来し方行く末

【二】

「お前の名前はなにがいいかな?」
 栗色の瞳をした男が楽しそうに囁いた。彼の大きな腕には少女がいる。男の首に腕を回し、腕に抱かれながら幸せそうにまどろんでいる。
 彼らから少し離れた場所には少年が座り、二人をただ眺めていた。
 やはり同じ栗色の瞳で二人を見つめ、微笑む。
 男は少年の目に見守られながら真剣に悩み出した。そして呪文のように長い名前を考え出すのだった。
 それは、まだ闇が国を覆い尽くす前の、幸せな一家団欒の一幕。


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 四公と呼ばれる公爵家の一つ、アーネット。軍に属してその総指揮を執る彼の姿に憧れる者は多い。
 アーネット公爵と並んで羨望を受けるのは国専魔導師であるガーランド第一級魔導師。爵位は持たぬものの、ここタラッチェ王国で第一級魔導師の地位は高い。さらにその中から選ばれる国専魔導師という地位は公爵に匹敵する権力を有していた。
 アーネットは武力を。ガーランドは魔力を。
 他に並び立つもののない最強王国は二人の勇者によって創られたといってもいい。
 タラッチェの双璧とも呼ばれる二人であった。


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「何よ! 弱虫呼ばわりしたのはそっちでしょう。あんたの記録を私が抜いたら二度とそんなこと言えないんだから!」
 栗色の髪をした少女が、まとう衣装が汚れるのも構わず岩山を登っていた。眼下では少年たちが拳を突き上げて野次を飛ばしている。少女は必死の形相で遥か上を目指す。
「馬鹿フレッドにだけは絶対負けてやらないんだから……っ」
 絶壁とも思われるような岩山を登りながら、先ほど彼が飛び降りたのはどの辺りだっただろうと首を巡らせる。
 強い風が衣装を攫う。そのまま体を持っていかれそうになり、慌てて岩にしがみ付く。目の前に生える雑草を掴むとそのまま根ごと引き抜かれてしまい、青褪めながら体を寄せる。
 見下ろせば遥か遠い地面が見える。普通、落ちたら確実に助からないだろうと思われる距離だ。いかに強靭な意志力を持った男性でも、落ちていく間に意識を失いそうな高みにいる。
「ディーラリアー。落ちても俺がいるから安心しろよー!」
 風に乗って届けられた声に目を瞠った。
 慌てて下を確認すれば、栗色の、自分と良く似た容姿を持った少年が手を振っているのが見えた。霧に紛れて他の少年たちは霞んでいるというのに、彼の姿だけは鮮やかに理解できた。恐らく魔法による力だろう。
 いったいいつの間にここへ来ていたのだろうか。
 顔をしかめて「冗談じゃない」と呟いた。
 父の友人であるガーランドの研究塔に良く遊びに出かけている兄トーラリックは、毎回怪しげな魔法を授かっては妹に試そうとする迷惑な男だった。そのせいで生死の境を彷徨った記憶は新しい。
 あの兄のいる前で絶対に失敗はできないと思った。登るのをやめた。ここまでくればフレッドにも負けていないだろうと崖に視線を向ける。足場は細く、少し位置を間違えれば見当外れな方向へ攫われていく。慎重に足を伸ばす。
 木々の連立が途切れ、崖の向こう側に広大な連峰を見た。青く広がるその風景にしばし見惚れる。それほど長い時間ではないが、下から「怖気づいたのかー?」という声が響いてきて、ムッとした。生意気な少年の声はフレッドだ。
 目的を思い出して視線を崖に向ける。一歩足を踏み出すと、脆くも崩れようとする。
「うわー……これで魔法がなかったら、絶対に死んでるよなー……。まさか私が飛び降りる時だけ魔法を解いてる、なんてことないでしょうね」
 崖下を覗き込んで呟いた。
 遥か下には魔法で柔らかくなった地面が広がっている。衝撃をすべて吸収してくれるので死ぬことはないと、知識として分かっている。だが飛び降りることはためらわれる高さだ。
『ディア。そろそろ父上が戻るぞ』
 先ほどと声音を変えたトーラリックの声が響いた。魔法による伝言だ。ディアは崖下を覗いてトーラリックを捜したが、彼は先ほどとまったく変わらぬ笑顔で少年たちと一緒になって声援を送っている。見事な解け具合だ。
 ディアは視線を上げて連峰を見た。それから振り返り、広がる町並みに移す。聳える大きな城を瞳に映す。
「早くしろよなーっ」
 待ちきれなくなったフレッドの声が響いた。
 ディアは顔を歪める。そして後は、もう下を見ずに崖から飛び降りた。
 これは子どもたちの間で流行っている度胸試し。大人になるために必ず通らなければいけない、と子どもたちが勝手に決めた儀式だった。もっとも、それを受けるのは本来なら男だけで、女であるディアにはまったく関係ないことだったのだが。いつも対立しているフレッドがここから飛び降りたのを見て、さらには標高を自慢げに話されるのが我慢ならず、自分もここから飛ぶしかないとディアは決意を固めたのだ。もちろん、フレッドよりも高い位置から。


