彼女の罪状

【三】

 セイはガラフから目を逸らすことなく静かに告げる。
「ディアが貴方に対する不敬罪で連行されるなら――」
 いや、あいつが連行するのは私じゃなくて間違いなくセイだから。
 感じたこともないセイの空気に戸惑って突っ込みたかったが、折れた箇所が痛く、口を挟む隙もなかった。聞き流すことにする。
「貴方は私に対する不敬罪で連行されますよね」
 セイは微笑む。しかし剣呑な空気は緩まない。
 ガラフは意味が分からないように首を傾げた。ディアも同じだ。眉を寄せる。
 幾つかの注目を浴びながら、セイは笑顔を浮かべたまま淡々と続けた。
「私の父の爵位は“伯爵”です。“男爵”よりも爵位は上です」
 ディアは、そういえば、と記憶を巻き戻す。初めて会った時、確かにセイは「父が爵位を持っているから婚約者を勝手に決められて困っている」と助けを求めて来たのだ。すっかりと忘れていた。
 ガラフを見ると、彼は唖然とした様子でセイを眺めていた。それは周りを固めていた衛兵たちも同じだ。誰もが口を開けて信じられないように見つめている。しかし、心持ちセイから体を一歩引いている。権力に弱い人間とは素直である。
「そ、そんな戯言、誰が信じるか! 嘘でも伯爵を名乗るなど……」
 ガラフは戸惑ったまま叫ぶ。プライドの高い人間ほど自分より上の存在を認めたくないものだ。
 さてどうするのかと、ディアは皆を視線だけで眺めた後にセイを見た。今まで共に過ごして来た中で、彼が家紋を持ってきた様子はなかった。もっとも、そんな物をもしも持ち歩いているとしたら、金輪際縁を切りたいと思う。
 セイは首を傾げて「証拠?」と微笑んだ。その笑顔に裏を感じたのはきっとディアだけではない。
「私はドーラル=ラミアスの息子、セイ=ラミアスです。ラミアスに連絡を取って頂ければ直ぐに分かりますよ。もし真偽を確かめたいと仰るのなら、私の署名を最後に入れて、父に緊急を要しましょう」
「ラミアス……辺境伯……?」
「ええ、そうです。良くご存知ですね」
 笑顔で頷く所に寒気がした。
 ディアはどこでこんなに性格を曲げさせてしまっただろうと一瞬だけ嘆いたが、この性格は元からだったかと思い直した。ああ、見事に騙された。
「ああ、けれどラミアスまで伝令を飛ばすのにも時間がかかりますよね」
 いかにも「今思い当たりました」とでも言いたげな口調だった。ガラフは色々と衝撃を受けているのか完全にセイのペースに巻き込まれている。「ああ」や「うん」という相槌を打つことしかできなくなっている。
 旅をしていたディアは知らないことだが“ドーラル=ラミアス伯爵”といえば結構な有名人だった。その息子たちについては常に噂にのぼる程だ。いわく、“異国民と婚約を結んだジェン=ラミアス”や“女神のように美しいセイ=ラミアス”といった噂だ。
 ガラフの脳裏に埋もれていた記憶が掘り起こされる。そしてようやく、目の前のセイと記憶が繋がろうとしていた。そんなガラフの様子に追い打ちをかけるようにセイは説明する。
「辺境伯とは俗称なんですけどね、異民族と国境を接して独自の軍を擁する伯爵のことを指すんです。辺境伯の家系からは優秀な軍人も生まれやすいとご存知ですか。血の成せるわざですね。中央の侯爵家へ、軍人見習いとして奉公に出されることも多いんです」
 因みに侯爵とは伯爵よりも爵位が高く、正騎士団将軍をよく輩出する、これまた軍人家系である。つまり伯爵にも色々と特性があるのだが、その中でも軍人傾向の強い“辺境伯”と、中央軍を指揮する“侯爵家”は懇意の仲なのだ。
 ディアは、何となくだが、セイが何を言おうとしているのか見えた気がして笑みを浮かべた。おかしさが込み上げてきた。
「侯爵家へ軍人として奉公に出るほどの辺境伯の息子だという私は、とうぜん男爵家の息子である貴方よりも剣術に優れていなければいけませんよね。ですから、ラミアスへ連絡を取らなくても、いまここで私と貴方が打ち合ってみれば何が正しいのかハッキリする訳ですよ。ね? そうでしょう?」
 セイの口調から、この『剣勝負』こそが真意だと分かる。侯爵家だの伯爵家だのは勝負を持ちかけるために必要な、ただの材料と化してしまっている。
 温厚で争いごとを好まないセイ。
