来し方行く末

【一】

『ありがとうございました!』

 まだ声変わりも済んでいない少年の高い声が二つ、重なって響いた。
 セイは滲んだ視界をクリアにするため指で拭う。去っていく少年の後ろ姿を眺める。
 自分よりも高い身長に力強い歩調。彼を見て男じゃないと言う人はいないだろう。それに比べて自分は。
「セイ。いつまでもそこに立ってると次の試合ができないだろ?」
 苦笑を孕んだ男の声が聞こえた。振り返れば師であるハーストンがいる。セイは慌てて試合の場から離れた。出番を待っていた次の子どもが試合場へ入り、セイはそれを見ながらフッと息を吐く。気付けば先ほどの試合相手がこちらを見て笑っていた。その笑いは嘲りを含むものだ。セイは気持ちが沈んでいくのを止められない。
「あ、そうだセイ。一足先に休んでていいぞ」
 次の試合の準備をしていたハーストンからの声に、セイは紫紺の瞳を丸くした。
 ハーストンは常々、他人から技を盗むのも大切だと言って、例外を認めたことはなかった。皆の剣技指導が終わるまで帰ることは許さない、ときつく教えている。だから今回の彼の言葉には誰もが驚いた。
 案の定、セイ以外の生徒からは軽い罵声が飛ぶ。
 男だというのが信じられないような外見のため、セイはヴァレン城で剣を習う生徒たちの中で浮いていた。その外見から舐めてかかる子どもも多い。だがセイの剣は確かな強さを持っていたため、舐めてかかる者たちは忌々しい思いを抱くのだ。徹底的に見下すこともできない彼らは遠巻きな嫌がらせに走っている。
 セイは彼らの罵声を聞きながら、気持ちがさらに暗く沈んでいくのを感じた。ハーストンに首を傾げてみせる。特別扱いはしないで欲しいと瞳で訴える。
 ヴァレン城に集められている子どもたちは将来を有望視されている貴族の子どもたちだった。だが貴族階級で言えば、やはりセイの位がもっとも高くなる。その辺りも周囲の反感を買う要因なのだろう。
 声に出さない訴えはハーストンに伝わらず、彼は何の裏もないような笑顔を見せた。相変わらずの大声でセイに話しかける。
 せめて一対一で内緒話のように告げて欲しかったとはセイの心情。今や訓練場にいる全員がセイとハーストンを注目している。
「アイル様が呼んでたのを思い出したんだよ。今日の訓練が終わったら来て欲しいって」
「アイル様が?」
 セイの心が明るく弾んだ。だが周囲の視線に気圧され、再び唇を引き結んだ。
「先生。今日の練習はまだ終わってないでしょう? セイだけ抜けるのを許すんですか?」
 不満な声を上げたのは先ほどセイと試合をした子どもだった。彼は先ほどの試合でセイに圧勝した。普段なら負けないセイが負けたのは、彼に剣で斬りつけることをためらったからだ。今までの木刀と違い、今日は真剣での試合。練習用の剣のため刃は潰されていたが、それでも当たれば怪我をする。大人が渾身の力で振るえば勢いで斬ることもできる。そのため防具も身につけていたのだが、セイはそれでもためらった。
 ためらう隙を逃すほど彼は弱くない。反対に斬りつけられ、試合はセイの負けで幕を下ろしたのだ。
 ハーストンは立ち上がった彼を見て肩を竦めた。
「これ以上セイがいたって仕方ないだろう」
 淡々と彼に返す。彼らもセイも、何を言われたのか分からなかった。やがて正気に返ったのは彼らの方が早い。
「ええ、まぁ、そうですね」
 用なしと言われたのだ。彼らは侮蔑を含む嘲笑をセイに向け、セイは地面を見つめて拳を握る。酷い居た堪れなさを感じた。練習用の剣を強く握り締める。
「……では、私はアイル様の所へ行ってきます。今日はありがとうございました」
 ハーストンに頭を下げて、セイはその場から逃げ出した。
 追いかけてくる笑い声が哀しい。潤んで明瞭さを失う視界が悔しかった。


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 部屋に戻ったセイは着替え、お湯を使わせてもらって身だしなみを整えた。