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「戦争……?」
 屋敷に戻った二人を出迎えた父は厳しい顔で話を切り出した。
「今頃……なぜまた……」
 ディアの疑問も当然だろう。父は少しだけ疲れたようにソファに体を預け、溜息を吐き出す。連日のように王宮へ通っていたことは知っていたが、それは戦争に関してのことだったのかと初めて知り、ディアは唇を引き結んだ。
 現王が即位してからは継承権を手放しアーネットを継いだ父。彼は政治家として兄に助言するよりも、軍人となって兄を守る立場を選んだ。軍人として名高い彼は戦争となれば必ず戦場に駆り出されるだろう。
「西にラージ平原が広がっているだろう。あの平原をタラッチェの領土にしたいんだそうだ」
 苦笑を孕む声音は兄である王に対する僅かな苛立ちが含まれていて、ディアも重く視線を落とした。
 様々な国が群雄割拠するティイバーレ地方。タラッチェ王国はその一端にある一王国。数年前に国境を引く戦乱がようやく終結し、今までさしたる混乱もなくここまで築いてくることができたというのに。
 今まで負ける回数が極端に少なかったのは、他ならぬ父であるアーネットと、国を代表する魔導師ガーランドがいたからだ。
 今回も同じで負けるはずはないと言い聞かせるディアだが、なぜか底知れぬ恐怖と不安が押し寄せてくるのだ。
「今回もまた少し屋敷を空けることになるな。お前が生まれてからまともに傍にいてやることができたのはたった数年か……これまで結局、お前の名前を決めることもできなかったしな」
 タラッチェの女たちは沢山の名前を持つことが慣例である。
 女は魔に魅入られやすく御されやすい。魔が操れるのは真の名を知ったときのみとされているため、タラッチェに生まれた女は生まれた瞬間から様々な名を与えられ、本当の名は家族のみに知らされる。
 魔導師を多く生み出してきたタラッチェ独自の伝統だ。
 だがディアの場合は少し特殊で、真名がつけられていない。生まれて直ぐに母親が他界し、近くにいた家族は兄のトーラリックだけ。父親は戦場にいて母の最期に会うこともできずじまいだった。真名をつけるには多少の魔力も必要とされていたため、幼いトーラリックではまだ役者不足だ。家族ではない者が真名をつけるには本人がそれを理解してすべてを受け入れる必要があり、よほど信じていなければ難しい。また両者間で結ばれる絆が最も強くなってしまうため、屋敷の使用人たちがディアに真名をつけることはできなかった。
 のちにガーランドから聞いた話だが、戦場で妻の訃報を知ったアーネットは大層嘆いたそうだ。
 そうしてようやく戦争が終わり、アーネットが帰国してみればディアはすでに四歳。四歳ともなれば自我も発達している。さらには真名がつけられないままトーラリックによって様々な偽名をつけられていた。そうして真名をつける機会は永久に失われたらしい。アーネットは今でも真名を考えなければと悩んでいるらしいが。
 戦争再開を聞いたディアは顔を上げ、微笑んでアーネットに抱きついた。そうすると大きな腕が背中を抱きしめてくれて温かい。たとえ何年も傍にいてもらえなくても、今はこうしているだけで幸せだ。
「名前は帰ってきてから考えて。どんな名前でも嬉しいから」
 抱きつく力を強めると頭上で笑う気配がして、大きな手が頭を撫でた。
 顔を上げ、彼に笑顔を見せる。
「トーラリックがつけたふざけた名前が真実になるのだけは絶対いやだからね」
「なにを言うんだ。俺だってかなり考えながらつけたんだぞ?」
「へぇそう。なら今までつけてきた名前を最初から全部言ってよ。深く考えたって言うんならもちろん全部言えるはずだよね!」
 背中にとんだトーラリックの声に、ディアは肩を怒らせて反論した。トーラリックは言葉に詰まり、視線を自分の手に落としながら名前を数え始めた。
「ディ、ディーラリアだろ。ディアレストーリアだろ。ファーカルだろ。トー、トー……」
 四つ目の指を折ったところで早くもトーラリックは挫折する。ディアは「ほらみろ」と腰に両手を当てて胸を張った。トーラリックはなんとも情けない顔をして唸り声を上げるが、やはり次の名前は出てこないらしい。
 アーネットが大きな笑い声を響かせた。


