紡ぎ糸のような

【五】

 ディアがいなくなって二ヶ月。
 街道の様子は春へ移行し、雪解けの音がしばしば聞こえるようになった。ごく稀に吹雪となることもあるが、その回数も段々と減り、街道は確実に歩きやすくなっていた。
 そんな中、ヴァレン領を出てなだらかな山を越えようとしていたセイは、溜息をつきながら肩の荷物を確かめた。この二ヶ月、できる限り短期間の仕事を選び、街道を進むため商人たちの護衛仕事ばかりを請け負い、旅費と距離を稼いできた。しかしそれでも、ティイバーレ地方に辿り着くまでには及ばない。かの地はまだまだ遠い。
 セイは腰の剣に手を伸ばし、立ち止まって辺りを見回した。周囲は不規則に植えられた木々が息を潜めていた。密集しているので見晴らしは悪い。たとえ葉が枯れ落ちていようと関係がないようだ。辺り一面の雪景色で、ひとたび光が差し込めば目が眩む。
 雪の中に荷物を下ろしたとき、どこからか声が上がった。
「察しがいいな。そのまま黙って山を下りてくれりゃあもっと嬉しいんだが?」
 セイは黙って剣を抜き放った。ヴァレン領を出る前に新調した剣だ。ハーストンが勧めた店で購入した。造りはなかなかの物だ。
 冴え冴えとした雪光を乗せた刀身。雪の反射光できらめきを増した金を混ぜて、そこに剣呑な紫紺が浮かぶ。
「遠慮します」
 言葉少なに拒絶すると笑い声が響いた。
 どうやら一人ではないらしい。複数の下卑た笑いにセイは顔をしかめる。
 充分な休息をとっていないためか頬は削げ落ちて様相が変わり、体つきも骨ばって服が余る。伸びた金髪は不揃いだった。
 雪の影から複数の男たちが現れた。
 セイは冷静にその数を確認する。装備なども一瞥する。肩からすっぽりと腕まで覆う外套をまとっている。武器は外套に隠されて見えない。どうやら民族衣装らしく、外套には赤い紋様が描かれている。
 足場はそれほど悪くない。深い雪が邪魔をするだろうが、ここ一ヶ月、このような場所でばかり護衛仕事を務めてきたため慣れている。一番邪魔な根は地面の下に隠れていて、足を取られるようなことはない。
 男たちはセイが一人だということに余裕の笑みを見せていた。
 楽しげに笑みを浮かべながら飛びかかってきた男を一人、セイは一閃させてなぎ払った。
 鮮やかな赤が雪に散る。
 それほど深く傷つけるつもりはなかったが、男が予想外に避けなかったため、剣は彼の太った二の腕を長く裂いたようだった。男は悲鳴を上げて雪上に転がる。
「黙って山を下りるのは貴方たちでしょう」
 肩まで伸びた金髪が静かな音を立てた。セイはその場から動かずに剣を振る。流れた赤が雪上に散る。感情を封じ込めた紫紺が男たちを眺めた。
 冬の蓄えを旅人から巻き上げようとしていた山賊たちは、格の違いを見せつけられたように動揺した。最初に斬りつけられた男は傷を押さえ、雪の上を這いながらセイとの距離をはかった。
「……退きなさい」
「ふざけるな!」
 一人の号令に合わせて他の男たちも奮起し、外套の下からそれぞれの武器を取り出した。剣や斧、飛び道具を手にして襲い掛かる。
 セイは冷静にそれらを避けながら溜息をついた。
 雪に埋めていた両足に力を込め、男たちを睨む。剣の刃を素早く返した。

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 ヴァレン領から真っ直ぐに北上してきたセイは、一度だけ訪れたことがある町を目にしていた。お腹がすいた、と食堂を探していたが、町の様子が以前と違うような感覚に捉われて首を傾げる。
 町並みが比較的新しい。
 店も通りもすべてが新しい。まるで、町全体を改造したかのようだ。通りは広く取られて商店が立ち並び、活気溢れる人々が往来を闊歩している。民家は少し奥へ寄せられ静かな時間を過ごす。
 自分の良く知る町と同じような感覚を味わった。
「ええと……」
