おちたモノ

【二】

「くっそ。なんなんだよ。埒があかねぇ……っ!」
「そうですね……」
 苛立つディアに、セイも同意を返す。そうしながら見下ろした。
 二人がいるのは頑丈な樹の枝だった。その樹を取り囲むように、たくさんの獣たちが唸り声を上げている。艶やかで真っ黒い体毛に、真っ赤な瞳。良くしなる体は、樹の上に避難している二人を襲おうと跳んでいるが届かない。
 森に入って大分経った頃のことだ。一匹の獣が姿を現した。
 最初は無視して進む二人だったが、その獣はしつこく辺りに姿を見せ、ついには襲いかかって来た。血を流せば他の獣が寄って来るかもしれないと思い、気絶程度におさめようと剣を抜いた二人だが過ちに気付く。その時にはすでに囲まれていたのだ。鬱蒼とした茂みの中から同じような獣が次々と襲いかかって来る。手加減どころか自分たちが殺されてしまいそうな量だ。慌てて避難した二人だが、獣たちに取り囲まれて動けない。
「なんだっていうんだ」
 枝を一つ下りるとセイが心配そうな視線を向けてくる。大丈夫だ、と目だけで告げて、ディアは低い枝に腰を落とした。飛びかかろうとする獣の鼻を蹴りつける。
「散れっての!」
 ぎゃんっという声を発して、獣たちは次々と蹴り飛ばされていく。それでも戦意を失わない。敵意を漲らせてディアを睨み、唸り声を上げてますますディアに飛びかかる。ディアも負けじと彼らの鼻面を蹴飛ばし続ける。
 しばらくその単調な動作を繰り返した。獣たちは戦意を失わないまでも、あるときを境にして徐々に後退し始めた。
「ったく、しつこい!」
 飛びかかってきた一匹を最後にして次々と離れ出す獣たち。新手の攻撃準備かと構えたディアだが、獣たちは距離を離していく。視線を逸らさずディアは睨みつけたまま。獣の牙で傷んだ衣装を思う。
 ところどころ裂けた外套や上着など、新調しなければ道行く人々になにごとかと思われるような様相になっている。獣たちの相手をしていた靴の損傷が最も激しい。いつ穴が空いてもおかしくない。
「もう安心でしょうか……?」
 緊張していたセイは少しだけ肩の力を抜きながら周囲を見回した。獣たちはもう姿を消している。間断なく唸り声を聞いていたため、まだ耳の中に残響している。
「いや。今日はここから動かない方がいいかもな。そうそう都合よく登りやすい樹があるとは限らねぇし」
 直ぐ眼前に突き出していた枝に足を乗せてディアも首を巡らす。
 斬り殺した獣の死体はそのままだ。その様に眉を寄せる。背後を確かめ、ちょうど良く突き出している枝に背中を預ける。
「ディア。それってもしかしてここで眠るという意味ですか?」
「落ちるなよ。寝てる間に落ちても助けないからな」
 ディアは少しでも寝心地のよい場所を探して瞼を閉じている。その様子を見ながらセイも不安そうに枝を探し、同じようにして眠ろうとする。
 寝不足は確定済みだった。


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 獣の遠吠えで目が覚めた。
 目を開けると暗闇だ。体全体に痛みを感じて眉を寄せ、寝ている場所は枝の上だということを思い出した。
 もう一度、遠くで吼える獣の声を聞いた。
 ディアは体を起こして息を呑んだ。
 枝の下に一匹の獣がいた。
 深紅の瞳が暗闇の中で光を帯び、ディアたちを見上げている。
 ディアと視線を合わせた獣は低く唸り、やがて腰を上げると森の中に消えていった。悠々と尻尾を揺らしながらの姿は余裕と諦めを感じさせた。
 赤い光はもう見当たらない。
 ディアは肩の力を抜いて、剣にかけていた手を下ろした。寝込みを襲おうとしたのだろうか、と考える。或いは寝返りを打つか何かし、落ちるのを待っていたのだろうか。
「セイ。起きてるか?」
 まさか落ちてないだろうな、と小さく呟くと、幹の反対側から衣擦れの音がした。声量を抑えた返事がある。
「こんなに殺気を放たれて眠れるわけないです」
