悪夢

 この場にあるはずがない者の気配に、皆は一様に息を呑んだ。悪寒が身を包み、本能が逃げろと叫んだけれど、誰もが虚を突かれたようで動けない。瞬時に広がった闇に体を侵食され、悲鳴を上げながら滅んでいった。
 ほんの数秒の出来事だったと思う。
 いつものように姉たちと穏やかな昼を過ごしていた。そろそろ勉強の時間になるなと、憂鬱な気分で思っていたときのことだった。
 大きな宝玉を手首に光らせ、もう少し遊びたいのにと甘えるように唇を尖らせて。苦笑されながらもなだめられ、頑張ってらっしゃいとの言葉を受けて踵を返す。
 いつもと変わりない穏やかな日々。
 たった一瞬で、それはいつもとは違う、忘れられぬ惨劇の日に塗り替えられた。


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 訳の分からない恐怖に翻弄され、膝を着いた瞬間、緊迫した空気がその場に満ちた。
「イリューシャ!」
「サイキ女王のところへ!」
 普段から掛け離れた姉たちの大声が飛んだ。聞いたことのない鋭い声だ。圧迫感に耐え切れず膝を着き、頭を抱えていたイザベルは顔をしかめる。しゃがみ込んでいたが、容赦ない力で腕を取られ、悲鳴を上げる。無理に立たせられて不安に眉を寄せる。乱暴な仕草だったが不満は口に出せなかった。目前に迫ったイリューシャの顔がそれを許さない。
「姉さん」
「敵よ、イザベル。分かるわね」
 攻撃を受けているわけでもない、暴動が起こっているわけでもない。城は普段と変わらぬ雰囲気をまとっている。むしろそんなことを言うイリューシャの方がおかしくなったのではと思ってしまうほどだ。
 それでも鬼気迫る彼女を笑えるわけがない。更には、第六感とでも言えばいいのか分からない部分が異常さを肯定していた。イリューシャの言葉に小刻みに頷く。
「何者かは分からないけど、扉も開かないまま侵入してきた侵略者。それも、感じられる力は強い。相手の意図が分かるまで、貴方はイオの森に潜んでいなさい」
「ね、姉さんは?」
「城から皆を離す。サイキ女王をとられたらトゥルカーナは滅びるわ。それを阻止しなければ」
 城の内部から消えていく命の気配。侵略者が現われたと思われる部分を中心として、円を描くように人々が消えていく。
 直接見ているわけではないが、トゥルカーナに生きる者たちが消えていく様は克明に感じ取れた。
 徐々にこの事態が飲み込めてきたイザベルは唇を噛み締めた。
「私も行くわ。サイキ女王を、私も」
「貴方はイオの森へ急ぎなさい。あそこにはコルヴィノたちがいる。神殿もあるし、ルチルもいる。王宮を除けばイオの森は最強の盾になってくれるわ」
 イリューシャは言い含めるようにしながら中空から剣を生み出した。
 トゥルカーナに集う聖光を凝縮させ、脳裏で結ぶ像を具現化させる。それはイリューシャの得意技だ。王宮騎士たちに与えられた剣にもそのような意志が働くよう、サイキ女王が魔法をかけた。
 銀色の髪をさざめかせて奥へ行こうとするイリューシャを、イザベルは思わずつかんでいた。振り返る双眸には微かな苛立ちが込められている気がして、イザベルは首をすくめる。けれど、二人の姉が女王を守り城から民たちを逃がそうとしているのに、自分だけ何もできずに逃げるのは嫌だった。
 満ちている光が曇っていくのを感じる。その速さは異常だ。早くしなければ手遅れになるだろうことを感じる。それでも、イザベルはイリューシャの手を放せなかった。
「イザベル。貴方の役目はトゥルカーナを滅ぼさせないことよ。万が一、エイラ姉さんと私に何かあった場合に、トゥルカーナを救うことができるのは貴方だけとなる。そのときに一番動きやすいのがイオの森なのよ。ここは私たちに任せて急ぎなさい」
 鋭い声音を少しだけ柔らかくさせて、イリューシャはイザベルの目線に合わせるようしゃがみ込んだ。肩をつかむ白い手には熱が篭っている。いつも楽しげな光を宿す瞳は今、真剣な色に輝いている。それはこの非常事態を喜んでいるようにも見えて、イザベルはイリューシャの両手をつかみ直す。