 ひとまず、何があったのか酒場に寄って情報を集めてみようと通りを見渡した。雪解けが近いからか町民たちの顔は穏やかだ。それらも、以前とは違うと感じた要因だ。
 エトレー男爵が治める土地。息子のガラフが暗躍し、人々はその傍若無人な振る舞いに辟易しながらも従っていたはずだ。
 辺りを観察しながら酒場を探し、セイは以前とはまったく違った場所に建っていた酒場に困惑した。しばし店の前で立ち尽くし、唐突に違和感の原因が分かって手を打ち鳴らした。
「そっか。ラミアスの町と同じ造りなんですねっ」
 分かった途端、セイは酷く疲れてかぶりを振った。
 一体『彼』は何のつもりなのだろうか。ディアの件があるから会うつもりはないが、今の彼には会ってみたい、と思った。ヴァレン領から北の大陸に渡るための最短経路にはこの場所が含まれていた。悪路は承知の上で、港まで戻っている時間も惜しく、せっかく来たならエトレー男爵に船を貸してもらおうと思っていた。
 もう日が落ちる時間帯だった。山越えで汚れた衣装のまま男爵に会うわけにはいかない。息子のガラフに会うなら困らないだろうが、品を欠いた行いで彼から嘲られるのは我慢ならない。ただでさえ親不孝をしているのに、遠い地で息子のそのような噂が流れたら困るだろう。
「どのみち、船を借りても夜は出していただけないでしょうし……」
 セイは酒場の前から離れた。食堂を探そうと思っていたが、脱力と共に空腹も消えたようだ。自分でも何をしているのか分からないまま町の出口に向かった。以前、ディアと薬草を摘んだ丘に向かう。そこからは海も見渡せるだろう。
 このまま眠りたくなくて海を眺めることにした。門を閉じようとしていた門番に断り、戻る際は開けてもらうという約束を取り付けて、セイは少し離れた丘へ向かった。髪を攫う潮風に瞳を細める。
「……ティイバーレ地方。タラッチェ王国」
 行けばディアの身内がいるだろうか。彼女の父親は亡くなったと聞いている。兄が一人いると言っていたが、存命なのかは聞いていないなと、セイは丘に向かいながら首を傾げた。
 日没の瞬間に立ち会った。
 伸びた朱金の光が雪雲を照らし、鮮やかな茜に染めていた。海と雲に反射し、影まで金茜に染められる。丘の上にはまだ深い雪が残っており、一歩踏み出せば簡単に埋まった。一瞬ごとにきらめきを変える雪光を眺めている。やがて煌びやかな最後の舞台が終了し、空は余韻を残しながら瑠璃色の衣を広げていく。太陽の光に隠されていた月が昇っていた。
 セイは足元に視線を落として少しだけ前に進んだ。雪を蹴上げると細かな珊瑚石が散ったように思えた。
 肝心の薬草は雪の下にある。これほど雪が積もっていれば、薬草が無事なのかは疑問だ。本格的な春にならないと収穫は難しいだろう。
 セイは顔を上げた。
「昔に滅びた魔法王国」
 魔法という言葉すら久しぶりに聞いた。実際に見たことはない。昔はこの大地に魔法が満ちていたらしいが、人が増えるにつれてその力も薄れていったそうだ。歴史の授業で兄と共に勉強した。しかし古い歴史は定かではなく、絵本の中の御伽噺ていどだろうと思っていた。それなのに、まさかディアがそんな伝承に関わりある人物だとは思ってもみなかった。
 世界は広いようで意外に狭い。けれど見つけようとすれば嘲笑うように無限を見せる。不条理な世界だ。
 足元の雪を踏み固めて場所をつくり、セイは雪中に座り込んだ。
 太陽の気配はもうない。闇が包み込もうとしている。今日は風もなくて、波の音だけが静かに響いていた。
 体の感覚が麻痺しているのか寒さは感じない。こうしていつまでも雪の中にいることができそうな錯覚を覚える。紫紺に水平線を映し、遥か遠くにぼんやりと浮かぶ対岸を見つめた。
 ディアはこの海に遺跡が沈んでいると言っていたが、月光を反射した海には何も見えない。黒々と冷たい光を照り返しているだけだ。朝日に透かせば遺跡が見えるだろうか。
