おちたモノ

【一】

 窓が開けられたらしい。
 温かな空気に割り込む冷たい風に体を震わせる。寝返りを打って、布団を頬まで引き上げる。そうすると直ぐ側で笑う気配がした。次いで頬に触れる感触。少し冷たい指が頬に触れていると分かる。
「朝だぞ」
 優しい声に目覚めを促される。知らず笑みが零れた。
 声の主はすぐに脳裏で像を結ぶ。どんな顔でその台詞を言っているのか興味が湧く。けれどもう少しだけ、このままで。
「ええ……」
 ほんの少しだけ、こうしてまどろんでいたい。
 頬を滑る手をつかみ、放さないように頬に当てる。わずかな抵抗が加わった。だが振り解かれることはない。それが嬉しくて、瞳を閉ざしたまま呟いた。
「愛してますよ、ディア」
「私もだよ、セイ」
 望んでいた応えに思わず胸が高鳴った。もしかして眠っていると思われているのだろうか。起きているときにそんな言葉が聞けたら最高なのだけれど、彼女は素直に告白などしてくれない性格だ。いつも何かで誤魔化し、必死で言い繕い、仕舞いには逃げ出すか怒り出す。どちらが年下なのだか分からなくなる。こんなに素直な彼女は初めてだった。
 あいにくと私は起きてますが。
 瞳を閉ざしたままそう思う。もし起きていたと知ったら、彼女はどんな顔を見せてくれるのか。好奇心を抑えることはできず、また、早く彼女を見たいという欲求に勝てず瞼を開ける。
 目の前に、微笑みを浮かべた栗色の双眸があった。
「やっと起きたか」
 視線を外されることはない。
 穏やかな微笑みを浮かべたディアは寝台に腰掛けて見下ろしていた。彼女の右手は変わらずセイの頬を包んでいる。セイが目覚めても、その手が外されることはない。
「……おはようございます」
 こんな風に見つめられるとこちらが焦ってしまう。
 セイは早鐘を打つ心臓を悟られないよう装ったが、それとはまた別のところで独占欲が湧き上がる。ディアの瞳に映るのは、いま、私だけ。
「おはよう」
 信じられないほど優しい挨拶を返され、セイの胸はますます高鳴った。そして更に信じられないことに、上体を起こしたセイに、ディアは目覚めのキスをくれたのだ。
「ディア」
 朝から嬉しい混乱だった。
 ディアをつかみ、お返しをするように彼女の目元に口付ける。少し赤くなって離れていこうとする彼女が心底愛しかった。どこにも行かせたくなくて、引き寄せて押し倒す。ここでもディアは逃げ出そうとする気配を見せない。彼女に何が起こったのか。
 少し伏せられた目は色を増し、出逢った当初からは信じられないほど女性らしさを醸している。欲目もあるかもしれないが、それだけではないはずだ。
「セイ……」
 ディアの声が耳に甘く絡む。
 瞳を伏せる彼女に口付けようと身を沈めて――。


「いつまで寝てるつもりだセイ! もう陽は昇ってるんだぞ!」


 大声で怒鳴ると、寝台を占領して寝ていた男が跳ね起きた。
 ――珍しい。本当に寝てたのか。
 部屋を仕切る衝立から顔を出していたディアは軽く目を瞠る。いつも早起きなセイにしては異例の事態だ。
 さきほど窓を開け、それでも動く気配のないセイを怒鳴りつけたのだが、まさか本当に寝ていたとは思わなかった。
「夢……」
 寝台に体を起こしたセイはぼんやりと呟いている。
 その姿に苦笑を洩らし、どんな夢を見てたんだか、とディアは胸中で呟いた。
 二人は現在、宿屋に泊まっていた。ただこの宿屋が少々特殊な造りをしており、大きな部屋しかなかったのだ。二人で二部屋借りるにはもったいない大きさの部屋だ。どうしようかと思案し、二人で一部屋借りることにした。
 部屋には寝台が一つしか入っていない。セイは輝く瞳で「どうしましょうか?」などと尋ねて来ていたが、ディアは落ち着いたまま部屋の中央を衝立で仕切り、長椅子と寝台に分けて寝ることに決めた。
 昨夜はディアが長椅子で眠ったのだ。
「まだ寝ぼけてるのか?」
 着替えたディアは衝立を取り払いながら声をかける。
 セイは何か言いたそうな表情でディアを眺めるだけだ。一向に動く気配がない。
 ディアは眉を寄せながらセイに近づいた。目覚めていないなら乱暴な手段を使ってでも目覚めさせようかと思った。もしくは風邪でも引いたのか。
「おい?」
 伸ばした手はつかまれた。
「うわっ?」
 起きたばかりとは思えない力強さで引き倒され、抱き締められて混乱する。
 暴れて逃げ出そうとしたディアは、長く重い、セイの溜息を聞いて大人しくなった。
「いい夢だったんですけどねぇ……」
「そりゃ悪かったな!」
 強引に抜け出そうと、セイの両肩に手をついて突っ張る。あっさりと解放された。ディアは赤くなった顔のまま急いで寝台を降りる。肩を回しながら振り返ると、セイはまだどこかぼんやりとしている。
 ――夢は夢でしかないんだし、さっさと起きろよな。一体なんの夢を見てたって言うんだよ。
 しかし答えを聞いたらディアは憤死するだろう。
「さっさとしろよ。朝練の時間がなくなるだろ?」
「愛してますよ、ディア」
「ぐえっ?」
 不意打ちに奇妙な声を上げてしまい、慌てて口を手で覆う。きっと顔は真っ赤だ。何を言い出すんだとセイを睨み付けると、彼は悲しそうに笑った。
「……あるわけありませんよねぇ……?」
 残念がるセイに、わけの分からないディアは「はぁ?」と眉を寄せるばかり。
 セイは諦めきった様子で首を振り、部屋を出て行った。