 そんな彼がここまで闘志を露にして誘うのを初めて見た。それほどガラフに対して怒りを覚えているということだろうか。嬉しいという言葉よりも、ディアはむず痒いという言葉が当てはまる気がした。
「いいだろう」
 ガラフが勝負を呑んだ。瞬間、セイは安堵したように満足げな笑みを浮かべた。ガラフはまだ半信半疑でセイを睨んでいる。彼の中では既に答えが出ているのかもしれないが、敢えて勝負を呑んだのは、彼のプライドゆえか。
 ディアは成り行きを見守りながらそう思った。視界の端でガラフが背中を向け、離れて行く。決闘の場を用意しに行ったのか、準備を整えに行ったのか。
 セイの視線がようやくガラフから外れてディアに移る――その瞬間、セイは動揺したように瞳を瞠った。どうやら今までディアは気を失っていると思っていたらしい。
「何だよ」
 セイは何度か口を動かしたが、言葉にならなかった。非常に動揺を含みながらようやく声を出す。
「いえ、だって、あの……ディア。今までの会話、全部……聞いてました?」
 なぜ彼がこんなに動揺するのか分からない。首を傾げながら頷くと、セイは情けないような表情を浮かべて顔を背けた。
「おい?」
「……やだなぁ」
「何がだ。決闘はお前から持ち出したことだろう」
「違いますよ」
 そっちではなくて、と首を振るセイにますます首を傾げる。何をそんなに嘆いているのか分からない。痛みで頭が回っていないのかもしれない。脂汗を浮かべながらセイを見上げていたディアは、その視線が恐る恐るだが自分に向けられるのを見た。
「……格好悪いじゃないですか」
「あ?」
 不本意そうに、小さな声で、セイは告げる。
 思わずディアは間抜けな声を上げた。いったいどこからそんな言葉が出てくるのか分からない。
「父の権威を笠に来て……ガラフと同じですよ。自分で何とかしたかったのに、あんな方法しか思いつきませんでした」
「……ちょっと床に下ろせ」
 ずっと抱えられたままだったディアは命令した。セイは言われるがまま素直に床に下ろす。手招きをされて屈み込む。そんなセイに、ディアは手を伸ばして彼の頬に触れ、そして頬に口付けた。驚くセイに、挑発的な笑みを向ける。
「ガラフなんかよりずっと格好いいよ、セイは。私はガラフよりセイが好きだ」
 面と向かって好きと告げられ、セイの顔が赤く染まった。
 対してディアは無頓着だ。照れるセイを前にして微笑むだけ。セイが子どものように思えて微笑ましくなった。
「……頬じゃなくて口の方が嬉しいんですけど?」
 いつもはディアが動揺しているが、今回は逆。セイは嬉しかったが悔しく思う。照れ隠しのように唇を尖らせた。
「お前が勝ったら考慮してやる」
 ディアにはあっさりとあしらわれる。
 丁度そのタイミングを見計らったかのように、無遠慮な足音が近づいてきた。
「いつまでやってる、この馬鹿ども!」
 忘れられていたガラフが怒鳴った。彼の手には剣がある。やはり準備をしに行っていたらしい。戻ってくるまでに繰り広げられていたその光景に、彼が切れるのも無理はない。衛兵たちは微笑ましい光景に緊張を解いてしまっている。
 セイは上機嫌でガラフを振り返った。可憐な美少女と見紛う容姿にガラフは歯軋りする。心のどこかでセイの言葉が本物だと理解してはいても、やはり血気盛んな男としての矜持と、男爵家の息子としての矜持がそれを否定する。セイのような軟弱な男に負けるなど許されなかった。周囲には男爵の息子として甘やかす輩しかおらず、逆らう者などいなかったため、初めての障害物に苛立っていた。
 それらはセイと剣を打ち合わせた瞬間にも霧散してしまうのだが、そうなるのはもう少し先のこと。
 ディアはゆっくりとその場に下ろされた。それでは行って来ます、と囁かれ、ガラフの元へ歩いていくセイの後姿を見つめた。行って来い、と心の中だけで返して瞳を細め、演技をやめた。
 平気なふりを装っていたディアだが、途中から限界を超えていたのだ。セイとの会話もほとんど覚えていない。そのまま意識を失った。


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 涼風にカーテンが揺れる。明るい日差し。カーテンが煽られる音。そして、何かが軋む音。
 ディアは瞼をあけた。
 高い天井が目に入る。ここはどこだと思いを巡らせる。
