紡ぎ糸のような

【七】

「おい起きろよセイ! 悠長にしてられる暇なんてないんだろっ?」
 タラッチェ王国に来てから一夜明けて、セイは文字通り叩き起こされた。
 その騒がしさにディアが戻ってきたのかと思ったセイだが、目の前にいたのはジェイダだった。彼の背後にはバッファもいる。落胆するのはさすがに失礼かと思って起き上がる。そして外を見て慌てた。すでに明け方だ。寝坊したのだと気付き、寝台から飛び降りる。
「ったく。なんで俺が使いっ走りしてやらなきゃいけねーんだ」
「それはお前が兵に見つかるヘマをやらかしたからだ」
「うっせーぞ、バッファ!」
「あーあ。俺こそお前みてぇなガキと作戦行動しなきゃならねぇなんて、運がねぇぜ」
「なんだとぉ!?」
 セイが着替えをして仕度を整えている間じゅう、ジェイダとバッファの掛け合いは賑やかに続いた。しばらく無縁だったその賑やかさにセイは笑う。
「あ! お前に俺らを笑える資格はねぇぞセイ!」
「好きな女を護れなかったって話じゃねぇか。男の風上にも置けねぇな。坊主といい勝負だ」
「俺を子ども扱いするんじゃねぇー!」
 耳に痛いバッファの台詞にセイは複雑に笑い、仕度を整えてから扉を開けた。その先にサミリアがいた。待ち構えていたように腕組みをして壁に背中をつけている。
「おはようセイ。良く眠れたかい?」
「え、ええ、申し訳ありません。寝過ごしてしまったようで」
 セイは驚きながらぎこちなく頷く。サミリアは嫣然と微笑みながら首を振った。
「構わないさ。どうせ行くのは夜になるからねぇ」
「え……」
 それならいま起こされた自分の立場は、と困惑するセイをすり抜け、サミリアは部屋の中へ踏み入った。いまだ舌戦を繰り広げている二人に近づく。
「叱られて他人に八つ当たりするのは精神年齢子どもの証拠だよ、この馬鹿ども!」
 容赦ないサミリアの平手が二人の頬を打ちすえた。


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 王宮の地図を広げて作戦を練る。下準備はすべて終えた。
 あとは刻を待つばかりだ。
 セイはディアの剣を手にした。部屋に戻る前、渡すのはあんたの役目だろう、とサミリアから渡された。剣は華美な装飾の一切を落とされ、実用的に手に馴染むよう造られている。剣を抜くと、サミリアとガーランドによる守護魔法が刀身に掘り込まれているのが分かる。セイが触れると赤い燐光を発する。
 部屋に一人にされたセイは唇を引き結び、刀身を見つめる。早く、という思いが強くなる。焦りは禁物だが衝動は強まるばかり。刀身に映された自身の瞳を見つめる。
 剣を手にしただけで仄かな暖かさに包まれる。これはディアに絶対の守護を約束するものだ。
 セイに剣を渡すとき、サミリアは笑って告げた。
『誰にも負けぬように。巻き込まれぬように。願いが叶うように』
 そう祈りながら守護をかけたのだと。
『もしも一人の力でどうしようもなくなったときには助けが現れますように』
 と。
「その役目は私がいいですけど……」
 セイはぽつりと零す。さてディアはどう思ってくれているかなと、苦笑しながら剣を鞘に収めた。自分の剣とディアの剣と、二つを佩いて確かめたとき、部屋の扉が叩かれた。
「おいセイ。ここの主が呼んでるぜー」
 廊下から聞こえてきた声に、セイは慌てて走った。


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「俺はいまから窓に向かって独り言を喋る」
「はい?」
 アーネットを継いだ青年に呼び出されたセイは思わず問い返した。何を言われたのか分からない。だがアーネットはセイの戸惑いを気にもせず、視線すら振り返らずに大きな窓の外を眺めている。いったい何が始まるのだろうかと扉を閉めて傍へ寄る。だがやはりアーネットはセイを見ないまま、宣言通りに口を開いた。