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「町が無ぇ」
 地図を見ながら歩いていたディアは呟いた。
 宿を出てから鬱蒼とした森に突入したはいいものの、街道は細くなっていく。しまいには目的地が地図にないなどと笑い話だ。
 眉を寄せるディアの横から、セイが地図を覗き込んだ。
 現在地は地図の端だった。そろそろ地図を書き足さなければいけない頃合だが、肝心の町がない。泊まった宿にも地図はなかった。その宿も、街道沿いにポツンと一軒だけ佇むもので、他に店はない。切り盛りしている親子に聞いても同じ答えが返って来た。
 持つ地図が役立たずの紙と化そうとしていることは、ディアも分かっていたはずだ。地図を見ない日などないのだから。
「このまま進んでも森しかありませんが……どうします? と言っても、一本道で分岐点など見当たりませんが」
 セイの声にディアは唸る。同じことを思っていた。
 地図の上方を占める大きな森。その入口はとうに通り過ぎ、中まで入り込んでいる。森の中には町の表示もない。ほとんどの旅人は迂回していくだろう。
「……いや。確か、森の向こう側にでかい宿場町があったはずだ。道は一本しかないみたいだし、このまま進んでも問題ないだろう。多分」
 ディアは書き足した時に見ていた世界地図を思い出しながら告げた。と言ってもあいまいな記憶は信用できない。進むにつれて細くなる、心許ない街道をこのまま進んでもいいものか、判断に迷うところだ。
「では次の町では大きな仕事がたくさん見つかりますね」
「ああ」
 まだ以前までの稼ぎがだいぶ残っているのだが、この森が長引くようであれば、それは直ぐに旅費として消えてしまうだろう。
「次の町から更に北上すれば港町に出るはずだったかな」
 港町、と聞いてセイの顔が輝いた。
「また船に乗るんですか?」
 嬉しげなセイに、ディアはうんざりとして顔を向けた。
 実は船が苦手なディアだ。酔いが凄まじい。泳いだ経験も少なく、溺れるのではないかという恐怖が勝ってしまう。だいたい、あのように逃げ場のない場所で襲われたらどうしたらいいのだと思う。
「乗りましょう。ディア」
「……考えておく」
 セイから視線を逸らしながら地図を畳み、肩から背に回していた荷物にしまい込んだ。そうしているうちに周囲は自然の濃さを増していく。陽光もあまり届かなくなってきた。まだ朝だというのに薄暗い。
 ディアは腰の剣を確かめながら周囲に視線を配った。
 このような深い森に盗賊はつきものだ。野獣たちの存在もある。
 以前なら盗賊は大歓迎だったが、今は彼らを襲うと渋い顔をするセイがいる。金も奪えず疲れるだけの肉体労働に何の楽しみがある、とディアはため息をつく。
「森はどれぐらいで抜けられそうですか?」
「私に聞くな。地図がないんだから当たりのつけようがない」
 それはディアの方こそ聞きたいことだった。
「携帯食料はまだ残ってるよな?」
 セイは頷きながら荷物を漁る。携帯食料の一つを引っ張り出す。町に寄るたび入れ替えていたため、日持ちはいいはずだ。
 幸い今は実りの季節。森が多少長引いたとしても、飢えは凌げそうだった。