彼女の罪状

【一】

 セイと共に酒場で依頼表を見ていたときのことだ。
「男爵の子息に狼藉を働いた者だな。連行する」
 突然踏み込んできた、衛兵らしき人物にディアは縄をかけられた。両手を前にしてかたく縛られる。
 何が起きたのか分からない。
 ディアは見ていた依頼表を手にしたまま、縄と彼らを見比べる。
「さぁ来い」
「ちょ、ちょっと待てよ! 私が何をしたってっ?」
 強い力で縄を引かれ、ようやく正気に返る。叫びは虚しく宙に消える。
 衛兵二人に両脇を固められて外へ連れ出された。
 待機していた馬車に、突き飛ばされるようにして乗せられる。1人はディアと共に馬車に乗り込み、もう1人は御者として前へ向かう。
「おい待てって!」
 一度は座った馬車内だが腰を浮かせ、何とか外へ逃れようとしたが無駄だった。
 焦るディアの視界に金の髪がよぎる。
 彼はディア以上に何が起きているのか分かっていないようだ。きょとんとした瞳で見つめてくる。そんな彼に口を開こうとしたディアだが、扉は無情に閉められた。
 何事かと集まってきた野次馬たちの視線の中。
 ディアとセイは訳の分からないまま、強制的に切り離された。


 :::::::::::::::


 馬車は最初から速度を上げた。
 走り始めに逃れようとしていたディアは、突然の発進にバランスを崩して再び椅子に逆戻りする。馬のいななきが前方から聞こえた。腰を打ったディアは、苦々しく顔を歪めてため息を吐き出す。
 馬車は速度を緩めることなく走り続けた。
 どこに向かっているのか分からない。何がどうしてこうなったのか、ディアには見当もつかなかった。
 ひとまず腰を落ち着けたディアは、対面に座る男を睨みつけた。
「私が誰に乱暴を働いたって言うんだ!?」
 馬車の音にも負けぬ大声を張り上げる。
 男は露骨に渋い顔をした。それを見たディアは蹴りたい衝動を堪えるのに理性を総動員させた。まずは状況を知る必要がある。暴れるのはすべてを知った後でも遅くない。だから、まだ蹴っては駄目だ。
 ――男から出てくる言葉が文句だったりしたら、不可能でも何でも馬車の外に蹴り落としてやろう。
 敵意どころか殺意まで醸して睨みつける。
 そんなディアの不穏な胸中を知ってか知らずか、男はため息と共に教えてくれた。
「閣下だよ。この街の有力者さ。そこの1人息子が、あんたから暴行を受けたと訴えているんだ」
「閣下のご子息ぅ?」
 そのような大層な御仁に喧嘩を売った覚えはない。
 第一、そのような人物と、旅人でしかない自分に接点などないではないか。いつの話だというのだろう。
 ディアの戸惑いを察した男は付け加えた。
「その場面を見ていたと証言する者もいる」
 男は腕組みをしたまま厳しい表情を崩さない。ディアを見ないまま淡々と続ける。
 そんな面持ちにディアは不機嫌さを募らせながら、それでもまだ平常を保ち続けようと努力した。
「待てよ。私はそんなの知らない。人違いだろう」
「長身。栗色の短髪に瞳。腰に剣を佩いた旅人。金髪の少女を連れている。名前はディア。間違いではないと思うが」
 ディアは言葉を失う。どれほど自身に近かろうが「人違いですね」と押し通すつもりだったが、ここまで詳細だとは。
 偶然にも同名の別人でしょうと言い逃れる手も残されていたが、ここで逃げても同じことの繰り返しだ。こうなれば直接その人物に会って誤解を解いてもらう方が早い。閣下とまで呼ばれるお偉い様に睨まれれば旅どころではなくなる。指名手配でもかけられたら、これから先、街に寄れなくなる。