「妹を、このタラッチェから遠くへ運んで欲しい」
 開口一番の奇妙さは払拭された。真面目な声音にセイは瞳を瞬かせて彼を見つめた。背筋が伸びる思いをする。彼からは静かながらも圧倒される気配を感じ、逆らえない。もとより逆らうなど考えも及ばないが、自然に膝を折りたくなるような威厳が漂っていた。
「王宮から連れ出したあと……私が連れて行くことを認めていただけるということですか?」
「窓は喋るな」
「はい?」
 真剣な声音で再び脱力するようなことを言われる。セイはどうしたものかとアーネットの背中を見つめ続ける。彼は一向に振り返らない。ふとセイは彼が見つめる大きな窓に視線を向け、そこにアーネットの姿を見出して表情を改めた。アーネットは窓を通してセイを見つめていた。
 窓の中のアーネットと視線が合ったとき、アーネットは柔らかく笑んで首を傾げた。その笑みの中にディアの面影を見る。セイは居た堪れなくなって視線を外す。声も外見も同じ人物。けれど彼はディアではない。もう、何ヶ月彼女に会っていないだろうか。
「認めるも認めないも……王宮から逃げるのは妹の勝手だ。俺が関知することではない。簒奪者が作戦を練ってることだって、俺は知らないんだから。俺の力が及ぶのは国内だけだ。外へ逃げられてしまったら俺は捜し出せない。それが王の命令でも、知らないものは仕方ない」
 淡々と告げられた言葉に隠された真意にセイは顔を上げる。アーネットの瞳を窓越しに見つめる。
 王宮からディアを連れ出せば騒動が起こるのは必至だ。その混乱の中、彼女を安全な場所に連れ出すというなら、アーネットに挨拶をしている暇もない。
 アーネットは国を支える四公爵家の一つだという。アーネットの名を継いだときから彼は、肉親よりも国を優先するのが務めとなった。
 二人の間に沈黙が下りた。
 セイはアーネットを見つめながら考える。彼を国外へ誘うのはどうだろうか。彼がいればディアも心強いだろうし、ディアを取り逃がしたことで彼が責を負うような羽目にならずに済む。魔法を司る特殊国にいた彼なら、自分の力を発揮できる場所は他にも多くあるだろう。
「……あの」
「父上は戦場に出れば死ぬだろうことを悟っていた」
 セイの言葉を遮るようにアーネットが口を開いた。セイは誘おうとしていた言葉を飲み込み黙って彼の言葉を促す。
「ガーランドの支援を得られなくても、戦場に立つのが自分の役目だと言って出て行ったんだ。そして後を俺に任せた。父が見ることのできなかった最後まで、俺は最後の役目を務めきる」
 アーネットが栗色の瞳に宿すのは何物にもかえがたい絶対の意志。ディアの中にセイが見続けてきたものだ。血を分けた兄弟らしく、そっくりだ。
「あいつには何も告げない。国に付き合うのは俺だけでいい」
 栗色の瞳はセイを見ない。窓に映るセイの姿から、窓の外へと視線を移している。そこにはディアが通っていくだろう城壁があった。
 セイは深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
 妹の救出作戦に協力すらできない彼への、精一杯の感謝と。最後まで王朝に尽くそうとする彼への敬意。言葉にできないそれらを感じながら、セイはドーラルを思い出していた。


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 兵士の巡回パターンは頭の中に入っている。
 もっとも厄介な魔導師たちは王宮の奥に入らないと出てこないらしいので好都合だ。
 セイは夜闇に紛れながら振り返った。
 後ろにはジェイダとバッファがいる。
「俺らはいつでもいいって言ってるだろ。むしろ心配なのはお前なんだからな」
「ま、作戦が成功しようが失敗しようが主殿が無事なら俺はいいさ。主殿の心中を思うなら成功の方がいいがな」
