闇に紛れた張子の虎

【一】

 蒸し暑い夜だ。虫の音が絶え間なく響いている。暑さに揺らぐ柔らかな月光が窓を透かし、眠るディアを照らしていた。
 カーテンがわずかに揺れてディアの顔に影が落ちる。それから逃れるように寝返りを打ち、無意識に掛け布団を引き上げようとしたディアは目を覚ました。
 目覚めた途端に意識は澄まされる。
 月光に照らされた明るい室内を見つめ、ディアは瞳を瞬かせた。
 ――なぜだろう。眠る前は確かに蒸し暑く、文句を言いながら眠りに落ちたことを覚えている。けれど今は心なしか肌寒い。掛け布団を肩まで引き上げようとまでした。
 顔にちらつくカーテンの影が鬱陶しくて体を起こした。窓を閉めようと寝台から降り、ようやく本当に頭が冷えた。
 寝るときに窓は閉めた。いくら暑いとはいえ、街道沿いの小屋で窓を開けて眠るような馬鹿はしない。ここは治安のいい宿ではないのだ。
 窓を閉めたのなら風が入り込む余地はない。それでは今カーテンが揺れているのはなぜか。外から誰かが窓を開けたに違いない。鍵はかけたはずだが、盗賊たちは解除方法にも長けている。
 ディアは枕元の剣を、カーテンから目を逸らさずに引き寄せた。息を殺しながら歩み寄る。何の影も見えない。遮光カーテンの向こう側。
 近くまで行き、ディアは眉を寄せた。
 遠目からでは分からなかったが、近づいた今、窓の桟はピッタリと閉められていると分かった。つまり、窓は閉まっている状態だ。それでもカーテンが揺れるのは、長いカーテンの裏に誰かが潜んでいるのか。
 ディアがこの部屋に眠る前から誰かが潜んでいたとは考え難い。また、寝入ってから知らない人物が入り込んでくるのも考えられない。そうすると必然的に、カーテンの裏にいるのはディアが良く知る人物だということになる。
 ディアは大きくため息をついて緊張を解いた。何を考えているんだと頭が痛くなる。投げやりな態度でズカズカと近づいた。
「おい、セイ?」
 隠れているのがセイだと信じて疑わずにめくった。
 飛び込んでくるはずの金髪は――存在していなかった。
 空虚にあいたカーテン裏の空間。いくら凝視しても、そこには誰もいない。
 風に吹かれていたわけでもなく、人が揺らしていたわけでもない。それでは、一体なにが揺らしていたのだろうか。
 不意に悪寒に襲われたディアは勢いよく振り返った。
 剣を構えたが直ぐに下ろし、そして青褪めた。
『……連れてきて……』
 部屋の中心で不可思議な現象が起こっていた。
 光を放つ小さな体がそこにある。悲哀に満ちた輪郭を縁取る淡い影。ディアに差し出される幼女の手はとても柔らかそうで、けれどなぜか床が見えるほど透き通っている。体など、部屋の反対側の壁が透けて見えるほどの儚さだ。人間として許される儚さの方向性が違う。
 ディアは一歩、後退した。
 幼女が伸ばした手から青白い光がユラユラと零れ落ちる。重さを全く感じさせない羽のようだ。そして彼女の体は下半身へ向かうにつれて薄れていく。足などなかった。
 ディアの視線が足に向けられた瞬間、彼女の姿は消えた。
 小さな明かりが溶けて消える。
 たっぷり5秒の間をあける。
「うわああああっっ!!」
 セイの安眠を妨害する絶叫が小屋を揺るがせた。