 ディアはため息をついた。縄で拘束された両手を下ろし、乱暴に座り直す。唇を引き結んで窓から外を眺める。今はそれしか気を紛らわす方法がない。
 この街の有力者に会ったことなどない。こうまで自身を示す要素を揃えられれば人違いだと思えないが、誤解であることは間違いない。いつでもどこでも暴力を振りかざす野蛮人ではないのだ。喧嘩を売るときには相手をちゃんと確かめる。
 そんなことを思っていたディアは眉を寄せた。
 ――もし。もしも。大昔にさかのぼって、いたとしたら。閣下と呼ばれる人物にまでなっていたとしたら。誤解ではなく真実だとしたら。
 ディアは頬を引きつらせながら首をひねった。
 ――そのときは全速力で逃げ出そう。
 閣下の顔と反応を見てから出方を決めることにした。
 ため息をついて押し黙るディアの様子を、納得したか諦めたからだと思ったのか、対面に座っていた男が少しだけ表情を寛げて肩の力を抜いた。しかし油断には程遠い。剣を奪うことはできそうにない。
 ディアは彼に気付かれないよう横目で観察する。
 再び外へ視線を向けた。
 流れていく景色はここ数日で見慣れたものに変化していた。この街にはまだ来たばかりだが、それでも大体の道は覚えた。馬車が走っているのは街の中央を走る幹線道路。街の四方へ行けるように整備された道だ。
 黙ったまま外を眺めていたディアの表情は、徐々に険しいものへと変化する。
 馬車は役場へ向かっていない。
 娯楽の溢れる遊楽外を抜け、貴族たちの屋敷が集まる住宅地へ向かっている。
 通常、罪人は役場に預けられ、そこで取調べを受ける。罪人を嫌う貴族たちが屋敷に招くことは考えにくい。正規の捕縛ではないのか、よっぽど恨みが深いのか。
 どうやら自分を呼び出したのはろくでもない方の閣下らしい、とディアは毒づいた。せめて話が通じる閣下であれば穏便に進めることができたのに。最近はとかくついてない、と顔をしかめる。
 運が尽きたのはいつからだったか。ああそうだ、セイを旅連れにした頃からだった。彼に会ったときから、自分の不運は始まっていたのだ。
 窓の外に金髪を見出し、ディアは思わず身を乗り出した。だが人違いだった。振り返ったのは、セイとは似ても似つかない女性だった。
 ディアは自分の動揺ぶりに苦笑した。
 何も言わずに――というか言えずに連行されたわけだが、セイはどうしただろうか。みっともなく取り乱したりしなかったか。ちゃんと身の振り方を考えただろうか。
 親になった心境でディアは笑う。一緒に働こうと楽しみにしていたセイを思い出すと寂しくなる。
 落ち着かないディアの様子を見てどう思ったのだろうか。対面に座っていた男が「かわいそうにな」という小さな呟きを洩らした。ディアは敏感に聞きとがめて睨みつける。
「あんたみたいな濡れ衣を着せられるのは良くある話なんだ。いつもは簡単な命令を聞くだけで解放してくれるから、あんたも余計なプライドなんか捨てて、さっさと謝ってしまえばいいよ。そうすれば直ぐに帰してくれるだろう。どこで目をつけられたんだか知らないがな」
「濡れ衣……?」
 ディアはただ繰り返した。両手に縄をかけられたまま呆然とする。
 まさか最初から濡れ衣だと分かっているとは思わなかった。これでは、単にこちらの迷惑を考えない閣下が、面白半分に旅人をからかっているように聞こえる。性根の腐り具合は末期だろう。
 ディアの瞳が剣呑になる。余計な口は挟まず無言で促す。男は話相手が欲しかったのか、直ぐに続きを聞かせてくれた。
