英雄たち

【二】

 イオの森は衰退していた。コルヴィノ族が統べていた頃に比べて格段にだ。近くではルエを森長とするカリュケの森が広がっていたからかもしれない。イザベルを取り戻したトゥルカーナに呼応するかのように、カリュケの森は生き生きと葉を茂らせている。
 アリカの血が最も多く流されたイオの森。
 ジュナンは滑空しながら流れていく風景を見ていた。
 まるで追憶のようだ。
 ぞくりと背筋を凍らせる何かが前方にある気がして、ジュナンは顔を上げた。
 風の礫が顔を打つ。ジュナンを先導するように先を飛んでいたザウェルが速度を落とす。彼に同調するようにジュナンも速度を落とす。いや、先に速度を落としたのはジュナンだったのかもしれない。この先に待つ確かな別れの予感に胸が締め付けられる。
「――神殿だ」
 ザウェルの声が、まるで神官の声のように厳かにジュナンの耳を打った。
 ジュナンは眼下に広がる光景を眺める。
 イオの森の中核から少し離れた場所に神殿が佇んでいる。思えばこの神殿を見たのは初めてかもしれない、とジュナンは思う。話には聞いて見知っているような気になっているが、実際に自分の足で訪れたことはないような気がした。
 ザウェルが下降するのに合わせてジュナンも高度を落とした。翼を水平に広げ、大地からの上昇気流を受け止めながら静かに降下する。地面に足をつけると身が引き締まる思いがした。
 神殿は気脈に呼応しているかのように、仄かな光を瞬かせている。
「なんだ。来たのか」
 ジュナンは振り返った。視線の先にはフラッシュがいた。ちょうど森から出てきたところだ。ジュナンたちは知らず彼を追い越していたらしい。フラッシュは漆黒の衣装に身を包んで苦笑していた。
「き、来たのかじゃないだろ」
 ジュナンは後退しそうな自分に気付いて踏みとどまった。噛み付くように告げてフラッシュを睨む。そうしなければ負けてしまいそうな恐怖がある。
 いったいいつから彼はこんなにも深い闇をまとうようになったのか。
 ただ立っているだけなのに、フラッシュからは強い圧迫を感じた。震えそうになる足を叱咤する。デューラ=ジュイール=カルの仲間だと言われれば納得してしまいそうなほど、彼らの雰囲気は良く似ている。フラッシュがまとう闇は深い。
「なにも言わずに出て行くつもりだったんだろうけど、そうはいかないよ」
 ジュナンと手を繋いだままのザウェルが不機嫌そうにため息をついた。彼の手も、緊張のためにか冷たくなっている。
 フラッシュはそっと瞼を伏せると微苦笑してジュナンたちの側を通り抜けた。その瞬間、双子は影を地面に縫い付けられたかのように動けなくなった。背筋を伸ばす。緊張感が限界まで高まった。しかしフラッシュは二人の様子など気にも留めず、神殿に向かう。
「無理をするな。俺なら大丈夫だから」
 神殿に入る間際にフラッシュから声が飛ぶ。途端に双子は呪縛から逃れることができた。勢いよく振り返る。
「無理してでも見送るに決まってるだろ! フラッシュは大事な仲間なんだから!」
 動けない自分に腹が立って怒鳴りつける。立ち尽くしたまま声を限りに叫ぶ。
 フラッシュは驚いたように振り返って笑った。肯定も否定もしないまま神殿内に姿を消す。
 ジュナンはザウェルの手を掴むと無理に足を動かした。意識しながら強く踏み出してフラッシュを追いかける。
「フラッシュ!」
 トゥルカーナの復活と共に神殿も生まれ変わったのか。神殿の外観は、まるで建築されたばかりのように新しい。真四角に切り取られた階段を駆け上がると広がる、開放的な広間に圧倒される。
 王宮の奥深くに描かれていた紋様と同じものが、ここにもあった。
 柱に刻まれている。
 ジュナンは不思議な気分でその模様に触れながら進んでいく。ザウェルも緊張を解いたようで、興味深そうに様子を眺めている。神殿に足を踏み入れた途端、何か温かな風に包まれたような錯覚を覚えた。
「ここだけは当初のままなんだね」
 ザウェルが瞳を細めながら呟いた。その言葉が何を意味しているのかジュナンは直ぐに悟った。神殿の中には大きな魔法陣が描かれ、赤い燐光を発している。その側にはフラッシュが佇んで力を見定めている。
 実際にはこの神殿を訪れたことのない双子だが、まるで過去の情景が目に見えるようだった。外界と切り離された空間では錯覚するのも無理はない。まるで時が止められたかのように静寂ばかりが漂っている。
 デューラ=ジュイール=カルが降り立ち、のちに闇星界の重臣も足をつけた場所。
 神殿に満ちるトゥルカーナの神気が属性を曖昧にさせていたが、それでも感じるものはあった。