 ディアは苦笑した。
 姿は見えないけれど、監視されていると分かる。
 月明かりもない。遠吠えだけがあちこちから聞こえてきている。朝日が昇っても、この森の中まで届くのかと疑うほど深い森。獣たちに怯えているのか、虫の音も聞こえない。
「朝になったら宿まで戻ろう。別の道を探す」
「え?」
 意外そうな声にディアは眉を寄せた。いつも強行突破しかしていないからだろう。
「私だって危険の意味くらい知っている。今まで強行突破してきたのは地図上では不可能じゃないと判断したからだ。地図もないんじゃ、距離も分からない」
 危険区域を備えもないまま進むなど冗談ではない。
「構わないよな?」
 問いかけながらもそれは確認だった。セイは笑みを返す。
「ええ。構いません」
 森に入ってここまでの距離を考えれば、朝にここを発っても外に出るのは夕方になるだろうと考える。宿に戻り、迂回路がないか聞く。そう思えばかなりの二度手間だ。宿を発つ前に聞いた通り、宿には詳細な地図もないらしいので先行きは困難だろう。
 宿屋を経営していた父と娘。このような場所に宿を建てて収入などあるのかと思ったものだが、なるほどこれでは儲かるだろう。先行く旅人に森の危険性を告げず、引き返してくれば二度の収入に繋がる。あくどい。
 セイに話せばまた違った意見が出そうだが、ひとまずディアの中で、彼らは「あこぎな商売人」と決定したようだった。


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 朝日が昇り、鬱蒼とした森の中にもわずかな光が漂い始めた。
 ほとんど眠っていないディアは、澄まされた神経を休ませることなく辺りに目を配る。硬い地面には足跡も残されていないが獣の匂いは新しい。ディアの顔をしかめさせるには充分なものだ。
 宿に着くまで、たとえ盗賊に襲われても今なら手加減する余裕などない。
 ――来るなら来やがれ。
 ディアは据わった目をしながら胸中で吐き捨てる。空を仰いだ。昨夜とは位置を変えて高い場所にいたため、差し込んでくる木漏れ日は多い。
 獣たちが消えていった方向を見やり、危険な兆候は何もないと判断するとディアは飛び降りた。直ぐにセイも隣に立つ。剣を構え、油断なく見回すが、獣が出てくることはない。
「……行くぞ」
 セイもまた、緊張は隠せないようだ。歩き出しても沈黙ばかりが満ちていく。ところどころ頭上の枝が薄くなっている場所からは強い陽射しが降り注ぐ。
「ディア。大丈夫ですか?」
 無心でひたすら足を動かしていたディアは体を揺らした。一瞬、歩きながら眠っていたのではないかと思うほど無意識だった。かぶりを振ってセイを見る。
「獣たちは見かけませんが……」
 セイは小さく後ろを振り返って首を傾げる。森の入口に近づくにつれて鬱蒼とした気配は消えていき、森には光が降り注がれ、いかにも神秘的な様相を保っていた。
 どこか違和感を隠せない。
 ディアも振り返って眉を寄せる。どこか違和感を隠せない。
 焦燥に駆られるまま、手は知らず剣を掴むのだった。


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 なにごともなく宿へ戻った二人は、以前泊まったときのように二人で一部屋を取った。中央に仕切りを立てると直ぐに休む。風呂に入ることも、食事をとることも、全て忘れてディアは寝台に倒れこむ。かろうじて、埃だらけになった外套だけは脱いでいる。寝台を汚すわけにはいかないため、仕方なくだ。
 昨夜はセイが寝台を占領したため、今回はディアが寝台を使う番だった。
 寝台に横になったと思った瞬間、ディアは眠りに落ちていた。
「ディア……?」
 何の気配もしない薄闇の中、立てられた仕切りを越えたセイが問いかけた。寝台に倒れこんだ格好のまま眠っているディアを見て苦笑する。側まで寄ってディアの体勢を変え、掛け布団をかける。
 セイの顔にも疲労の色が濃く現われていた。