「男爵はまぁ、良い方なのだが……息子がね。ちょっとでも気に入らないことがあると、こうさ。無理に処罰しようとなさる。濡れ衣なんてしょっちゅうだよ。あんたも、街で何かあったんじゃないのか。それで嫌がらせを受けてるんだよ」
「何かって、私は別に……?」
 思い出そうとするが、覚えていない。柄の悪い男たちに絡まれるのはいつものことだ。まさかその中の誰かが子息だったということもないだろう。ディアは先日この街に到着したばかりだ。短い期間で接触を持った者は少ない。
 考えていたディアは「あ」と声を上げた。
 街に到着した初日、海に沈んだ遺跡があると聞いて、訪れた。浜辺に放置された舟は自由に使ってもいいと聞いていたので、遺跡までは舟で往復した。しかし遺跡から帰るときに事件は起こった。街でディアに負けた男たちが追いかけてきて舟を乗っ取るという報復を仕掛けたのだ。彼らは後に倍返しされる羽目になるのだが、そんな男たちの中で唯一雰囲気を違える者がいた。彼は、舟を管理しているのは自分だと言っていた。
 あのときは単なる戯言として相手にしなかったが、もしもそれが本当だったらどうだろうか。あの男が男爵の子息なのだろうか。辛うじてある心当たりはそれのみだ。
 だがそれでも、捕らわれる理由が分からない。あの男を海に投げ捨てたのはセイだ。報復ならセイに行くはずだ。
 そう考えて、いや、違うのか? と首を傾げた。
 彼はセイに興味を持っていた。あの状況でセイを男性だと判断するのは難しいだろう。いくら力で負けたとしても、セイの容貌は、そんな事実を忘れさせる破壊力を持っている。今回のこれは、セイを手に入れるために自分を引き離そうという魂胆なのかもしれない。
「あんたも運がないな……」
 まだ考え事をしていたディアは敏感に聞きとがめて顔を上げた。これでもかと同情を湛えた哀れみの目を向けられている。ディアの頬が引きつる。
「別に。運だけはいい、と昔から思ってるんでね」
 拘束された両手を頭の後ろに組んだ。背もたれに深く腰掛ける。緊張をまるで見せないその様子に男は目を丸くした。しかし思い直したのか、再び哀れみの眼差しを向ける。単なる強がりだと捉えたのかもしれない。
 思い切り癪に障るその眼差しに「本気で暴れるぞ、こら」と足を上げたくなったディアだが、行動に移す前に馬車が停まった。男は命拾いする。
 外にそびえていたのは監獄ではなく優美な屋敷。ディアの読みは正しかったらしい。屋敷に連れて来られた以上、役人との正式な駆け引きは望めない。衛兵だと思っていた男たちも、屋敷に雇われた私兵に過ぎないのだろう。
 ディアはため息を吐き出した。子息の存在を聞いたときから予想はしていたが、あまり面白くない展開になりそうだと思う。迷惑料をせしめることも難しそうだ。
 馬車の中で軽口だった男は唇を引き結び、鉄面皮を装っていた。雰囲気は一変し、表情は読み取らせない。
 ディアはもう一度ため息をつく。
 屋敷の中で待っているだろう災難を予想しつつ、扉を睨みつけた。


 :::::::::::::::


 さすがは男爵の屋敷。扉の両脇には専用の人間が控え、ディアたちが近づくと、その歩みを邪魔しないように扉を開いた。頭を下げるのはもちろんディアにではなく、ディアを連れて来た男たちに。彼らの地位は意外に高いところにあるのかもしれない。
 ディアはそんな様子を観察しながら屋敷に足を踏み入れた。
「良く来たな。ディア」
 爽やかな笑顔を浮かべて出迎える、覚えのある男を見た瞬間、ディアの中で何かが切れた。
 穏便に済ませよう? 誰が?
