おちたモノ

【四】

 ディアとセイが外に出される頃、ジェイダが先に外で暴れて敵の注意を引くという作戦に決まった。
 その翌朝早く、移動が始まった。
「うわ、気持ち悪っ」
 直ぐ近くで獣の鳴き声がした。甲高く響くのは獰猛な鳥の声だ。他の者たちが怯えたように体を竦める。鳴き声と共に檻が大きく揺れた。ディアは口を押さえながら床にうずくまる。体にかかる重力と、船酔いのような気持ち悪さには閉口する。
「ディア。今の鳴き声って」
 具合の悪くなったディアを看病しながら、セイは小さく耳打ちする。その声にディアは瞼を開け、「やっぱりそうだよな?」と視線だけで同意する。
「フェレーリアだよ。連中はそれを使って移動するんだ」
 木箱の上に座っていたジェイダが楽しそうに告げた。ディアの不調が嬉しいらしい。ディアは睨みつけ、意地を張るように起き上がった。
「そりゃまた大層な連中だな」
 フェレーリアとは高山に生息する飛行生物だ。南方の暖かな島にしか繁殖しない。もともと野生種で人間に懐かない生物だが、それを無理に調教させて使っている。空を移動するための手段としてはかなり重宝するが、繁殖地である島も少なく、フェレーリア自体の数も少ない。そこから人間に慣れるよう調教されたフェレーリアともなれば更に少ない。かなりの希少価値がつけられており、一般の者たちが飼うのには向いていない。市に出ることはまずない。フェレーリア一頭に、一国の値段がつけられることはザラにある。
 頭上を仰げば、陽光に透けたフェレーリアの影が天幕に映り込んでいた。
 大きな翼を羽ばたかせ、巨大な檻を軽々と運ぶ力。姿は竜に似ている。
「うわ……」
 再び気分が悪くなってきたディアは小さく呻き、セイに寄りかかった。
「どこに行くんでしょうね?」
 セイはディアに膝枕をしながら外の幕に目を向けた。空を移動するために固定された幕ははためきもしない。檻の中にはフェレーリアの羽ばたきと風の音しか聞こえてこない。
 セイの視線を追って幕を見ていたジェイダが軽く声を上げる。
「さぁなー。今のところ、東に向かって飛んでるみてぇだけど」
「東……」
 ディアは舌打ちした。当初の進路が北だったため、ずいぶんとずれている。このまま東に飛び続けたらどこへ行くのか。苦々しく顔をしかめる。
「ジェイダ。仲間と逸れたと言っていませんでしたか? この様子だと、かなりの距離を運ばれると思うのですが……」
「ああ……そうなんだけど」
 ジェイダは歯切れ悪く頷いた。セイとディアを窺う様子は少し困惑しているようにも見える。理由は分からない。
「あ」
 ジェイダの呟きと共に檻が大きく揺れ動いた。
 ディアは思わず意識が遠くなる。声を出すこともできずに必死で耐える。奴隷として売られるより先に、ここで死ぬかもしれない、と弱気なことを考えた。
「着いたんでしょうか?」
「じゃねぇの?」
 予想に反してそれほど時間はかかっていない。檻が地面にゆっくりと下ろされたようだ。揺れはもう感じない。ディアは瞼を閉じて揺れの余韻に拳を握り締めた。
「……大丈夫ですか?」
「情けねぇな」
 ジェイダにまで呆れたように言われたが、反論する元気もディアにはない。このような調子でまともな抵抗ができるのか怪しいが、死に物狂いで抵抗しなければ確実な『死』が待つのみだ。
 上方で大きな音がした。幕が上から剥がされた。
 差し込む強い陽射し。
 眩しさに皆が呻き、次いで絶望的な声が口々に洩れた。
 目の前に広がるのは石造りの円形劇場だった。その向こうには深い森が広がっている。脱走を困難だと思わせるには充分な光景だ。劇場には大勢の者たちが詰め掛けていた。彼らが純粋に観劇に来たのではないことは明らかだ。舞台には様々な商品が並べられている。
 法的に売買が禁止されている希少動物や卵や、どこかの芸術品。それらが競り落とされた後に、奴隷たちが同じ場所に並べられるのだろう。