 左手の違和感に気付いて視線を向けると、そこにはセイがいた。彼は片手に本を抱え、もう片方の手でディアの左手を握っている。ディアが身じろぎするとセイは気付いた。目が合うと表情を和らげて本を閉じる。
「ここは?」
「気付かれましたか。良かった」
 嬉しげな笑顔だ。
 体を起こそうとしたディアは、セイに肩を押されて寝台に逆戻りした。
「絶対に安静ですからね。ディアはまだ熱が完全に抜けていないんです」
 言われて体の違和感に気付く。確かに、体全体がだるいような気がした。
「ここはガラフの屋敷です。ディアの怪我が良くなるまで、ここで静養させて頂きましょう」
 ディアは倒れる前のことを朧気ながら思い出していた。セイの笑顔をしばし見つめて視線を逸らす。
「……勝負は」
「もちろん、勝ちましたよ」
「ふーん……」
 視線を巡らせて部屋を眺める。寝かされていたのは広く清潔な部屋だった。窓から入る風がやや冷たくて体を震わせ、ふと気付く。
 セイが窓を閉めようと離れたのを横目に、掛けられていた毛布をめくって絶句した。
 胸から腹にかけて白い包帯が巻かれていた。上服は着ていない。むき出しの肩や腕。包帯を固く巻かれているが、裸同然だった。
 思わず固まるディアに、窓を閉めたセイが気付いた。
「包帯を巻いたのはお医者さまですよ。私はまだ何もしてません」
「あ、当たり前だ!」
 “まだ”という言葉は聞き捨てならないが、ひとまず無視してディアは叫ぶ。
「服! 服寄越せ! じゃなきゃお前、出て行け!」
 恥ずかしさに紅潮して叫ぶ。ディアにだって人並の羞恥心はあるのだ。
 だがセイはそんなディアの言葉に眉を寄せた。
 ディアは骨折のために倒れた。昨日の夜から朝にかけてずっと熱を出し、うなされていた。それをずっと看病していたのはセイだ。ガラフを追い出して一人で看病していたという裏はあるものの、ほぼ徹夜でセイが付き添っていたことに間違いはない。だが労いの一言もなく、この仕打ちだ。
 ディアにしてみれば倒れていた時の記憶がないのだからそれも分かるが、それでもセイは何となく癪だった。さっさと出て行けと訴える視線を綺麗に無視してその場に留まる。
「ディア。私のこと好きって言ってくれましたよね?」
「あ、ああ……そりゃガラフよりは……」
 ディアは布団を鼻の上まで引上げながら頷いた。よく覚えていないが、確かにそんなことを言った気はする。
 しかし、顔は赤いものの平然と答えたディアに、セイは納得がいかなかったのか首を捻った。ディアはひたすら「早く出て行ってくれ」と祈るのだが。
「酒場のマスターは好きですか?」
「そりゃ、貴重な情報源だからな。好きだが」
 いったい何を聞いているんだ。ディアは眉を寄せる。
 セイは間をあけた後、再び問いかけた。
「私の父は好きですか?」
「はぁ? どっちでもねぇよ、そんなに」
 何を聞かれているのか分からないが、セイの機嫌が落ちていくのだけは分かる。好きだと答えるのが悪いのだろうか。やはり自分にとってセイは未知の生物だ。訳が分からない。
「……では街でよく絡んでくる男たちのことは?」
「鬱陶しいから嫌いに決まってるだろ」
「じゃあ……盗賊?」
「金持ってる奴は好きだが」
 セイから笑みが消えた。
「私のことは!?」
「ガラフよりは好きだと言ってやっただろう、昨日!」
 急に身を乗り出されて叫ばれ、ディアも怒鳴り返す。その返答を聞いたセイは肩を落として落ち込んだ。椅子に座り直して溜息をつく。
 どうやら彼の中で何かが落ち着いたらしい。良くは分からないが、それよりも早く外に出て行ってくれ、とディアは願う。
 ふとセイが顔を上げた。今にも泣き出しそうなほど涙を溜めている。
「セイ?」
 そんな表情にディアは呼吸を乱して体を起こそうとしたが、やはり羞恥心が勝ってただ見つめるだけに留まる。
 セイは立ち上がり、ディアに身を乗り出した。
 何をするつもりだと思ったのも束の間、セイはディアの顔を覆う布団を剥ぎ取った。
「ぎゃあ!?」
 胸の露出は死守できたものの肩がむき出しとなる。
 この場合、いちいち気にしていたら身が持たないということになるのだろうか。セイを相手にした場合は羞恥心など捨て去れということだろうか。
 ディアは混乱して硬直したままそう思った。
「勝負に勝ったらキスしてくれるという約束、忘れてませんよね?」
「約束?」
