闇に紛れた張子の虎

【三】

「かなり深いな……」
 翌朝のことだ。
 セイを伴って下調べに来たディアは縦穴を下りながら呟いた。
 民家が並ぶ上層からかなり下りて来たはずなのに、まだ底には着かない。ひやりと冷たい空気が満ちてきて、少しだけかび臭さも漂ってきた。
「セーイ。大丈夫か?」
 ランプを掲げながら後ろを振り返る。セイは頼りない足取りで、壁に手をつきながら下りてくる。ときおり目を擦りながら欠伸を噛み殺している。
「情けないなー。そんなんで今夜は大丈夫なのか?」
 セイは物言いたげな視線をディアに向けた。だがそのことについては何も言わずに後をついてくる。
「さっきから横穴は見てるけど、どれもそんな掘り進んでないような坑道ばっかりだしな」
「……何が目的なんでしょう……?」
 呟いたセイを振り返った。紫紺の瞳は少し憂い気に翳っている。
 坑道を掘ることに対しての呟きではなく、仕事に対してのことだろう。坑道を掘る目的なら明快だ。肩を竦めて「さぁな」と答えてやる。
「人を襲うような奴にまともな理由は期待できないんじゃないのか?」
 セイの視線がディアに向く。
「そうですか?」
「だって無差別に旅人だけ襲ってんだろ?」
「ではなぜ旅人だけなのです?」
「だから、そういうことは本人に聞けよ」
 ディアも昨日はその考えで煮詰まったのだ。もう考えを放棄する。
 他愛ないやり取りを繰り返しているとようやく底が見えてきた。大きな横穴が至るところに掘られている。側には土が山盛りになっている。
「これだけありゃ隠れるにはもってこいだな」
「ほとんどは既に放棄された坑道だと仰ってましたよね」
 ここへ来る前、酒場から得た情報だ。ちなみに酒場の主人はセイが男だという情報を疑うような視線を向けていた。納得してもらえたかどうかは定かではないが、機嫌が直ったセイは気にしないように微笑みをもってその視線を受け流していた。
 坑道は内部で複雑に分岐している。この地に住む人間でも、正確に内部を把握しているのは掘り進めている坑道のみ、とのことだ。既に破棄された坑道には誰も入ろうとしない。子どもたちが遊び場にしていれば踏み込むかもしれないが、奥まで入ると遭難してしまうため、今では大人が一緒にいないと坑道では遊ばせないらしい。
「格好の遊び場なのにな」
 子どもにとっては近場でできる大冒険だ。
 ディアはランプを掲げた。坑道の一つに光を当てると、遭難防止のために壁際にロープが張られていた。それは奥へと続いている。
 セイを振り返って「どうする?」と瞳で問いかける。セイは僅かに首を傾げて考えたあと、仕方ないですね、といったように苦笑した。
「時間はかかりますけど、一つずつ調べていきましょう」
「ああ。じゃあまずはこの坑道からな」
 入ろうとしたディアだが止められた。顔をしかめると、横を抜けてセイが先に出る。すり抜けざまランプも奪われた。
「私が先に入りますから」
 有無をいわせぬ微笑みを向けて、セイはディアの先に立った。ディアは反論する気も起きずに従う。ランプを奪われたせいで手が寂しい。ロープに触れながら奥に進む。
「ねぇディア。今回は一人なのでしょうか?」
 セイの声が少し反響して聞こえてきた。坑道の中に入ると、空気圧が違うのか耳が少しだけ圧迫される。視界が歪むような錯覚を覚える。
 ディアはセイの言葉に眉を寄せた。最近寄った町で、確かに似たような仕事を引き受けた。その時の犯人は三人だった。単独犯だと思い込んでいたディアは危うく殺されかけた。
「さぁな。町の奴らは誰も犯人の顔を見たことがないって言ってたが」
 夜遅く、外からやってきた旅人だけがその正体を知っている。だが顔を見た彼らは既に物言わぬ骸となって地面の下に埋められている。
「エヴィンさん……でしたっけ」
「ああ。昨日の勘違い馬鹿」
 ディアは昨夜の襲撃者を思い出して眉を寄せた。セイが苦笑する。
「目的が同じなら、協力した方がいいですよね?」
「……褒賞金、減るよな」
「危険も減りますよ」
 ディアはセイを見た。
 薄暗い坑道の中で、ランプの光を受けて橙色に染まる髪は目に眩しい。
 酒場からの情報で分かったことがもう一つあった。今まで殺されなかった旅人は、全てが金髪の女性なのだ。
