疑惑と嫉妬が芽吹く時

【四】

「ハーストン!」
 今しがた気を使って部屋を出てきたばかりのハーストンは眉を寄せて振り返った。視線の先にはディアがいる。憤然とした足取りで階段を駆け下り、ハーストンの隣に立つ。
「剣の稽古に付き合え!」
 険しい瞳には苛立ちが含まれていた。
 ディアはハーストンに腕を絡ませて誘った。階段途中のためハーストンは転げ落ちそうになったが、手すりを掴むことで持ちこたえた。
「お前、いま2階ででかい音させなかったか?」
「少し暴れさせてもらった」
 簡単な肯定に、ハーストンは思わず部屋を見上げた。
「ここの施設、領主様から費用出してもらってんだけど」
「かたいこと言うな。おい、使わせてもらってもいいか?」
 前半はハーストンに。後半は訓練場にいる者たちに向けて。訓練場の入口でディアは声を張り上げた。
 ハーストンはやれやれと肩をすくめてディアの腕を解いた。皆は怪訝な顔で2人を見比べるが、言われるがまま脇に避ける。即席の試合場が設けられ、ディアは荒い足取りのままその中央に向かった。
「そういや皆にちゃんとした紹介もしてなかったしな。公開稽古ってことにしといてやるか」
「ふん、減らず口を」
「どっちがだ」
 皆の視線を集めながら二人は向かい合った。ディアは剣を抜く。旅を始めたときからずっと使用している剣だ。特別な想いが込められた剣は刃こぼれの一つもない。曇りなく澄んだ銀を宿している。
 対するハーストンも剣を構えた。ただしこちらの剣はどれほどの修羅場を潜り抜けてきたか知れない幾多の傷があった。そろそろ替え時なのだろうと思われる。
「いくぞ!」
 気合と共にディアは間合いを詰めようとした。しかし一筋縄ではいかないハーストンの雰囲気を感じ、瞬時に意識を切り替えるとフェイントをかけるに留まる。再び間合いを取り、そして攻撃をしかけた。呼吸を狂わせる作戦だがハーストンは易々と看破する。苦笑に潜むのは試合にかける期待だ。
 攻撃のことごとくを受け流されるディアは内心面白くないが、セイを忘れていられる時間はありがたかった。一度はハーストンに敗れたが、今度こそ、という思いもある。
 身長がほぼ同じのため、ハーストンに上からの攻撃は効かない。横薙ぎに力を込めて放つ。その攻撃に気を取られている隙に死角から蹴りを入れる。だが、刹那に腹筋を締められてダメージは軽減された。それでも、一瞬だけ動きを止めることができれば成功だ。ディアは体を反転させた。遠心力を加えて剣を横に払った。
「おおっと、残念」
 鈍い音と共にディアの剣が受け止められる。ディアは舌打ちして剣を外す。力比べになって負けるのは目に見えている。
 今は勝つことにこだわる必要はない。一番の目的は試合を長引かせることだ。試合の最中だけは他のことを考えなくて済む。ひとつに熱中すれば他が手につかないという単純さを短所にしていたが、こんなときは役に立つ。頭の隅にセイの影が浮かんでくるが、試合に集中してしまえば消えるに違いない。
 これまで受身でばかりいたハーストンが向かってくる。
 ディアは気持ちを新たに剣を構え、受け止めようとした。
 ――その一瞬。
 ハーストンの姿がセイに重なった。
 ディアは呆け、愚かにも隙だらけになった。何かの作戦かと訝りハーストンはそのまま突進する。避けるだろうと思っていた彼の威嚇は見事にディアを傷つけた。
「うわあああっ?」
 悲鳴は、見物していた人々のものだった。
 彼らの悲鳴にディアはようやく我に返る。左腕の肘から手首にかけて裂傷が走っていた。痛みを覚えたのは血が噴出してきてからで、ディアは素早く傷を押さえた。
「なにをやってるお前! 試合中にボサッとすんな!」
 ディアを一度すり抜けたハーストンが戻り、容赦なくディアの頭を叩いた。
 ディアは剣を取り落として彼を睨む。だが悪いのは自分だと分かっている。文句は言えず、苦々しい思いで顔をしかめる。
「悪い」
「当たり前だ!」
 怒りがおさまらない様子のハーストンはもう一度ディアを殴る。だがさすがに二度目は理不尽なため、右手でしっかり殴り返すことは忘れない。