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 ディアは目の下に隈をつくりながら、見事に晴れた空を見上げていた。
 なんて憎々しく透き通った青空なのだろう。
 セイが物言いたげな視線を送ってくるのを感じていたが、そんなものは無視して進む。もうしばらく行けば街が見えてくるはずだった。崖に作られた炭鉱の街だ。
「ディア。昨日」
「そろそろ街だな」
 何度目の遮りだろうか。
 ディアは不自然さを覚えながらも他に方法を知らず、セイに地図を放り投げた。
 軽い地図は風に流されて簡単に飛ばされようとする。
 セイはディアを追及することもできず、慌てて地図を掴んだ。掴んだ後にはやはり物言いたげな視線がディアに向けられるが反応はない。ため息をついて地図を広げる。そこには今まで立ち寄った街や、街道の情報が書き込まれていた。酒場で集めた情報の詳細を書き記した貴重な地図だ。旅には必要不可欠なもの。そこには現在の場所も書き込まれている。次の街までは確かに近い。
 セイは確認した後、丁寧に地図を畳んだ。時を見計らって再び口を開く。
「でもディア。昨」
「あ!」
 ディアはセイの言葉を途中で遮った。街道からやや外れた場所に立つ小屋を指差した。セイもそれに気付き、地図を開く。
「どなたかの家屋……でしょうか?」
 当然、人の家まで地図に載っている訳ではない。何かの工房や取引所なのかと思って地図を開いただけだ。やはり地図には何も載っていない。しかし、町外れに一軒だけ建っているというのも不思議な話だ。
「行こうか」
「ええ?」
 絶対にあり得ないディアの台詞。人の家に何の用事があるというのだ。
 だがディアはセイの言葉など聞かない。足早に家へと向かう。セイに気付かれないように、視線だけで振り返る。段々とセイの機嫌が下がっていくのは分かっていた。しかしそれでも、どうしても言えないのだ、昨夜のできごとは。自分のプライドのためにも。
 ディアは視線を前に戻して眉を寄せた。
 簡素な木造住宅だった。玄関の横にある花壇は荒れている。花も腐り落ちている。どこかしら寂れた雰囲気だった。
「誰もいないのか?」
「あ。ディア、勝手に……」
 セイの言葉を背中で聞きながら裏口へ回った。
 窓から中が見えないかと思っていたディアは首を傾げた。窓ガラスが割れている。破片は庭に散らばっていた。昨日今日に割れた訳ではなさそうだ。ガラスは伸びた雑草に埋もれている。
 ディアは割れた窓から中を窺って目を細めた。
「ディア?」
 後ろからついてきたセイの脇を通り抜けて玄関に戻る。
 鍵は掛かってないようだ。扉は直ぐに開いた。勢い良く中に踏み込む。
 居間に入った途端、鼻をつく異臭に眉を寄せる。
 家具類は散乱していた。壁には刃物で傷つけられたような跡が残されている。そして何より目を背けたいのは、床に、壁に、飛び散った血痕だった。
 セイが家の中に入ってきた気配を感じながら奥に進んだ。
 先ほどの窓から見えた部屋だ。そこは居間から続く寝室だった。扉は開け放たれており、誰がいる気配もない。中に踏み込んだディアは濃厚な腐臭に眉を寄せて口と鼻を覆った。
「ディア。これって……わ」
 寝室に足を踏み入れたセイは思わずディアの服を掴む。彼の視線は、床にばら撒かれている人骨に釘付けとなった。
「ディア!」
 ディアは寝室に入った。セイは引きとめようと声を上げただけで、寝室までは踏み込めない。漂う異様な気配に怯えているようだ。
 そんなセイとは対照的に、ディアは無感動に人骨を見下ろしていた。
 大きく太い骨。一見しただけで性別は分からないが大人だ。胴体の骨が密集しているのに対し、頭の骨だけが遠くに転がっている。
 首を刎ねられて殺されたのだろうか。
 白骨化するまで誰も訪れないこの家は、さぞや狙いやすかっただろう。
「……これから行く街は、治安が悪そうだな」
 ため息を吐き出しながらセイを振り返った。彼は悲痛な表情を浮かべてディアを見上げる。ディアは戻るとその手を取って、微笑んだ。
「庭に埋めてやろう」
 セイはためらいながら頷いた。


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 家の中を少し漁って大きなバケツを見つけ、骨を拾い集める。そして外へ出ると土を掘り起こして骨を入れる。土を被せ、やや山となるように固めた。
「……ディアって無敵ですよね」
 死者に瞑想を捧げたセイが呟いた。
「なんだよ」
 いきなりな発言に、訝しくセイを見る。彼は苦笑して墓を見つめていた。
 しばらくはセイの横顔を見つめていたが、そこに黄昏の光が落ち始めたことに気付いて空を見上げた。夕焼けに雲が赤く染まっている。
「もうそんな時間か」
 ディアは呟き、少しの沈黙のあとに続けた。
「今日はこの家を使わせてもらうか?」
「正気ですかディア!?」
 目を丸くさせてセイが振り返る。その勢いにディアは押されながらも頷いた。
 だがセイは顔を強張らせてディアの腕を取る。
「今ならまだ夜までには街に着きます。行きましょう」
 セイは強引に歩き始めた。その強さにディアはバランスを崩し、引きずられるように後に続く。家の敷地から出た。
「そんなに嫌がることか? 確かに腐臭は少し残ってたけど、無事な部屋もあっただろう。家自体は立派だし」
「そういう問題じゃありません。人間性疑われます」
「屋根があるだけいいだろう」
「ディアは無頓着すぎです。これだから目が離せない」
 そんなことを言われて少しムッとする。
「お前だって! 髪の毛よく拭きもせずに風呂から上がったりしてるじゃないか」
「それとこれとは根本的に違いますから」
 納得はできなかったが、ディアはもう反論するのをやめた。腕を掴まれたまま街道に戻されてしまう。ここに来てまで頑なに戻ろうとするのはさすがに不自然だろう。遠くなった家を振り返る。
 セイに気付かれぬよう金品を回収する企みは露と消えた。