 何か心に引っかかるものがないではないが、それでも、セイはきっと殺されないだろうと予感を抱く。そしてセイと共にいれば、自分が襲われるのも避けられるのではないかと淡い期待を抱く。と同時に、なぜその特徴を持つ女性だけが襲われないのか、疑問は尽きないけれど。
 昨日のエヴィンも、セイを見たから間違いだと気付き、剣を引いたのではないだろうか。
「では後で彼の家に行って、協力をお願いしましょうね、ディア」
 にこやかに提案するセイには何も答えない。だが沈黙は肯定の意味で取られてしまった。ディアはため息をつきたい気分で褒賞金の分け前を頭の中で勘定する。
「分岐点です。どちらに行きますか?」
 問われて思考を元に戻した。視線を向けると、確かに道が二つに分かれている。
 これまで歩いてきた道には黄色いロープがかかっていた。これから進む道にもロープがかかっているが、黄色と赤に分けられている。
「黄色に行け。あとで分からなくなっても困る」
「そうですね。細かな道は後回しにしましょう」
 そう告げて右にランプを掲げたセイだが、不意に動いた。
 ランプの炎が大きく揺れる。
 ディアが反応を返す間もなくセイはランプをディアに投げる。
「え、おい!?」
 投げ渡されたランプを慌てて掴む。それ以上大きく揺れることはなく、炎が消えることもなかった。けれど安堵する暇もなくディアは息を呑む。
 セイが剣を抜いたのだ。
 彼が剣を抜くなど滅多にない。
 一瞬後にセイの向こう側に閃いた白銀の光。それは正確にセイへ打ち下ろされ、セイもまた唇を引き結んでそれを受け止める。合わせた刃の合間から襲撃者を見る。
 ディアと同じほどの長身だった。ざんばらに伸びた髪と髭は、清潔とは言いがたいものがある。
「セイ!」
「貴方が旅人たちを?」
 事態に気付いたディアが青褪めたが、セイは落ち着いていた。
 問いかける。
 現われた男は無感動に剣を振るう。そして、その男の背後からもう一人が顔を出した。
 ディアは舌打ちする。
「今回も複数かよ!?」
 一人で二人を相手にするのは無謀だ。ランプが倒れないよう離れた場所に置いて、ディアも剣を抜いた。このような狭い場所で剣を振り回すのは得策ではないが、突かれて死ぬのは避けたい事態だ。
 新たに現われた男もやはり不衛生な姿だった。生気を欠いた魚のようなドロリとした目をしてセイに剣を振るう。
 セイは距離を保とうとしたが、その隙を見計らって男が突きを繰り出す。鋭い切っ先に苛立ちが生まれる。そこにディアが割って入る。避ける用意をしていたセイは視界を遮るディアに慌てて剣を引く。繰り出していたらディアを二つに裂いていた。
 男たちは坑道の奥へ走り去る。
「大丈夫か?」
 追いかけることはせず振り返るディアに、セイは危険を冒したという憤りを感じながらも、この場に留まってくれたという嬉しさに溜息を落とした。ひとまず、一人で追いかけて行かれるよりは余程いい。
「ええ。ありがとうございます」
 ディアは笑みを刻む。
「これでこの坑道を塞げば、あいつらの逃げ道はないな」
 何気なく入った坑道で犯人に当たるなど運がいい。ディアの表情は嬉しげに綻んでいる。
「酒場のおっちゃんに言って、町の奴らに固めてもらおう」
 ランプの具合を確かめながら来た道を逆戻りし始めた。セイはもちろん、背後を警戒しながらディアを追いかける。
 長い坑道。戻って外へ出ると、既に夕暮れだった。
「うわ。中にいると感覚ないよな」
 黄昏の光に目を細めて見上げる。縦穴深くにいるディアからは限られた空しか見えないが、茜色に染まっている。本当の地上に出ればもっと鮮烈な朱が空を彩っているのだろう。
「ディア!」
 少し解放感に浸っていたディアは、切迫した声に身を強張らせてその場から飛び退いた。その場を走る、銀光と何者かの影。
「あいつら……っ?」
 坑道の入口にいるディアたちの背後からではなく、横から襲い掛かられた。先ほど対峙した二人だ。いったいどうやって外に出たというのか。
「くっそ。中で繋がってたのか!?」
 訪れたばかりのディアたちには分からないが、長らく坑道を探険していた彼らは坑道も熟知しているのだろう。その点に関してディアたちは不利だ。
「町に出すわけにはいきません」
 セイが後を追いかけた。ディアも彼に続き、共に上層へ駆け上がった。
 男たちが去った方向から悲鳴が上がる。