 怪訝に問いかければセイの眉間の皺が深まる。
「……しました。勝負に勝ったら考慮すると、確かに!」
「セイ。重い」
 汗が吹き出てくるのは単に骨折のせいだけではないだろう。
 危険な雰囲気を感じ取り、ディアは抗議するが聞き入れられなかった。
「思い出してくれるまでどきません」
「分かったから! 思い出すから! 近寄るな!」
 心臓に悪いんだから、という台詞を省略したのが悪いのか、セイは一瞬だけ傷付いた様子を見せた後に微笑んだ。
「いいです、思い出さなくても。自分で手に入れますから」
 言葉を疑問に思う暇もない。
 剥き出しの鎖骨をなぞられたディアは心臓が破裂するんじゃないかと思いながら奇っ怪な叫び声を上げた。その隙に唇を奪われて深く侵入された。
 もはや何を叫んでいいのか分からない。
 ぎゃーという叫び声が脳内にエンドレスワルツを描く。もちろんワルツの相手はセイだ。キラキラと輝くような笑顔を浮かべ、リードしながら脳内を駆け回る。
 口付けは深まり、心臓の音しか聞こえなくなる。
 ようやくセイが体を離す頃には、ディアは半泣きで荒い呼吸を繰り返すしかできなくなっていた。
 潤んだ瞳と唇。
 ディアの下唇をセイが親指の腹でなぞった直後、彼の暴走は意外な所からストップが掛けられた。
「貴様、ディアに何をしている!」
 怒声が響くと同時に、何かが勢いよくセイの頭に直撃した。
 ディアに気を取られていたセイは避けることができなかった。クリティカルヒットを奪われて倒れ込む。その方向がディアの体の方だったりしたものだから、圧し掛かられたディアは苦しさに呻いた。
「……大丈夫か、セイ?」
 ディアは痛みを押して起き上がる。相当なダメージを負ったのかセイは小さな呻き声を上げる。珍しい姿だと思いながら、ディアはセイを直撃した物を見た。
 ディアの剣が寝台の上に転がっていた。ガラフに取り上げられていたものだ。もちろん今は鞘に収められている。少しの痛みもなく、拵えも飾りも、ディアの手を離れる前と変わりない。
 拾い上げたディアは言いようのない安堵感に満たされて吐息を洩らした。
 どこからこの剣が、と視線を巡らせ、扉の前にガラフが立っているのを見つけた。
「ガラフ……」
 思わず体が固くなる。そんなディアを見たガラフは苦笑する。
「もう何もしねぇよ」
 殊勝な態度だ。ディアを見る目もどこか以前とは違っている。
 ディアは少し意外に思って双眸を瞠らせたが、深くは追及しないことにした。あまり関わりたくないというのが本音だ。
 ガラフはディアに近づくと、その顔を覗き込んだ。
「だが……」
 唇を歪ませてディアに顔を近づける。ディアの顎を掴んで持ち上げる。
 小さな不愉快さにディアは顔を背けようとした。ガラフを払いのけようとしたが、それよりも早くにセイが間に割り込んだ。目の前で見ていたディアからすれば、かなりの力が込められていたと思われる素早さだ。
 ガラフが体を引く。セイはディアを背にしながら睨みつけた。
「勝ったのは私です」
「けっ。爵位と女は別物だ」
 ディアが気を失っている間に何かがあったのだろう。
 手を取っ組み合い、顔を付き合わせる二人の雰囲気も以前のものとは違っていた。
 ディアは二人の戯言を完全に聞き流すことにして寝台から下りた。床に用意されていたスリッパを履いて立ち上がる。微かな痛みが胸を刺した気がしたが、動くのに支障はない。二人は延々と続きそうな、低次元な言い争いを繰り広げている。
 ディアは手にした自分の剣の感触に笑みを零し、二人を振り返った。
「出て行け、この馬鹿ども!」
 鞘に収めたままの剣を振るった。
 幸か不幸か、包帯でかなり強く固定されているため、ディアに反動する痛みは少ない。激しい打ち合いとなれば話は別だが、多少の無茶は許されるだろう。
 床に叩き伏せられた二人は容赦なく廊下に放り投げられた。
 ディアは二人を追い出した後、内から鍵をかけてようやく落ち着く。扉前から二人の気配が消えるのを待ってから床に座り込む。たったあれだけの動作でも息が切れていた。
「ずいぶんと印象が違うな」
 体力低下を感じながら呟いた。言葉が指すのはもちろんガラフだ。
 1人でここへ連れて来られた時には殺すしかない、と強い復讐を固めていたのだが、今ではそんな決意は欠片も残っていない。セイとのやり取りで何かが変わった。1人ではないことも起因している。
