彼女の罪状

【二】

 不審そうな表情で寄ってきた巡回の者たちを、ディアは容赦なく叩き伏せた。これまで溜めていた鬱憤晴らしの意味も兼ねている。援護を呼ぶ間も与えない。
 ディアは騒ぎを大きくすることなく、無事に街に戻ることができた。
 屋敷から離れるに従って平常心を取り戻す。頭にのぼっていた血も下がってきたようだ。いつも以上に不機嫌な雰囲気を醸すのは当然の権利。乱暴に口許を拭って街を眺める。
 セイがどこかにいないかと捜す。
 ――まだ酒場にいるだろうか。それとも宿に戻ったか。
 強制連行されてから今まで、それほど長い時間ではないはずだ。セイが黙っているとは思えないが、世間知らずだから何をしたらいいのか分からず右往左往している可能性は充分にある。まだ酒場にいるかもしれない。
 足を止めて考えたあと、やはり酒場に行くことにした。
 薄闇が支配する黄昏時。先ほどまで活気に溢れて見えた街は、どこか沈鬱に塗り替えられていた。通りを歩く人の流れは寂しいものだ。このまま街を出れば野宿しかないと分かっていても、このまま直ぐに街を出発したい気分だった。
 目指す酒場からは明かりが洩れていた。薄闇の路地に喧騒が響きだす。静寂に包まれようとする世界の中で、まるでここだけが別世界のように輝いている。
 酒場の扉を開けると、真正面にいたマスターが驚いたような顔をした。ディアはそれを確認しただけで酒場を見回す。鮮やかな金髪は一目で捜し出す自信があった。しかし見つからない。
 宿か、役場か。
 踵を返そうとしたディアは、入口付近にいた男に引き止められた。
「あんた!」
「……なんだよ?」
「良く無事だったなぁ!」
 赤ら顔で見上げてくるのは見覚えのない顔。だがその言葉から、連行された場面を見ていた者だと分かる。あれから今までここで飲んでいたのだろうか。
 気付けば、酒場全員の視線がディアに向けられていた。
 ガラフへの関心が高いのだろうと鼻を鳴らす。興味はない。今はセイのことを考えていたい。
「あんた、ええと、ディアさん!」
 つかまれた腕を振りほどいたとき、カウンターを抜けたマスターが声をかけてきた。
「良く戻ってこれたよ!」
「……蹴り飛ばして逃げてきたからな」
 面白くない気分で告げると人々は目を丸くした。
「良くやった!」
「あの男を!」
 爆発したかのような喝采を浴びせられる。ずいぶんな賞賛ぶりだ。そこまで彼の悪評は高いのかとディアも驚く。
 歓喜に湧く人々の中、マスターだけは渋い顔でディアを見上げた。
「お嬢ちゃんには会わなかったのかい?」
「セイか? 会ってないが」
 嫌な予感が胸を掠める。マスターの口振りはまるで、不吉な影を落とす前兆に思える。
「あんたは男だし、大丈夫だと言ったんだよ。だけど聞かなくてねぇ」
 ディアは苦笑した。体の線を見せない服に身を包んだ今では、マスターの言うように、誰も女だと気付かない。だから面倒も起こらなかった。それなのに今は。
「乗り込んで行ったのか?」
 マスターは大きくため息をついたあとに頷いた。
 セイの慌てふためく様子が目に浮かぶようだ。何の策も持たずに乗り込めば門前払いだろう、と肩を竦める。世間知らずなところは予想通りだが、積極性は意外だった。
「あんたは早く逃げた方がいいよ。きっとガラフは返してくれないだろうさ。あれだけの美人だ。ほとぼりが覚めた頃に、またおいでよ。その頃にはお嬢ちゃんも解放されてるだろうからさ。あんたにも辛いだろうけど、それが一番お互いの」
「あいつはそんなんじゃない!」
 ディアは遮って叫んだ。セイとの関係を訂正しようとも思わない。酷い言い草に腹が立つ。セイの心配そうな顔が脳裏に浮かぶ。
 更に言えば、セイが本当に女性であったなら、尚更ガラフのような男に任せておけるわけがない。人道に外れている。
「男爵のところだな」
「正気かいっ?」
「当たり前だ」
 マスターは自分の発言を悔いた様子を見せたが、ディアを引きとめようとした。だが他の客がマスターに呼びかけ、彼が振り返った隙に、ディアは素早く酒場から出た。気付いたマスターは手を伸ばそうとしたのだが思いとどまる。首を振りながら持ち場に戻った。
「惚れた女のためなら当然さぁ!」
「旅人なら気にする必要もないだろ。俺らの分まで男爵をめっためたにのしてくれりゃあ最っ高よ!」
