親の心子知らず

【五】

 冷え切っていたディアは湯船に浸かって体を温めることを余儀なくされた。
 宿で利用した湯殿よりも格が上だろう設備を、ディアはゆっくりと浸かりながら観察した。屋敷の持ち主はずいぶんと羽振りが良さそうだと分かる。贅沢にも温かなお湯が流れ続け、湯船からも溢れ続けている。溢れたお湯はそのまま排水されるのだろう。お湯の温度が一定に保たれるような設備だ。蛇口もないため、お湯は留まる所を知らない。もしや近くに天然の温泉があるのだろうかと思うほどだ。これまで見てきた町の様子には不釣合いな贅沢さだった。
 充分に温まったディアは香りのついた石鹸を泡立てる。婦人に似た柔らかな匂いが浴室いっぱいに広がった。思わずディアは石鹸を見つめ、どれほど高価な物なのかと値段を考えた。この石鹸一つで一ヶ月は食べるに困らないはずだ。香水や宝石は貴族の楽しみで、一般市民にとっては手が届かないほど高価なものなのだ。
 ディアはしばし石鹸を凝視したあと、力を込めて泡立てた。必要以上に泡立て、柔らかな感触に驚きながら体を洗う。上品な匂いを肺一杯に吸い込みながら、やはりこのような高貴さは似合わないなと苦笑交じりに思う。石鹸を更に泡立ててついでに髪まで丹念に洗う。洗い流しても匂いをまとったままだろう。
 ディアはふと溜息をついて浴室を出た。扉を開けた瞬間、脱衣所に立つ見知らぬ女性に体を強張らせる。子どもを助けてくれた女性とはまた別の女性だ。ディアが警戒していると女性は微笑み、近づいてくる。
 彼女がバスタオルを持っていることに気付き、もしかしたらここの使用人や侍女のような者だろうかと思う。違ったら大変な失礼にあたるが、浴室から上がったディアを待っていたかのように近づいてきた彼女を見て確信する。
「自分で出来るから下がっていてくれ」
 バスタオルを掴んだディアは固い声音で告げた。同じ女性といえど体を見られることが嫌だった。女性は驚いたように目を瞠ったが、余計な口は挟まずに一礼して脱衣所から出て行った。使用人の質の高さが窺われる。
 ディアはため息をつきながら手早く着替え、なぜこのようなことになったのか、再び頭を悩ませた。湯船に浸かりながらも考えていたことだが、のぼせそうだったため途中で放棄したのだ。
 浴室に案内されるまでの廊下には歴代当主の肖像画が飾られていた。ところどころに配置された調度品にも、質素ながら趣味の良さを窺わせる物ばかりだった。
 裕福な屋敷らしい。
 ディアはいつもの旅装束に着替え、腰帯を巻いた。帯から連なる貴金属が澄んだ音を奏でる。現金に困ったとき、いつでもお金に替えられるようつけている物だ。細かな宝石の粒たちだ。
 ディアは腰帯から宝石を外し、しばし眺めたあと首に巻いた。小さな無数のきらめきが胸元を飾る。かぶりを振ってディアは見下ろし、あまりに似合わぬ自分に小さく笑った。
 顔を上げ、川に飛び込んだ男を思い出した。
 歴代当主たちが並ぶ肖像画の一番最後に、男の肖像画があった。どうやら彼はこの屋敷の主だったらしい。橋で子どもを助けた女性とも知り合いだということは確定している。年齢と雰囲気から想像して、二人は夫婦かもしれないと思う。二人が使った『ミーちゃん』という愛称は、二人の子どもの物かもしれない。
「ご案内致します」
 廊下に出たディアは待ち受けていた女性に驚いた。
 先ほど脱衣所から追い出した女性だった。彼女は親しみを込めてディアに微笑みかけ、先導するために歩き出した。
 ディアは複雑な胸中となる。彼女が向ける笑みには、単なる客人としてではない親しみが込められていた。それほど自分は似ているのだろうかと眉を寄せる。
 案内された食堂には長い食卓が置かれていた。席にはセイたちがついている。婦人とセイと、そして橋から飛び降りた男までもが共におり、和やかに談笑していた。セイの隣に座る子どもは退屈そうに欠伸を噛み殺している。