 フラッシュは魔法陣の側に立ち、しばしその赤い燐光を眺めていた。端整な顔立ちを少しも歪めることはない。輪郭に赤い光が映えて、どこか不吉さすら感じさせる。
 ジュナンとザウェルは何も言わぬまま、フラッシュに相対するように魔法陣の端に立つ。魅入られたように魔法陣を見つめるジュナンの手を、ザウェルが強く握って引き戻した。意味に気付いたジュナンは笑う。
「心配しなくても、トゥルカーナを出ては行かないよ」
 だがザウェルの瞳は険しい。
「……じゃあな。恐らく、戻ることはないと思うが」
 双子のやり取りがきっかけになったのか。フラッシュは顔を上げて双子を見つめた。真剣な眼差しの奥には痛みが含まれている。
 ジュナンは唇を引き結んだままフラッシュを見つめた。
 ――いつか戻ってこいよ、とは言えない。トゥルカーナを離れれば、イザベルに押さえ込まれていたフラッシュの力は強大に育っていくだろう。彼が力を弱めるとはとても思えないし、強くなろうとすることも想像できる。そしてそうなれば、トゥルカーナは彼にとって最も近寄り難い場所となる。むしろフラッシュが近づくだけでトゥルカーナは簡単に揺らいでしまうかもしれない。
 複雑そうに見返す双子の視線に再びフラッシュは笑って片手を上げた。
「アリカによろしくね」
 そんな声をかけたのは双子ではなかった。
 響いた新たな声に、誰もが弾かれたように振り返る。中でも最も驚愕したのはザウェルだ。
「イザベル!」
 瞳を丸くして驚きの声を上げる。
 そこにいたのはトゥルカーナを統べる女王として新たな道を踏み出したイザベルだった。外見を急速に成長させた彼女は、戴冠式を終えてから立派な一人の女王としての道を歩み始めている。新緑のような眩しい髪は丁寧に梳かれて背中に流されていた。まとう衣装も“女王”という肩書きに見劣りしない立派なものだ。
 ザウェルは驚いた次に絶句した。
 王宮から神殿までどうやってきたのか。護衛を伴ってはいないのか。なぜ誰も止めなかったのか。問うべきことは山ほどあるが、どれもが言葉にならない。
 イザベルはザウェルを一瞥すると視線をフラッシュに戻した。冒険していたときのように動きやすい格好ではなくなった。優しい風に包まれているかのように髪がふわりと揺れる。
「貴方がいなくなればトゥルカーナは新たな道に踏み出せるでしょう。人々のなかに貴方は残らない」
 光の属性国であるトゥルカーナに闇の存在は必要ない。
 フラッシュは苦く笑った。イザベルを見つめて頷いた。
「それでも、貴方と時間を共にした者たちのなかには残る。私たちが死なない限りは、永遠に」
「それだけで充分だ」
 トゥルカーナに自らの存在を残そうとは思っていなかった。
 フラッシュはもう一度頷いて踵を返した。トゥルカーナ女王の登場で活性化された、赤く輝く魔法陣に足を重ねる。
「機会があったら、アリカだけでも一度、こちらに向かわせよう」
 何を思っているのか分からないような瞳でフラッシュはイザベルに笑いかけた。イザベルはその視線をただ受け止める。
「じゃあな」
 フラッシュは魔法陣の中心に移動する。すると彼の足元から光が放たれ、ゆっくりとフラッシュの全身を浸食し始める。赤い光は、足、膝、太腿へと流れていき、つま先からフラッシュの姿が消えていく。
 ジュナンは思わず身を乗り出した。
 駆け寄りたい衝動をぐっと堪え、泣き出しそうな瞳でフラッシュを見つめ、瞬きもせず、その姿を瞳に焼き付ける。
「そっちこそ俺らのこと忘れんな! アリカにも伝えておけよ、フラッシュ!」
 フラッシュは少し驚いたように瞳を瞠り、次いで嬉しそうに笑った。片手を上げてジュナンに応える。その手も消える。
 フラッシュの姿は光に包まれて完全に消えた。
 ジュナンとザウェルとイザベルと、たった三人だけの見送りだ。
 三人はフラッシュが消えた場所を見つめたまま動かない。赤い魔法陣だけが瞬き、役目を終えたとでも言うように再び沈黙を保つ。
 誰よりも先に動いたのはイザベルだった。
 若葉色の髪を揺らせて踵を返す。早々に神殿から立ち去ろうとしているようだ。気付いたザウェルが直ぐに駆け寄る。
「イザベル!」
「心配しないでも、誰にも気付かれていないわよ。この神殿は王宮と直結させることができるんだから。カルが王宮に現れたときも、私はこうしてこの森に逃げ延びたのよ」
「俺はそんなことを言ってるんじゃなくて……!」
 イザベルは隣に並んだザウェルを一瞥した。彼がなにを言いたいのか分かっていて応えない。いつも同じやりとりを繰り返すのが疲れてきた。
「彼がどうであろうとトゥルカーナを救った一員であることに変わりないわ。トゥルカーナの王として、当然の義務を果たしたまでよ」
 ザウェルは言葉を詰まらせたようだった。
