ瞳でアリカの背を見つめていた。
 白い回廊を抜けて辿り着いたのは宮殿の最奥。
 女王の私室と同じ配置関係の場所にあるその部屋は吹き抜けで高く、透明な天窓でも取り付けられているかのように青空が見通せた。晴れ渡った空が四角く切り取られている。
 細かな装飾の施された壁や柱。ときおり煌くのは宝玉の欠片。礼拝堂のような雰囲気も感じられて、自分の体すら浄化されていきそうだ。アリカは無意識にフラッシュの腕をつかんだ。
 扉から真正面に位置する壁に目を瞠った。
 大きな一枚岩に描かれた大きな絵画。フレスコやテンペラのような手法で描かれたものか、そこには一人の女性が座していた。
 触れたら壊れそうなほど繊細な装飾品や、画面いっぱいに広がる豊かな髪。伏せられた睫毛も長く、白く描かれた頬にわずかな影を落としていた。壁画のわりに発色が鮮やかで、浮き出しているかのような錯覚もあってアリカは目を奪われる。
 一枚の壁画。
 双子やフラッシュも驚いた様子だった。きっとイザベル以外にこの部屋へ入ったことはないのだろう。けれどそれだけではない。アリカには他にも、描かれた女性に注目する理由があった。
 それは髪や睫毛。画面いっぱいを覆い尽くすほどの髪を彩る色は、銀色だった。
「さぁアリカ。あの絵の前に」
 促されて壁に近づいたアリカは再び息を呑む。壁に重なるようにして、そこには巨大な魔法陣が仕掛けられていた。
「その魔法陣をくぐれば、貴方がいた場所へ戻れるわ」
 気は進まないものの、帰らなければいけない。
 イザベルに言われるまま絵の前に立ち、壁に描かれる女性を見上げる。
 美術の教科書で見た『受胎告知』のように両手を前に組む女性。祈りを捧げているのか、祝福を唱えているのか。忌み子の証である銀色をまとうこの女性が、なぜトゥルカーナの奥深くに飾られているのだろう。まるで誰にも見せてはいけない禁忌のように。他星に繋がる魔法陣の後ろに。
 アリカは振り返って皆を見た。
「あの……今までありがとう」
 皆が一斉に破顔した。いったい何度、謝罪と感謝を繰り返したことだろう。
「馬鹿ね。お礼を言うのは私たちの方だって、何度言わせるの」
 クスクスと笑いながらイザベルはジュナンを振り返った。その視線を受けたジュナンは前に進み出る。彼女が抱えていたのはアリカの制服だった。ルエのところで着替えて以来、そういえばこの制服がどうなったのか知らなかった、とアリカは渡される。傍目にも新品同様で、ほころびた様子はない。誰かが手直ししてくれたのだろうか。
「ありがとう……」
「向こうに飽きたらまたいつでも来ればいいさ。イザベルの力が安定してからだけどな」
「直ぐですよ。そんなに長らく不安定でしたら、トゥルカーナはまた崩壊してしまいますから」
「言ってくれるじゃない」
 双子のやり取りにイザベルは苦虫を噛み潰した。アリカは小さく苦笑してジュナンを見上げる。本当に、また来てもいいと、そう思ってくれているのだろうか。
 顔に出さなくても、そんなアリカの想いはジュナンに筒抜けだった。
 ジュナンは口の端をゆるりと吊り上げて、満面の笑みを浮かべて。アリカの背中を力いっぱい殴った。
「い……ったあぁっ?」
 しかも先日治ったばかりの傷口だ。何をするの、とジュナンを睨むと笑っていた。
「別に。ただの八つ当たりだから気にするな」
 笑いながら離れていく、その背中をアリカは唇を尖らせながら見送った。ため息を吐き出し、背後の一枚絵を振り仰いだ。魔法陣は既に始動している。触れれば直ぐに転送されるのだろう。
 アリカは構成陣を真剣な表情で眺めた。
 私はきっと、またここに来る。それがいつになるのかは分からないけど、絶対に。
「アリカ」
 小さな声にアリカは振り返った。ザウェルに抱えられたライラが側にいて、抱きつかれた。アリカはその体温に頬を緩ませる。
「向こうに帰ったら……」
「ライラ。そろそろ時間がないわ」
 言い淀んだライラの声を遮ってイザベルが声を上げた。
 アリカに抱きついていたライラは唇を噛み締め、再びザウェルに抱え直してもらう。
「向こうに帰っても、私たちのこと、忘れないで」
「忘れるわけないわ」
 不安そうに呟いたライラに笑顔を返して、アリカは強く断じた。絶対に忘れない。約束があるから。胸元で手を握り締めてフラッシュを仰いだ。その手には指輪が握られている。フラッシュが女王から賜り、彼の力によって漆黒に染まった黒曜石の指輪だ。それが約束の証となった。
「またね」
 皆が笑顔で見送るなか、漆黒の双眸は何を映しているのだろう。真顔で腕を組んで、黙ってアリカを見返している。言葉は何もない。しかし不安にはならない。
 アリカは笑んで魔法陣に手を伸ばした。
 赤く発光していたその粒子に触れた途端、体が勢い良く引かれるような感覚に陥った。音も色も周囲から消える。暗闇に引き込まれる瞬間、壁画の女性が迫ってきた。その大きな存在にアリカは瞳を固く閉じた。
 ――投げ出された無重力。暗闇のなかに響く可憐な歌声。
 イリューシャのように力強いものではない。エイラのように毅然としたものでもない。恐らくイザベルが歌っているのだろう。トゥルカーナを守る結界を、歌声として包み込むように広げている。
 歌声が遠ざかる。それと同時に、アリカを包んでいた気配も消える。
 日本が近づいてきている。
 固く握る手の平から伝わる感触。それだけを思い浮かべながら『大丈夫』と繰り返す。
 守る砦となる家に戻された、その刹那。


 私にとって貴方は守るべき世界のすべて。
 目覚めることなく――生きなさい。


 反響して響いた魔力の残骸たち。
 長い間、捜していた存在の出現に魔法たちは歓喜した。十数年前に紡がれた盟約のまま、出現したアリカを家の結界に隠してしまう。
 日本に出現したアリカはすぐさま家の魔力に取り込まれた。頭が割れるような感覚に、リビングに倒れる。固く握り締めていた拳が緩むと黒曜石の指輪が転がった。
 カツンと固い音を立てて床に落ちたそれは、アリカに寄り添うように、動かなくなった手まで転がって止まる。
 そうしてアリカは、すべての記憶を忘却へと押し流した。

第一部 END