 協調性の欠片もないこの二人に任せて平気なのか、そこがセイの一番の心配なのだが、二人にはまったく伝わらない。セイは嘆息し、頭の上を通過した兵が角を曲がるのを見計らってから城内に侵入した。
 金色の髪が闇に溶ける。


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 騎士と魔導師。
 魔法が残っている国があるということすら知らなくて、世の中はまだまだ未知が溢れているのだろうなどと思ってしまう。ジェイダが奴隷商人たちから逃げるため火を熾したのは、彼が魔法を扱えたからなのかと、今頃になってようやく納得がいった。便利な力だ。
「実際に見たことがないから分からないが、連れてかれた女たちは王宮の奥で保管されてるって話だ」
 背後のバッファに小さく頷く。引っ掛かりを覚える言葉がなかったわけではないが、事実なのだろう。聞き流す。
 ディアを助けるため実際の表舞台に立つのはセイたち三人。サミリアとアーネットは後方支援だ。サミリアは城壁の結界を解除する役目を負い、アーネットは他の公爵家たちの動向を監視しながら牽制する。アーネット以外の公爵家はすでに魔導師貴族となっており、騎士貴族はほとんどが敗退したという。昔から勢力を保つ騎士貴族はアーネットのみだ。世代がかわり、当代が魔道に転向しようと根幹は変わらない。古くから受け継がれてきた格式ある公爵家に口出しできる者は少ない。
 直接関わらないものの、ディアを案じる気持ちは全員が同じだ。
 ようやくディアに会えるのだと思うと心が沸き立つようで、気持ちを宥めるためにセイは何度もディアの剣に触れた。それだけで心が落ち着いていく。きっとそういう魔法もかけられているのだろう。
 城に潜入してからしばらく経った頃、セイたちは巡回の兵に見つかった。
 見つかったと言っても、声を上げて叫ばれたわけではない。単に巡回の兵が向こう側から歩いてきただけだ。セイたちが忍び込んでいるなど、まだ誰も知らないだろう。
 セイは高をくくり、笑みすら浮かべて兵を迎える。ことさら急ぐわけでもなく、一般の貴族と同じように堂々と歩いてみせる。素晴らしい胆力だった。
 セイに気付いていた兵は何も思わなかったようで、お疲れ様ですというように軽く目礼する。それにセイも応えてやり過ごす。けれどすれ違う一瞬、兵の瞳が訝るように細められた。彼の視線はセイの後ろにいたバッファに向けられている。冷やりとしたものが胸を掠めたのも一瞬。兵の目が、今度は大きく瞠られて口を大きく開ける。異変を知らせる大音声の前触れ。
 セイは素早く周囲を確認して兵の背後へ回り込み、鞘に入ったままだった剣で兵の首を強打した。
 二人一組での巡回。
 もう一人の兵が慌てて声を上げようとしたが、それはバッファ自身によって止められた。巨体を存分に生かしての張り手だ。体格差があったため、兵は声を上げることもできずに壁へ叩き付けられ、気を失った。
 倒れた二人の兵を眺めたセイは嘆息した。心臓が痛いほど高鳴っている。
「昨日見つかった俺の顔なら分かるけど、なんでお前の顔で驚かれるんだよ。知られてないはずだろ?」
「そういや国を出る前、主殿と一緒に城を歩いたことがあったなぁ。そんときに見てた兵か。ちっ。ついてねぇぜ」
 バッファがぼやき、ジェイダは一瞬言葉を失う。
「なんでお前が城の中を歩いてたんだよ!? 俺なんて一回も城に」
「ジェイダッ」
 大音声で叫んだ少年を慌てて諌めたがすでに遅い。倒れている兵をどこかに隠す暇もなく、声を聞きつけた別の兵がやってきた。足元に転がる兵さえいなければ、単なる子どもの喧嘩ですよと流すこともできたのだが。
 セイは小さく溜息をついた。
「ええと。奥に入るまで貴方たちの援護は望めないのでしたよね?」
 それは城に入る前に聞かされていたことだ。セイは素早く剣を抜き去り、こちらに近づいてきた兵を薙いだ。確認のために問いかける。