 トゥルカーナを守る剣となるべく生まれたイリューシャ。ようやくその役割を果たすことができる、と思っているのかもしれない。
 それはとても不謹慎なことだったけれど。
「王家の者としてやらなくてはいけないことは、トゥルカーナの存続よ。そのために、貴方だけは生き残らなくてはいけない。何を犠牲にしても、貴方だけは」
「でも、でも姉さん」
 唇を噛み締め、イリューシャの手をつかんでかぶりを振ったイザベルはその瞬間、ギクリと硬直した。
 イリューシャも同じ気配を感じたに違いない。
 素早くイザベルの前に回りこみ、華奢な背中で守るように視界を塞ぐ。
「イリューシャ、か……」
 地を這うような低い声音に鳥肌が立った。
 その声を聞いた瞬間、体の中から自分を構成するすべてが作り変えられて消えてしまう。そんな錯覚に陥った。
「あなた一人でよくもここに入り込めたわね」
「その気になれば誰でも容易いこと。長らく潜伏していて、力も戻ったことであるし――何をためらうことがあるものか。そちらの方が不思議だよ」
 イリューシャの背に庇われたまま、イザベルは震えていた。息がつまるような圧迫感に必死で耐える。二人が何を話しているのか分からない。イリューシャの背中から覗くと、見たこともない男が宙に浮いているのが見えた。
 悪意を含んだ笑みに背筋が凍る。彼から感じる圧倒的な力に、逃げ出したい衝動に従いたくなる。正気を失い本能のままに行動できたらどんなに楽だろう。それでも、この場に留まるのはイリューシャがいるから。
「姉さん」
「イリューシャ様、イザベル様!」
 震える声でイリューシャに呼びかけたとき、城内から一人の兵が現われた。異常事態を察して捜しに来てくれたのだろう。
 イザベルが安堵したのと、イリューシャが顔色を失くして怒鳴ったのは同時だった。
「逃げなさい!」
 何が起こったのか分からないまま、救援に来た兵は消えた。一瞬のできごとだ。庭に満ちた闇の気配に体を侵食され、恐怖と絶望に顔を歪め、悲鳴を上げる間もないまま砂と化した。力の弱い者はこの男の側に近づくだけで滅びてしまう。
 正常なトゥルカーナの者としての死に様とも思えないそれにイザベルは息を呑んだ。自分の目で見たことだが信じられない。イリューシャの歯軋りを間近で聞いた。
 トゥルカーナに生まれた者の魂は何度も転生を繰り返し、世界を構築する一部として働く。転生を繰り返すほど光は強くなる。たとえ生前の記憶が失くなり、何も分からなくなっていたとしても、魂が滅びることはない。希望を繋ぐことができる。
 けれど今消えた兵には、輪廻に組み込まれようとする作用も働かずにただ消えた。闇に焼かれたためだ。
「貴様……!」
 男の嘲笑が聞こえるようだった。
 剣を携えたまま、今にも飛び出しそうなほど怒りを露にしたイリューシャの背中でイザベルは呆然としていた。トゥルカーナの概念は理解できていたはずだったが、実際に目で見ると凄惨だった。衝撃が強すぎて上手く思考がまとまらない。
 イリューシャはなぜ戦おうとしないのだろう、と意識をそちらに向けた。彼女の気性を考えるなら、兵が消えた時点で飛びかかっても良さそうなのに。
 答えは直ぐに見つかった。
 ここには自分がいるからだ。殺されてしまったらトゥルカーナの望みは絶たれてしまうから、危険を冒すこともできず、ただ守ることだけに徹している。
 涙が零れ落ちた。
「イザベル。自分の役割は理解しているわね?」
 強い力で手首をつかまれ我に返った。城内に向かい、イリューシャはイザベルを引きずるようにして走っていた。
「ここで貴方が死んではすべてが終わってしまう。トゥルカーナが滅びれば均衡も崩されてしまう。サイキ女王に託されたものも、すべてが終わりを迎える。貴方が滅びることは許されないわ」
 荒い呼吸の合間に言い聞かされる。
 先ほど兵が消えた場所を通り過ぎて、イザベルは振り返った。
 庭にはもう誰の姿もない。温かな陽だまりはまだそこに存在していたけれど、色褪せていた。草花が枯れようとしている。何とか命を繋ごうと、葉の先端から小さな光をキラキラと零している。それらは大気に溶けてトゥルカーナを巡る力の一部となる。