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 ついに開戦されるらしい。
 先遣隊は出発し、正規軍を率いるアーネットにも出撃要請が下りた。王宮の兵たちがアーネットの屋敷を訪れ、慌しくすべての武器を運び出した。静かになった屋敷の外ではディアがアーネットと最後の挨拶を交わしていた。
 アーネットの背後には迎えにきた馬車が停まっている。その中にはトーラリックがすでに乗り込んでいた。彼はアーネットの後継者として王宮への出入りが許可されている。今回もアーネットを送り出すため王宮に来てほしいと、王から直々の要請も受けた。けれどディアにはそれが許されていない。今にも泣き出しそうなほど潤んだ瞳でアーネットを見上げるのみだ。
「……私も、王宮までついて行く」
「いま軍人以外の出入りは禁じられているんだよ」
「でも――……」
 優しい父親の声。ディアは目頭を熱くさせ、ついていけない立場の弱さに悔しさを噛み殺した。
 初めて父と会ってから、長く離れたことは一度もない。だからこれほど不安なのだろう。これまで平和だったから、突然の戦争に驚いているだけだ。他の人たちには慣れたことなのだと、言い聞かせて不安を宥めようとした。
 アーネットに抱きしめられた。いつも腰から外している剣が、いまはディアの胸に当たる。アーネットはディアを安心させるように背中を軽く叩き、頬にキスを贈り、最後に柔らかな栗色の髪を軽く撫でて離れた。
「ガーランドも行くのでしょうっ?」
 父の笑顔がいつもと違って見えて、ディアは思わず叫んだ。
 ガーランドは国の第一級魔導師。彼とアーネットが組めば決して負けることはないと、町の者たちが誇らしげに語っていた。そんな風に自信を持って語られる父を、ディアはいつも誇りに思っていた。
 噂通り、父の隣にガーランドがいれば、決して負けない。
 祈りを込めるような声音にアーネットの双眸が瞠られる。その仕草はディアの不安を煽るに充分だった。だが続く問いかけを許さず、アーネットは頷いた。
「ああ。きっとね」
 有無を言わせぬ強い笑顔。彼は再びディアの頭を軽く撫でて馬車に乗り込んだ。
『そばにいて』
 そんな想いは声にならない。
 王宮に向けて小さくなっていく馬車を、ディアはいつまでも見送った。