 酔った客たちは口々に勝手を言い出す。
 マスターは彼らを眺め、出て行ったディアを想うように瞳を細めた。


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 ディアはそびえる屋敷を見上げながら首を傾げた。
 結局この屋敷に戻ってくることになった。
 逃げるときは何も考えていなかったが、そういえば、剣もこの屋敷に預けていたのだ。遠からず戻ることになっていた。丁度いいと考えよう。
 正面から行くか、回りこんで行くか。
 最初に連行されたときは馬車に乗っていたため、屋敷の入口まで何の障害もなかった。しかし今は、屋敷を囲む塀よりも内側にすら入れない。門のところに衛兵がいるのだ。男爵家の私兵ではなく、役場から派遣されてきた正式な衛兵だろう。一定以上の貴族たちには必ずこういった兵がつけられる。
 騒ぎを起こしたくないと考えるなら回りこんでいくのが定石。突破することもできなくはないが、労力を考えるのならやはり定石を取った方がいい。
 二階から落ちるときにひねった足を感じ、小さく眉を寄せる。
 ディアは少し考えたあと、屋敷の周囲を窺った。
 空には完全な闇が広がっている。屋敷には明かりが灯され、人の気配を感じさせた。部屋数はかなりある。だが、明かりがついている部屋は少ない。明かりのついた部屋のどこかにセイがいると考えられる。
 ディアは憮然とため息をついた。
 ――あいつは男だ。何かして驚くのはガラフの方なんだがな。
 胸の燻りを感じながらそう思うが、体は屋敷に向かう。そのような場面は想像したくなかった。考えただけでガラフを殴りたい衝動に駆られてしまう。
 屋敷を一周しようとしたが、屋敷の裏は私有地のようだ。柵が立てられていた。飛び越えようとしたが、土が軟らかいことに気付いて諦める。足跡を残しては何を言われるか分からない。更に言えば、私有地は畑で、成りかけの農作物を荒らすのは気が引けたということもある。
 屋敷の門まで戻ったディアは、反対側を見た。明かりのついた部屋は西側に集中しているようだ。そちらに忍び込む方が効率がいい。
「じゃ、そういうことで。さっさと、セイと剣を返してもらわないとな」
 ディアは発破かけるように呟いた。巡回の者たちが通り過ぎた頃を見計らって塀に手をかける。高いだけの塀ならばディアの障害にはならない。塀をよじ登って侵入するなど慣れたものだ。ディアは易々と侵入に成功した。
 ひとまずの目標として、脱出に使った部屋を探そうとした。破った窓がそのままなら、そこから屋敷に侵入できるかもしれない。二階ではあるが、今は他に手段が思いつかない。
 ディアは巡回兵に見つからぬよう注意しながら壁伝いに進んだ。
 しばらく進むと声が聞こえてくる。ひどく小さく、言葉も聞き取れない。
 なぜそれがセイの声だと確信できたのか、良く分からない。
 ディアは勢い良く顔を上げた。
 明かりが洩れる部屋の中、窓が開いている部屋は1つだけだった。今も声はボソボソと聞こえてくる。最初ほどの確信はないが、恐らくセイはその部屋にいるだろう。
 彼はやはり屋敷に乗り込んでいたのだ。ディアは複雑な心境だった。
「三階か……」
 苦く顔を歪める。さすがに無理を悟る。
 どうしようかと首をひねった。無難に一階の窓を破って行こうかと思ったが、それでは時間がかかりすぎる。捕まる危険性も高い。こうしている今も巡回が戻ってくるのではないかと用心しているのに、悠長に階段など使っていられない。中に入っても、階段を探している時間が惜しい。目的の部屋を見つけられるとも思えない。
 ディアは侵入に使った塀を見た。だがそれに登ったとしても、屋敷まではかなり離れているため、飛距離は圧倒的に足りない。近くには手ごろな樹木もない。
 次に、視線を塀下の花壇に移す。そこには今の季節に合った観葉花が植えられている。
 何気なくそれらを眺め、もう一度セイのいるらしき部屋を見上げ、ふと思いついた。
「どうせ、いるのはセイとガラフだけだろう。間違ってもセイは避けるだろうし」
 行動は決まった。花壇に近づき、花壇を形作る大切な石を持ち上げる。結構な重さと大きさだ。ずしりとした重さが腕に伝わる。
 ディアは勝気な笑みを見せ、その石を力いっぱい放り投げた。
 ――ガラフに直撃すればもっと嬉しいんだが!