 ディアの登場に気付いたセイが微笑んで手を振った。
「ディアさんと仰いましたね。主人がご迷惑をおかけしたようで、大変申し訳ありません」
 セイの隣に腰掛けたディアへと婦人が微笑みかけた。その優しい笑顔に「いいえ」と返そうとしたディアだが、その隣で笑みを浮かべている男を見て、言葉を変えた。
「そうですね。物凄く迷惑でした。もう嫌ですから、繋いでおいてください」
 婦人は「あらあら」と頬に手をあて、セイは「ディア」とたしなめる。
「本当にそうね。気をつけますわ」
 温和な雰囲気を崩さず真面目に返す婦人にディアは苦笑する。
「お詫びに夕食をご馳走しますから、それで許して下さいな」
 ディアが席につくと同時に、食卓には様々な食事が運ばれてきていた。食欲をそそる匂いを放っている。もちろんディアに否はない。鷹揚に頷いてみせる。
 子どもは目の前に並べられるご馳走に目を輝かせ、手掴みで取ろうとした。それに気付いたセイが小さく嗜める。小皿に盛り分けて食べやすいようにスプーンを握らせる。
 そうしていると本当の親子、兄弟のようだ。
 ディアがそう思っていると、子どもに一段落ついたセイが振り返った。
「ディア。いま彼らと話し合っていたのですが、ここに預けてはどうかと」
「え?」
 ディアは目を丸くした。婦人たちを見ると、二人とも真剣な表情でディアを見つめていた。
「既に承知かと思いますが、私たちにはディアさんにとても良く似た娘がいたのです。数年前に他界してしまい、私たちにはもう子もありません。聞けばその子どもはお二人と血の繋がりがないとのことでしたし、預ける場所を探していたと伺っております。あてがないのならばどうか、私たちに預けて下さらないかしら」
 ああ、この夕食はそのために用意されたのだなと、ディアは唇を引き結んだ。
 子どもに視線を移して瞳を細める。
 たった数日間だが、情はけっこう移っていた。食べ物を零す姿でさえ可愛らしく感じる。
 ディアは男に声を向けた。
「ちょっと聞いていいか? あんた……何のつもりで私に声をかけた」
 さすがに男は妻の前で大人しく食事を摂っていたが、ディアの声に破顔した。
「ロードだ。ディア」
 初めて名前を呼ばれたディアは少しだけ瞳を見開かせた。
「何でかって聞いたか? そりゃあ最初はまじでミティアが戻ってきたと思ったからさ」
「……いま話してるあんたは一応まともそうだから言うが、勘違いのふり装ってまで付きまとって来てただろう」
 大迷惑だったんだ、と睨み付けると、ロードと名乗った男はにやりと片頬を歪めた。
「楽しそうだったからだな。からかい甲斐がありそうで、実際からかい甲斐があったし」
「ああ、そう……!」
 ディアは頬を引き攣らせながら語気荒く頷いた。そうしながら「やはり馬鹿か」と思う。人をからかうためだけに川にまで飛び込むような奴なのだ。
「とまぁ、それは建前で」
「嘘付け」
 断言するとロードは苦笑した。
「ちょっとな。ミティアがいなくなってから俺は不安定だったのさ。だから、ディアと一緒にいれば少しでも取り戻せるかと思った。嬉しかったんだよ」
 ロードの横では同じように婦人が顔を歪めていた。
 ディアの胸に苦いものが込み上げる。父が亡くなったと知ったとき、味わった気持ちだ。どのように不安定だったのか聞くまでもない。
「ディアがあんまりミティアとそっくりな反応を返すもんだから、なかなか……な。おまけにセイなんていう奴がくっついてるし。父さんは心配だったのだよ」
 最後だけ妙に嘘臭く響いた。胸に手を当てるロードを睨み付ける。
「で、相談なんだが、預かっては駄目か?」
 ふざけた態度の裏にあった真剣な眼差し。