「でも怪我は大したことない」
「お、れ、が! 寸前で引いてやったからだ!」
 救急箱を持って駆けつけた団員はディアの出血量に驚いたようで、青褪めたまま包帯を腕に巻きつけた。包帯は見る間に赤く染まる。
「阿呆。止血を先にしろ」
 ハーストンは苛立ち混じりのため息をついて、血染めの包帯を投げ捨てた。ディアは痛みに眉を寄せたが呻きは飲み込む。血に慣れていない者たちを遠ざけてハーストンが応急処置をする。
 さして深くはない傷だ。縫う必要もなく、直ぐに止まるだろう。みみず腫れのような痕が残るかもしれないが、それは自業自得だ。体に傷が残っても構わない。
 傷口を手で直接圧迫して止血したあと、ハーストンは止血帯を取り出すと器用にディアの腕を縛った。痛みを覚えるほど強く縛られる。
「……ったく。手当てはちゃんとしろよ。俺はこれから本職の仕事だからな」
「ああ、行ってこいよ。私のことは構わなくていい。付き合ってくれてありがとな」
 ハーストンの手が外されると、塞がった傷口は再び赤く滲み出した。代わりにディアが止血を受け継ぐ。腕を押さえながらハーストンに頷く。先ほどまで感じていた焦燥感が消え、今は落ち着いていた。
 ハーストンは眉間に皺を寄せながら手を伸ばした。ディアの頬を軽く甲で叩いて額を弾く。
「無茶はするなよ」
 ディアはどこかで聞いた台詞だと思いながら笑った。いつまでも残りそうな気配のハーストンを追い出す。後ろ髪を引かれるように、ハーストンは渋々と本拠を出て行った。
 後姿を見送ったディアは腕に視線を戻した。押さえつけていた右手を見ると、血が乾いて凝固しているのが見えた。ハーストンに縛られた止血帯を解いてみると血流が戻る。その感覚にわずか戦慄したが、再び出血するようなことはなかった。
「大丈夫なのか?」
「ディアって言ったよな」
 ハーストンが出て行ってしばらくしてから、成り行きを見守っていた団員がディアを取り囲んだ。
「ハーストンとあんなに長く対峙できるなんて凄いんだな、あんた」
「団長の推薦だったっけな」
 親しげに背中を叩いてくる皆は嬉しそうだ。だが、ディアは苦々しく彼らを見回す。
「あのな。あれくらいで驚いててどうするんだよ。相手は人を斬ることを何とも思ってない奴だぞ。捕まえるには最低でもあれぐらいの技量を持てよ」
 救急箱から包帯を取り出して巻きつける。素早く処置を施すと、それすら尊敬の眼差しを向けられる。思わず彼らの私生活を疑いたくなったディアは頭を押さえた。旅に出る前、怪我の対処方法だけ抜群に上手だったディアには、彼らの無知さが信じられない。
「まぁ、今日はディアの歓迎会だ」
「は?」
 ディアは思わず胡乱な眼差しを彼らに向けた。
「いいよな?」
「行こうぜ」
「夜は見回りに費やすから、今からそれまで飲もうぜ」
 ディアは肩を掴まれた。領主付きの私兵たちはハーストンと共に屋敷へ戻っている。ここにいるのは平民ばかりだ。彼らは人斬りに対する憤りはあっても、ハーストンたちほどの切迫感はないのだろう。実際に人斬りと対峙したこともなく、ただ街の安全を守るという目標を掲げてこの非日常を過ごしている。仕事に汗を流すばかりの毎日に加えられた小さな刺激。切迫感がないから解放感に浸ることもできる。
 ディアは開きかけた口をそのままに、諸手を挙げて喜ぶ彼らを見つめた。仕事の前金として渡された袋を思い出す。おそらくあの金は、傭兵を雇おうという策の元に集められた資金なのだろうと思う。だがこの近辺に傭兵所などない。正規の傭兵や騎士を集めようとすれば時間がかかる。そこで、たまたま目に付いたディアに白羽の矢が立ったというわけだ。おそらくディアすらも、街に傭兵や騎士が到着するまでの間に合わせだろう。
 ハーストンが苦労するわけだ、とごく自然に納得できた。


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 酒場は盛況だった。街の四分の一にあたる平民が貸し切り状態にしていたからだ。常なら夜に賑わう酒場は、その一団によって昼から迷惑な繁盛を迎えていた。