 ハーストンに剣を教えてもらうためこの城へ通うのだが、セイの住むラミアス領からここまで通うには遠すぎる。そのためヴァレン侯爵の好意で住まわせてもらっているのだ。アイルはこの城主の息子だ。万が一にも粗相をしてはいけないと、父からきつく教え込まれていた。
 先日までは兄が一緒に剣を習っていたのだが、彼はすでにすべての課程を終えてラミアス領へと戻ってしまっていた。ヴァレン城で頼れる者はもう誰もいない。
 そう思うとまた目頭が熱くなり、セイは湯を張った桶に顔を沈め込んだ。肩を滑った金髪が水の中に落ちてくる。それは光を反射してキラキラと揺れた。


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「あらセイ。今日はもう練習は終わりなの?」
 アイル様はどこにいるんだろうと城の中を散策している最中、ルイに出会った。彼女はセイよりも年下で、アイルの妹だ。艶やかな黒髪を頭の両脇で結わえ、ただそのままストンと肩まで下ろしている。真っ赤な飾り紐が肌に映えて、ひどく可愛らしかった。
 セイは首を傾げてあいまいに笑う。
「アイル様を捜しているんです。どこにいるのか知りませんか?」
「それこそこっちが聞きたいわ。私だって捜してるもの」
 ルイは腰に手を当てて憤然と唇を尖らせた。
 またなにかあったんだろうか、とセイは瞳を瞠る。
 アイルとルイは仲の良い兄妹で知られていたが、そのぶん喧嘩は凄まじい。周囲の人間がいかに仲直りさせようと奮闘しても、決して譲り合おうとしない。それは侯爵家に生まれてきた者としてのプライドによるものなのかもしれないが、周囲からすればいい迷惑だった。
「あら……セイ。あなた、また泣いてたの?」
 怒りの視線を周囲に向けながらアイルを捜していたルイは、何かに気付いたようにセイを見た。
 セイは慌てて瞳に手を当てようとしたが、素早く伸びた手に掴まれて隠すことは叶わなかった。顔は洗ってきたはずなのに、どうして見抜かれたのだろうか。
「だってあなた、また空気が沈んでるもの。どうせ馬鹿貴族たちになにか言われたんでしょう? 気にしてはいけないって、何度言わせるの」
 その言葉にセイは俯いた。ルイのように強くはなれない。気にしなければいいなどと思えない。だって彼らはいつも本当のことしか言わない。女にしか見えないこの容姿も、直ぐに泣くのも、剣が弱いことも、すべてが本当だ。
「まあいいわ。二人でお兄様を捜しましょう」
 ルイは深く嘆息してセイの手を取った。彼女の方が年下だというのに、これではセイの方が年下のようだ。それでも彼女の手が暖かいことに変わりはなく、セイは表情を明るくさせて従った。


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「おおセイ……っと、ルイも一緒か」
「あとで私と一緒に遊んでくれるっていう約束だったでしょう?」
 ルイが腰に手を当てるとアイルは「そうだったな」と笑った。セイに視線を移し、アイルは顔をしかめた。
「なにかあったのか?」
「またなにか言われたそうよ。気にしちゃ駄目って言ってるのに」
 セイの代わりにルイが説明した。アイルは苦笑する。セイはまるで告げ口しているかのような気になって、更に心を重くした。彼らに心労をかけてしまう自分が情けない。もっと、心配されなくてもいいように強くなりたいのに、なかなか思うようにはいかない。
「今日は早かったんだな? ハーストンに、終わってからでもいいって伝えてたんだが」
 セイは体を揺らせた。
 数刻前のハーストンの言葉と、他の生徒たちからの嘲笑がまざまざと思い出され、俯いた。その様子に手を繋いでいたルイが先に気付き、続いてアイルも気付く。セイは紫紺の双眸を真っ赤に潤ませて大粒の涙を流す。ルイの手を振り払ってしゃがみこんだ。
「おい、セイ?」
「どうされたの?」
 背中を撫でられ、何があったのか問い詰められる。
 弱音を吐くようでかぶりを振ると、アイルは険しい顔で「言え」と迫る。直ぐそばにいたルイも泣き出す一歩手前の表情を浮かべる。妹の様子にアイルは焦ったようで、更に強くセイに迫る。なんだかセイは自分のせいですべてが悪くなっていきそうな予感に顔を上げた。