 目測誤らず、石は開いていた窓に吸い込まれるように消えた。中で大きな音がする。同時にガラフの怒声が響く。成功を悟ったディアは笑みを浮かべた。
 見上げていると、ガラフが顔を覗かせる。
「お前……ディア!」
 ガラフの隣にセイも顔を出した。ガラフ同様に驚いた表情のセイだったが、それは笑みに変わる。
 早く逃げてこい、と口を開こうとしたディアは固まった。セイがそのまま身を乗り出したのだ。
「……待て」
 彼が何をするのか悟ったディアは、二撃目用にと構えていた石を捨てる。窓下に走る。ガラフの手から逃れて落ちるセイの真下に体を滑らせる。受け止めようとした。
 三階から落下したセイの重量は相当なものだ。受け止めきれずに仰向けになり、地面に倒れた瞬間、セイの膝が当たって骨が嫌な音を立てた。
 どうやらセイは1人で体勢を立て直すつもりだったらしい。ディアの行動に驚いていたが、間近でその音を聞いたセイは青ざめてディアの上から飛び退いた。
「衛兵!」
 窓からガラフが怒鳴る。巡回していた兵が直ぐに駆けつけてくる。
「ディア!」
「聞こえてるって」
 ディアは倒れ、瞼を閉ざしたまま苦笑した。痛みに涙が出てくる。セイの袖をつかむとその上から手を重ねられる。強く握りこまれた。その温かさにようやく安堵する。
 瞳を開けて、笑顔を見せた。
 セイの視線がディアの手に移り、手首に残された赤い縄跡に眉を寄せた。ガラフを睨む。その視線を追いかけて、ディアもガラフを見る。最初こそ驚いたような表情をしていたガラフだが、その表情は次第に余裕のあるものに変わり、今では睥睨するように見下ろしていた。ディアは奥歯を噛み締める。
 その視界を遮るように、駆けつけた衛兵が横から手を伸ばしてきた。乱暴に立たせようとする。走った激痛にディアは思わずうめき声を上げた。
「ディア!」
 青い顔のまま、セイは乱暴に衛兵たちを引き剥がした。剣を突きつけられても動じない。いつもより険しい顔つきで衛兵たちを見据える。
 セイのそんな姿に衛兵たちは動じたが、主が上で様子を見ている以上、命令に背くわけにはいかなかった。セイを傷つけてでもディアを捕らえようとする。
 そんな行動にセイは眉間の皺を深めたが、動く前にディアが起き上がった。脇腹を押さえながら顔をしかめる。動こうとしたセイを伝って立ち上がったため、セイは衛兵たちに抵抗するわけにもいかず、その手はディアを支える。
「無茶しないで下さいっ」
「それは私の台詞だ」
 ディアは息を詰めるようにしながら吐き出した。
 セイさえ飛び降りなければ、このような怪我はしなかった。
「中へ連れて来い」
 ガラフの声が降ってくる。
 ディアとセイは睨みつけようと顔を上げたが、その時にはガラフの姿はもうなかった。階段を使って下りてくるのだろう。衛兵たちはガラフがいなくなったことにやや安堵した様子を見せ、大丈夫か? とディアに囁く。
「なんなんですか、貴方がたは!」
「あー、肋骨一本いったなぁ……」
 セイの怒声を聞き流しながらディアは呑気に呟いた。脂汗が滲んで視界が霞む。乾いた笑いしか零れない。いつ意識が飛んでもおかしくないと感じた。セイの袖をつかんでいることも忘れたまま歩き出す。
「ディア。歩いても大丈夫なのですか?」
「あー、大丈夫……」
 先ほどから覇気のない声ばかりが続いている。いつものディアからは考えられない声だ。心配そうなセイにディアは安心させるような笑みを浮かべた。セイは納得いかない顔をしたが、心配のし過ぎは却ってディアを追い詰めるのかと悟って顎を引いた。
「では、こんなところからは早く離れましょう。お医者さまに診てもらわないと」
「いや。私の剣がまだ中にある」
 セイにしては珍しくきっぱりと嫌ったものだ。