 侵略者の姿はもうなかった。消えたのだろうか。現われたときと同じように、唐突に。彼は空間を自在に渡れる能力があるのだろう。殺されると思っていたのに、彼はなぜこちらに何の手出しもせず、ただ消えたのだろう。
 全身の毛が逆立っていた。生まれたときからトゥルカーナの皇女として刻み込まれてきた力すべてが、侵略者に対して反発しているようだった。
「エイラ姉さんと私とでどうにもならなかったら、私は助けを呼ぶわ。どうしても駄目だったら、イザベル。私が呼んだ人間を王座の間へと導き、トゥルカーナを救いなさい」
 心を衝いた言葉にイザベルは双眸を瞠らせた。イリューシャの視線は前に向けられ、イザベルと絡むことはなかった。
 ――トゥルカーナを救うことが、私の役割。
 イザベルは視線を落とす。イリューシャに手を引かれるまま走りながら胸に刻み込んだ。これまで育ててきた道徳観を変えなければいけない。これからは利用する立場を覚える。トゥルカーナを前にして、個人の意思や感情は必要ない。皇女であるからには。
「さぁ、行きなさい。イザベル」
 城の深くに設置された非常用の経路だった。
 使われたことは一度もないとされる扉の前でイリューシャは手をかざす。王族としての血を使う。扉に埋め込まれていた特殊な力は、その血に反応して道をあける。開いた向こう側に続くのは、松明に照らされた薄い闇の道だった。踏み出すことをためらうような心細さを覚えてしまう。
 背中を押されたイザベルは一歩だけそちらに踏み込み、通路の先を見つめていた。けれどどうしても足が進まずにイリューシャを振り返る。けれどそこに、彼女の姿はなかった。
 来た道を振り返るとイリューシャがいた。既にここから去り、背中を向けている。通路の遠くにその姿が見出せる。城の者を逃がしつつ、サイキ女王のもとへ向かったのだろう。彼女が振り返ることはない。強い決意を胸にし、彼女はただ前に進むだけだ。
「私……はっ」
 イリューシャに示された道の前で、イザベルは拳を握り締めた。小さく吐き出して苦悶に表情を歪める。
 突然のことでまだ感情が上手く整理しきれていない。いきなり侵略者の存在を知り、逃げろと言われて、役割を重たく突きつけられて。平和な日々がずっと続くと思っていたのに。こんな日が来るなど、誰が想像しただろうか。
「姉さん……!」
 戻ってはいけないと分かっているのに足が動いた。
 ここで役割を放棄するような皇女は要らないと、そんな言葉が胸に湧いてきそうで、拳を強く握り締めた。妙な焦燥に駆られながら脱出通路に背中を向ける。イリューシャを追いかけた。
 イリューシャ一人では敵わないかもしれない。けれどエイラと自分が一緒にいたらどうだろう。皇女三人の力を合わせたなら、きっと道は開けるはずだ。
 無謀だと頭の奥で誰かが囁いたが、イザベルは無視してイリューシャの姿を求めた。
 住み慣れたはずの城が、今では別の建物に思えた。誰の気配もない。誰よりも先に動いたエイラによって、避難は終了しているのだろう。それとも滅ぼされてしまったのか。イザベルには分からない。それでも、城に満ち溢れていた生気が消えていることだけは気付いていた。  大きなエントランスを横目に、サイキ女王がいつも鎮座している玉座の間に向かおうとしたイザベルは、人の声を聞いた。
「私は神殿の方に行くから、フラッシュは離れの方に!」
「お前一人でかっ? 無茶言うな!」
「人手が足りないなら私が行くしかないでしょう!」
 イリューシャの声に顔を輝かせたイザベルだが、間を空けずに響いたもう一つの声に表情を強張らせた。
「イリューシャ!」
 走り出したのだろう。小さな足音が一つ遠ざかる。イザベルは追いかけたかったが、“彼”がまだそこにいる。追いかけられなかった。とっさに隠れた階段の影から窺うと、漆黒をまとう青年は悲痛な表情でイリューシャの背中を見つめていた。
 ――フラッシュ。
 城勤めの騎士だ。皇女専属の騎士でもある。トゥルカーナが変事に襲われた際に、最も活躍するはずの戦士。