 劇場から遠くに陣を張り出した奴隷商人たちだが、檻から劇場までに遮る物はなにもなく、競の様子が直に伝わってくる。客の中には顔を隠した貴族たちもいる。
「……なんだか、すごく、嫌な感じです」
「他の者まで構うような無理はするなよ」
 ディアは具合の悪さを押して低く告げた。セイは一瞬だけ、ディアを抱く腕に力を込めたが反論はしなかった。本調子ではないディアと押し問答を繰り広げたくないと思ったのか、元からそれは理解していたからなのか、詳細は分からないがディアは安堵した。
「ああ、なんだ。それほど離れちゃいねぇみたいだな」
 一人、明るい声でジェイダが呟いた。視線は劇場から外れて遠くの森に向けられている。
 ディアたちも彼と同じように森を眺めたが、どう見たら「それほど離れていない」と分かるのか、理解はできなかった。
 ジェイダは勝気な笑みを浮かべながら木箱を一段下りた。
「あとは、上手く逃げ出せるかどうかだな」
 ディアはようやく薄れてきた酔いの気持ち悪さを殺して体を起こした。
 改めて見回せば溢れる人だらけ。これからも人は増え続けるようだ。今も到着したばかりの商人たちが天幕を張ろうとしている。商人たちは続々と訪れ、また、客の数も比例して増えていく。いったいどこからこのような闇市を嗅ぎつけてくるのだろうか。
 商人たちの天幕が張られ、色々な道具が運び出され、今まで何もなかった草原に次々と積み上げられていく。ディアたちの視界から劇場も失せる。
 鳴き声がした方を見れば、遠くの天幕にフェレーリアが降り立つところだった。
 巨大な翼を折り畳み、体を伏せてしまえばその存在はもう普通の荷物に紛れてしまう。更に鳴き声がした方を見れば、もう一頭のフェレーリアが頭上を旋回していた。
「二匹……?」
 希少価値が半端ではないフェレーリアを二頭も抱えていられるなど、奴隷商人たちはかなり羽振りがいいらしい。その金がどこから出ているのかなど、既に明白であるが。
 頭上を旋回していたフェレーリアはやがて先ほどのフェレーリアと同じように下りてきて翼を休めた。
「この人数にあれが付いているとなると、絶望的だな」
 呟くディアに悲痛な顔を向けるセイだが、気持ちは同じだ。
 檻を囲い込むようにして見張りが立ち並んだ。ディアたちは黙ってその様子を見守る。顔を隠すこともせず、堂々とさらけ出して立つ商人たちは、どこにでもいる村の住人たちのようだった。体格のいい男はもちろんのこと、少しふくよかが過ぎる女性もいる。彼女の手を引く子どもの姿まで見られて、ディアは苦虫を噛み潰したかのように複雑な表情を浮かべた。
「くっそ。どうするかな」
 呟いたそのとき檻が開かれた。入ってきたのは三人組の男だ。
 入口にいた者たちは怯えたように後退する。
 男たちはその場で止まると檻の中を見渡した。彼らの手には巨大な槍がある。とてもではないが反抗できる雰囲気ではない。
 先頭に立つ男が良く響く低い声で告げた。
「男女ごとに並んでもらおう」
 動けず立ち竦む奴隷たちを、男たちは容赦なく引き立てて二分していく。悲鳴が上がっても無頓着で、まるで荷物を定めながら投げて分類していくようだ。
 乱暴な扱いにセイが声を上げようとしたが、ディアは素早く彼の口を塞いで黙らせる。セイは納得がいかないような目でディアを見上げたが、ディアは黙ったままかぶりを振った。いま目をつけられれば逃げるのが難しくなる。
 ディアたちも例外なく二分され、男たちは女たちだけを外に連れ出した。どこへ連れて行くのかと見守っていれば、彼らは近くに配置された檻に入れられただけだった。幸いにもまだ互いに姿を確認できる位置にある。
 しかし。
「なぁ。なんでお前がこっちに入ってるんだ?」
 ジェイダが声を抑えながらディアに尋ねた。
 ディアは憮然としたまま「黙れ」と放つ。
「セイはセイで女の方に連れて行かれるしよ。いくら外見が綺麗だからって、あれはどう見ても男だろう?」
「……あいつらには女に見えるらしい」