 そんな二人のやりとりを、いまだ魔法陣の側に佇んだまま聞いていたジュナンは呆れてため息を零した。最近ではザウェルがイザベルに振り回されている感が強くなっている。今もそうだ。イザベルは難なくザウェルをあしらってしまう。余裕がついてきたのだろうか。
 感慨深く二人の背中を眺めるジュナンだが、視線の先でイザベルに振り返られて慌てて歩き出した。いつまでもこの神殿に留まっているわけにはいかない。ザウェルの言う通り、生き残った者には果たさなければいけない責務が待っている。先ほど置いてきてしまった子どもたちの所にも戻らなければいけない。
 神殿を出たイザベルは双子が両隣に並ぶ様を見ながら空を仰いだ。トゥルカーナが光を取り戻したときの、晴れ渡る青空のままだ。まるで時間が止められているかのよう。もう一度周囲を見回せばあのときのまま、アリカたちが側にいるのではないか。そんな錯覚すら抱かせる空。実際には辺りを見回してもアリカはいない。
 イザベルは瞳を細めた。
「言霊は何よりも護られるべき魔法。あとは、当人たちの想いがどれほど強いか。残留思念といえども、ね」
「なにがだ?」
 駆け寄ってきたジュナンが不思議そうに尋ねた。
 イザベルは視線を戻してかぶりを振る。
 トゥルカーナの王となった瞬間、イザベルにはこの地で起こったすべての事柄を知った。大地に刻まれ、風に孕まれた記憶がイザベルに教えてくれた。この地に足をつけた者の想いや、サイキ女王の想い。イリューシャの複雑な心境までも伝えられた。一人の人間には抱えきれないような情報までがイザベルを包み込んだ。
 そんな中でイザベルは知った。
 アリカが元の世界に戻り、カディッシュ=リーゼ=アルマの保護を再び受けたことを。恐らくフラッシュがあちらの世界に渡っても、出会うアリカは別人だ。
 ある程度、予想がついていたことだった。
 アリカがあちらの世界で生きようとする限り魔法は不要だ。不用意に魔法の知識を与えてしまえば、幻想界からアリカを見つけることは容易くなる。だからカディッシュ=リーゼ=アルマは、アリカの意志がどうであれ、必ずアリカを護ろうとするだろう。
 アリカが帰郷するとき、そのことをアリカに伝えなかった。それが今頃になってとても重い。ライラが口を開こうとしていたが、それを封じたのも自分だ。
 イザベルは空を見上げた。注ぐ陽光はイザベルの髪に浸透し、新緑を鮮やかに輝かせる。
 そんなイザベルを見ながらジュナンは眩しそうに瞳を細めた。自分たちがこの幼い女王を守っていくのだと、胸の深くに、強い決意となった塊があるのが分かる。トゥルカーナを救ったばかりの頃、アリカを見送ったときにはなかった気持ちだ。
 ジュナンはアリカを思い出しながらイザベルを見守り続ける。そして心のなかでアリカに謝る。
 アリカがトゥルカーナを出るとき、彼女が困っていたら全てを投げて助けにいく覚悟があった。アリカが元の世界へ戻る、その後ろ姿を見ながらそう思っていた。けれど今は、もしもアリカが縋りついて助けを求めても、ジュナンはトゥルカーナを捨ててまで助けに行くことはできないと感じていた。イザベルを見限って、出て行くことはできない。ザウェルも同じだろう。否、ザウェルの場合はそこに別の感情も加わるか。
 女王となったイザベルには何かが備わりつつあった。それらはトゥルカーナに住まう者たち全てに、決してイザベルを裏切ることなかれ、と囁くのだ。彼女に絶望を与えることなかれ、と。自分たちがイザベルを支えていくのだと強い想いを湧き上がらせる。
 王に許されたひとつの呪縛。イザベルが本当の王になった証。だから、トゥルカーナの者は誰ひとりとしてトゥルカーナを出て行くことはない。
 もちろんアリカが助けを求めるのなら出来る限りで助けたいとは思っているけれど。優先順位が変わってしまった。
 ジュナンは胸の内で呟きを洩らす。先ほど出て行ったばかりのフラッシュを思い浮かべる。彼がアリカの元へ行けば、きっと救い上げてくれるだろう。二人が揃えばできぬことはないと思える。そんな強い力を感じさせる。
 望みを託して、ジュナンは忘れることにした。それが双方共にいいのだろうと思った。これまで交わることがなかったように、これからも交わることはない。あるべき場所へ戻った彼らは、そこから正常な時を刻み始めていく。
 ジュナンは顔を上げてイザベルを捜した。彼女はもうずいぶんと先を歩いていた。その隣を、まるで騎士のようにザウェルが歩いている。いつの間にか雰囲気は緩み、二人には微笑みがあった。
 ジュナンも頬を緩めると歩き出す。
 二人の雰囲気を壊さぬよう、ただ後ろから二人を見守り続けた。

END