 自分を守ってくれる彼のことが、なぜこうも自分は苦手なのだろう。恐れを抱いてしまうのだろう。イザベルは階段の影から出ようとせず、そう思った。
 フラッシュはその場で小さく舌打ちして踵を返した。
 イザベルにも分かっていた。ああまで宣言したイリューシャの後を追いかけても機嫌を悪化させるだけ。彼女を止めることは至難の業だ。そこに時間をかけるより、フラッシュには別にやることがある。イリューシャと立場を天秤にかけ、彼は立場を取ったのだ。
 フラッシュの足音がその場から遠ざかる。それを充分に待ってからイザベルは階段の影から出た。
「……最低」
 呟きは誰に向けられたものなのか、呟いた自分にも分からなかった。
 服についた埃を払う。イリューシャが去った方向に走る。フラッシュが向かった先を見たが、彼が戻る気配はない。それがイザベルを安堵させた。
 走りながらふと眉を寄せた。
 イリューシャが向かったのは神殿だ。しかし、不可解だった。もちろん、まだそこに人がいるかもしれないという思いがあるのかもしれない。神殿は城から少し離れていて、情報が伝わりにくい。人もそれほど多く勤めているわけではない。静かに過ごす巫女たちが騒ぎを知らない可能性もある。
 けれどてっきりイリューシャは、玉座の間へと向かうのだと思っていたのに。
 サイキ女王は無事だろうか。
 自分ひとりででも玉座の間へ向かおうかとも思ったが、ここまでイリューシャを追いかけて来て、今更戻るのはためらわれた。ただ走り続ける。
 神殿は、サイキ女王の代になってからその役目を完全に放棄されたという。大昔には機能していた設備も、打ち捨てられたようにすっかりなりを潜めて使い物にならないという話だ。今では巫女たちの住まいと化しているだけ。普段ならば近づくこともない場所だが、イリューシャはなぜ真っ先にそこへ向かおうとしたのだろう。
 神殿に近づくに連れて嫌な予感が育っていった。同時に嫌な圧迫感も増してくる。この先に何が待っているのか。光に属する自分を圧迫する気配を読み取り、蒼白になる。
 イザベルはこれまで以上に足を早めた。乱れる呼吸に構わず、神殿に繋がる大扉に手をかけた。少し開いていた扉はイザベルの手により全開となった。
 そうして。
 目の前に舞う鮮やかな緋色にイザベルは自分の刻が止まった気がした。
 濃い血臭。上空に漂う闇色の霧。神殿の中央で崩れた銀色の体。彼女の体を貫くのは黒い剣。細い体の半分に匹敵する大きな剣だ。
 服に滲んだ血は、見る間に滴り落ちるほどになる。
 普通ならば剣を伝って落ちる血もあるはずなのだが、貫いた剣には血の欠片もついていなかった。さらに不思議なことに、イリューシャの服から滴ろうとした血の一滴一滴がその場で静止し、浮かびだす。
 イザベルが見たのは、神殿内部を本当に舞う鮮やかな緋色だった。言葉もなくその光景を凝視する。
「しぶといな」
 男が呟いた。声音は揶揄も露だ。彼が本気で殺そうと思ったのなら逃げられない。本能的に悟ってしまう。
「貴方の、歪んだ妄執など」
 囁くような声だった。腹に力が入らないためだろう。けれどその声はイザベルを衝き動かすには充分だった。呆然としていたイザベルは我に返って男を睨みつけた。胸を占めるのは明確な殺意。そして守ることの出来なかった自分への怒り。
「姉さんから離れて!」
 声を限りに叫んだ。男の関心がイザベルに向けられる。その視線にまるで貫かれたように感じたイザベルだが、必死に耐える。震える足でイリューシャに駆け寄る。彼女にはまだ息があった。イザベルを認めたイリューシャの目が驚愕に瞠られる。
「せっかく姉が逃がしてくれたというのにな」
 男は嘲笑しながらイリューシャの体から剣を抜いた。その場でイリューシャは倒れ、男が距離を取った。イザベルはイリューシャの隣にようやく辿り着き、必死にその手を取った。いつも気丈な顔しか見せてこなかった彼女が、今は痛みにうめいていた。誰が見ても死は間近に迫っている。
「姉さん……!」
「務め、よ」
 直ぐにも癒そうとしたイザベルの手を払って、イリューシャは告げる。血の気を失った顔は青い。責めるような眼差しにイザベルは唇を噛んだ。治療を断られても、この場を離れることはできない。