 その意見にはディアも大賛成だが、もう1つの目的をまだ達していないため、乗るわけにはいかない。痛む脇腹を押さえながら屋敷の玄関に向かう。だがセイに止められた。眉を寄せて振り返れば、セイは衛兵たちに険しい顔を向けていた。
「貴方たち。ディアの剣を持ってきて下さい」
 ガラフの私兵である彼らが従えるはずもない。かすかに眉を寄せてセイを見つめるだけで、動こうとしない。セイは焦れて彼らの背中を押す。ディアが止めた。
「無茶言うな」
「無茶してるのは貴方です! 私たちには何の咎もないではないですか。なぜこのような仕打ちを受けなければいけないのですかっ?」
「仕方ないだろ。相手が男爵家のご子息ならさ」
「身分の問題だというんですかっ?」
「いや、そりゃ私だってこんな理不尽なこと嫌だけどさ。今はあのガラフを蹴り飛ばせるほどの体力もないし」
 怪我をしていなかったら強行突破で剣を取り戻すことも考えるのだが。いや、あてつけに屋敷全壊を目論むかもしれない。もう少し骨を鍛えておくべきだっただろうか。
 そんなことを考えていると、不意に体が浮いた。なに、と思う間もなく視界が回る。金髪が近くで揺れた。ようやくセイに抱えられたのだと知った。
 ディアを軽々と抱えたセイに、衛兵たちは目を丸くした。
「セイ? 私は大丈夫だ。下ろせ」
「見ていて私が大丈夫ではないから嫌です」
 そう来たか。
 下りかけたディアをあっさりと拒否したセイはスタスタと歩き出した。
 衛兵たちは慌てる。セイの両脇について歩き出した。
 抱えられていること自体に恥ずかしさを覚えるディアだが、無理に動こうとすると痛みが走るため、大人しくした。ここで無理をして、折れた肋骨が肺に刺さったりなどしたら、それこそ酷い状態が待っている。
 ディアは恥ずかしさを我慢し、甘んじてその行為を受け入れる。疲れたようにセイの肩に頭を乗せた。これがガラフであれば、危険でも何でも離れようとするだろうが、セイは既に自分の安全圏に入っているらしい。不思議な気分だ。
 屋敷の正面に回ると、玄関の大きな扉が開かれた。扉の向こう側にはガラフがいた。待ち構えていたらしい。どこかの王様のように傲然とした態度だ。
 ディアは彼の顔も見たくなくて、セイの肩に頭を乗せたまま、黙って瞳を閉ざした。ガラフはセイがディアを抱えているという事実に目を丸くして驚いたようだが、その表情は直ぐにいつものニヤけた顔に戻った。
「よう。戻ってきてくれて嬉しいぜ」
「剣さえ渡せば直ぐに出て行く」
「ガラフさん。ディアの剣を返して頂けませんか」
 三者三様の空気が漂う。それぞれ我の強い三人は気にしない。
 もちろんガラフが素直に剣を返すはずもない。ディアは仕方なく力で奪い返そうとセイから下りようとしたのだが、それは許されなかった。
「返す必要はないな。お前らは今日からここに住むんだから」
 どこか勘違いしているようなガラフにディアは唇を歪める。笑い話もいいところだ。
 セイは笑いこそしないが、困ったような表情でガラフを見ていた。
 笑われたガラフはそれほど気分を害した様子もなく、黙って二人に近づく。
「俺はセイよりもあんたの方が気に入ってるんだがな。やっぱり女は、顔だけじゃなくて気の強い方が好みだ」
「誰がお前の好みなんて聞いてるか」
 しかしどこまでこいつはセイを女だと勘違いしているのだろう。ディアは吐き捨てながら鼻の頭に皺を寄せる。
「それより剣を早く返して頂けませんか?」
 セイはあっさり聞き流した。ガラフは気にしない。腰に手を当て、遠くからディアを覗き込むようにして笑う。
「さっきはキスまでで逃げられたが……もう逃げられるとは思わないほうがいいぞ?」
 ガラフの余計な言葉にディアは硬直した。同時に、自分を抱える腕の力がわずかに強まった気がした。この言葉も聞き流せよと強く思ったディアだが、そうはならなかったらしい。恐る恐るセイを見上げてみればいつもと変わらない表情がそこにあった。だが今はそれが恐ろしい。彼の視線はガラフに向けられたまま。