 意外な気分でジェイダを見ながら告げると、ジェイダは不思議そうに首を傾げる。納得がいかないようにブツブツと呟いている。
 ディアは少し見直した。


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 脱走の機会は直ぐに巡ってきた。
「陽動作戦に乗ってやるから、ちゃんと逃げろよ」
 外に連れ出されるときにジェイダが笑って耳打ちした通り、騒動は起こった。ディアが外に連れ出される、丁度そのときのことだ。偶然とはいえ、まるでどこからか見ていたかのような瞬間だ。
「わ、この……!」
 遠くで炎が吹き上がったため、何人かがディアの側を離れて被害箇所を確認に行く。ディアは最低限残された二人の監視に手刀を与えて気絶させた。
 ジェイダの努力によるものと思われる炎は、全てを飲みつくす勢いで唸り声を上げていた。
「派手はいいが……下手したら死なないか、あれ?」
 檻の鍵が閉められる前のできごとだったため、ディアはひとまず檻の扉を全開にした。
「焼き殺されたくなければさっさと逃げろ」
 ディアは檻の中で大人しくしている男たちに言い放った。だが彼らは動かない。目の前で監視たちをたたき伏せたディアを、恐れるように見上げて怯えているだけだ。
 ディアは舌打ちしてその場を離れた。
 ――どいつもこいつも度胸のない。男なら男らしく行動しろ。
 ジェイダが聞いていれば同じ台詞をディアに返したかもしれない。
「さっさと助けに行かないとな」
 炎はこちらの天幕に燃え移るところだった。どうやって炎を起こしたのか知らないが、大した子どもだと思う。けれど一人では限界がある。
 男奴隷たちが入れられていた檻を離れ、女奴隷たちが連れて行かれた檻に急ぐ。炎の騒ぎによるものか、檻の前に見張りはいない。恐らく消火活動を手伝いに行ったのだろう。男奴隷たちと違い、女奴隷たちからは様々な悲鳴が上がっていた。上に下にの大騒ぎに発展している。
 男たちとの違いに苦笑しながら近づいたディアは、入口の近くに佇むセイを見つけた。
「ディア。大丈夫ですか?」
 ディアに気付いたセイが振り返り、真っ先に聞いてくる。ディアが頷くとセイは安心したように微笑んだ。
「良かった。その荷物の脇に鍵があるはずです。外して頂けますか?」
 指されるまま振り返ると、青い幕に包まれた荷物が確かにあった。幕をめくりあげると鈍色を放つ鍵が見つかる。素早くそれを取り、監視がまだ戻らないことを確認してから開錠する。扉を開放した途端。
「だぁっ!?」
 騒がしく悲鳴を上げていた女たちが我先にと逃げ出した。波に飲まれたディアは流され、必死で足を踏ん張るが堪えきれない。先ほどまでの大人しさはどこへ行ったんだと舌打ちしたい気分だ。
 ディアは視界の端に金色の光を捉えて手を伸ばした。
 応える力は直ぐにあり、ディアは腕を引かれるまま大群の中から抜け出す。顔を上げれば予想通りにセイがいる。安心して笑顔を見せた。
「無事で良かった」
「――ええ」
 しかし安穏としている暇はなく、騒ぎに気付いた商人たちが遠くから駆け寄ってくるのが見えた。手には武器を構えており、殺傷沙汰は避けられないと悟る。逃げ出した女性の一部は既に捕らえられていた。
「向こうだ」
 ディアはセイの手を引いて荷物の陰に隠れた。荷物続きに商人たちの目を逃れようとし、炎の勢力が強い方へ向かう。
「大した子どもですね。単独でここまでできるなんて」
 忍びながら呟くセイに、先ほど同じことを思ったディアは頷いた。吹き付ける熱風が強まり、爆ぜる音と火の粉で目の前が霞む。いつのまにか劇場付近におり、誰もいなくなっていた。炎のただなかにいると悟る。
「……あのさぁ。これって」
 周囲は森だったよな、と思った直後、近くに積んであった荷物が発火した。
「でっ?」
「ディア!」
 吹き上がった炎から慌てて離れる。セイに引かれるまま遠ざかろうとしたが、発火した積荷の中にとある物を発見して目を瞠り、ディアはセイの腕を振り払った。