 何たる失態だと唇を噛む。まだ日が落ちる前だ。安心して外へ出ていた住民をやすやすと危険に晒した。
 走りあがった橋の上では女性がうずくまっていた。辺りには食材が散乱している。買い物帰りだったのだろう。彼女が押さえる腕からは血が流れ出している。
「私が追いますから。手当てを頼みますね」
 ディアは舌打ちした。まさに同じことを言おうとしたのだが、先に釘を刺された。外を歩いていた人々が、抜き身の剣を構えて走る男たちに悲鳴を上げて逃げていく。その場はちょっとした騒動となった。
 ディアは小さくなっていくセイたちの後姿を見送って、うずくまる女性に近寄った。
「大丈夫か?」
 剣を鞘に収めて腕を取り上げ止血する。常に持ち歩いている包帯を取り出し、薬草を押し付けて巻きつけた。その間、女性は呆然としている。ディアにされるがままだ。恐怖によるショック症状だろうか。
「おい、あんた?」
 手当てを終えてもまだ呆然としている彼女の肩を揺さぶる。女性は悲痛な表情でディアを見返した。瞳には恐怖が宿っている。
「なぜ……私が斬られるの?」
 ディアは視線を落とした。
 彼女は涙を浮かべてまた俯き、今度は肩を震わせて泣き出した。
「私は関係ないのに……!」


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 日が落ちて闇が満ちる。
 襲われた女性を送り届けたディアは、セイを捜して街中を走り回っていた。
 ランプは邪魔なので置いてきた。月明かりだけを頼りに見回す。セイの金髪は少しの光があれば充分に目立つ。
 縦穴を走る螺旋階段を駆け下りていると、視界の隅に光が見えた気がして振り返った。
「セイッ?」
 階段の手摺から身を乗り出し、真下に通る橋を見下ろした。そこからちょうど別の坑道へ入ろうとしている金色を見る。いちいち階段を下りるのももどかしく、ディアはそのまま飛び降りた。高さは思うほどない。目測誤ればノンストップで最下層に辿り着けるが、絶対に御免被りたい。なんとか無事に真下の橋に着地できれば安堵が湧いた。
「さってと」
 セイが消えた坑道へ走り出した。
 彼ならば直ぐに男たちを捕まえられると思っていたのだが、手こずっているのか。意外だ。
 青いロープが張られた坑道内に足を踏み入れ、その場でセイの名を大きく呼ぶ。しかし返事はない。自分の声が反響して煩いだけだった。
 ディアは眉を寄せた。
 同じ坑道内にいるなら絶対に聞こえているはずだ。それなのに返事がないのはなぜだろうか。
 ディアは青いロープを確認しながら走り出した。
 危険な真似はするなというセイの渋い顔が目に浮かぶようだったが、無視をする。セイがこの中に入ったのを確かに見たのだ。
 坑道はまだ利用されているのか、一定間隔で明かりが灯されていた。
 足場が悪くて全力疾走はできない。それでもかなりの速度で進んでいると、別の足音が聞こえた。その音も一定の速度を保って近づいてくる。
 ディアは一度、足を止めた。
 音は反響している。前方からか後方からか、どちらから響いてくるのか分からない。だがその音は段々と大きくなる。近づいてくるのは間違いない。
 ディアは逡巡した後に呼びかけた。
「セイ?」
 一瞬、足音が消えた。けれど直ぐにまた聞こえ始める。ただし、先ほどよりも早く、ディアに近づいてくる。返事はない。
 ディアは顔をしかめた。
「……セイ……?」
 次第に高くなっていく足音。いやに早まる自分の鼓動が耳につく。
 足音は一つだ。
 息を整えて剣を抜き、壁を背にして構える。
 そうして。
 ディアは息を呑んだ。
 緩やかなカーブを描いた右の闇に、一対の光る目玉が浮かび上がったのだ。そう思ったのも束の間、壁に灯された明かりに照らされ、薄暗い光の中で赤い唇が三日月につりあがった。
「っ!」
 本能的な恐怖に体が竦む。腹に力を入れて、飛びかかってきた男の剣をなんとか捌いた。闇に溶けそうな黒い服と帽子をまとい、男は剣を振るい続ける。
「お前……エヴィン!?」
 昨夜、橋で襲われた時と同じ格好だ。力強い剣筋にやや押されながら舌打ちする。足場と視界が悪すぎる。
「やめろ! 私は敵じゃない!」
 それでもエヴィンは聞かなかった。何かに憑かれたかのように剣を振り続ける。
 ――これって早とちりとかそういうレベル、っていうか、問題なのか!?