 先生の悪口を言うようでためらわれたのも事実だが、誰にも言わないからとの声に、胸に引き寄せた手を握り締めた。
 一人で何もかも溜め込むにはセイの体は小さい。信頼できる兄はもう近くにいない。他に気に掛けてくれるのは、目の前の二人だけだ。粗相をしてはならないと言われていたが、年相応の友達が欲しかったのも事実。セイはいいだろうかとためらいながらしゃくりあげ、ハーストンたちの会話を吐き出した。
 そして最後に告げる。剣が上手くならなくてもいいから、ラミアスに帰りたいと。
 聞き終えたアイルは難しい顔をし、ルイは「まあ」と言ってセイの手を握りこむ。
「駄目よ、セイ。あなたがいなかったら城中が寂しく沈んでしまうもの。自分のことしか考えられない低俗な貴族たちのことなんて気にする必要はないのよ。いつも言ってるでしょう? 気にするからそんな弱気になってしまうのよ」
 ルイが力説するとアイルは苦笑した。セイは「でも」と瞳を伏せる。
「私が弱いのは事実ですし……」
「よし、セイ。俺は今からあの旗を取りに行く」
 セイの頭をぽんと叩き、アイルは窓から指をさす。セイは顔を上げた。指の先には確かに旗が立っている。城の最も高い塔の上に立ち、元気よく風に揺れている旗だ。
 なぜとつぜんそのような結論に至ったのかは分からないが、アイルの表情は楽しそうに輝いている。分からないまでもセイはとりあえず頷く。
「お前らを呼んだのはもともとそのためだったしな」
「お兄様。そんなことのためにセイを呼び出したんですの?」
「俺の偉業を目撃する者も必要だろうが」
 ルイの呆れた声にアイルは飄々と返し、旗が立っている塔までセイたちを導いた。塔へ行くまでもルイはさんざん兄に文句をつけていたが、アイルは難なくそれらすべてを受け流す。二人のやりとりに頬を緩めていたセイだが、途中、渡り廊下の窓から外を見て表情を翳らせた。庭ではまだハーストンが他の生徒たちに指導している。自分ひとりだけ仲間外れにされたかのようだ。
 セイは唇を引き結ぶ。
「さて、いいか。見ての通りここはこの城で一番高い塔だ。落ちたら確実に死ぬ高さだな」
 なぜか胸を張ってアイルは説明する。
 ルイとセイは窓から下を眺め、その高さに二人で顔を見合わせた。風は強い。髪が勢い良く後方へ流れていく。
「どうやってあの旗まで行くんですか?」
「窓から屋根に飛び乗るしかあるまい」
 当然のようにアイルは言うが、ルイもセイも目を瞠った。そしてもう一度窓から身を乗り出し、遥か下に見える地面を確かめる。地面までは何の障害物もない。落ちたら一直線に地面に叩き付けられるだろう。
「危ないわよ!」
「凄いです!」
 ルイは顔をしかめたが、セイは顔を輝かせてアイルを見た。アイルは「そうだろう」と満足げに頷き、セイの頭をぽんぽんと撫でる。
「女には分からない男のロマンだ!」
「はいっ。さすがアイル様です!」
 男二人に奇妙な絆ができあがった。ルイは唖然としたが、そのことに少し嫉妬するように唇を尖らせて拳を握り締めた。
「じゃあ行ってくるな」
 その場の誰よりも長身だったアイルは窓に足をかけ、軽々とその身を屋根に移した。
 はらはらと見守るルイと、多少の危機感を抱きながらもアイルを全面的に信頼して期待するセイの視線と。二人の微妙な視線を受けながらアイルは身軽に屋根をのぼって行く。
 あともう少しで旗に手が届くころだ。窓辺から見守っていた二人は、アイルの表情が翳ったことに気付いた。
 その刹那だ。
「うわ!」
 アイルが足をかけた屋根の一部が剥げ落ちた。彼はとっさに体勢を立て直そうとしたが、彼が手をついた場所も脆く剥げ、体を支えるものがなくなった。雨風に長年さらされ、見た目だけじゃ分からない内部はだいぶ脆くなっていたのだろう。外装が剥げた屋根はボロボロとその身を落とし始める。
「あ……っ」
「お兄様!」
 剥げた屋根の石材はそのまま屋根を見上げていた二人に襲いかかった。