「ディア!?」
「荷物!」
 短く答えたディアは、吹き上げる炎をかわして手を伸ばした。
 熱いのか痛いのか朦朧とする。肌は真っ赤になり、これ以上この場に留まることは危険だった。しかし見逃せない。他の競売品たちと一緒に、ディアたちの荷物がそこにあったのだ。
「危ないですってば!」
 ディアが荷物を掴んだ直後、セイが後ろからディアを引っ張った。
 拍子に荷物から剣が零れる。鈍い音を立てて劇場へ転がっていったのは、ディアの剣だ。父の形見。
 劇場は炎に包まれている。剣もまた、そのまま炎の中に転がっていく。
 ディアはとっさに手を伸ばして掴もうとした。しかし後ろから掴んでいたセイがそれを許さず、かなり強い力で引き戻された。
 ディアの目の前を炎が勢い良く吹き上げた。セイが引き寄せなかったら、今の炎はディアの顔を焼いていただろう。
 炎の中に転がっていった剣に歯噛みした時だ。
「動くな!」
 セイではない別の声が響いた。近くでセイが息を呑んだのが聞こえた。
「不味いですね」
 セイの言葉にディアも顔を上げる。自分たちが奴隷商人たちに追い詰められたと知る。視線の先には男たちの姿があった。逃げた奴隷たちを集めているのだろう。屈強な戦士としての体つきをしている。
 逃げなければ捕まる。捕まれば今度こそ逃げられない。首謀者が誰だと分かったら、その場で殺されるかもしれない。
 ディアは形見の剣が転がった方向を見つめて奥歯を噛み締め、荷物からセイの剣を取り出した。炎は依然として勢いを弱めない。
「……ジェイダのところまで、走る」
 取り出した剣をセイに押し付けて踵を返した。躊躇せずに走り出す。
 剣よりも、生きている今が大切だ。ジェイダに無茶を通した手前、この機会を棒に振ることはできない。何よりも今はセイが隣にいるのだから、危険に晒すわけにはいかない。
 ディアは不思議と静かな自分に驚きながらただ走り続けた。
 ――あの剣ならば大丈夫だ。守護がかけられている。こんな炎の中でも熔けきってしまうことはないだろう。形さえ残っていれば、きっといつか、自分の元へ戻ってくるはずだ。
 剣を押し付けられたセイは先に走り出したディアに驚いたようだが、黙ったまま後に続いた。ディアと同じく悔しげな表情を炎の中の剣に捧げ、振り切ってディアを追いかける。途中で剣を鞘から抜き放ち、背後から迫る男たちを振り返って距離を確かめる。
 男たちが放つ槍を全て叩き落しながら、ディアを見失わないように必死で気を集中させる。
 炎はますます勢力を増していく。
 ディアは走りながら胸を押さえた。中心部へ近づくにつれて、焼けた匂いが胸を焦がすようになっていた。灰が頭に降り積もる。酸素は炎に奪い取られ、零れる涙は蒸発していく。まるで地獄の果てに辿り着いたかのような気にさえなる。
 セイは振り返り、男たちが追ってこないことに気付いて複雑な気持ちになった。
 このような中まで入り込んでしまえば、命の危険性に関わる。
「ディア。そろそろ戻らないと……」
「分かってる」
 ディアは頷いた。陽炎のように揺れる周辺を見渡すが、ジェイダの姿は見当たらない。痛みを感じて頬に手を当てると異常に熱い。限界が近づいていることが自分でも分かる。一息吸うだけでも苦しい。
 ――この炎から出るため来た道を戻れば、あの商人たちが待ち構えていることだろう。自殺行為に他ならない。
「まずったよなぁ……」
 舌打ちする元気も失われていた。
 音を立てる地面を見ると、真っ黒にすすけた石畳が広がっていた。檻の中から見ていた円形劇場の一端だろうか。
 空を見上げようとしたが、覆い尽くす炎が二人を囲んでいた。蒼穹の代わりに、紅蓮に染まる炎が瞳を灼いていた。あまりの眩しさに顔を背けて強く瞬く。
「あっつ……」
 ここでこうしていても仕方がない。一秒時間が経つごとに危地に追い込まれていく。二人を囲む炎は勢力をさらに増し、囲む輪を縮めようとしている。