「……ディア?」
「ふ、不可抗力だ!」
 思わず叫んだディアは痛みに顔を歪める。なぜこんなに焦らなければいけないんだろう、と頭の隅で思う。
「二股が嫌だと言うなら、セイは見逃してやってもいいな。俺は寛大だから」
「お前黙れ! もう黙れ!」
 寛大の意味が違う! と真っ赤な顔で怒鳴りつける。脇腹が酷く痛む。
 これ以上、余計なことを言い出される前に何とかしなければ。
 ディアの頭上でため息が零れた。思わずディアは首をすくめる。
「私は男ですと……何度申し上げれば納得して頂けるのです?」
「またそんなことを。どこが男だって?」
 一蹴されたセイは腹を立てたように瞳を細めた。仕方のないことだとディアは思うが、セイは納得しないらしい。不機嫌そうにガラフを睨みつける。ディアを抱える力が強まる。
「それに……ディアは駄目ですよ。『俺』のですから」
 そんな言葉にディアは視線を上げた。しまった、と思ってももう遅い。
 抱えられて身動きが取れず、普段より近くにいたことも災いし、ディアは易々とセイの口付けを受ける羽目になった。それでも、ガラフよりは断然いいのだけれど。
 呆気に取られている周囲は完全無視の姿勢でセイは深く口付ける。
「ーーーーーっっ!!」
 恥ずかしさに顔を真っ赤に染めてセイを殴る。だが殴った分だけ衝撃が骨に響き、痛みが倍増する。それでも、セイに向けられるのはガラフとは全く違った感情だ。苦しさと痛みの中で抵抗を諦めると、ようやくセイは離れた。
「こ、の、野郎……」
 息も絶え絶えに呟くと、それはそれは憎らしいほどの笑顔が返される。
 その笑顔に、先ほどとはまた違う恥ずかしさに浮かんだ言葉は何だったのか。やっと新鮮な空気を吸うことを許されたディアにはそんなことを考える余裕もない。
「お前らいい加減にしろ!」
「うわっ?」
 怒声と共にセイへ繰り出された右ストレート。どうやら今の一件でガラフはセイを男だと理解し、完全なる敵だとみなしたらしい。
 ガラフの攻撃をしゃがみ込むことで避けたセイだが、抱えられていたディアは突然の無重力に悲鳴を上げて抱きついた。刹那、骨折の箇所が鋭い悲鳴を上げる。ディアはセイにしがみ付いたまま息を呑んで体を強張らせる。脳天まで響く痛みに耳が聞こえなくなる。周囲の声は完全に断たれた。
 意識が遠のこうとするのを感じたが、ディアは必死で意識を保った。ここで気を失ってしまえばガラフがセイに何をするか分からない。意識を繋ぎ止めるようにセイの袖を強くつかむ。それ以外は弛緩させてもたれかかる。必要最低限の力だけで意識を保つ。視界に入る色にすら体力を奪われるため、瞼を閉ざす。
「ディア!?」
 セイの焦る声が聞こえてきた。痛みは徐々に引いていく。
「ああ、もう、早くディアの剣を返して下さい! 医者に診せないと……っ」
「必要ない! お前が男だというなら尚更だ! ディアを置いて失せろ!」
 ガラフの怒鳴り声も聞こえる。
 失せるのはお前だけで充分だ、とディアは意識の底で反論した。
「ディアは私のです!」
 人を勝手に物扱いしないで欲しい。
「俺は男爵の息子だぞ!」
 そういう奴に限ってろくな奴はいない。
「不敬罪として連行することも出来るんだ!」
 最低だな、と思いながらディアは瞼を開けた。色が飛び込んできて頭が痛い。顔はまだ赤いだろう。セイの体温も手伝い、頬が異様なほど発熱している気がした。
 瞳にはセイの顔が映っていた。ディアはぼんやりと彼の輪郭を目で辿る。まるで剣の勝負を受けた時のように、セイは真剣な表情をしている。
「爵位は男爵ですか」
 不穏な空気。セイの瞳にはこれまで見たこともない剣呑さが孕まれていた。そんな顔から視線を逸らすことができない。
 ディアが見つめる中、セイはディアに気付かぬまま口を開いた。