 ディアは迷い、セイを振り返った。彼は成り行きをただ見守り、ディアにお任せしますと微笑んでいた。それを聞いてディアは嘆息した。答えが決まっていることなど、セイには分かっているのだ。
「条件が三つある」
「なんだ?」
 身を乗り出して顔を輝かせたロードに手を翳し、飛んできたつばを避ける。ロードの隣では婦人も真剣な表情でディアを見つめている。ただ一人、話の中心にいるべき子どもだけが無心に食事を続けている。
「まず一つ目だが、子どもが嫌がったら白紙に戻す」
「もちろんだ」
 二人は頷いた。
「二つ目は、情操教育をしっかりすること」
「おう」
 これにも二人は真剣に頷いた。
 ディアは頷き、少し間をあけて首を傾げた。
「で、三つ目だが」
 言葉を区切らせてからロードを見た。二人は何を言われるのかと心持ち体を乗り出している。
「もし、子どもがこのまま言葉を話せなくても、私の名前をつけるのだけはやめろ」
「ちっ」
「ちってなんだ、ちっ、って!」
「冗談に決まってるじゃないかディア。お前は表情豊かだなぁ!」
 笑い声を上げたロードに、ディアは卓の下から靴を投げ飛ばしてぶつけた。行儀が悪くてセイに足を叩かれた。ディアは無視してロードを睨む。
「言っておくが、死んだお前の娘っていうのもなしだぞ。ちゃんと考えて呼べよな」
「分かってる。分かってるって、ディア」
 怒られても決してめげずにロードは笑う。その隣では婦人も嬉しそうに笑い、涙を浮かべている。ディアは婦人の様子に鼻白んで溜息をつき、子どもに話しかけた。
「おい」
 肩を叩くと、一心不乱に食べていた子どもが振り返る。何だろう、と問いかけるように瞳を丸くしてディアを見上げる。
 ディアは一つ間を空けたあと、告げた。
「今日からあの二人がお前を守ってくれると言ったら……泣くか?」
 果たして理解できるのだろうか。
 見守る皆の視線の中、子どもは驚いたように目を瞠り、指された場所に座る二人を見た。セイの言うとおり、言葉はしっかりと理解しているようだ。子どもは不安そうにセイを見る。だがセイもかぶりを振るだけで、あえて何も言わない。子どもは考え込むように沈黙する。
 そんな中、ロードが恐る恐るというようにディアに体を乗り出した。
 この男でも緊張することはあるんだ、とおかしさを噛み殺しながらディアは耳を傾ける。
「ディア。俺は『おじさん』と呼ばれるようになるのか?」
 その問いかけに若干肩の力が抜けたものの、ディアは持ち直して考えた。いきなり“父さん”“母さん”と呼ばせるよりはよほどいいと思うが、やはりこういうことは早いうちから呼ばせておいたほうが、のちのち不都合がなくなるのだろうか、とディアは思った。
 考え込むディアを見ながらロードは唇を尖らせた。
「俺としては、『おじさん』よりも『おにいさん』と呼ばれるようになりたいなぁ、と。なんだよその目は。中年親父の繊細な心中を察してくれ」
 ディアは子どもに向き直ると、真剣な表情で言い含めた。
「この男のことはこれから『おじいちゃん』とでも呼んでやれ」
「ディアーーっっ!」
 本気で泣きそうに叫ばれたが構うものか。
 ディアは鼻で笑い飛ばした。
 二人のやりとりに子どもは笑い声を上げ、嬉しそうに両手を叩いて喜んだ。


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 里子に出されると聞いて、子どもに嫌がる様子は見られなかった。言葉での疎通が不可能なため態度で判断するしかないが、子どもを屋敷に置いても、逃げ出すようなことはしないだろう。ディアたちはロードたちに子どもを預けることに決めた。
 婦人は嬉しげに子どもの手を引いて、二人で寝室に消えた。子どもと繋ぐ手が優しいと感じたのは、ディアの気のせいではないだろう。子どもは婦人の手を握り締めて放さない。