「私はなにも、あいつに出歩くなと言ってるんじゃないんだ。ただな。分かるだろう?」
 昼から強いアルコールをあおり続けてきたディアはそう吐き出した。ハーストンの苦労を思いながらも目の前に出された酒を拒むことはない。結局はディアもこの奇妙な団体の雰囲気に巻き込まれていた。目を据わらせて隣の男の胸倉を掴む。掴まれた男は「ああー」と生返事をするものの、ぐったりと正気を欠いて揺さぶられるままになっていた。
「ディーア。あんた強いなぁ! 最初から今までずっと飲みっぱなしじゃないか」
 背中からの声に振り返る。酔っていることが明らかな男が近づいてきた。彼はディアに酌をしながら酒を注ぎ足す。それを遠慮なく飲み干し、ディアは笑った。
 ディア以外に正気を保っている者はいないと思われた。ディアですら悪酔いし始めてきた、と思う頃だ。
「ハーストンも仕事がなきゃ飲めたのになぁ」
 酔いの中で零された言葉にディアは思いだした。
 左腕に引き攣るような痛みを感じる。出血量に対して傷は浅いため、もうほとんど完治している。袖をめくると白い包帯が目についた。出血はないようだ。酒場の明かりに照らされて少し眩しい。
 包帯をなぞったディアは小さなため息をついた。
 ハーストンと剣を交えたとき、彼と重なったセイの姿。
 あの時はなぜ、と衝撃を受けたものの、考えれば簡単だった。ハーストンの太刀筋がセイと似通っていたのだ。2人が使っているのは、この地方で主流となる剣術だ。細かな違いはあるが、習う剣術が同じならば動きが重なるのも頷ける。
 だがディアは小さな苛立ちが酒の力で増大するのを感じ、いらいらとグラスをテーブルに置いた。
「だからなんで私がこんなに苛つかなきゃいけないっ? おい! ハーストンはなんで仕事なんだよ!」
 酔い潰れた男を起こして乱暴に揺さぶる。ディアも酔っているのかもしれない。
「き、昨日、領主の妹がこの街に帰って来たんだよ。そっちの警備関係で忙しいんだろう?」
「ああ? 侯爵の妹なら自分で身を守れってんだ!」
 かなり無茶なことを言いながらマスターに片手を挙げた。
「酒追加!」
 少数ながらまだ生き残っている男たちの視線が向けられる。
「まだ飲むのかー? 本当強いなぁ、ディアは」
「あったりまえだろ!」
 酒場のマスターは早々に諦めているようだ。ただ粛々と注文の品を運んでくる。
 それから数分が経過すると、最後まで残っていた男もグラスを片手にしたまま意識を朦朧とさせる。ディアに相槌を打つだけの人形と化した。
「いきなり旅についてくるなんて言い出したのはあいつなんだからな」
「そうだよなー」
「あいつのせいで何度面倒ごとに巻き込まれたことか!」
「うんうん」
「ちゃんと聞いてるのか?」
「うーん」
 ディアは赤い目で隣の男を睨んだ。叩くと男は簡単にテーブルに突っ伏した。起き上がらない。周囲を見回すと誰も動いていないディアは残った酒を勢い良く飲み干す。
「なんだよ……」
 完全な酔っ払いのできあがりだ。
 ディアもテーブルに突っ伏した。もう後は何も分からない。
 栄えある自警団はただの酔っ払い集団と化した。夕暮れに染まった酒場ではマスターが呆れながらも皆に毛布をかけて回る。今日は開店前から閉店だなと乾いた笑いを零していた。


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 ディアは頭に強い衝撃を受けて覚醒した。目を開けると視界が瞬時にクリアになる。そのはずなのに、今は視界がぼやけている。目頭が熱を持ったように痛かった。それらがアルコールのせいだと気付いたのは、周囲から漂う濃厚な匂いに当てられてからだ。
「呆れてものも言えんぞ俺は!」
 後頭部を叩かれた。アルコールの残っている頭に響く。