 兵の装備がしっかりしていたため、切ったというより叩いたという方が正しいかもしれない。廊下に転がっただけでダメージは少ないようだ。彼は一瞬にして険しい顔になる。
「魔法を使ったら直ぐに魔導師が出てくるからな。奥に入るまでは温存だ」
「ったく。だーかーら、お子様と一緒に作戦行動なんて嫌だったんだ」
「なんだとっ? 俺だってな、お前みたいな陰険野郎と一緒に」
「なんなんだお前たちはっ?」
 勝手に喧嘩を始めるジェイダたちに兵士は声を上げたが、セイはその隙に兵の傍に寄った。跳躍し、唯一装備に守られていない首を狙って剣を振るう。けれど止められた。一度では終わらない。二度目はさらに警戒を強められ、易々と剣を受けてはくれないだろう。セイは厳しい状況に顔をしかめる。
「おのれ。侵入者どもめが……!」
 否定はできない。
「うわ。反対側からも来やがった」
「ずいぶん大所帯だねぇ。こりゃ兵に何か持たせてたな」
 二人の声に背後を見ると、狭い通路を塞ぐように重装備の兵たちが迫ってきていた。彼らを掻い潜って城の奥まで行くのは至難の業だ。ならば目の前の兵を切り捨てるのみ。
「二人は走って下さい」
 セイの声に従って二人が走り出す。兵は自分の横を通り抜けようとする二人に剣を向けたが、それはセイが伸ばした剣によって受け流された。二人は無事に兵を通り抜けていく。そのまま止まらず走っていく。
 兵の注意が完全にこちらに向き、構えを取られる寸前に、セイは兵の手を斬りつけて回り込む。
「おのれ……!」
「恨みなら引き受けますよ」
 再び構えて突進してきた兵だったが、セイは屈み込むことでそれを避ける。下から上へと剣を突き刺すように、兵の腕へと振り上げ。鎧が砕ける音に顔をしかめる。
 兵の絶叫を背中で聞いて走り出した。追いかけてくる足音は大勢。
 ジェイダとバッファは少し先で振り返っていた。険しい顔のまま彼らに頷き、セイは剣を握り締めた。


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 足を一歩踏み入れただけで肌が粟立った。
 蛍のような光の粒子。息をするとクルクルと回って瞳を楽しませる。両手を差し出すと、その僅かな気流でさえ感知して光が舞う。
 明滅を繰り返すそれらが何なのか、セイは知らない。暗闇のなかにぼんやりと浮かび続けるそれらは周囲の様子を伝えてこようとするが、辺りには何も存在していないかのような床が続くばかりだった。果てが見えない。扉一枚隔てただけだというのに、まるで別世界へ迷い込んだかのようだ。
 この奥にディアがいる。
 セイは意を決して闇に踏み込む。足元に漂っていた光が静かに揺れて落ち、再び沈黙を保つ。どこから襲われてもいいように、サミリアから渡された剣を握り締める。
 ディアの父の形見となった剣。その柄を握り締めていると自分の心を勇気付けてくれているようで安心する。ディアもそんなことを思ったりしたのだろうかと意識が逸れる。
 扉を一枚隔てたこの部屋は魔導師の領域だった。
 視界を奪われ、五感のすべてでおぞましさを感じる。漂う光はむしろ恐怖を引き出す。セイは神経を尖らせて一歩ずつ足を進めていくが、誰の気配もないことに眉を寄せた。他の部屋と明らかに違う雰囲気。ここにディアがいると思った。だが、どうやら違うようだ。もっと奥の部屋にいるのだろうか。
「っかしいな。いっくら魔導師の数が激減したからって、誰一人出てこねぇなんてよ」
 誰の邪魔も入らない。それはセイにとってありがたいことだったが、ジェイダは不満そうだ。唇を尖らせ、口調は緊張を解いている。
「この空間自体に魔法の力は感じるんだがな……」
 バッファも肩透かしを食らったような反応をみせて詰まらなさそうにする。
 背中で彼らの台詞を受けたセイは苦笑した。
 僅かだが緊張を緩め、これではどこに何があるのか分かりませんねと振り返ろうとして――その先に誰の姿もないことに目を瞬いた。