 窓から見える空は金色の光に染まっている。茜に染まる雲は神々しくも不吉な色に思える。セイはしばしその光を見つめた。
 このような時間から眠ったら、起き出すのは夜中になるだろう。それでも耐え難い疲労に、意識が自然に遠のいていく。宿を経営する親子は、森から戻った二人を温かく迎え入れ、食事も勧めた。だが二人はとても食べられる状態にない。
「おやすみなさい。ディア」
 セイは柔らかな栗色の髪を梳いて頬に口付けを落とした。ディアが起きる気配はない。それを確認してから立ち上がり、部屋の反対側に戻って長椅子に横になる。寝心地がいいとはとても言えないが、それでも枝の上で眠るよりよほどいい。
 ほどなくしてセイも眠りに落ち、部屋には二人分の静かな寝息が響き出した。


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 骨が悲鳴を上げて顔をしかめた。
 腕を動かそうとすると更に痛みが増し、ディアは慎重に体を起こしながらぎこちなく腕を回す。
「くっそ。やっぱ枝の上は無茶だったか」
 枝に圧迫されていた部分だけが痛みを訴える。もしかして痣になっているのだろうかと思って触れる。鈍い痛みが響き、ディアは眉を寄せた。背中のため確認することはできないが、恐らく痣で間違いない、と舌打ちする。
 溜息をつきながら窓を見やって夜だと気付く。
 部屋は仄かな橙色の明かりで満たされていた。扉近くで炎を揺らしている蝋燭が光源だ。中央を仕切る衝立の影が大きく伸び、ディアの体を飲み込んでいる。
 セイはまだ眠っているだろうか。
 寝台を使った自分ですらかなりの負担がかかっているのだから、長椅子なら尚のこと眠り難いだろう。
 一瞬、交換してやろうかと思ったディアだったが、そのままセイに引きずられて再び添い寝する羽目になる予感がして、素直に諦めた。自業自得だ、と見えないセイに舌を出す。
 ディアは枕を抱えなおし、夜が明けるまで再び眠りに就こうかと瞼を閉じた。
 側に置いた剣の存在を確かめる。
 ――そういえば腹が減ったが……いくらなんでも、もう宿の親子は眠っただろうな。
 眠りに落ちながらそんなことをぼんやりと思う。
 ふと、ディアは何かの気配を感じて鋭く飛び起きた。
 剣を抜き放ち、体の痛みを殺して剣を突きつける。セイとは全く違った気配だと、直感で悟っていた。案の定、上がった悲鳴は知らないものだった。
「な、何をなさいますお客様っ」
 ディアは眉を寄せる。現れた影に目を凝らす。剣を突きつけられて尻餅をついていたのは宿の主人だった。
「何を――」
「誰です!?」
 ディアが戸惑っていると、衝立の向こう側からも鋭い声が上がった。
 剣を抜き去る音と、誰かが転んだような音。そして、息を呑むような悲鳴。
 状況を悟ったディアは視線を宿の主人に戻した。彼は引き攣った顔でディアを見上げている。その顔にあるのは、紛れもない純粋な恐怖だけだ。
 ディアが剣を下げると、主人はあからさまに肩の力を抜いて安堵した。
「なんなんだ、あんたらは」
 衝立の向こう側から上がった悲鳴は女性のものだった。ディアに宿の主人が来たように、セイに向かったのは宿の娘だろう。彼らに自分たちを害する気配はないと吟味し、ディアは剣を鞘に戻す。主人はようやく息をつくことが許されたかのように胸を撫で下ろした。
「ディア。ご無事ですか?」
「当たり前だろう……」
 疲れたような声が衝立の向こう側から聞こえてくる。ディアもまた寝台に深く座り込んでうな垂れた。
「お腹が空いているのではないかと思いまして、温めたものを食堂に出してきたのですが……」
 主人は引き攣った笑みを見せながらも立ち上がった。視線は恐ろしいものを見るように、剣に向けられる。ディアは鼻を鳴らして眉を寄せた。
「食事?」
 もう夜も半ばを回るような深夜だ。訝りは当然だろうが、主人は不自然さに気付かないように頷いた。