 ディアは荒い息を繰り返しながら確認した。ときおり途切れそうになる思考を必死で働かせる。
 ――くそっ。戻れば捕まるし、進む道はないし。ジェイダのやつ、ここまで派手にやらなくてもいいのによ。これで私たちにどうしろって言うんだ。
 死ぬかも、という言葉が脳裏を過ぎって意識を失いかけたとき、強い声がそれを引き戻した。
「ディア!」
 目の前を阻む真っ黒な影。
 遅れて反応したディアは、セイが纏っていた上着を被せられて息を呑んだ。
 火の粉が降りかかるのを助けようというのだろう。だがセイ自身は半袖だ。むき出しの肌はすでに炎で赤く染まっている。セイの白い肌では、火傷に変わるのがとても早そうだ。
「阿呆か。私より」
 気付いたディアが上着を突き返そうとすると強く止められた。
 髪は朱金に染め上がっている。儚げだと思っていた表情はいつの間にか強い力を宿した真剣な表情に変えられている。炎を照り返す顔で笑いかけられた。胸を衝かれるほどに強い眼差しだ。
「ディアの顔に痕が残ったりしたら悲しいですから」
「お前……」
 ディアは脱力した。感動が打ち砕かれ、代わりに込み上げてきたのは笑いだった。くっくと喉を鳴らして背筋を伸ばす。不意に、新鮮な空気が肺に入ってきたような感覚を覚えた。
「いま来た方向に奴隷商人たちが天幕を張っていて、ここがあの劇場の裏側だとすれば」
 自分に言い聞かせるためにも、いつもより強く言葉を吐き出した。
 酸素が薄すぎて頭が痛い。けれど誰がこのような所で死んでやるかと、痛みと同じほど強く決意して辺りを見回す。栗色の瞳に映るのは勢力を増す炎のみだ。
「向こうにフェレーリアがいたはずだ」
 この騒動が起こってからフェレーリアが飛び立つ様子は一度も見ていない。どこかに繋がれているはずだ。フェレーリアは元々南方に生息している動物のため、このような炎のなかでも息絶えてはいないだろう。とある商人からは、熱にはかなりの耐性を持つと聞いたことがある。
 セイは頷いた。
「奪ってしまいましょう」
「言うようになったじゃないか」
「ディアの影響です」
 二人は笑みを交わして走り出した。


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 死に物狂いで炎の中を駆け抜けたディアたちを出迎えたのは、場違いなほど明るい表情の、この騒動の元凶だった。
「あ、やっと出てきたな!」
 ジェイダは半分ほど焼け落ちた樹の下で待っていた。彼の手はフェレーリアの手綱を握っている。フェレーリアは暴れたりすることもせず、新たに現れたディアたちを静かな瞳で見守っている。
「騒ぎを起こしたまではいいが、お前らがちっとも出てこないから心配したんだぜぇ?」
 心配とはいうものの、ジェイダは笑っている。ディアたちの苦労を欠片も理解していないことは確かだ。
 ディアはセイと繋いでいた手を解き、ジェイダの側に寄ると、遠慮なくその頭を殴りつけた。
「いってぇええ!? 何しやが」
 最後まで言わせず再び殴る。ジェイダは地面にうずくまる。
「火を放つなら私たちの逃げ場を確保してからにしろ! 逃げ道にまで火を放たれたんじゃ、丸焼きに決まってるだろうが!」
「酷ぇ。俺だって必死に」
「喧しい! 私たちは死にかけたんだぞ!」
 怒鳴るディアの背後ではセイがため息をついていた。その手には焼け焦げた荷物が提げられている。炎の中を走るうちに飛び火されてしまったようなのだ。気付いたときには半分以上が燃えてしまい、慌てて消したが既に遅い。旅費はもちろんのこと、宝石類にも傷がついて価値はほぼなくなったと言ってもいい。ディアたちは再び文無しとなったのだ。ディアの怒りは尋常ではない。
 疲れたように荷物を眺めていたセイは表情を強張らせた。
 同時に、ディアとジェイダも気付く。唸り声を上げる炎の向こうから大勢の気配と金属の擦れる音が聞こえていた。