 酒を飲みながら婦人を見送るロードの瞳は潤んでいた。
「不憫だよなぁ。俺らには長い間、子どもができなかった。やっと生まれたと思ったら俺らよりも先に逝っちまって、あいつも一時は錯乱状態に陥ってたんだ」
 ディアたちも付き合って食堂に留まり、ロードに酒を注ぎ足す。もちろんディアも遠慮なく杯を傾け、セイには冷茶を注ぐ。
「ありがとな。明日、家族で役場に行ってくるよ」
「もし、本当の両親が現れたらどうする。ただの迷子という可能性もあるぞ」
 ロードは笑った。
「本当に心配してるなら帰すさ。それがあの子のためでもあるし、あの子の両親の気持ちも分かるしな。一日だけでも夢を見させてくれて、ありがたいと思う。だが、たとえ迎えにきても、子どもが嫌がる様子を見せたら、親権を引き渡してもらう」
「そうか」
 林の中に置き去りにするくらいだから、ろくな両親ではないかもしれない。
 だが子どもに着せられていた服は、貧困な民からすれば贅沢なものだった。もしかしたら思いやりのある両親だったかもしれない。ディアには分からない。
「で、お前ら」
 不意にロードの顔が輝いた。
 セイが顔を向け、ディアは視線だけを彼に向けた。
「結婚はいつなんだ」
 ディアは飲んでいた酒を思い切り吸い込んだ。
「ディアが承知しない限りは当分先ですが」
 まともに答えるセイを構う余裕もないほどにディアは咳き込んだ。
「ディアが素直に頷く女かよ」
「そうですか? 行動は素直ですよ」
「黙れお前!」
 これ以上なにか言われる前にと、ディアはセイを怒鳴りつけた。セイは「なぜ私が」と不満げな顔をしたが、色々と話されて不味いのはロードよりもセイにある。セイを止める方が先だ。
「だいたいなんでそういう話になるんだよ!?」
「なんだ。そういう関係じゃないのか?」
「どういう関係だっ?」
 椅子を倒す勢いで立ち上がった。セイが隣で器用に椅子を支える。
「私はもう寝る! 明日、この町を出るからな。セイ、分かってるよな!?」
「ええ。もちろん」
 微笑むセイに念押しをして、ディアは真っ赤な顔のまま部屋から退出した。セイがついてこないことに気付いて眉を寄せる。恐らく彼はロードと男同士の話に花を咲かせるのだろう。
 ディアは迷った。セイに余計なことを話される前に連れてくるか、それとも知らないふりをして寝てしまう方がいいのか。目の前で妙な話をされるくらいであれば、知らない所で勝手に話をされた方がまだましのような気がした。その内容を思えば身悶えしたくなるが、ロードがセイを掴まえている限り、セイが寝台に潜りこんで来ることもないだろう。
 究極の選択だった。
「……いいか」
 ディアはその場でかなり迷った挙句、用意された寝室に足を向けた。
 今夜のことは忘れようと決める。男二人が何を話しているかなど、知らないことだ、と強引に自分を納得させた。


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 翌朝、目覚めたディアは大絶叫した。
「なんでお前がここにいるんだよっ?」
 しばらくして廊下を駆けてくる慌しい音がして、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「どうしましたディ……ア……?」
 扉から入ってきたのはセイだ。彼はディアよりも早く目覚めていたらしく、着替えていた。恐らく廊下を歩いて朝の散歩をしていた時にディアの悲鳴と遭遇し、駆けつけたのだろう。
 息を切らせたセイは、ディアの寝台で横になっている人物を見つけ、紫紺の双眸を剣呑に細めた。
「……ロード」
 ディアの横にいたのは、眠そうに欠伸を噛み殺す、はた迷惑な男だった。
「おはよう、セイ。今日も良く晴れてるなぁ!」