 二人の姿が忽然と消えていた。
「ジェイダ?」
 返事はない。
「バッファ?」
 もしかしたら返事をしないだけなのかもしれないと手を伸ばしてみたが、腕は宙を切るだけだった。直ぐ後ろをついて来ていたはずなのに、今の一瞬でどこへ消えてしまったのだろうか。
 途端に不安が湧く。光の粒子が悪意に変わる。
 セイに寄り添い、冷静さを奪い取っていく。入ってきた扉がどこにあるのかさえ分からなくなる。
「ディア……」
 両手に嫌な汗をかいていた。
 ディアを思い出そうとしたのに、脳裏に浮かんだのはアーネットの姿だった。
 とても良く似た姿と仕草で、ディアの記憶がすり変えられている。本当に長らく会っていない。
 セイは剣を腕に抱きしめて瞳を硬く閉じた。
「会いたいですよね」
 ポツリと呟いたその声に合わせるように風が駆け抜けた。
 瞳を開く直前、痛烈な光が瞳を焼いて目を背ける。
 蛍の粒子などと生易しい光ではない。隠された箇所まで強引に暴きたてようとする射光だ。頭からその光を全身で浴び、セイは腕を翳した。熱が腕を焼いた。
「ガーランドも後で行くのでしょう?」
 少し高い小さな声がセイの耳を打った。不服そうな少女の声だ。
 それがやけに聞いたことのある声のような気がして振り返る。
 視線の先には小さな子どもがいた。柔らかそうな栗色の髪を長く背中に流し、何かを見上げている。彼女の視線を辿ると、子どもの目の前に一人の男性が現れた。
 威厳をまとう彼は振り返り、少女にとても優しく微笑みかけた。
 周囲の闇はいつの間にか姿を消している。光と影で、外の風景を作り出している。色はまるで褪せたように感じる。
 セイは驚いた。確かめるように見回すと大きな屋敷が近くにあった。玄関には屋敷の者たちが総出で男たちを見守っていた。少女と男性に眼差しで敬意を払っている。ひどく見覚えのある場所に、セイは再び驚く。そこは先ほどまでディア奪還の作戦を練っていた、アーネットの屋敷だった。ディアの生家だ。
「私も王宮までついて行く」
「いま軍人以外の出入りは禁じられているんだよ」
「でも――……」
 言い淀んだ少女は視線を揺らせた。小さな体でどれほどの不安を抱えているのか、琥珀の瞳は青年を見ない。彼女の恐れは手に取るように分かった。
 そんな少女の様子を見た男性は少しだけ微笑みを崩し、痛みを覚えたように瞳を細め、少女を強く抱き締めた。そして離れた。
 少女は勢い込んで叫んだ。
「ガーランドも行くのでしょうっ?」
「ああ。きっとね」
 離れた男へ怒鳴るように問いかけると、男は優しく微笑みながら頷いた。
 少女を見つめる瞳に揺らいだのは偽り。
 唯一の希望だというように答えを求めた少女を安心させる、優しい嘘。
 男は少女の頭を撫でて笑い、用意されていた馬車に乗り込んだ。その中には童顔な“アーネット”の姿があった。無意識に追いかけようと動く少女をそこに留め、少年は馬車の扉を閉めた。
 馬車はゆっくりと動き出す。残された少女は、徐々に速度を増して遠ざかる父を、ずっと見送っていた。
「……――ディア?」
 確信を持って呼びかける。けれど少女は振り返らなかった。
 そうかと思うと周囲は再び闇。ディアの姿もアーネットたちの姿も、屋敷すら闇に溶かされる。セイは驚いて辺りを見回しながら眉を寄せる。これはいったい何だろうか。
「……ディア?」
 返事はない。
「ジェイダ。バッファ」
 二人の名前を呼んでもやはり返らない。心臓が早鐘を打つ。セイの呼吸が乱れる。
 悪い冗談だ。ディアが直ぐそばにいるような気がしているのに、姿を確かめることもできないなんて。このタラッチェという不思議な国で自分ができることなんて本当にごく僅かだ。自分の手でディアを取り戻したいのにそれもままならない。
 悔しくて情けなくて、顔を歪めながら周囲を見渡した。ディアがいなくなってから二ヶ月以上が経つ。そろそろ自分の理性が焼き切れそうだ。