 緩慢な動作で振り返ると、ハーストンが仁王立ちになっている。険しい表情で睨まれていた。しかしなぜそんな顔をされるのか、まだ朦朧として分かっていないディアは、ただその姿を見つめた。
「おお。ハーストン」
「使い物になるのはお前だけか!」
 怒鳴り声に辺りを見回る。周囲には死屍累々の光景が広がっていた。酔いつぶれた自警団の皆は、毛布に包まれて幸せな夢を見ている。
 ディアは肩をすくめた。
「だらしないなぁ」
「こんな度数を飲ませる奴があるか!」
 ハーストンは持っていた瓶を勢い良く置いた。ディアはもう一度肩をすくめて見せる。
 “ビーフィーター”と呼ばれる、アルコール度数40度の酒だった。普通の人間が飲んだら胃が焼ける。ディアも、まさかこのような場所で遭えるなんてと興味半分で頼んだのだ。しかし一杯しか飲めなかった。いつもはここまで酔わないディアが悪酔いしたのは、これが原因かもしれない。
「今日は俺とお前だけだな。まったく……羨まし過ぎるじゃねぇか」
 酔いつぶれた皆を見てハーストンが呟いた。ディアは蹴飛ばす。
「行くんだろ。私が皆分やってやるよ」
「そう願いたいね」
 他の私兵たちはどうしたのだろうと思ったが、機嫌の悪いハーストンに聞くのはためらわれた。侯爵家の妹が戻ってきたという話だったから、そちらの警備に割かれているのだろうと、強引に補完することにする。
 酒場から出ると霧がかかっていた。ディアは舌打ちする。
「出そうだな」
「こんな日に何を考えてたんだか」
「うるさいな。もう謝っただろう。しつこい男は嫌われるぞ」
 ディアが半眼で睨むと、ハーストンは言葉をつまらせた。苛立ち混じりのため息を吐き出す。気持ちを切替えたようだ。
「俺はこっちから一周するから、お前は向こうから!」
「へいへい」
「……気をつけろよ」
 ランプを手渡される。肩越しの忠告を受けたディアは微笑んだ。
 ハーストンと背中合わせになって、別れる。
 霧の中で振り返ると彼の姿がぼんやりと消えていくのが見えた。
 ディアは霧の中に取り残される。いつまでも立ち止まっているわけにいかないため、片手を掲げて霧に踏み込んでいく。おぼつかない足に舌打ちして街を見回す。
 街は静かだ。霧が冷気を伝えてくるが、火照った体にはちょうど良い冷たさだった。
「やっぱ飲みすぎかな」
 目が痛い。擦ってため息をつく。記憶があいまいになるほど飲むのは久しぶりだ。ハーストンが怒るのも無理はない。だがそのお陰でずいぶんと発散されたようで、飲む前に比べて気持ちが和らいでいるのが分かる。
 ディアは苦笑を零しながら剣の柄を押さえた。
 わずかな殺気を感じた。
「霧に紛れて、しかも背後から。卑怯者決定」
 呟きながらランプをそっと地面に置く。この前のように割るわけにはいかない。地面に置いて、そこから少し離れて。ディアは後ろから斬りかかろうとしていた者の腹に、振り向きざまの蹴りを叩き込んだ。次いで直ぐに剣を抜く。
「あ、こら待て!」
 そのまま対峙するものとばかり思っていたが、男はすぐさま逃げ出した。ディアは呆気に取られたが怒鳴りつけて追いかける。ランプを拾う余裕などない。男の姿が霧に紛れる前に決着をつけなければ、浴びるように飲んだ酒代も浮かばれない。
 ディアは走りながら指笛を吹く。緊急事態のときは吹けと教えられた指笛だ。ハーストンではなくとも、指笛の意味を知る者が応援に駆けつけてくれれば有難い。
 幸い、男の足は遅かった。ディアが特別早いということもあるが、直ぐに追いついてしまう。手を伸ばして男の腕を掴むことに成功する。暴れようとする男を押さえ込もうとしたが、振り払われた。顔をしかめて顔を覗く。
 細く小さい目に、分厚い唇。髪は茶色でごわごわとしている。
 顔を一瞬で覚え、男の剣を弾いた。彼の腕は大したことがない。今まで襲われた側がよっぽどの無防備状態だったのだろうと思う。
「今日で終わりだな」
 指笛で仲間を呼ぶ必要もなかったか。
 ディアは呆気ない幕引きに笑みを洩らしたが、その直後に男がわずかな微笑みを浮かべたことに不信感を抱いた。刹那、背後に殺気が生まれる。ディアはとっさに振り返り、本能のまま剣を掲げていた。重たい衝撃音が体に響いた。知らぬまま、ディアは背後からの襲撃者の剣を受け止めていた。