 いぜん訪れたときには気にも留めなかったというのに不思議な話だ。ディアが戻ってからまた訪れるのもいいかもしれない。それがいつになるのかは分からないが。
 腹の底から息を吐き出すように深呼吸し、セイは冷たい空気を思い切り吸い込んだ。疲れたように瞼を閉じる。そのまま仰向けに倒れる。
 銀色に輝く雪の中、金色の柔らかな髪が舞う。
 もし誰かがいたら、魅せられてその場から動けなくなっていたかもしれない。
 冷気を遮断する装備をしているとはいえ、直接雪に触れていたのでは、中まで冷気が届くのは早い。じわじわと浸食してくる冷たさを感じながら、セイはこのまま眠ってしまいたいと思った。
 刹那、セイは紫紺の双眸を見開いて立ち上がった。
 雪を蹴散らし、荷物を抱えて崖に走り出す。
 波音に紛れて微かな羽ばたきが聞こえた。どこからだろうと瞳を細め、海を眺めたセイは直ぐに目的のものを見つけた。
 水面すれすれに下降し、再び上昇してセイの元へ向かってくる。
 1頭の大きな翼竜。
「フェレーリア……?」
 それが、逸れたフェレーリアと同じフェレーリアなのかは分からない。
 セイの呟きなど聞こえているはずもないのに、向かい来るその生物は一声大きな鳴き声を上げた。薄いピンクの瞳が真っ直ぐに向けられている気がしてセイは微笑んだ。
 まだディアまでの道は途切れていない。迎えに行ける。
 目の前で首を下げたフェレーリアに乗るため、セイはためらいなく崖から飛び降りた。

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 ディアの生まれ故郷かもしれないタラッチェ王国。
 船や馬を使っても何ヶ月かかかるかもしれない距離だが、フェレーリアさえいれば海も山も関係なく、最短距離を辿れる。また、フェレーリアは現存する移動手段の中で最も高速移動が可能なため、時間を大幅に縮めることができる。
 セイはフェレーリアの首に寄り添うよう体を伏せながら真っ直ぐに前を見ていた。早すぎてどこを飛んでいるのか分からないが、フェレーリアはセイの行きたい場所を知っているのか、ほとんど迷わずに飛んでいく。
 ヴァレン領を発つ前、静かに牽制をかけてきたアイルの言葉が蘇る。決して無茶はせず、生きて戻って来いとの意味を込めて。
 分厚い雲を突き抜けたセイは、急に広がった目の前の大地に圧倒された。
 濡れた服も髪も気にならない。体を起こすと耳に痛いほどの風がセイを包む。
 ティイバーレの大地。
 小さな戦火が絶えず繰り返され、大小の国がひしめく群雄割拠の地。
「この先が……タラッチェ王国。まだ、滅んでいない」
 かつて魔法大国として名を馳せていたが、今ではその国力を縮め続けている小さな国。ディアが手にしていた剣は間違いなくそのタラッチェ王国で造られた物だろう。まさかそこにディアがいるとまでは思っていないが、何らかの手がかりくらいはあるはずだと信じてフェレーリアを駆る。たとえ手がかりがなくても、ディアが生まれた国には興味を惹かれる。
 セイは城壁で囲まれた王国の首都目指し、フェレーリアの進路を調節した。速度を落として滑空する。下りる前に一度、全貌を見てみたいと思って町の上を通過しようとした。人々がフェレーリアの影に気付いて空を見上げる。翼竜の姿に小さなざわめきが起こる。
 首都には王城のほかに大きな屋敷が幾つか点在し、整然とされた町並みは小さいながらも優麗さを備えていた。ところどころに高い塀や深い溝が掘られており、長い戦禍の末に建てられた要塞としての役目も感じさせられる。
 セイは町並みを上空から眺めて感嘆した。
「素晴らしいですね」
 ラミアス領も長い戦禍の末に軍事的な造りを取り入れた町に発展したが、眼下に広がるタラッチェ王国は景観を損ねる一切が取り除かれていた。恐らく魔法による力があるため、物理的な防御に頼らなくてもいい箇所が幾つかあるのだろう。王城から町を眺めたらさぞや圧巻だろうと思わせる。