 頬を掠めた剣の腹を柄で弾き、蹴りを入れる。エヴィンは坑道の壁に背中を打ちつけた。だが一瞬後に再び襲い掛かってきた。
 ダメージのない機敏な動きにディアが怯んだその一瞬。
 下から上へ、掬い上げるようにして剣を弾かれた。
「うわっ?」
「あいつらは俺の獲物だ。邪魔をするな」
 邪魔者は排除する、ということだろうか。
 ディアの剣は坑道の天井に当たって闇の中へ消えていった。無防備になったディアを前にしてエヴィンが取る次の行動は、ディアに剣を振りかざすことだった。
 行過ぎた排除行為。話を聞くどころか反抗されて舌打ちする。ふつふつと怒りが込み上げてくる。横薙ぎに来たその剣を、しゃがむことで避けて地面に手をつき逆立ちをするようにして手を蹴り上げた。
 エヴィンが剣を取り落とす。拾われる前に素早く蹴り飛ばす。これで条件は同じだ。
「あいつらはいま、私の連れが追っている。黙って協力」
 言葉の途中でエヴィンは背中を向けた。
「おい!?」
 追いかけようとしたが、彼が逃げたのはディアの剣が弾かれた反対側だ。先に剣を取りに行かなければ紛失する恐れがある。エヴィンと愛用の剣とを天秤にかけ、剣に傾いた。ディアは舌打ちして取りに向かい、首を傾げる。エヴィンから弾いた剣もこちら側に蹴り飛ばしたと思ったのだが、そこにはディアの剣しか転がっていない。手加減する余裕がなかったから、もっと奥まで飛んでしまったのかもしれない。
「放っておいても害はない……よな?」
 自分の剣だけを拾い上げて追いかける。そういえば、ここにはセイを追って来たのだった。しかしそのような気配は欠片もない。もう一度呼んでみようかと息を吸ったが、反響してうるさそうだという結論に行き着いてやめにした。
「どうせまたどっかの坑道に繋がってるだろ、ここも!」
 青いロープを目印にして走り出した。もと来た道を戻り、外へ飛び出す。空には満月が懸かっていてやたらと明るい。
 月光の下、エヴィンを捜すが見当たらない。住民たちも家に閉じこもっている。通りには人の気配すら感じられない。
 異様なほど静かな世界を歩きながら、セイは大丈夫だろうかと思考を飛ばした。
 剣の腕は抜群の信頼性を持っているが、どこか抜けた感のあるあの男は。
 ディアの現在地は、縦穴のちょうど中心にあたる部分だ。上層に行こうか下層に行こうか迷い、ディアは真ん中の橋を渡ることにする。歩きながら辺りを見回す。
 静か過ぎて何も聞こえないというのは恐ろしいものだ。縦穴を風が走ると、誰かが唸り声を上げているような錯覚すら抱く。
 追うべき目標も、行くべき場所も分からなくなってしまった。宿に戻ってもセイはいないだろう。逃げた男たちを捜した方が早い。ひとまず、彼らを見つけた坑道へ行ってみるのもいいかもしれない。
 橋を渡った意味がなくなるが構わない。
 縦穴を走る螺旋階段に戻り、最下層に向かう。その途中で何かの気配を感じ、ふと振り返ったディアは、背後で剣を振りかざしていたエヴィンの姿に瞠目した。
「うわ!?」
 鋭く振り下ろされる剣にはためらいなどなかった。
 ディアは横跳びに剣を避けて橋の手摺に掴まる。橋がわずかに揺れた。エヴィンに対抗するように自身も剣を抜く。気配のなかった彼に、言葉もない。
 最下層まではあと少しだ。飛び降りたほうが早いが、高さはずいぶんとある。万全の状態で飛び降りても衝撃は結構なものだろう。
 ディアを見失って宙を斬った剣。
 エヴィンはゆらりとディアを振り返る。その様にディアは背筋を凍らせた。これまで幾多の修羅場は潜り抜けてきたつもりだったが、彼からはそれらと全く違う恐ろしさを感じる。こうまで寒気がするのはなぜか。分からないまま対峙する。
 乱れた呼吸を整える間もない。再び襲い掛かってきたエヴィンの剣を受け止める。
「いい加減しつこいし! 私たちが争って何の意味があるんだよ!?」
 ディアは半ばやけになって叫ぶ。エヴィンの体力は無尽蔵なんじゃないかと毒づく。彼は息も乱していない。剣を振るう今でも、彼からは必死さが感じられない。ただ淡々とディアを排除しようとしている。
 ――この男は何がしたいのだろう。
 ディアは眉を寄せた。犯人を捕まえるどころか、目的が同じ、いわば同志のような存在のディアを必要以上に付け狙う目的はなにか。
「お前、本当にあいつら捕まえる気あるの?」
 エヴィンは答えない。無言のまま剣を振るう。ディアも応戦して何度か打ち結ぶ。だが明らかに体力が減っているディアに対し、男には何の変化も見られない。本当に体力に底がないのではないかと思われる。
 小さな焦燥がディアの胸に生まれた。
 ――なんかこいつ、精神異常者っぽいんだけど。身内を殺されたから……?