 セイは視界の端でアイルを確認する。彼は奇蹟的に屋根の上で助かっていたが、妹たちに降りかかる石材を見て驚愕していた。セイはとっさに、アイルの妹である彼女に傷をつけてはならない、とそんな思いを抱き、恐怖に固まって動けないルイを力加減も忘れて突き飛ばした。
「セイ!」
 アイルの悲鳴が聞こえたと思った瞬間、頭を殴られたかのような衝撃に見舞われた。他にも、肩に腕に、様々な衝撃が来た。それでもセイは窓の手すりを両手で握り締め、なんとか耐えた。屋根の崩落が終わってしばらくしても、セイはその場から動けなかった。酷い頭痛で顔も上げられない。
 遠くからルイの泣き声が聞こえていた。そして廊下を走って来る誰かの足音が聞こえてくる。足音は部屋の前で止まり、直後に勢い良く扉が開かれた。
「ルイ様、セイ!」
「アイル様は上ですね?」
 ハーストンとカルザの声だ。セイは直ぐに窓から引き離されてルイのもとへ連れて行かれる。剣の稽古をする広場からこの塔は丸見えだったに違いない。ルイは盛大に泣きじゃくってセイにしがみつく。セイもまた頭を押さえながらしゃくり上げる。視界が徐々に戻ってくる頃、顔を上げると窓辺にアイルが引き摺り下ろされていた。説教されている。あと少しだったのに、という彼のぼやきにセイは苦笑する。
「セイ。大丈夫か?」
 カルザの説教を脇に追いやったアイルはセイに近づいた。
「……はい」
 まだ痛みに涙が出るが、セイはそう頷いた。アイルが少し安心したように笑って「良かった」と頷く。
「今度は三人でのぼろうな」
「まだ懲りないのかお前は!」
 青筋を立てたカルザに、アイルは蹴りを入れられた。


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「さて。昨日俺の言葉を勘違いする奴がいたので今日はしっかり言おう」
 練習稽古を始まる前に皆を集めたハーストンはそう前置きして生徒を眺めた。
 彼の視線は一度セイで止まる。だが直ぐに離れていったため、気のせいかとセイは首を傾げた。
「お前らには人を傷つける以上の剣士になってもらうというのが、一番最初の俺の言葉だ。覚えてる奴はいるか?」
 生徒はみな瞳を瞬かせた。
 一年以上前、確かにそんなことを聞いたこともある……と囁き出そうとしたが、ハーストンの視線に口を噤む。どこか棒読みっぽく続けられた前置きに、ハーストンは鼻を鳴らした。
「幸い今は戦争中じゃねぇ。一昔前はただ殺人剣を磨けば良かったが、それは誰にでもできる。そこらの庭師や嫁さん、お前らより一回り小さい子どもたちにだって可能だ。だがせっかく俺の授業を受けさせてやるんだ。お前らには誰の代わりにもなれない剣士になってもらいたい。それがお前らの最終目標だ。いいか。それを踏まえて今日は、お前らがどこまで力をつけたのか、ちょっと試させてもらおう」
 ハーストンが手を打つと同時に生徒たちは立ち上がる。すでに事前準備は終えており、あとは普段通りに生徒同士の試合をしようかという頃に集められたのだ。ハーストンはいつもと少し違い、まるでこれから戦場へ行くかのような重装備を整えていた。
 いつも気の抜けた雰囲気を醸している彼だが、そのような格好をするととても立派な人に見えてしまうから不思議だ。だがこのヴァレン城でそのような格好をしていても浮いており、皆から失笑が洩れる。
「今日は俺が相手だ。本気でかかって来い。ただし、俺の体に当たる前に止めろ。勢いさえ本気ならいい。相手の戦意喪失を狙うんだ。これさえ覚えりゃ後は何とかなる。振りが浅かったらやり直しだからな」
 そのような授業は初めてだった。皆から奇妙な声が洩れたがハーストンは気にせず笑い、かかってこいと指で示す。挑発に乗った少年がまず名乗りを上げた。ハーストンに向かって走り出す。そして次の瞬間、思わず首を竦めたくなるような打撃音が響いた。だが重装備のハーストンに衝撃はない。苦笑する。
「寸止めって言ったろうに。駄目だな。次」
 勢いを殺せず、見事ハーストンに命中させた少年は納得いかないような顔をしたが、指示に従い黙って離れた。
 何人かの少年たちがハーストンに挑み、そして失敗して離れていく。