 セイは好奇心を刺激されてフェレーリアを降下させた。首都を囲む物見の塀よりも外側へ下りようとしたが、その刹那、セイは異変を感じた。
「わ……っ!?」
 耳障りな大きな音と共に目の前で火花が散る。痛みと驚きで思わずフェレーリアの手綱を放す。それでもフェレーリアなら自由意志で上昇するか、危険のないように静かに降り立つはずである。だがセイと同じく驚愕していたフェレーリアはバランスを失っていた。
 セイは何が起きたのか分からなかった。
 落ちる間際、物見の塀の内側へ入り込んでいたのだと悟る。
 必死に手を伸ばしたが何にも届かない。
 セイはフェレーリアもろとも、タラッチェ王国の首都に墜落した。


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 目が覚めたのは小さな個室でだった。
 見覚えのない部屋だ。多少の窮屈さは感じたがきちんと整理されており、清潔感がある。けれどなぜそこに自分がいるのか分からず体を起こす。その刹那、走った激痛に短く呻く。セイはたまらず突っ伏した。
「何……?」
 指先から首筋まで痺れるような痛みがセイを襲う。
 体を折って痛みに耐える。時間はかかるが痛みは徐々に引いていく。ようやく呼吸を許されたセイは恐る恐る息を吐き出し、体を起こした。
 僅かな違和感がある。
 痛みの発生源であろう指先に触れようとして目を見開いた。
 セイの両手は変色し、毒々しい黒紫に染まっていた。とても常人の肌とは思えない。思わず仰け反るセイだが、それが自分の手である以上、どこまで行っても逃げられない。何が起こったのか分からず、気持ち悪く変色した自分の手を呆然と見つめる。
「あ……フェレーリア……」
 しばらく経ち、驚きから立ち直ったセイは極力自分の手を見ないようにしながら呟いた。部屋を眺めるが、この狭い場所にフェレーリアがいるわけがない。
 寝台から離れた場所に窓があるが、それは開け放つことのできない、小さな嵌め窓のようだ。そこから覗く小さな空を見ながら眉を寄せる。タラッチェに入る直前のことが蘇る。
「墜落……」
 物見の塀よりも外側へ下り、正規の方法で町へ入ろうとしたのだ。けれどフェレーリアを降下させている途中で何らかの攻撃を受け、セイたちは落下した。落下してみれば物見の塀よりも内側であり、目測を誤っていたのだと悟ったが、それを見誤るほど高い位置にいた自分たちに攻撃をしかけるなど、いったい誰なのだろうか。物見の塀には誰もいなかったはずだ。
「誰か……」
 とにかく誰かと話をしなければと、セイは寝台から下りようとした。
 寝台についた両手は痛みを訴えたが、ひどい激痛というわけでもない。なぜそうなったのか分からないがいずれ消えるだろう。
「どなたか、いませんか?」
 扉はなかった。小さな窓から入る光のみで、他の光源も見当たらない。薄暗いなか四方に首を巡らせたが、灰色に沈む壁があるだけで扉がどこにもない。よくよく部屋を観察し、綺麗に整えられていると思ったのはただ単に物がなかったからかと思い至る。部屋を飾りつける調度品が一切ない。シーツや布団は白く清潔感が溢れていたが、部屋の様子はあまりに素っ気ない。
 チェラージのときのように見え難くしている扉なのだろうかと戸惑っていると、部屋に微かな赤い光が差し込んできた。振り返ったセイは夕陽の光だと気付く。小さな窓に視線を向けるが、茜に染まる空が見えるだけで夕陽の姿はどこからも見ること叶わない。
「気付いたか」
 夕陽に気を取られていたセイは驚いて振り返った。視線の先に兵士を見つけ、瞳を瞬かせる。扉が開いた気配はまったくない。
 なぜ、と疑問が浮かび、そういえばと思い出す。
 タラッチェ王国は魔法国。もしかしてタラッチェに住む者たちは扉がなくても部屋を自在に行き来できる術を会得しているのかもしれない。人智を超えた現象を意のままに操る人々が住まう王国。