「ディア! 聞こえているなら応えて下さいっ。お願いですから――」
 雨の中駆け抜ける一つの影が見えた。追いつめられ、激しく乱れる呼吸音が聞こえた。
 顔を上げたセイは双眸を見開いた。
 必死の形相をして駆けてくる少年と、それを追う複数の大人たち。追いかける者たちが、訓練を重ねた兵ではなく、単なる野盗の類だということは直ぐに知れた。
 先ほど父を見送ったときとは容貌をいくらか変え、少年にしか見えないディアが追われていた。激しい雨の中、岩陰に隠れて野盗をやり過ごし、息を殺して震えていた。この短期間で何があったのか、先ほどまでのディアと顔つきがまったく違う。父の形見である立派な剣を痩せた胸で抱きしめている。
「ディア……」
 セイは傍に寄ったが、彼女の瞳にセイの姿は映らない。
 まるで時間軸が奇妙に捩れた迷宮に彷徨い込んでしまったようだ。震える彼女に触れようと手を伸ばしたが、すり抜けた。
「ディア……っ」
「父さん……っ」
 セイが小さく呻くと同時にディアも零す。
 豪雨のなか、雨か涙か分からない雫が頬を流れ落ちていく。止まることなどないように激しい雨。しかしその雨がセイを濡らすこともない。
 彼女の吐息が聞こえるほど近くにいるのに、セイには触れられない。拳を硬く握り締め、苛立ちを抑える。
 戻ってくる複数の足音が聞こえた。ディアが震えて顔を上げる。セイは険しい表情のまま振り返る。野盗たちがディアに気付くのも時間の問題だ。セイは無駄だと分かっていても剣を抜いてディアの前に立った。
 ディアが一人で旅を続けるには危険も当然あっただろう。そのときにはまだ出会っていないのだから悔やむ必要はないが、それでも、やるせない気分にさせられる。
「呼んでください、ディア」
 はるか遠い未来まで。届くことがないとしても、無駄ではないと思うから。どうか今を諦めないで。再会できる未来を願う。
 ディアさえ呼んでくれれば、それは必然として届くような気がするから。
 岩陰に隠れたディアの髪が少しだけはみ出ていた。野盗たちが目ざとくそれを見つけ、目配せし合う。
「ずっと傍にいますから……」
 いつかの夜に誓ったことをもう一度囁いた。
 襲い掛かろうとする男たちに、セイは剣を振った。


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「危ねぇ!」
 響いた声にハッとした。
 周囲を満たしたのは闇だった。けれど今まで見ていた深淵ではない。光の粒子は消えていたが、肉眼でも四方が見渡せるような薄闇に変化していた。
 たった今、野盗たちへ剣を振るったはずなのに、目の前で剣を避けたのはジェイダだった。とつぜん現れた彼にセイは双眸を瞠る。
「やっと正気に返ったのか。遅ぇんだよ」
「ここの空間は普通とは違うからねぇ」
 歴代巫女たちの思念が渦巻いている、とどこか楽しそうに笑うバッファまで傍に戻っていた。ジェイダは彼を睨んだが、セイは戸惑うばかりだ。だがその疑問を追及する前に大事なことに思い至って顔を上げた。
「ディアがここにいます!」
「うお!?」
 呑気な余裕を見せていたバッファの襟元を掴む。奇妙な確信が胸を占めていた。
 間近でセイの怒声を受けたバッファは不機嫌そうにセイの手を振り払い、「ああそうかい」とどうでもいいように応える。襟元を正しながら溜息をついてジェイダに目配せする。
「じゃあセイはさっさとそれで壊せよな」
「え……?」
 抜き身の剣を指されたセイは首を傾げる。
 ジェイダとバッファが顎で示す。その視線を辿り、顔を向けたセイは目を瞠って絶句した。
 まるで花嫁衣裳のような純白の衣装をまとい、静かに瞳を閉じて呼吸を止めて。
 衣装の裾が柔らかな風に揺れたようなリアルさで。
 目の前に、ディアを閉じ込めている巨大な紫水晶が出現していた。