 ディアは笑顔で近づいてきた男に蹴りを入れた。容赦ない一撃。腹に強烈な一撃を受けた男は笑顔のまま吹き飛んだ。その勢いで彼が階段の手すりに背中を打ちつけることも、ディアの中では計算済みだ。
「お、お前、何てことを!」
 慌てたのはディアを連行してきた男たちだった。自分たちの管理不行きとして処罰されてはたまらない。あおざめた彼らはディアを拘束しようとする。
 しかしディアは彼らの手を強引に振り払った。
 濡れ衣のことなど、どうでもいい。この男を殴らなければ気が済まない。
 あからさまに卑下する嘲笑を浮かべながら、口調だけはいかにも『招待』を装う男のことなど。
 新たな罪が増えようと構わない。逃げればいいだけだ。もしくは『善良な男爵』を利用して誤魔化せばいい。
 蹴り飛ばされた男は床にうずくまった。
 ディアは大きな歩幅で近づく。
「待て!」
 追ってきた男たちを肘打ちで払いのけた。その間に元凶が起き上がり、定まらない瞳でディアを見上げる。だが容赦しない。そのままもう一度、蹴りを入れる。
「お前か。私をこんなところに無理やり連れてきた馬鹿は」
 予想通り、海で会った男だった。彼はまだ咳き込んでいる。
 ディアを捕らえようとした男たちは迫力に呑まれたようだ。立ち尽くして動けないでいる。誰が見ても、ディアが男を虐待しているような構図が出来上がる。男はまだ咳き込んでいた。
「何をしているのだっ?」
 咳き込む音だけが響くエントランスに、他の音が響いた。
 怒りの形相のままディアは振り返る。
 二階から顔を見せていたのは潰れたような身長の老年男だった。彼はディアの迫力にたじろぐ。しかしそこは年の功か。直ぐに持ち直し、階段を駆け下りてくると、咳き込む青年に駆け寄った。
「なんだ、お前は」
 ディアは眉を寄せながら、自身の前に立ち塞がった老人を見つめた。
 まるまると太っている。走るより転がった方が早そうだ。
 唐突に転がしたい衝動が湧いたが、ディアは耐えた。
「私の息子にこのような仕打ちをするからには、相応の覚悟と理由があるのだろうな!」
 なるほど。この男が男爵なのか。
 理解して納得した瞬間、ディアは我に返った。
 よりによって誤解される場面を自分で増やしたことになる。今回に限っては誤解ではないが、それでも馬鹿か自分は、と自身の行動を呪う。どうすればいいかと気持ちが焦る。
 男爵はディアに背を向けると「大丈夫か?」と青年に声をかける。衣服の乱れを丁寧に直し、心配そうな表情で頭を撫でる。その様子を見るだけで甘やかしていると知れる。もしかしたら1人息子なのかもしれない。
 青年が立ち上がると同時に振り返った男爵は、その場にまだディアがいたことに腹を立てた。禿げ上がった頭のてっぺんまで真っ赤に染める。
「早く投獄しろ!」
「ま、待てよっ。私の話も」
「悪人の話など聞く耳持たんわ!」
「なんだとこのデコハゲ!」
 売り言葉に買い言葉。反射的に怒鳴りつけたディアは顔をしかめた。男爵はまるで痙攣でもしているかのように小さな体を震わせてディアを睨みつけていた。その目の端には涙が溜まっている。正面にいるディアにしか分からない悔し涙だ。
 怒り心頭といった次第の男爵が大きく息を吸い込んだ。次に予想される大音声に、ディアは顔を背けて耐えようとした。これ以上、恨まれる要素は作りたくない。
 だが、その男爵の口を塞いだのは、立ち上がった青年だった。
「血管が切れるぜ、親父」
 彼は父親の勘気を鎮めようと、ポンポンと頭を叩く。彼よりも背の低い男爵は、青年を見上げて渋面を作った。
「しかしガラフ……」