 一度は離れた男が再びイリューシャに近づいてきた。
 イリューシャは起き上がり、顔を上げることもできないまま男の足を見つめる。一息するのも惜しいように呼吸を止めて、その場に膝をついた。瞳を閉じる。彼女の全身から力が抜けようとした。男がとどめを刺すように剣を振り上げる。イリューシャの死を悟ったイザベルが絶叫する。
 すべてが同時に起こった。
 神殿内をただ舞っていたイリューシャの血が床に落ちた。音が反響し、耳を塞ぎたくなる。イザベルはイリューシャの体を抱えて首を竦める。
『結界』
 イリューシャの声が聞こえたと思った途端、イザベルは体の中から勝手に力が引き出されようとしているのを感じて目を瞠った。
 神殿内に出現したのは、血で描かれた魔法陣。
「これは……っ」
 イリューシャはどこまで計算していたのだろうか。彼女がかけた最大の魔法。彼女が第二皇女として役割を全うした証でもある。最後の魔法。
 イザベルが抱き締めるイリューシャとは別に、目の前にイリューシャが立っていた。裸足で剣は持っていない。血の穢れもない、銀の痩身があった。
「扉が……」
 様子を窺っていた男が頭上を仰いで歓喜する。
 異界に流れ込む異界の気配。常なら決して開くはずのない星の扉。それが、イリューシャの魔法によってこじ開けられようとしていた。
 男は笑い出す。耳障りな笑いが神殿内に木霊する。それが何を意味した笑いなのか分からない。けれど男はひとしきり笑ったあと、まだ楽しげに喉を震わせたまま、イザベルとイリューシャを眺める。その瞳を細めて消えた。
 イザベルは圧迫感が消えて安堵したが、それどころではない。目の前のイリューシャに声をかけようとして動きを止めた。腕に抱いていたイリューシャの遺体が消えようとしていた。彼女の体は、抱える自分の腕が透けて見えるほどになっていた。その体から燐光を放ちながら空気に溶けていく。
 トゥルカーナに生まれた彼女はただ力を構成する一部として世界に還ろうとしていた。
「姉さん……っ」
 涙を溜めたまま姉を見上げてイザベルは声を絞り出した。
 イリューシャは魔法陣の中心に立ち尽くしたまま頭上を仰いでいた。
 トゥルカーナに入りこむ異質な風に瞳を細める。
「あの人が、迎えに来ているわ」
 イザベルには分からない言葉。『あの人』が誰を指しているのか、涙を拭いながら問いかけようとした。
「エイラ。イザベル。どうか、導いて」
 祈るように両手を前で組み、俯き加減で瞳を閉ざし、呟いたイリューシャは消えた。魔法陣の中心にいた彼女が消えると同時に、イザベルが抱き締めていたイリューシャも消えた。気付けば輝いていた魔法陣もすっかりとなりを潜めて消えていた。
 もしかしたら、立ち上がったイリューシャにはこちらが見えていなかったのではないか。幻のように、最後にかけた魔法で立ち上がり、役目を全うした。
 振り返ることすらせず、最後に彼女が願ったのは何だったのだろうか。
 イザベルは立ち上がった。
「……扉?」
 トゥルカーナと異界を隔てる扉が開こうとしていた。異質な風が入り込んで均衡が崩れぬよう閉じていた扉だ。今はゆっくりと開こうとしている。気の早い風がイザベルに挨拶をするように頬を撫でた。
「イオの森へ……」
 操られるように呟いていた。出口に顔を向け、ゆっくりと歩き出す。
 両手首に巻きつけていた宝石に触れると、服に染み付いていたイリューシャの血が瞬く間に消えた。
「導いて、トゥルカーナを……救わないと」
 異界からトゥルカーナまでを導くのはイリューシャの役目。導かれて来た誰かを王宮まで導くのは私の役目。そして、城に滞在し、トゥルカーナを復活させんと力を発現させるのはエイラの役目。
 痛んだ胸に眉を寄せたが、イザベルは気付かないふりで前を見据えた。
 イリューシャが選び、トゥルカーナに召喚した者ならば、私には分かるはずだ。それまでイオの森に身を隠して備えなければいけない。
 数時間前まで活気を誇っていた王宮は閑散としていた。
 イザベルは一歩一歩、決意を固めて踏みしめるように、イオの森へ向かった。

END