「わざわざこんな時間に起こしにくる必要もないだろう。あんたらも眠いだろうに」
「いえいえ。森から戻るお客様は大抵この時間に目を覚まします。それが何度か続きましたので、私たちもそれに合わせてお食事を作っているのですよ。私たちはそれから眠るように習慣づけておりますから、気になさることはございません」
 ディアは胡乱な目で主人を見た。そのような気遣いを見せるなら、森に入る前に素直な忠告が欲しかった。
 ため息をつき、剣を手にして立ち上がる。主人が身を強張らせたが、ディアの動きが剣を佩くためだけのものと悟って、また強張った笑みを見せ始めた。酷く不自然だ。
「ディア。せっかくだから、頂きますか?」
 衝立の向こう側から顔を出したセイは眠たげだった。だがせっかくの好意を無下に出来ないと考えたのだろう。ディアが行かないとかぶりを振っても、セイならば一人で出かけてしまいそうだ。ディアもお腹が空いていたことには変わりないため、迷惑そうな顔を作りながら頷いた。
「ああ」
 短く同意すると、主人も娘も笑顔を見せた。
 主人は先に急いで階下へ下りる。娘はディアとセイをそのまま待ち、案内するようにゆっくりと歩き出す。
「良かった、お二人にそう言って頂けて。あ、温めた食事が無駄にならなくて良かった、という意味でね」
 慌てて言い直す彼女に、セイは笑みを零した。
 二人の後ろを歩きながらその様子を見ていたディアは面白くない気分になった。なぜだか心がささくれ立つ。宿の娘は肩より少し長い紅髪をお洒落に結んでいた。
 ディアはいつの間にか伸びっぱなしになっている自分の髪に触れた。真っ直ぐな栗色の髪は肩についており、自分でも彼女と同じような髪型をすることは可能そうだ。
 一瞬、そんな自分を想像したディアは「気持ち悪ぃ」とかぶりを振った。男にしか見えない自分がそのような格好をしたって似合わない。次の町に着いたら、セイに何と言われようと絶対に切ってやる、と決意を新たにする。
 セイの策略にはまり、自分で髪を切らない約束をさせられてから、ディアはずっとその約束を守っていた。町に行くたび好奇の目に晒されていたことを実は気にしていたディアは、そんな約束などもう無効だと鼻を鳴らす。町の者たちの視線はディアが思っているような視線とは全く違った意味での視線だった訳だが、ディアは気付かない。
「ディアっ?」
 ガックン、と視界がぶれて飛んだ声。
 階段から足を踏み外したディアは、前を下りていたセイに抱き留められて何とか事なきを得た。
「……大丈夫ですか?」
「悪い」
 どうやらまだ充分寝ぼけているらしい。
 たとえ頬に口付けられようと、今のディアは無頓着だ。案内していた娘が目の前で顔を真っ赤にしていようとも、ディアは何も認識してなかった。


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 湯気を立てるスープや、香ばしく焼けた肉料理。香辛料が効いているためか、かなり鼻をくすぐられる。
「うわ……」
 思わずディアが唸るのも頷けるほどの豪華な料理だ。
 夜中なのに、これからまた眠るだけなのに、こんなに豪勢でいいのだろうか、とディアは激しく主張する腹を押さえながら喉を鳴らせた。
「ふふふ。ここに来た皆さん、同じ顔をするんですよね。疲れたときにはこういうのが一番いいんです。とても美味しく感じられるでしょう?」
 客二人に椅子をすすめながら娘が笑う。本当に嬉しそうだ。夜中である疲れなど微塵も感じさせない。その様子が好ましくてディアも思わず頬を緩めたが、娘は途端に目を瞠り、視線を逸らした。
「さぁお二人とも。存分に食べて下さい!」
 娘の様子にディアが眉を寄せたとき、主人が厨房から現れた。新たな料理を運んでくるところだ。
「そんなに食えるか!」
「いただきます!」
 二人は席について手を合わせる。宿の親子が見守る中で食事が始まる。
「わー、すっごく美味しいです」
 体が冷え切っているため温かなスープはかなり嬉しい。