 闇の中に閃いた銀の光に息を呑む。
「2人……!?」
 新たに現れた男の方が、剣の腕が立つようだ。先ほど優勢を確信していた背後の男が剣を拾う気配を感じる。
 ディアは舌打ちして目の前の男を蹴り飛ばした。背後から襲いかかろうとしていた茶髪の男の剣を受け止める。押し返して彼の腕を斬りつける。
 だが。
「っぶねぇ!」
 直ぐ横を走った剣閃を避けて、ディアは二人目の犯人を睨んだ。
 これでは不利だ。二人から距離を取り、どうしようかと睨み付ける。
 すると男たちは目配せをし、別々の方向へ走り出した。
 ディアは逡巡する。こんなときこそ仲間がいてくれたら、と思うがいないものはいない。男たちの姿が霧に消えようとする前に、剣の腕が立つ男の方を追いかけた。こちらを先に押さえておけば、自警団の負担も減るだろう。一人目を捕らえている最中に茶髪の男が奇襲をかけてきても、簡単に対処できそうだという打算もある。
「待てよ!」
 男の足は速い。ディアは息を切らせながら時間をかけて追いついた。
 何とか彼の前に回りこむ。
「いい加減にしと、っと」
 言い終わる前に斬りかかられる。慌てて避ける。剣を繰り出され、さばきながら反撃の機会を狙う。
 男は焦っているのか落ち着きがない。視線をあちこちに飛ばしている。それでも剣の腕は鈍らないため、ディアは迂闊に仕掛けられない。
 時間ばかりが経過していき、ディアが焦りを覚えた頃だ。対峙していた男の表情がわずかだが変わった。
 ――なにを狙っている?
 ディアが緊張に身を強張らせたとき、男が笑いかけた。否。ディアではなく、その背後に。
 ディアは何の根拠もなく横に飛び跳ねた。
 直後、耳の横を何かが通り過ぎる、風の音が聞こえた。次いで石畳に何かが叩き付けられた音も聞こえた。
「この……三人目っ?」
 ディアは驚愕して叫んだ。
 新たに現れた三人目はディアよりも背が高い。二メートルを超えているのではないかと思わせる巨漢だ。更には、剣ではなく斧を手にしている。その斧は今までディアが立っていた位置に突き立っていた。避けていなければ頭から両断されていただろう。
 ディアの驚愕を見逃さず、剣を構えていた男が繰り出してきた。
 慌ててその剣を押さえる。弾くつもりだったが剣には予想外の力が込められており、なかなか簡単には離れられない。その場に踏みとどまったまま力比べとなる。
 まずい、と直感で悟った。
 剣と斧。一対二。体格の差。
 どれもディアに不利な要素ばかりだった。そして、この場にはいないもう一人の犯人、という不安要素も残っている。
 斧を相手にしたら剣が折れるかもしれない。
 ディアは冷や汗を浮かべながら男を睨んだ。斧の男を警戒しながら、剣を交えている男からも視線を外さない。どちらも蔑ろにできない実力の持ち主だ。殺さずに捕まえるなど至難の業に思えた。主犯格は恐らく斧を持つ三人目の男だろう。
 斧を持った男がゆっくりと距離を縮め始めた。
 ディアは渾身の力を込めて、剣を交えている男を押し飛ばした。勢い良く振り下ろされた斧から逃げる。凄まじい音を立てて石畳が抉れる。
 命の危険を感じて剣を構えた。高鳴る心臓の音がうるさい。早くハーストンが見つけてくれることを祈りたいが、その前に自分が死体になっていそうな予感だ。
 男が2人、同時に駆けてきた。
 ディアは寸前までその場を動かない。眦は強く2人を睨みつけていたが、唇には悠々とした笑みが浮かんでいた。はったりは大事な勝因だ。意識して呼吸し、気持ちを落ち着かせる。緊張感が限界まで高まる。ディアは、自分目掛けて振り下ろされた武器の間を潜って空に跳んだ。男たちの肩に手をついて背後に回る。