 ディアは思って奥歯を噛み締めた。エヴィンの内心を思って「やばいかも」という言葉が脳裏を掠める。町の者たちは誰一人として応援に出てこない。
 ディアはふと、エヴィンの目を覗き込んだ。
 暗く落ち窪んだ瞳。生気がまるで感じられない。
「ディア!?」
 とつぜん割って入ったその声に、ディアの心が緩んだ。この場に一番来て欲しかった者の声だったからかもしれない。
 声に惹かれたのはエヴィンも同じようだ。すぐ真上に架かる橋を見上げる。
 見下ろしていたのは、金髪と紫紺の瞳を持ったセイだった。
 エヴィンの目が大きく瞠られる。ディアから完全に意識を外す。その隙を見計らったディアは後退しようとし、かかとに当たった何かにバランスを崩した。
 ディアがつまずいたのは橋の手摺だった。
 ディアは、セイが驚いたようにして体を乗り出すのを見た。彼が伸ばした手はディアに届かない。ディアの長身は橋の手摺を容易く乗り越え、宙に投げ出された。
 悲鳴が喉の奥で凍りついた。
 視線をセイに向けたまま落ちる。だが、セイが橋の手摺に足をかけるのを見て目を瞠る。
 ――馬鹿かあいつは!?
 ほとんど一瞬のできごとだ。止める間もなく、セイは橋から飛び降りた。
 落下速度は同じ。セイはディアがいた橋の手摺をさらに強く蹴って速度を上げ、落ちてくディアを掴んだ。さなかにエヴィンを一瞥した。
 エヴィンは落ちていく二人をただ見つめて、消える。
「セイ」
 落ちるのは数秒あればこと足りた。直ぐに衝撃がきた。もともと最下層近くにまでは降りていたのだ。距離は思っていたほど長くない。しかしそれでも、飛び降りようと思える距離ではない。
 衝撃緩和のためにか地面を転がったディアは息を詰まらせて咳き込んだ。
 セイに庇われていたため、打撲は少ないようだ。落ちた衝撃で体の節々が痛むだけ。意識を飛ばすこともない。安堵するよりも先に、動かないセイを見て慌てて起き上がった。
「おい、セイ!?」
 セイの服はあちこちが擦り切れていた。
「セイ、起きろっ?」
 反応がない彼に焦る。落ちるとき、なにもかもセイが請け負ったのが無茶だったのかもしれない。
「おい!」
 こういうときって揺らしたらまずいんだっけか!?
