親の心子知らず

【一】

 空がようやく白み始めた頃。
 ふと意識を浮上させたディアは朝の気配を悟って寝返りを打った。もう少しだけ温もりを貪っていたい。そんなささやかな欲望に浸る。だが途中、一人でいる寝台にはありえない温かさに触れた気がして、恐る恐る目をあけた。
 その直後。
 視界に飛び込んできた人物の姿に悲鳴を上げて、寝台から転げ落ちた。


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 ディアが尻餅をつく重たい音が部屋に響いた。
 痛みに腰をさすって元凶を睨みつける。
 “それ”はディアが落ちる音で起きたのか、それとも今まで起きていたのか、分からないが素早く上体を起こすと寝台の端に寄ってきた。床に足を投げ出すディアを見て苦笑する。細い腕を伸ばした。
 ――男だというのになんでこんなに細くて頼りない腕をしてるんだ、こいつは。
 せめて外見通りの力の持ち主であってくれれば、気苦労も少しは軽くなっているはずなのに。
 ディアは伸ばされた腕を乱暴に払った。紅潮した顔には“不機嫌”の三文字しか存在していない。打ち付けた腰が痛みを訴える。潤む瞳で睨みつけるが、目の前の人物には効果がない。何しろ鋼の心臓の持ち主だ。
「いい加減にしろよお前!」
 ディアは高鳴る心臓を押さえるため、手を胸に押しつけ、肩を怒らせて叫んだ。
 ――理不尽すぎる。なんで私が毎回毎回、朝っぱらから怒鳴らなきゃいけないんだ。いい加減に言うことを聞きやがれ。大人しく無害だと信じていた飼い犬に手を噛まれた気分だ。裏切りだ。
 ディアは、毎回のように寝台に潜りこんでくるセイに、大声で怒鳴った。
「せっかくの宿代がもったいないだろうが!」
 身の危険度よりも金の危険度が高かった。頭が完全に働いていない状態なので、怒りポイントがずれているのだろう。口走るディアを見ながらセイは首を傾げる。表情は穏やかだ。そんな彼の仕草にディアはますます紅潮した。怒りと恥ずかしさと、両方だ。
 夏祭りが開催された町を発ってから、ディアは非常に疲れる毎日を送っていた。
 『セイからの嫌がらせが増えた』
 ひとえにこれに尽きる。
 まず、前触れもなく抱きつかれる。そして、食えと言わんばかりにスプーンが突きつけられる。さらに、楽しげに髪を弄ばれる。などなど。そのほか数え切れないほどの嫌がらせを受けてきた。ディアの忍耐力も底を尽き始めている。
 哀しいかなセイの愛情表現は欠片も伝わっていない。
「ですから部屋は一つで構いませんと言ってるではないですか」
「それこそふざけるな!」
 セイは怒られてもまったく堪えない。それどころか、怒るディアを見て嬉しそうだ。当然ながらディアは更なる怒りに包まれる。
 数ある嫌がらせのなかでも最大の嫌がらせはこれ――いつの間にかセイが隣で眠っている、だった。これが最も心臓に悪い。
 朝起きて、朝日を反射して輝く金髪が眩しい。眩しいどころではなく、痛い。脳天にくる眩しさだ。非常に困る。吐息が聞き取れるほど近くで眠るセイを見ると殴りたい。そして今の季節は夏だ。セイが隣にいると冗談ではなく暑い。近寄るな。
 ――いや、この際、そんな些細なものは我慢してやろう。
 ディアは内心で拳を震わせながら独白する。
 1つ、どうしても我慢できないものが存在する。これはディアにも自覚があり、常々直したいと思っている癖なのだが――どうやらディアには、眠ると近くにあるものを抱きこむという癖があるらしい。いつからそんな恥ずかしい癖がついてしまったのか分からない。しかし、これが非常に曲者だ。毎回ではないが、かなりの頻度でそれはあらわれる。最近ではセイが側にいるため、枕代わりに彼を抱きこむことがしばしばだ。ディアが望もうが望むまいが、無意識なのだからタチが悪い。
 毎朝、隣にセイを見る。昨夜は一緒に寝た覚えがないのにだ。しっかり彼を抱えて目覚めたときは悲鳴を上げるしかなかった。初めてそんな癖があらわれたとき、自分は記憶がなくなるほど疲れているのかと、真剣に心配したものだった。
 ディアは歯軋りしたい気分でセイを睨んでいたが、不意に脱力した。
「もう、いい」
 白々とした光が窓を染めていたが、実際の太陽はまだ顔を見せていない。今の気温から考えても、今日も暑くなりそうな予感だ。
 ディアは無言で立ち上がる。寝起きで怒鳴って痛い頭を押さえる。眉を寄せながら扉に向かう。
「朝練にはまだ早いですよ?」
「……寝る」
 追いかけてくるなよと言外で告げたディアは扉をあけた。今は無人になったセイ本来の部屋に向かう。彼の部屋に入ると、整然とされていた。まったく手をつけられていない。寝台のシーツですら真新しい。一度も使っていないのではないかと思わせる。
「……なに考えてんだ、あの馬鹿」
 ディアは倒れこむように横になった。直ぐに眠りが訪れる。朝日が完全に昇るまでは――と心地よい惰眠を貪る。
 ふと目を覚ましたディアは、早朝と同じ衝撃に寝台から転げ落ちて、怒鳴り声を上げることになる。
 そんな朝の一幕。