 逃げ出した奴隷たちの気配ではない。
 聞こえてくる金属音は、武器が防具と擦れて出す音だ。炎の音に紛れ、こんなに近くに来られるまで気付かなかった。
「ちっ。人が死に物狂いで逃げ出してきたっていうのに、涼しく別の道を確保済みかよ」
 ディアの恨みは相当なものだ。
 ジェイダの手から手綱を奪い取ると、ディアはフェレーリアの背中に飛び乗った。成り行きを見守っていたフェレーリアが楽しげに一声鳴く。
「ほら。さっさとしろ!」
 飛び乗ったディアはジェイダに手を伸ばす。しかし彼はディアの手を取らずにかぶりを振った。
「俺はいい」
「死にたいのか!?」
 ジェイダの後ろからセイも急かしたが、彼はそれを振り払った。
「俺の仲間がここに来てるんだ。追いかけて来てたらしい。だから、俺はそっちへ行く」
 ディアは眉を寄せた。彼が遠慮などする性格ではないと分かっていたが、本当に仲間が迎えに来ているのか分からない。このような状況下であり得ない、と思った。
 セイも同じく迷うようにディアと視線を合わせたが、その間にジェイダは走り出していた。
「おい!?」
「俺は平気だっての! じゃあな、ディア、セイ! また会えたらな!」
 ディアは目を瞠った。
 手を振って笑い、走り去ろうとしたジェイダは炎の中へ飛び込んだのだ。
 驚いたのはセイも同じで、彼はジェイダを追いかけようとした。だが気付いたフェレーリアが鼻先でセイを押し留める。ピンク色の瞳は「早く乗れ」と急かしているようだ。
「ディア……」
「……ああ、セイ。大丈夫だろう。きっと」
 情けない顔で窺うセイに、ディアも驚きを隠せないまま頷いた。セイに手を伸ばして引き上げる。炎を振り返るが、そこにはもう影すら見当たらない。
 背後から商人たちの声が近づいてきていた。
 セイを引き上げたディアは振り返る。炎に包まれていない場所に、商人たちの姿が見えた。彼らはフェレーリアを指差して怒鳴り声を上げていた。炎の声に遮られて言葉は分からないが、彼らが何を言おうとしているのかは明白だ。
 ディアは手綱を取ると、フェレーリアは首を持ち上げる。
 高揚する気持ちを覚えながらディアは走り寄って来る商人たちを眺めた。自然に浮かぶ笑みは消せない。思い切りフェレーリアの背中を蹴ると、それを合図としてフェレーリアは巨大な翼を広げた。
 烈風に炎が大きく歪み、耐え切れずに掻き消された。
 フェレーリアが起こす風に商人たちも耐え切れなかったらしく、彼らは地面を転がった。ディアはそれらを楽しげに見やりながらフェレーリアに離陸を命じる。空高く舞い上がる。
「……落ちるなよ」
 背後のセイに低く呟いて高度を上げる。そのさなか、セイがディアの服を引っ張った。
「ディア。あれを見て下さい」
 吹き付ける風が強くて良く聞き取れなかったが、彼が指す方向を見下ろしたディアは瞠目した。全く焼けていない森林の中に、大きな体を横たえているフェレーリアが1頭いた。奴隷商人たちが持っていた、もう1頭のフェレーリアだろうか。その側には二つの影が見出せた。あまりに小さい点で、姿までは分からないけれど。その影たちに走り寄るのは、炎の勢力から抜け出たと思われる小さな影。きっとジェイダだ。
「仲間が迎えにきているという話は本当だったんですね」
 それも、フェレーリアまで拝借しているのだから、ずいぶんとチャッカリしている仲間たちである。
 セイは嬉しそうに微笑んだ。
 ディアも同じ気分で頷き、ジェイダの前に立つ影に目を凝らす。
 漆黒の見事な髪をなびかせて見上げる女性の姿が、見えた気がした。
「そう、だな……」
 フェレーリアは高く舞い上がり、もう地上を確認することはできなくなる。人影はあっという間に森の中に紛れ込む。高度を上げ、やがて熱気も全く届かない標高に達し、涼しい風に包まれたところでディアはフェレーリアの上昇を止めた。
 肌寒いほどの空気に包まれるなか、そっと見下ろす。緑と赤のコントラストが絶妙だった。