 かなり揺らした後にそう思い返し、ディアは舌打ちした。セイの体を横向きから仰向けにさせようとし、相手の意識がないとき仰向けにしたら呼吸困難になるんだっけか、なんだっけ? とやや混乱気味の頭で考える。
「いや、でも人工呼吸するときはみんな仰向けにしてるしなっ?」
 少し思考がずれ始めたディアは、階段からエヴィンが下りてきたのを見て頭が冷えた。素早く立ち上がって、セイを背にするようにエヴィンと相対する。
 まだ戦うつもりなのか。エヴィンの手には剣が握られている。
 ディアも合わせて剣を構えようとし、鞘に剣がないことに気付いた。さきほど剣を持ったまま落ちたことを思い出し、落としたのだと思い至る。素早く視線で探すが、近くに剣は転がっていない。
 エヴィンを睨み付ける。仕方ない、と腰を落として体術の構えを取る。
「くっそ。格闘技はあまり得意じゃないんだがな!」
 それも、エヴィンと戦う意味がない。無駄な労力を割きたくないのが本音だ。いますぐ正気に戻ってくれないかと強く思う。だが、文句は言っていられない。背後にはまだ動けないセイがいる。彼を放って逃げるわけにはいかない。自分でなんとかしなければと呼吸を整える。
 とりあえずセイを巻き込まないよう場所を移そう、とディアはエヴィンから意識を外さないまま、ゆっくりとセイから離れ始める。エヴィンは上手く誘導され、ディアに近づいてきた。場所を変える。
「……もう大丈夫ですよ」
 穏やかな声がした。
 ディアは思わず振り返った。そこにはセイがいる。起き上がり、笑みを浮かべていた。痛みはもちろんあるだろう。しかし無事な様子に安堵が湧く。
 微笑んだディアは我に返り、慌ててエヴィンに意識を戻した。絶好の機会だったにも関わらず、エヴィンはその場を動いていなかった。セイを見つめている。
 セイはゆっくりと立ち上がる。少し辛そうに顔をしかめるが、直ぐにその表情を払拭すると立ち上がった。彼の体が揺れたと思ったのは錯覚ではない。セイは眩暈に耐えるように瞳を強く閉ざし、小さく息を吐いた。その動作すべてをエヴィンが見つめていた。気付いたセイは微笑む。
 エヴィンに向かって進もうとするセイを思わず止めようとしたディアだが、セイは柔らかな動作でそれを逃れ、ディアとエヴィンの間に立つ。両腕を上げた。戦闘放棄を示すかのようだ。そしてそのまま左手で、とある坑道を指した。
 エヴィンとディアはそちらに視線を向ける。
 一番最初に下調べで入った坑道だ。ぽっかりと暗闇が口をあけるその坑道の前に、今は光が浮かんでいた。金色の光だ。だが、ランプの明かりではない。
 ディアは思わずセイを振り返った。セイは相変わらず隣にいる。それならばあの金光は――? と首を傾げ、金にまつわるもうひとつの記憶を思い出した。
 昨日、一昨日、とディアの前に現れた幼女。
 思い至ったディアは思わず後退した。その様子に気付いたセイが首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「どうかって、お前」
 ディアは言いよどんで口をつぐんだ。何も言わないことにする。気付かれてたまるかと決意は固い。ありがたいことに、追及されないまま話題は変わった。セイはエヴィンを誘った。
「一緒に行きましょう?」
 ディアは眉を寄せて二人を見た。先ほどまで耳を貸さなかったエヴィンが、セイの言葉を素直に聞いている。不思議な光景だ。
「……あの中には行きたくない」
「でも行かなければ。貴方のさがしものを認めなければ」
 セイはエヴィンに手を伸ばした。
 エヴィンは坑道で待つ幼女とセイを見比べる。迷うような足取りで歩き出した。その後姿をセイも追っていく。ディアが後に続かないことに気付いて振り返り、ディアの腕を取る。
「……なんであの坑道に入らなきゃいけないんだ」
「なんでって……今回の仕事のすべてがあの坑道にあるんですよ、ディア。すべて見届けなければ報酬も貰えないんじゃないですか?」
 ディアは唸った。報酬が貰えないのではただ働きだ。それだけは御免被りたい。
 だがしかし。
 坑道の前ではいまだ幼女が微笑んでいる。半透明な体を揺らめかせて。その微笑みにディアは意識が遠のいていくのを感じていた。
「私が追っていた二人組みも、あの中で縛り上げているんです」
 セイは結局あの男たちを捕まえていたのか。だが、それでも分からない。エヴィンに向けられた言葉の意味も、彼らの関係も。それは知りたい。だが、あの坑道には絶対に入りたくない。
「行かないんですか? ディア」
 重ねて問われ、ディアは言葉を失う。あまりためらっていては不審に思われ、裏の意味に気付かれるだろう。これ以上、弱味を晒したくないというのに。
 ディアは思い切り不機嫌な表情となり、今まで以上に力を込めて、坑道を睨みつけた。
「――行くに決まってる」
 歩き出した。