「俺なら何ともない。この女に用があって呼んだのも俺だ」
 “女”との言葉に、男爵ばかりかディアの目まで丸くなった。しかしディアは直ぐに納得する。この男には、海に潜ったときの軽装を見られていた。思い出せば苛立ちが増す。
「女……」
 周囲の注目に気付いたディアは歯軋りする。ひとりひとりを睨みつける。誰もが視線を逸らす。勇気のない男たちを、ディアは内心で罵倒した。
 そんな様子を、ガラフと呼ばれた男はニヤニヤと笑いながら見ていた。
「そうしていると、まるで女には見えねぇな」
 いつの間に詰め寄られていたのか。顎を持ち上げられる。至近距離で視線が合った。彼には揶揄る表情しか浮かんでいない。
 おぞましさに振り払い、逃れる。青年から距離を取る。ガラフは無理に追いかけようとはしなかった。
「私をここへ呼んだ理由を話せ」
「お前を連れに行った奴が言わなかったか。俺に乱暴を働いた罪だ」
 ディアの眉が上がる。怒声を浴びせる前に、男爵が口を挟んだ。
「ガラフ。それなら警備隊に突き出せばいいではないか。なぜこの屋敷に連れてくる必要があるのだ」
 意外な正論にディアは口元を綻ばせる。男爵を褒め称えたくなった。
「警備隊に突き出したら、もう手出しできないじゃないか。突き出すのは、俺の用が終わった後でいい」
「……そういうのを下衆というんだ。私に罪があるなら警備隊に渡せ」
 もちろん警備隊に渡されたら無罪放免だろう。これは単なる嫌がらせなのだ。
 ガラフは聞く耳など持たない。ディアの剣に目を留め、取り上げた。容赦ない力だ。剣を腰にとめておくための紐が力任せに引き千切られる。剣は鞘ごと取り上げられる。ディアが逃れられなかったのは、周囲に男たちがいたからだ。
「返せ!」
 取り返そうとしたディアの前で、ガラフはそれを背後の男に投げ渡した。目で追いかけたディアはガラフの脇をすり抜けて向かおうとする。しかし腕を取られた。足止めされた隙に、男は剣を持ったまま退場する。奥の扉に消えた。
 成り行きを見守っていた男爵はガラフの行動にため息をついた。
 それは諦めを含む、“仕方ないな”といった意味のため息だった。
「やり過ぎると、王都から咎めが来るぞ」
「はん。ばれるもんか」
 剣に意識を向けていたディアは、その会話に眉を寄せる。ガラフの意図が朧気ながら理解できた。彼の腕を振り払う。
「訴えるぞ」
「俺は男爵家の嫡男だぞ? お前の言葉など、誰が聞くものか」
「はっ。お前が権力を振りかざせるのもこの街だけだ。私が然るべき場所に通報すれば、お前は必ず罰せられる」
「まぁやってみてもいいけど。外に行く頃には、訴えようなんて気は起きなくなってるかもしれないぜ?」
 ディアは絶句した。
「お前が連れていた女も綺麗だったが、俺はお前にも興味がある」
 ガラフの手が伸びてくる。嫌悪を持って叩き払った。ここから逃げなければ、という思いが強くなる。ディアは踵を返した。入ってきた扉は直ぐそこだ。幸いにも扉とディアを結ぶ直線上には誰の姿もない。
 勢い込んで扉を開こうとしたディアだが、扉はガチリと嫌な音を立てて動かなかった。勢いを殺せず激突したディアは顔をしかめる。どうやら鍵がかけられているようだ。急いで探すと、取っ手に鍵はなく、扉上部と下部、そして取っ手の直ぐ下には小さな閂がかけられている。ずいぶんと頑丈な扉だ。
 扉の開錠には時間がかかる。
 即座に判断したディアは扉からの脱出を諦めた。壁に沿い、廊下を走り出そうとする。窓から飛び出そうと思った。しかし、いつの間にか出口付近には先ほど退出した男が立ち塞がっていた。その手に剣はない。