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 戦争が始まってから1年。ディアはさらなる負けず嫌いへ成長し、トーラリックは王宮に入り浸るようになっていた。彼はまれに帰ってきてはディアと遊び、再び王宮に戻る。
 王宮に行くことのできないディアは広い屋敷の中で一人、アーネットの帰りを待っていた。最近では親しい友人たちも暗い表情をすることが多く、遊びに行くのもためらわれるようになってしまっている。早く戦争が終わって父が帰ってこないかと切に願う。
 そしてそれは、久々にトーラリックが帰ってきていた昼下がりのときに訪れた。
「ぎゃああ、やめろって言ってるでしょう、馬鹿兄貴ーーっ!」
 フレッドによる対抗心で男装もすっかり板についてしまったディアを追い詰めるのはトーラリック。ただし普通ではない。いったいどこからそんな術を仕入れてきたのか、彼の体は半透明に揺らいでいた。さらに彼の背後には本物のトーラリックもいて、青い顔で必死に逃げるディアを楽しげに見守っている。
「いつまでたっても慣れないなぁ。不思議がつまってる魔導師の国だっていうのに」
「不思議なのはお前につまってる常識の少なさだーーっ!」
 部屋の壁にひっしと背中を合わせ、近寄るトーラリックの亡霊――いや、本人は生きているから生霊と呼ぶのが正しいが、ディアにとってはどちらでも関係なく、ただ睨み付ける。あっちへ行けと両手を振る。腕は目の前に迫るトーラリックの体を突き抜け、半透明な体がさらに揺れる。
「嫌だってばーっ!」
 とうとう絶叫したディアにトーラリックは楽しそうな笑顔を向け、ようやく生霊を消した。ようやく逃れられたディアは肩で息をしながら滲んだ涙を乱暴に拭う。トーラリックを睨んだが、そんなことでこの兄が怯むはずもない。非常に悔しくて壁を殴った。
 と、そのとき。
「あ……!」
 窓から見えた馬車に顔を輝かせた。べったりと窓に張り付く。その様子にトーラリックも眉を寄せ、ゆっくりと窓に近づく。
 屋敷へ疾走してくる一台の馬車があった。その側面には大きな家紋が入っていた。それはアーネットと共に戦場へ向かった男爵家の家紋だった。ディアも何度か会ったことがある。
 その男爵が戻ってきているということは。
「父さんも帰って来るよね!?」
 晴れやかな笑顔を浮かべてトーラリックを振り仰ぐが、彼はいつもの笑みを消していた。ディアと視線を合わせることもない。だが期待に囚われたディアはトーラリックの不自然さに気付かない。父は総指揮を執っているから、帰って来るのは一番最後になるかもしれないと思い直し、それでもあと少しで再会できるんだと胸が高鳴る。男爵はその先触れを持ってきたのだろう。彼はアーネットと懇意にしている仲だ。アーネットの帰りを待ち望んでいる屋敷の者たちに吉報をもたらそうと、疾走してくるのだ。
「私、出迎えてくる!」
 ディアは待ちきれずに部屋を飛び出した。その背中にトーラリックの制止の声が飛ぶ。だがディアは止まらない。吉報を聞くのは自分が先だと階段を飛び降りる。
「お久しぶりです男爵!」
 全力疾走で目の前に現れた少女に、馬車から降りたばかりのノーレアルは驚いたように目を瞠り、次いでディアが誰なのか気付いて微笑んだ。
「……元気なようで何よりだ。ディーラリア殿」
 肩を叩かれたディアは微笑んで頭を下げる。その隣に、追いついてきたトーラリックが並んだ。
「ご無沙汰しております。ノーレアル殿」
 トーラリックの声がいつもと違って聞こえた。ディアは振り仰ぎ、強張った彼の横顔を見る。何かおかしいとは思ったものの、それがどこから来ているものなのかは分からずに首を傾げた。男爵は視線をディアからトーラリックに移し、ディアに向けていた微笑みを消した。彼は緊張したように唇を引き結んだように思えた。
「王宮で聞きましたか。アーネット公爵」
「はい。先日、王から直々にお話を伺いました」
「え……?」
 ノーレアルはトーラリックのことをアーネットと呼んだように思えた。ディアは会話の不自然さに首を傾げる。だがノーレアルはディアの疑問に答えぬまま頷いた。そして羽織っていた外套を軽くめくった。
 ディアは双眸を瞠った。
 ノーレアルが持っていたのはアーネットが愛用していた長剣だった。鞘に施された装飾はこの地方に伝わる独自の手法で作られたもので、その繊細な細工を父が気に入っていたことを記憶している。ノーレアル男爵も同じ剣を拵えていたのかと思うこともできたが、鞘にはアーネット公爵家の家紋が大きく描かれていた。
 ディアの凝視を受けたまま、ノーレアルは続けた。
「セインの遺品です」
 セインとはアーネットの幼名だ。公爵家を継ぐ前に呼ばれていた名前だ。けれど爵位を継いだ後はずっと『アーネット』と呼ばれ、幼い頃から親交のあるノーレアルもセインとは呼ばなくなっていた。それがここに来て突然。
 トーラリックは差し出された剣をしばらく見つめ、両手でそれを受け取った。
 沈黙が流れる。ディアの内に恐怖が押し寄せる。
 最後に見た父親の笑顔や背中、小さくなる馬車が走馬灯のように脳裏を流れる。屋敷の中へ招かれようとした男爵の外套を掴んで引き止めた。
 辛そうに顔を歪めて見下ろすその表情も、いつの間にか爵位を継いでアーネットと呼ばれるようになったトーラリックの咎める視線も気にならない。
「……ガーランドも、死んだのですか」
 低い声だと自分でも思った。
 叫び出したいのを堪えるように、タラッチェの双璧と謳われたもう一人の英雄の名前を出す。
 アーネットが戦場で死んだなら、その隣にいるガーランドも生きているわけがない。アーネットがいなければガーランドが勝ち抜けるわけがない。
「ガーランドは死んだのですか!」
 ノーレアルは驚いたように双眸を見開いた。たった十四でしかない少女に気圧されたかのように否を告げた。ディアは奥歯を噛みしめ、さらに続ける。
「ガーランドは、父の傍に、行かなかったのですか」
「最後まで、国王からは許しが下りなかったそうだ」
 ディアはぐっと込み上げてきた叫びを飲み込み、代わりにそれを走る勢いへと変えて、屋敷を飛び出した。
「ディーラリア!」
 トーラリックの声が追いかけたが構わず走った。
 戦場で命を落としたアーネットが、誰よりも厚い信頼を寄せていた親友、ガーランド魔導師のもとへ。


 それは、ディアがタラッチェを出て行く羽目になった一年前の、苦い悪夢のような一日。