 何とか当てずにできた者もいたが、止めるのが早すぎたり、そのことに気を取られて肝心の勢いがなかったり。どうやら相当むずかしいらしい。
 そうこうしているうちにセイの番が回ってきた。ハーストンはニヤリと口の端を歪めて剣を抜いた。練習用に刃引きされた剣だ。驚きに目を瞠るセイたちだが、ハーストンはやはり「すべて寸止めだということを念頭に置いておけ」と楽しげに釘を刺す。そして、それまで動かなかった彼がセイに斬りかかった。
「あのっ?」
 他の生徒たちとは明らかに違う圧迫感。
 飲まれそうな迫力を放つ彼に戸惑い必死で剣を受けたセイは手が痺れた。ハーストンは楽しげにセイを翻弄するが、その瞳は真剣そのものにも感じられ、セイは更に戸惑う。
 なぜわざわざこんなことをしなければいけないのか。セイは取り落としかけた剣を必死で握りしめてハーストンを見つめた。
『これ以上セイがいたって仕方ないだろう』
 昨日の言葉が蘇る。周囲を取り巻く生徒たちの嘲笑までもが蘇る。
 セイは悔しさに唇を引き結んだ。
「ほらセイ。さっさとケリつけないと体力がもたないぞ」
 体力だけを比べれば大人であるハーストンが有利なのは必至。揶揄るように言われたセイはカッと血を沸騰させ、ハーストンを睨みつけた。セイの意識からハーストン以外のすべてが消えた。周囲の喧騒も昨日の記憶も、今まで燻っていた悔しさも。
 ハーストンが打ち下ろしてきた剣をセイは受け止め、その勢いを利用して剣を滑らせた。空いていたハーストンの左脇を抜け、体を翻してハーストンの背後を取る。大人相手ならその空間は決して隙とならぬ場所だったのだが、小柄なセイにとっては丁度よい隙だったらしい。
 ハーストンは小さく舌打ちして振り返ろうとし、その場からセイが消えていたことに瞠目した。視界の端を金の光が掠めた。上かと焦って仰いだハーストンは太陽を直視してしまい、眩しさに視界を奪われる。セイは本当は上ではなく再び背後に回っていただけだ。眩しさに動けないハーストンの膝裏を思い切り蹴り飛ばす。ハーストンの膝から力が抜ける。バランスが崩れ、セイはすかさずその腕を取った。そしてそのまま地面に転がった彼の腹を膝で押さえつけ、剣を振り上げる。
 ハーストンの息を呑む声が聞こえた。セイはためらわず、そのままハーストンの額を貫く――寸前で剣を止めた。そこで我に返った。
「あ……これで、良かったですか?」
 ハーストンは一瞬なんとも言えないような顔をして起き上がり、セイの頭を撫でた。
「あーくそ。腹立つな。だからお前と真剣勝負するのは避けてたのに」
「え?」
 がしがしと頭を掻いて不本意そうな顔をしたハーストンの視線はセイを飛び越して別の場所を見ていた。生徒たちよりも更に後方だ。
 セイもそちらに視線を移して息を呑む。他の生徒たちも振り返り、そこにいた人物たちにざわめいた。
 ヴァレン侯爵の嫡男とその妹。そして二人の補佐を担う人物たちが試合を見学していた。
「アイル様?」
 呟いて立ち上がったセイの肩にハーストンの手が力強く置かれた。見上げると、彼はいつも通りの笑みを浮かべている。
「よーしお前ら、今の見てたな? 同じように出来るって奴は直接セイと試合しろよ。ルールは今と同じだ」
 相手の動きを制する勝敗であれば、セイは決して誰にも負けないだろうから。
 生徒たちは悔しそうに唸る。その課題がどれほど難しいか思い知った上でハーストンとあのような試合を見せられ、異議を唱える者はいない。
「相手の動きを盗むことも上達の一つだが。セイを最後まで授業にいさせたいなら、お前らが上達して、盗む価値のあるもんを身につけろって話だ、昨日のは。それくらいの理解力は身につけて貰いたいもんだな。まったく」
 セイにも言い聞かせているようだ。頭をぐりぐりと撫でられたセイは顔をしかめる。そしてハーストンはアイルたちに睨まれているのを感じながら、セイにそっと囁いた。
「だから城から出て行くなんてあんまり言うな? 後始末を任されんのは俺なんだからよ」
 情けない顔をしたハーストンに、セイは満面の笑みを見せて頷いた。


 それは、ヴァレン城で暮らす彼らを、幼いセイが初めて心から好きになった瞬間のできごと。