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 夏は各地で催し物が開かれ、人手が足りないところが多く、稼ぐには困らない。
 町に寄るたびに稼いでいたため、今では旅費に多すぎるほどの額が溜まっていた。半年ほど遊んで暮らせそうな大金だ。
 その半分を、ディアは価格変動で利益を見込めそうな現物に変えていた。それでも余裕があるときは酒場に預ける。いたるところで預けているため、盗まれたときは一番近くの酒場に行って下ろすことができる。
 ラミアス領でディアがそうしなかった理由は、受け入れる前に盗難に遭ったからだ。
 旅人が酒場の貯金窓口を利用することは珍しいだが定住する庶民にとってはありがたい預金場所として重宝されている。酒場には屈強な傭兵や用心棒、または公式な場所から派遣されてきた兵士がついているため、安全面では困らない。
 王侯貴族たちには全大陸のどこでも引き出し可能な専用の預金窓口があるのだが、あいにくとディアには縁のない話だった。
 そうしてディアは、今日もまた、いつ再び訪れるか分からない街の酒場で預金をしようとしていた。
 朝から怒鳴りっぱなしでディアは機嫌が悪い。そのことを隠しもせずカウンターで亭主を呼びつける。呼びつけられた亭主は哀れだ。
「ねぇディア。そろそろ地図も足りなくなってきましたし、書き足しておきますね」
「あ? ああ、頼む」
 やりとりを窺っていた亭主が奥から地図を出してきてセイに渡した。
 ディアは亭主に紙幣を預けながら、楽しげに地図を広げるセイを何となく見守る。
「あんたの連れ、別嬪さんだねぇ」
 亭主がほんのりと頬を染めて笑みを見せる。ディアはカウンターにうな垂れた。聞き流すことにした。
 亭主から渡された紙に、無心で必要事項を綴る。
 預けた人物の名前。預けた日にち。預けた酒場の名前と町の名前、そして合言葉。お金を下ろすときにも全てが必要となってくるのだから、大変だ。保存用に同じものを書くが、合言葉だけは同じ紙に書くことはできない。もしも落としたとき、なりすましを避けるためだ。ただ、預ける酒場ごとに合言葉を変えていたのでは膨大な合言葉の数が必要となるため、ディアは毎回、同じ言葉にしている。
 絶対忘れない言葉。
 ――ティイバーレ=ディーラリア=セイン=アーネット。
 何かの呪文のように長い合言葉。これならば一見しただけで覚えられることはない。誰かが耳にしただけで覚えられることもない。
 昔、兄に笑いながらそう言われたことがある。苦くて懐かしい思い出だ。
「ほら。これを頼む」
 書付と共にお金の入った袋を差し出すと、亭主は目を瞠りながら受け取った。かなりの金額になるからだろう。
 ディアは渡した紙の控えを受け取り、セイの近くに寄った。楽しげに地図を書き写している。おおざっぱなディアと違って、セイは細かく丁寧に写していく。とても見やすい綴り字だ。
 ディアは眉を寄せた。悔しい。
 そう思った所でセイが顔をあげる。
「ラミアスから結構な距離を歩きましたが……次はどこへ行きますか?」
 セイは大陸地図にあるラミアス領を指し、軌跡を辿りながら現在地のバーラル領を指した。このまま進めば寒冷地帯に出るだろう。雪に閉ざされた場所だ。
 ディアは考えるように顎に指をあて、地図を見つめた。北へ行くならば何の問題もない。今は夏だから丁度いいかもしれない。この暑さには閉口する。
「進路は変わらない」
「はい」
 セイは小さく笑みを零した。北に進路を取るに至ったディアの心情を理解しているのだろう。そんな表情にばつが悪い思いをし、ディアは睨む。セイは素早くペンを走らせた。
 流麗な文字だ。字体は本質を表すというが、釈然としない。
「今日はこのまま町を出ますか?」
「んー」
 特に目を惹くような特色もない街だ。
 ディアは地図に目を落とし、次の街までの距離を測って頷いた。
 今から街を出ても、次の街までは充分に辿り着ける距離だ。商人の行き来が盛んであるため街道も整備されている。問題はないだろう。
「できました。これでまたしばらくは大丈夫ですね」
「おお」
 セイは笑顔でディアを見上げた。最近のセイはやたらと機嫌がいい。
 ディアが「上出来」と審査した後は地図を丸めて亭主に返す。さぁ早く行きましょうとばかりにディアの腕を取る。
 ディアは出された水を飲み終えてからセイの手に従った。