 まずは剣を持つ男の首に、渾身の力を込めて剣の柄を叩き込む。白目を剥いて男が意識を失う。だがそのことに安堵する間もなく男の頭上を掠めて斧が飛んできた。体勢を立て直している暇はない。ディアは首をひねって刎ねられることだけは避けたが、頬が深く裂ける。痛みを感じる余裕はない。昏倒させた男の背中を、斧の男に向かって倒れるよう蹴り飛ばし、斧の男が避けている隙に間合いを取って剣を下げる。
「……まずは一人目!」
 荒い呼吸音が耳についた。肩で息をして頬を拭う。予想外の血が甲を濡らして滑る。鋭い痛みが走った。
 走れば地面を震動させるような巨漢だが、動きは意外にも早く、素早くディアに迫る。その斧をかわして剣を振るい、渾身の力で男の肩に突き立てた。だが男は反対の腕でディアを振り払う。突き飛ばされたディアは地面に転がった。彼には痛覚がないのだろうか。しまった、と思ったときには男が迫っていた。立ち上がろうとしたディアの手を踏みつける。ディアの剣は男の肩に突き立てられたままだ。男の影がディアに落ちる。斧が振り上げられ、銀の光がディアの視界を奪った。
「くっ」
 踏みつけられた左手がミシリと音を立てた。苦痛で顔が歪む。なんとかもがこうとするが、剣が手元にない今、逃れる手段はない。うつ伏せに倒れていては足技も使えない。
 男が嫌な笑いを湛えたような気がした。
 ディアは瞳を見開いて男を見上げる。
 このようなところで。セイに、会えもしないまま。
「駄目ですよ」
 斧が振り下ろされる直前。割り込んだ声に、ディアは目を瞠った。男と共に視線を声の方向へ向ける。霧の中に浮かんでいたのは金の光だった。
 新たに現れた人影は抜き身の剣を下げ、もう片手には一人目の犯人を掴んでいた。茶髪の男には意識がないようだ。地面に転がっても呻き声ひとつ洩らさない。
 そこに現れたのはセイだった。
「その人に手を出したら、貴方のお仲間の命の保障はしませんから」
 セイは地面に転がる男に剣を突きつけた。意識を失った男は身動き一つしない。
「セイ……?」
 ディアの手を踏みつけていた男が、セイに体を向けた。肩に突き立っていた剣を無造作に引き抜くと遠くに放り投げる。おびただしい出血が彼の肩を濡らしたが、気にしないようだった。
「そいつに手を出すな」
 斧の男が低く唸った。
 人斬りもやはり人間か。仲間を案じる気持ちはあるらしい。
「貴方が大人しく捕まって下されば、私は何もしませんよ」
 セイが場にそぐわない笑みを見せた。斧の男の歯軋りが聞こえるようだ。
 男はセイに向かって走り出し、斧を振り上げた。対したセイは小柄さを活かして男の懐に飛び込む。そのまま一閃する。動きを止めた男の前で体をひねり、剣を持ち替えて柄の部分を男の脇腹に叩き込んだ。
 二メートルを超す大男は軽々と弾き飛ばされた。男は地面に転がって動かない。斬られたと思われる腹から血が滲み、石畳を濡らしていく。
 セイはしばらく男を見つめ、彼が動かないと悟ると息をついた。
 あっけない決着にディアは呆然とした。近づいてくるセイを見上げる。
「自警団にはどなたかの推薦がないと入団できないと聞いて安心していたんですけどね」
 座り込むディアと視線の高さが合うように腰を落とし、セイはディアの頬に手を当てた。斧に切られた傷は、まだ血を流し続けている。
「無茶はしないで下さい、と何度言わせるんです」
「……セイ……?」
「はい」
 いつもと変わらない柔らかな笑み。
 それを目にしながらディアは口を開く。だが、開いただけで言葉が出てこない。アルコールがまだ残っているのだろうか。顔が熱い。
「何だよ、お前……」
 顔の熱が目に宿ったようだ。ディアは気付けば泣き出していた。
 セイが目を瞠る。
「いきなり消えるなよ……驚くだろう?」
 セイに腕を伸ばして抱きついた。肩に額を押し付けて唸る。背中に腕を回されて抱き締められる。ディアは更に強くしがみついた。
「……ごめんなさい」
 少し窺うような声音で謝罪が零される。
 ディアは勢い良くかぶりを振った。セイが悪いわけではない。
「もう……消えるな」
 しゃくり上げながらなんとか告げる。答えはない。だが、背に回された腕の力が強くなる。だから、それだけでいい。
 ディアは瞳を伏せた。