 たたらを踏んで迷ったディアに、死角から誰かの手が伸びた。取り押さえられる。振り返ったディアは御者を見る。失念していた。羽交い絞めにされて喉を反らせる。
 体全体を使って振りほどこうとしたが、なかなか外れない。そうしている間にガラフが近づいてきた。触れるのなら相応の覚悟をして貰おう、と瞳に剣呑な光を宿す。悔しさに唇を噛み締める。
 だが、近づいてきたガラフはまず両手の拘束を解いた。
 何のために、と眉を寄せたディアに、一瞬の隙が覗く。
 ガラフはディアの片腕をつかんでひねった。ディアの体が自然と反転する。腕を背中にひねられ、肩に痛みが走ったディアは必死で悲鳴を噛み殺した。この男を喜ばせるだけの声など、誰が上げてやるかと力を込める。
「気の強い女は好みだ」
「誰がお前の好みを聞いてるか!」
 ディアを羽交い絞めにしていた男が静かに離れた。いつの間にか男爵の姿はない。部屋に引っ込んだのだろう。
 悔しさに歯噛みしていると、先ほど離れたと思っていた男がディアの片腕をつかんだ。もう片方はガラフにひねられているため、ディアは再び両手の自由を失う。そのまま背中を押され、強制的に歩かされた。
 今のままでは勝ち目がない。せめて男が離れるまで待つことにする。
 ディアは痛みを堪えながら案内に従った。ガラフの目的が読み通りなら、そのときにはガラフと二人きりにさせられるはずだ。
 考えれば腹が立つことだがどうすることもできない。女であることを知られてしまったことが悔やまれた。
 ――だいたいだな。私に手を出そうだなんて、どういう神経してるんだよこいつ。セイのような美少女……って男だけど、ならまだしも、私なんて正気じゃないんじゃないか? ああ、それともあれか。ゲテモノ好きか。
 自分で思っておきながら少し傷ついた。
 最近はこういう経験がほとんどなかったため、ガラフがなぜ自分に興味を示したのか分からない。背がぐんと伸びたため、自分は男たちの興味から外れたのだろうと思っていた。
 ディアは本気で悩んだ。
 女として声をかけられなかったのは、ディアが男と思われるような言動を取っていたためと、色気のない旅装をしていたからに他ならない。普通に街娘として歩いていたならセイと同じくらい注目を浴びるだろうことをディアは知らない。長い旅暮らしで目つきが鋭くなっていることは隠せないが、迫力のある美人として射抜かれる人は多いだろう。
 ディアは階段をのぼった。ずいぶんと歩く。さすがは貴族の屋敷か、間取りが広い。
 道順を頭に叩き込みながら進んでいくと、ディアは二階の、とある部屋に入れられた。後ろからはガラフと、男も入ってくる。
 ディアの両手を再び前に固定し、縄で縛る。男は部屋から出て行った。
 部屋に残されたのは、両手を拘束されたディアと、ガラフ。
 男が出て行った瞬間にもディアはガラフに足技を仕掛けた。だが、ガラフにはあっさりと受け止められた。先ほどはこれが完璧に決まっていたのに。その反射神経に少し驚く。
「そうそう何度も蹴られちゃたまんねぇ。少し注意してれば、ディアの攻撃パターンは単純だからな」
 言われて頭に血がのぼる。つかまれたままの足を振り払おうとしたが、バランスを崩して床に倒れた。好機とばかりにガラフが覆いかぶさってくる。
「ふざけるな!」
「だめだめ。貴族ってのは、たしなみとして武道を教えられるからな。今までも結構、役に立ってる。覚えるのはなかなか辛かったが、今じゃ親父に感謝してる」
 ディアの顔が怒りに染まる。
 おのれあの親父。やはり転がしておけば良かった!