「あ……」
 セイの呟きに、ディアも目を瞠る。
 燃え盛っていた炎は新たな糧を求めるようなことはせず、段々と沈静化しつつある。木々に飛び移ることはせず、その場で沈黙していく。見えない何かに押さえつけられでもしているように。
「どうなっているんでしょう?」
「さぁな……」
 セイに返しながら森全体を空から見下ろす。そしてようやく、現在地が納得できたディアは「なるほど」と呟いた。セイは首を傾げる。
「最初の森か」
 眼下に広がる森は、ディアたちが毒を盛られた宿と、獣たちに襲われた森と、繋がっていた。遠くにぽつんと宿が見える。ディアたちを執拗に狙った獣たちは、おそらく番犬のような役目を果たしていたのだろう。市が開かれる劇場に誰も立ち入らないように放たれたのだ。ディアたちはそれを知らず見事に追い払われ、更には番犬たちの活躍によって呼び寄せられた奴隷商人たちに売られたという訳だ。実に都合のいいサイクルだ。
 ディアの瞳が細くなる。唇に冷笑を浮かべる。
「……ディア?」
 黙り込んだディアに何を思ったのか、セイが不思議そうに呼びかける。
 しかし答える声はない。ディアはフェレーリアの手綱を強く握り締めた。


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 亭主はここ数日、酷いストレスで眠れなかった。
 静かな部屋には商人たちからの報酬が置かれていたが、とても素直に喜べない。手をつける気にもなれない。娘は心痛で臥せってしまうほどだ。
 毎年のこととはいえ、あのような若い者たちを苦境に追いやらねばならない自分たちの不甲斐なさに吐き気がする。つくづく、このような辺境の地に宿を建設してしまった過去の自分が恨めしい。昔はこの辺りももっと活気があり、森からは豊富な実りが贈られ、老後も安泰だと思っていたのに。いったいいつからあの森に商人たちが住み着くようになったのだろうか。旅人を陥れなければ商人たちが連れて行くのは娘になる。
 はぁ、と亭主は何度目になるか分からないため息を零し、寝台の上で寝返りを打った。そうして瞼を閉じるが眠気は湧かない。売り渡した旅人はどうしているだろうかと考えてしまう。
 あのように若い旅人を見るのは初めてだった。きっと夫婦で旅をしていたのだろう。とても可愛らしい清楚な奥さんと、実に頼りがいのある旦那さんだった。あのような旦那であれば今の自分のような苦境に立たされることはないのだろう。あの背の高さには圧倒されるが、とても似合いの夫婦だ。せめてここを訪れるのはもう少し早いか遅いかし、商人たちが市を開催する季節とずれていたなら、あのような罠に陥れることもせず、彼らを笑顔で送り出すことができたのに。
「はぁ」
 やはりため息を零し、亭主はもう寝てしまいたい、と無理に瞼を閉ざす。
 どうせもう自分たちには関係がないのだ。二度と会うことはないだろう。彼らのことは忘れ、自分たちの生活の心配だけをする毎日に戻るだけだ。
 無理に暗闇を作っていた亭主は、何か風が唸るような音を聞いた。
 ――何だろうか。今日は穏やかな風が吹いていて、嵐になるような兆候は何もなかったというのに。
 風の音は段々と大きくなってくる。
 やがて耐え切れなくなった亭主は「うるさいな」と窓に目を向けた。
 窓の向こう側に、ピンク色の瞳が光っていた。
 亭主は硬直する。
 ピンク色の大きな瞳は徐々に降下していき、亭主は、最も迎えたくなかった瞬間を迎えることになる。少し青味がかった鱗に覆われた動物の、その背中に人間が乗っていた。
 窓が外から乱暴に開かれた。
「よう亭主。宿を取りたいんだが、構わないよな?」
「ディア……寄り道している暇はありませんよ? あの者たちを壊滅させたわけではないのですから……」
 凶悪な顔をしたディアが亭主に微笑みかける。
 可憐で清楚な奥さんの声も、亭主の耳にはもはや何も入ってこなかった。


 END