 はっはっは、とあからさまな笑い声を上げる彼の視線は窓に向けられていた。
 セイはゆっくりと口を開いた。
「なぜ貴方がここで眠っているんですか?」
「飲みすぎて部屋が分からなくなってたんだな、きっと」
「ワイン瓶六本あけておきながら、ふらつくこともなく部屋に戻ったのは誰ですか!」
「忘れたなぁ」
 二日酔いなど全く感じさせない彼に、セイは壮絶な笑みを見せた。壁に張り付いたままのディアが思わず息を呑むほど剣呑な笑みだった。他者を圧倒する美貌を備えた者にそのような表情をされると、理由もなく許しを請いたくなる。
 ロードの頬が引き攣ったがもう遅い。笑みを浮かべたまま淡々と部屋に入ってきたセイに、問答無用で連行された。
「待て。話せば分かる。娘みたいに思ってるディアに何かするはずもないだろうっ。ちょっと、昔に戻ったみたいで懐かしいなぁって、聞いてるか人の話っ?」
 二人の姿はあっというまに廊下に消え、声も遠ざかっていく。ロードに応える声はない。
「なんだ、あれは……」
 部屋に残されたディアは毒気を抜かれて呟いていた。
 そんなディアの耳に、大人とは全く違う、軽い足音が聞こえてきた。
 廊下を走るその音はディアの部屋の前で止まり、小さな顔が扉から現れる。
「おはよう」
 ディアは表情を和らげて挨拶した。笑みを見せると子どもは安心したように入ってくる。ディアに近づき、挨拶を仕返すように腰を折って礼をする。髪の毛が一度前に来て後ろに戻るくらいの勢いがついた礼だ。その行動が可愛らしく、ディアは笑みを浮かべながら子どもの頭を撫でた。
 子どもはしばらく笑顔でディアの手を堪能していたが、急に部屋を見回し、何かを探すような素振りを見せた。
「何を探してるんだ?」
 子どもはディアを見上げ、首を傾げた。ディアの服を両手で掴む。何かを訴えるように見上げてくるが、ディアには見当もつかない。
「あらあら。なんともなかったようね」
 新たな声に顔を向けると、リン婦人が部屋に入ってくるところだった。頬に片手を当てて部屋を見回している。その仕草は子どもと同じだ。
「その子、貴方の悲鳴が聞こえた途端に部屋を飛び出して行ってしまったのよ」
 その行動が意味することは一つしかない。ディアの身を案じて来たのだ。
 ディアは思わず子どもの体をぎゅっと抱き締めた。
「なんともない。朝起きたら、むさ苦しい動物が隣にいただけのことだ」
「あらあら」
 笑っているのか驚いているのか困っているのか、彼女はなんとも表現できない表情を作った。ディアはそんな婦人をしばし眺めたあと立ち上がった。
「私たちはそろそろ行かないとな」
「朝食の用意はできていますよ?」
「いや……せっかくだが、遠慮する。次の街まで少し急ごうかと思うから」
 ディアは罪悪感を覚えながらそう告げた。婦人は残念そうな顔をする。
 ――確かに、次の街まで距離は結構ある。しかし朝食くらい一緒に摂る時間はある。それでも、朝食を一緒に摂ったらそのままずるずると居付きそうになってしまって、恐ろしさを覚えたためだ。自分を娘のように見る眼差しにあらぬ感情を刺激される。なるべく早く、この街から出たかった。逃げるようで癪ではある。
 子どもを放すと、寂しそうにディアの服を掴んだ。
「いつかまた寄ってやるから。それまで元気でな?」
 子どもは唇を引き結んで頷いた。肩を落とす様子にディアは胸を痛めたが、仕方がないことだ。婦人ならば子どもの寂しさを埋めてくれるだろう。
「さて。セイを連れ戻してくるか。ロードが殺される前に」
「そうなったら私が困ってしまうわね」
 本当にそう思っているのか疑問に浮かぶのも仕方ない。婦人はころころと笑うだけだ。ディアは手早く着替え、外套まで留めると廊下に出た。婦人は子どもと手を繋ぎながらディアを追いかける。