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 子どもの泣き声がした。
 街道を歩いていたディアとセイは顔を見合わせる。声の出所を探ろうと首を巡らせ、街道沿いの林の中から聞こえてくることに気付く。
「子ども……?」
「こんな所にですか?」
 赤子の泣き声に似た声で旅人を惑わす獣もいるので油断はできない。しかしそんな獣は人里から離れた山奥にしか存在しない。街道が整備され、人が行き交うここに程近い林を棲みかとするなど考え難い。それに、大きな街が側にあるのだ。もしも危険な獣が棲みついたと噂が流れたら、騎士団が放ってはおかないだろう。
 二人は少しためらいつつ林に踏み入った。行けば分かることだ。もし獣だとしても、群れから離れた一匹ぐらいだろう。それぐらいならばディアやセイの敵ではない。
 声の正体は直ぐに分かった。
 林の中には大きな川が流れており、近くには灌木があった。複雑に絡み合ったそれが泣き声の正体を隠していたらしい。まだ五つにもなっていないような小さな子どもが、川辺に座り込み、膝を抱えて泣いていた。
 枝を踏み鳴らして近づくと子どもが怯えた。体を震わせ、緊張させてディアたちを振り返る。
「どうしました?」
 子どもに声をかけたのはセイだ。
 ディアは彼の背後から、子どもの周囲を警戒しながら近づく。あまり考えたくないことだが子どもを囮にして襲う盗賊たちがいたりもするのだ。だが、ディアの考えは杞憂だったらしい。辺りには何の気配もない。子どもはディアたちの姿を認めると、更に大きく泣いて駆け寄ってきた。
 子どもはセイを通り抜けてディアに抱きつく。
「振られてしまいましたね」
 セイが「残念」と肩を竦める。
「残念、じゃねぇ。子守はお前の方が得意だろうが」
 ディアはうんざりとしながらも、しがみつく子どもを抱え直した。泣き止めとばかりに背中をさする。泣いている子どもの体温はかなり高く、正直早く離れて欲しい。
「お前一人か?」
 子どもは答えない。
「迷子でしょうか」
「こんな林の中でかよ」
「かくれんぼに熱中して、街から離れたことに気付かなかったとか……」
 そう言い合った後、二人の間に何とも言いようのない沈黙が流れた。二人は子どもに視線を向ける。
 よそ行きだと思われる服を着て、真新しい靴を履いて、ただ泣きじゃくる子ども。遊びに熱中してここまで来たとはとても思えない。
 ディアは徐々に弱まる子どもの泣き声を聞きながらもう一度子どもを抱え直した。その瞬間、子どもの重さが倍近く増した。
「ディア?」
 体勢を崩しかけたディアを不審に思ったセイが首を傾げる。
 子どもを落としかけたディアは慌てて持ち直し、ため息をつく。
 ディアに全体重を預けた子どもは眠っていた。先ほどまで泣いていたとは思えない速さだ。子どもの眠りは突然だと聞いたことがあるが、これほどまで早いのかと呆れてしまう。
 寝顔は愛らしいものだった。しかしどことなく寂しさを漂わせている。
「……次の街まで行くか」
「え。けれど迷子なら、いま出てきた街の方が近いのでは?」
 子どもの足ではそう遠くまで行けない。子どもが迷い出てきた街の可能性は、いま出てきた街の方が高い。だがディアは譲らなかった。
「そうなったら親が困るんだろう」
 子どもは完全に眠っている。それでも憚られる内容のため、ディアはセイに耳打ちする。
「里親を捜すなら、他の町の方が都合がいい」
 一瞬にして意味を悟ったセイがディアを見た。次いで子どもを見る。何か言いたげに口が開かれたが、言葉が出てくることはなかった。