 ディアは無意識に唇に触れていた。思い出すのは先ほどのことだ。
「セイの奴……」
 笑いと怒りの中間のような、どちらとも取れる、なんとも微妙な表情を浮かべながら呟いた。ふと、棚の上に畳まれていた自分の服を見つける。肋骨が折れているため大きな動きはできないが、四苦八苦しながら何とか着ることに成功した。
 ディアは剣を抱いて寝台に入る。まだ昼下がりだというのに、眠りは直ぐに訪れた。


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 夜。体にかかった重みに目が覚めた。
 ディアは自分がガラフの屋敷にいることも忘れていた。抱いていた剣を素早く抜いて、近くにいた人物に突きつけた。そうしてから自分がどこに寝ていたのか思い出す。なぜ、という疑問が浮かぶ。この屋敷で自分に害を為すような人物など、もういなくなったはずだ。
「……誰だ?」
 鍵はかけていたはずなのに、と眉を寄せる。
 だが、窓から零れた月光が侵入者の顔を映し出した途端、ディアは脱力した。
 目の前に現われたのは、艶やかな金色の髪。
「お前な……」
「今日中にここを出ましょう、ディア」
 部屋にいたのはセイだった。突きつけられた剣に驚く様子は見せていたが、その剣を下ろされると直ぐに身を乗り出してくる。
 ディアは「はぁ?」と呆れた声を出した。昼間の話では、怪我が治るまでここで療養するとなっていなかったか。どういう心境の変化なのだろうか。異論はないが、怪我を治さないとディア自身も身動きが取り辛い。
 セイは既に荷物をまとめて来たようだった。彼の手には二人分の荷物がある。
 ディアは眉を寄せてセイを見る。
 セイは言い難そうに視線を逸らし、少し唇を尖らせながら口を開いた。
「ガラフが、私たちについてくると、昼間に話していまして」
 その話を聞いた途端にディアは立ち上がっていた。室内用のスリッパではなく靴を履く。セイの手から荷物を受け取る。
「お前に賛成だ。出発しよう。今すぐ。即刻」
 険しい顔でセイの手を掴み、大股で歩き出す。
 セイは笑みを浮かべた。扉に向かうディアを引き止める。
「そちらでは駄目です」
 何を言われているのか分からなかったディアは訝しく振り返った。扉以外にどこから外へ出るというのか。視線で問いかけると、セイは事もなく言い放った。
「窓から」
 ディアは思わず視線を窓に向けた。
 確かに窓は開いている。外から吹く風に、カーテンが静かに揺れている。
 だが部屋は二階に位置していたはずだ。
「まさかお前、ドアじゃなく窓から忍び込んできたのか……?」
「はい」
 中から外へ出ることは簡単だが、さすがに外から中へ入ることは難しい。しかしセイは無頓着にあっさりと肯定した。その笑顔が憎らしくてディアは彼の顔面を叩く。
「何するんですか、ディア!」
「何となくだ」
 セイの抗議は仏頂面で聞き流した。
「もう……扉から外へ出れば、ガラフに気付かれますから。その扉が開けばガラフの部屋に知らせが行くような仕組みになっているんです」
 ディアは「うわ」と呻いた。その対策が“セイの抜け駆け防止”だということは知らない。もちろん知らなくていいことだ。
 ディアは眉を寄せながら窓に近づいた。覗き込むと意外な高さだ。
 万全の状態なら難なく飛び降りられる距離。だが、今は怪我を負っている。飛び降りて無事でいられるか保障はない。それでも、旅にガラフがついてくることは絶対に許せない。
 少し躊躇していると隣にセイが並んだ。彼は先に二人分の荷物を外へ投げ、窓を全開にする。そしてディアを抱きかかえた。
 ディアは不本意ながらその行為に甘える。下手に飛び降りて怪我が悪化しては街から出ることも叶わない。他人に体を預けることはかなり不安に思えたが、セイなら信頼できる。彼の肩に手を回して抱きついた。慣れない行為に顔が赤くなる。
「じゃあ、出発しましょうね」
 セイは笑みを浮かべると囁いた。決して落とさないように抱き締め、窓に足をかけて飛び降りた。


 翌朝。
 男爵の息子は、セイの部屋に置手紙を見つけた。
 ディアの部屋がもぬけの殻になっていることを知った。
 ずいぶんと悔しがったことは、誰にも知られちゃいけない。


 END