 後悔先に立たず。悔しさに歯軋りしながらディアは睨みつける。
「何が目的なんだ!」
「目的なんて、決まってるだろう?」
 腕を床に押さえつけられる。本気で危機感が湧いた。仮にも男爵の息子だと遠慮する必要はなかったらしい。最初から全力で倒しておけば良かった、と冷や汗が流れる。
 床に組み伏せられて見上げると、ガラフは嫌な笑みを浮かべていた。ディアが何の反撃もできないと悟っているのだろう。
「あんたをここに連れてくればセイも来ると思ったし。セイがいなくても、あんたは俺の好みだしな」
 勝手な言い分に目の前が赤く染まるほど怒りを覚える。
「さて」
 何が「さて」なのか。
 ガラフは怒り心頭のディアを見ながら笑い、体を屈めた。
 罵ろうとしていたディアの思考が止まる。
 口付けられていた。
 白く染まった脳裏にセイの姿が浮かぶ。押し付けられた唇の感触が気持ち悪い。セイの姿はかき消され、ガラフの感覚が胸に染み込んでいく。口内に侵入しようとする熱いものを感じる。
 熱をまとっていた体が瞬時に冷えたように感じた。瞳を細める。
 火事場の馬鹿力とは、このことだろう。
 ディアは自分と同等であろうと思われる体重のガラフを全力で蹴り上げて反転した。腹ばいでガラフから逃れる。伸びてきた手を振り払って体を屈め、体当たりの要領で肘打ちする。
 ディアにとって、手首を縛られていても腕さえ動けば充分だった。組み伏せやすいように両手を前に縛り直したガラフの誤算だ。もともとの身長差も手伝い、手加減を忘れたディアの攻撃に、ガラフは軽々と吹っ飛んだ。壁に叩きつけられて咳き込む。
 突き飛ばしたディアは結末を見ぬまま扉に走り、開けようとした。だが、取っ手をひねっても開かない。外から鍵がかけられているらしい。周到なことだ。
 舌打ちし、部屋を見回しているところを再びガラフにつかまれ。ディアは彼の勢いを利用して体を反転させた。ついでに蹴りも見舞って肩を怒らせる。何かを考えている余裕もない。単なる衝動だけで逃げ続ける。
 ふと胸に湧いたセイの姿に唇を噛み締めた。ディアは窓を見る。さほど大きくはないが、通り抜けるには充分な大きさの窓だ。
「ここは二階だぞっ?」
 ディアの意図を理解したガラフが叫んだ。だがディアは見向きもしない。ためらうことなく跳躍し、背中から窓に体当たりした。強化ガラスではない。薄い窓はあっさりと砕ける。ディアは勢いを殺すことなく外に飛び出した。
 ――こうでもしなきゃ、セイのところに戻れない。
 ディアにとって二階から飛び降りることは恐怖でも苦痛でもない。実家にいた頃は男に混じって遊び、どれだけの高さから飛び降りられるか、高さを競ったこともあった。旅をする中で、先ほどのようなことも無かったわけではない。
 だが、どれも五体満足に動けることを大前提としている。両手を縛られ、バランスを取ることが難しい状態で飛び降りるのは不安だらけだ。
 地面に着地する際、わずかにバランスを崩して倒れた。足を軽くひねる。両手を地面に着くと、割れた窓の欠片で傷をつくる。痛みは感じない。
 ――早くこの場を離れないと。早くセイと合流しよう。ああいう奴が権力を持つと、逆恨みで何をしてくるか分からない。
 戒められていた縄を、歯で解こうとする。硬い結び目はなかなか解けない。力加減を誤って肌を噛む。血が滲むのを確認し、目頭が熱くなった。
「くっそ」
 舌打ちしてもう一度挑戦する。今度は解けた。
 小さく溜まっていく苛立ちのなか、小さな笑みを見せたディアは、立ち上がろうとして顔をしかめた。
 巡回の者たちに見つかった。
 彼らは不審な顔で近づいてくる。しかし大声を上げて援護を呼ぼうとしないのは、ディアの情報がまだ彼らに回っていないからか。好都合だ。
 ディアは彼らが充分に近づいてくるのを待ってから、反撃を開始した。