 どうやら国も魔法もまだ滅んではいないらしい。
「あの」
「質問はこちらでする。余計な口は不要だ」
 兵は淡々と諌めた。感情を欠いた声音にセイは口を噤む。呆気に取られたと言った方が正しい。しかし兵はセイの様子にただ頷いて向き直る。セイが彼の傍に行こうとすると、それすら制止される。二人は一定の距離をあけて向かい合った。
「お前が我が国へ侵入した目的は何か」
「え……」
 重々しい言葉にセイは目を見開いた。まったく予期していなかった言葉だ。しかし正規の手順ではなく踏み入れば、確かに侵入者として成り立つと考え直す。意図的ではないが、彼らにとってはセイ側の事情など知らないのだからこの扱いも頷ける。戦乱に身を置く国であれば警戒心も強くて当然だ。あまりにも考えなしの行動だったと認めざるをえない。
「申し訳ありません。侵入するつもりはありませんでした。気が急いていて、降下場所を見誤っただけです。この国に害を及ぼす目的はありません。私は旅人です。こちらへは旅の途中に寄らせていただきました」
 黙ったままの兵に焦り、なんとか理解してもらおうと言葉を続ける。しかし兵は何の反応も返さない。セイの言葉をただ紙に書き込んでいくだけだ。
 セイは眉を寄せた。もしかしてこれは尋問かと思い至った。知らずに背筋が伸び、言葉を選ばなければと唇を引き結ぶ。ディアを捜しに来たのに、その手がかりすら掴めず罪人処分されるなど冗談ではない。
「身分を証明できる物を携帯しているか?」
「はい」
 セイは旅券を差し出した。
 それは世間一般の旅人が使うもので、旅人の名前や出身地、どこの国を通過してきたのかなど、旅人に関した様々な情報が綴られている。関所では主にその情報を確認して元を取り、入国させるか審査する。
 兵は差し出された旅券を紙の間に挟んだ。見ようともしない仕草にセイは軽く目を瞠る。これまで通ってきた関所の人間は、旅券をその場で確認して入国の判断をする。これも入国の際に無茶をしたための特別処置なのだろうか。
 疑いが晴れるまで動くことはできなさそうだ、とセイが小さな溜息をついたとき、兵は再び口を開いた。
「お前が我が国へ侵入した目的は何か」
 最初と同じ質問を繰り返した。
 セイはためらって兵を窺う。彼の表情は兜の影に隠れて分からない。
 セイは少々不愉快な気分を抱きながら、辛抱強く口を開いた。
「……人を捜しに。その手がかりを求めて入国しようとしました」
「その人物とは」
 兵の声が途切れた。気付いたように後ろを振り向いた。
 セイはその様子に気付き、なんだろうとそちらを見て、床から湧き上がるようにして現れた影に息を呑んだ。その影は直ぐに人間だと知れたが、扉から入ってきたのではないその異常さに驚愕する。
「……申し訳ありませんが、ただいま尋問中です」
「ああ。それは分かっている。ただ、そいつは私が引き取ることになったんだ。尋問の中止を命じる」
 低く響いた声にセイは二度驚いた。息を呑んで現れた影を見つめる。
「しかし」
「何か?」
 抗議の声を上げようとした兵を遮り、新たに現れた人物は圧力をかけた。
 兵は一瞬黙る。そのまま一歩退く。セイの視線の先で、兵の姿が一瞬だけ揺らいだ――そう思った直後にはもう消えていた。
 セイは驚く。自分の目で見たことだったが信じられず、瞬きもできずに兵が消えた場所を凝視する。そうしていると笑い声が聞こえた。
「ここはまだ魔法が息づく国なんだよ。驚くのも無理はない」
 兵がいた場所を一歩踏み越えて明るみに出たその顔に、今度こそセイは声を上げた。
 栗色の髪に栗色の瞳。
 別れたときより少し伸びたと思われる長身は見慣れないが、それでも、捜し求めていた人物が目の前にいた。
「……ディア?」
 信じられないけれど。
 セイがそう呟くと、現れた人物は栗色の瞳を大きくして、そして笑った。