 先にサラダを食べていたディアは、セイのその声に笑い、自分もスープに手を伸ばした。
 けれど。
 スープを口に運んだディアは、スープが入った皿ごと床に投げ捨てた。
 耳障りな音が食堂に響く。砕けた食器と共にスープが散乱した。
「ディア!?」
 突然の暴挙にセイが驚く。ディアを見つめる眼差しには非難が込められている。だがディアは気にせず、食卓を冷ややかに見下ろした。これまでの和やかな雰囲気は払拭されていた。
 セイの手元を見れば、既に空になったスープの皿がある。
 眉を寄せて舌打ちし、ディアは親子を睨みつけた。突然の豹変と暴挙に目を白黒させて怯える彼らに剣を抜く。
「ディア! いったい何を」
 止めようとしたのだろう。セイがディアの肩に手をかけたが力は入らず、そのまま立つ力すら失ったように、床に倒れた。
 鈍い音が宿に響く。
 ディアは親子から意識を逸らさないまま視界の端でセイを確認した。床に倒れた彼は細かい痙攣を起こしている。
「セイさん――」
「動くな」
 怯えながらも心配そうに駆け寄ろうとした娘に鋭く告げ、ディアはセイの側にしゃがみこんだ。親子はその場に棒立ちとなったまま動けない。ディアの殺気を悟っているのだろう。ディアもまた、彼らが一歩でも動けば容赦なく斬るつもりだった。
 セイの手首を掴んで脈を取る。
 わずかに早いが問題はない。正常の範囲から出ていないと判断する。
 セイの意識はあるのか、瞳をいっぱいに見開いたまま震える唇で何かを訴えようとしていた。しかし声は出ていない。
 ディアは彼に心配するなというように微笑みかけ、すぐに笑みを払拭すると立ち上がった。親子の位置は先ほどから動いていない。彼らに向かって冷然と告げる。
「私の舌は特別でね。即効性の劇薬なら、たとえ香辛料に誤魔化されていようと分かる。遅効性の弱い毒になら、免疫と耐性がついてて効かないんだ。残念だったな」
 親子は驚いたように瞳を瞠り、次いでディアから視線を逸らした。
「さて。こんなふざけた真似をしてくれた訳を、話してもらおうか?」
 頭は今の薬で冴えていた。寝不足でかかっていた靄は綺麗に晴れた。
 揶揄交じりに問いかけるが親子は視線を逸らしたままだ。一向に答えようとする気配がない。
「話したくないなら別にいい。セイの解毒剤を」
 そのとき背中に気配を感じた。床が軋んだことに気付いて振り返ると、見知らぬ男がそこにいた。彼が味方でないことなど直ぐに分かった。間合いを崩され、既に懐に飛び込まれていた。
「くっそ」
 舌打ちしたディアは必死に避けた。距離を保とうとしたが、再び不意打ちを食らう。
 いったいどこに潜んでいたのか、背後からまた別の男がディアに飛びかかったのだ。ディアを後ろから羽交い絞めにした。
 娘と主人の悲痛な表情が視界に映ったのも束の間。
 ディアが限界まで力を出し切って羽交い絞めしてきた男を振り解いた瞬間、もう一人の男に鳩尾を殴られた。思わず呻いて動きを止めたところを、振り解かれた男が首に手刀を叩き込む。
 しかし長身のディアでは手刀に力を込めることは難しかったらしく、ディアは一瞬視界が暗転したものの、再び持ちこたえた。闇雲に暴れて男たちを振り飛ばそうとした。だがそのとき口に何かが押し当てられた。
 混乱のまま目の前に迫ったのは、涙を溜めた娘の顔だった。
 ディアは娘を突き飛ばそうとしたが、両脇から男たちに腕を押さえつけられた。娘に口と鼻を何かの布で塞がれ続ける。
 吸ったらまずいということは分かっていた。抵抗を止め、出来る限り息を止める。それでもやはり、吸わないわけにはいかずに一息吸い込む。頭の奥が痺れるように痛み、警鐘が鳴る。劇薬だと意識が囁く。それでもそれ以上、息を止めていることなどできない。もう一つ息を吸い込んだところで男たちの手が離れた。既に意識が朦朧となっていたディアは、そのまま倒れ、闇に飲み込まれた。
 即効性の劇薬が染み込んだ布では、ディアの抵抗力も大した問題ではなかった。