 ディアは途中、セイの部屋に寄って彼の荷物を持ち出した。そのまま外へ出ると、ロードが壁際に追い詰められている場面に遭遇する。セイの表情は相変わらず険しい。だが距離があるため、何を交わしているかは分からない。
「セイ!」
 呼ぶとセイは不機嫌な表情で振り返った。だがディアの姿を見つけると表情を一変させる。笑顔を見せるとロードを放し、ディアに駆け寄った。見事な変貌ぶりにロードが苦笑して壁から背を離した。
 ロードに気を取られていたディアは、走ってきたセイに飛びつかれて尻餅をついた。
「いってぇ! セイ、お前っ」
「何もされてませんよね?」
「当たり前だろうが!」
 怒鳴るとセイは笑い、さりげなくディアの頬に口付ける。あまりにさり気なくて何をされたのか分からなかった。
「あらあら。仲良しさん」
 婦人に笑われてからようやく気付く。慌ててセイを押しのけようとしたとき、背後から別の重みを感じて振り返った。子どもが背後からディアに抱きつき、首に手を回してしがみ付いている。小さな独占欲だろうか。
「もてもてだな」
 ロードが笑いながら言い、ディアはうんざりと頭を垂れた。


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 身支度を完璧に整え、玄関先にロードたちが見送りに出る。
「あのね、ディアさん。貴方たちさえ良ければ、ここを故郷だと思ってくれて構わないのよ?」
 ディアは目を瞠ってリン婦人を振り返った。嬉しい言葉に胸が熱くなるが、黙ったままかぶりを振る。ディアにとって故郷はただ一つしかない。父が眠り、兄が待つ国だけだ。
「近くに来たら、必ず寄らせてもらいますから」
「ええ……」
 リン婦人は残念そうな顔をしたが、ディアがそう告げると嬉しそうに微笑んだ。それを見ていたロードが唇を尖らせる。
「ディア。俺とリンに対する態度が違うんだが、俺には優しくしてくれないのか?」
 ディアは胡乱な目でロードを見上げた。
「図々しい。お前に優しくして私に何の得がある」
「俺が喜ぶ」
 ロードは恥ずかしげもなく胸を張った。ディアは無視して子どもに視線を向ける。
「じゃあ、またな」
 子どもは今にも泣き出しそうなほど瞳を潤ませていた。必死に婦人の手を握り締めている。きっとそれがどれほど婦人を嬉しがらせているか分かっていないだろう。
 ディアは少し乱暴に子どもの頭を撫でて腰を伸ばした。
「おいセイ。あまりディアを呆れさせるんじゃないぞ」
「……ロードに言われると無性に腹が立つのはなぜなんでしょう?」
 セイの言葉にディアは肩を竦めて口を挟んだ。
「同属嫌悪って奴じゃないのか」
 セイは弾かれたようにディアを振り返る。
「そんな! ディア。私はロードと同じなんですかっ?」
「心外だ! 俺はセイよりいい男だぞ!」
 ロードまでもが意味不明な主張を始める。
 ディアはうるさい外野を無視して歩き出した。ふと、昨夜セイはロードと何を話したのだろうと気になった。だが聞くのは躊躇われる。
「あ、ディア!」
 セイが慌てて追いついてきた。ディアは振り返る。見送る三人に手を振ってからセイに手を伸ばし、少し力を込めて引き寄せる。隣に並んだのを確認してからいつもの調子で歩き出そうとした。だがセイは離れかけた手を再び掴み、ディアの注意を向けた。
「愛してますよ。ディア」
「はぁ!?」
 向かい合って言われ、ディアは目を剥く。
 セイは小さく笑みを洩らして先に歩き出した。
 残されたディアは肩からずりおちた荷物を拾って担ぎなおした。
 そういえば、面と向かって告げられたのは初めてだ、と思いながらセイの後ろ姿を見つめる。顔が赤いのが自分でも分かる。癪に思いながらセイの後ろを歩く。緩む頬を必死で保つには多大な労力をかけなければならないことを初めて知った。


 END