異教徒たちの聖夜

「うわ……」
 ディアとセイは目を瞠った。
 眼前に広がるのは一面の花畑。薄水色や薄桃色の可憐な花々が風に揺れている。頼りない小さな花弁には水滴が散っていた。
 二人の周囲にはいつの間にか霧がかかっている。花々は幻想的に霞み、その場に佇んでいるだけで服が湿り気を帯びていく。
「狂い咲き……か?」
「それともこういう種類なのでしょうか?」
 答えはない。季節を間違えているのは花たちか、それとも自分たちか。
 風が吹くと前方の霧が揺らめき、二人に香りを運んできた。水に紛れても消えない濃厚な香りだ。幻想的な色合いで咲き乱れる花畑はどこまでも果てがないように続いて見えた。
「甘ったるい」
「そうですか?」
 ディアは顔をしかめたが、セイは不快には思わなかったようで首を傾げる。
 森の小道から少し外れた広場にこのような場所があるとは思いもしなかった。光が全く届かないせいか、咲き誇るなかに影が落ちていて、ディアは眺めながら小さなため息を吐き出した。
「どうかしました?」
 繋がれる手は暖かい。
「なんでもない」
 ディアはかぶりを振って歩き出す。
 明日の朝には霜が下りて、花たちは全滅してしまうだろう。それをどうにかできるはずもない。
 霧が満ちて、壊れそうなほど柔らかに咲き乱れる花たちを瞳に焼付け、ディアは触れてきた彼の手を握り返した。


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「あ。あれでしょうか?」
 セイの声に、ディアも霧に浮かぶ影を見つけた。
 風と共に霧が揺れる。影も大きく揺れ動く。踏み入ってはいけない錯覚に陥りそうな静けさだ。ふと周囲に視線を巡らせると、木の影すら伸び縮みを繰り返している。意志を持つ魔物のよう。今にも襲ってきそうだ。
 ディアは思わず視線を逸らす。手の平が汗ばんでくるのを感じた。
 繋いだ手を放そうとすると、セイが「どうしましたか?」と問いかけてくるので「なんでもない」と否定するしかなかった。手を放すのは諦める。代わりに、少しゆっくりと深呼吸を繰り返して前方の霧を見つめる。
 狂い咲いた花々を踏み分けながら近づくと、それは廃墟と呼んで差し支えない建物だった。
「ええと……なんというか、趣がありますね」
 こちらをうかがいながら言葉を選ぶセイに、ディアの眉が跳ね上がる。
 隣に佇む彼を鋭い眼差しで牽制し、ディアは壊れかけた建物を見上げた。霧の中に浮かぶ建物は少し大きめの宿屋くらいで、門は古びていたがまだ機能するようだ。錆び付いた鉄柵を押すと、思わず蹴飛ばしたくなるような、甲高く耳障りな音が響いた。
「雰囲気たっぷりですね」
 なんの雰囲気だよと胸中で苦く呟き、ディアは建物の周囲を調べ始めた。
 セイも早速調査を開始する。彼は名残惜しげに手を放し、建物の中に入っていく。
「床が抜けないように気をつけろよ!」
 雑草がはびこる庭から中に呼びかければ元気な声が返ってきて、ディアは頬を緩めた。
 セイの姿が完全に見えなくなってから肩の力を抜く。
 先ほどまで繋いでいた手をグーパーと開閉させて大きくため息をつく。じっとりと汗ばんでいたことを気付かれただろうか。
 気付かれたからといって、どうということでもないが。
「にしても、凄いな……」
 外壁の状態を調べていたディアは腰を伸ばして再び花の群生地を見やった。
 何度見ても変わらぬ光景だ。言葉もなく、やはり魅入ってしまう。
 ふと、昔馴染んだ歌の一説を口ずさみ、その懐かしさに笑みを零す。霧のせいで陰鬱となっていた気分も高揚してきて、周囲を取り巻く暗い木々や霧の存在も気にならなくなってきて、空を見上げて。
 思わず笑顔が固まった。
 見上げた先には大きな窓があった。そこからセイが顔を出し、笑顔でディアを見下ろしていた。
「聞いてたのかっ?」
「ええ。ディアの声って良く通りますから」
 邪気のない笑顔で褒められたが、気を抜いていたときの様子を見られていたのだと知って紅潮した。憮然とすると笑い声が降ってくる。
「中の様子はどうなんだよ?」
「去年と大して変わらないみたいですね。埃が溜まってるだけで、大きな損傷はないようですよ」
「じゃあ明日には使えるか?」
「ええ。もちろん」
 セイの言葉に笑顔を返した。
 ディアも一周して調べてみたが、外壁にも大きな傷みはないようだった。さほど大掛かりな大工仕事をしなくても、明日までには何とか形になるだろう。
「明日になれば霧も晴れると思いますよ」
 セイが顔を覗かせているのは二階の窓ではない。この建物には一階と屋根裏しかなく、その中間点に小さな部屋があるのだ。使用人専用の部屋らしいが、今では誰もいない。二階より少し低めの位置に窓が取り付けられている。
「別に。霧があろうとなかろうと、関係ないだろう」
 うそぶいた。やはり、気付かれていたのか。森の中を歩いているさなか、霧に映る何かの影に緊張していたことが。
 物理的に襲ってくる獣たちには強いのだが、精神的なものに関してディアは苦手だった。たとえば……何かの霊とか。
 そういう意味で、この森はディアの苦手意識を刺激するものが満載だった。
「明日まで、あの花たちは保つと思いますか?」
 セイは軽い動作で窓から飛び降り、視線で促す。そのようなことをされなくても彼が言いたいことは分かっている。
「どうだろうな。夜の気温次第だろう」
 ディアは希望を持たせながら、明日にはほぼ確実に全滅だろうなと考える。そう思うからこそ幻想的に見えるのだろうか。儚い一瞬の命。
「さて……屋敷の中を片付けるか」
「そうですね」
 振り切るように思考を切替えて、ディアは屋敷の中へと入っていく。
 セイも同じく、少し名残惜しそうに花たちを振り返り、ディアの後を追いかけた。


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 町から少し外れた森の、さらに道から少し外れた広場に。今はもう誰にも使われていない、打ち捨てられた廃墟がある。数十年前に住んでいた裕福な貴族はいつの間にか消えていた。その場所には屋敷の者たちが育てた花と、屋敷だけが残されている。
 森の大きなお屋敷に、町の子どもたちの歌声は毎年響き渡る。
 毎年恒例の賛美歌だ。それは森の隅々にまで響き渡り、木の葉を震わせているという。ディアとセイが請け負った仕事は、そんな廃墟の手入れだった。古びた様も趣があっていいからあまり改造はしないで泊り込みで綺麗にして欲しい、と町の依頼人からは念押しされ、二人は訪れた。土台はしっかりしていたので、本当にただ埃を払うだけで済んだ。非常に楽な仕事だ。
「ディア!」
 明け方早く。
 綺麗になった屋敷の一室で眠っていたディアは、少し興奮した声に起こされた。廊下に出るとすっかりと身支度を整えたセイが待っている。
 外はまだ日も昇っていない。こんな朝早くから何を騒いでいるのだか。
 冷気に体を震わせ、促されながら歩き出す。セイは足早にディアの前を歩き、昨日、花畑を見ていた窓の前で「はやくはやく」とディアを急かす。
「なんだっていう」
 眠気に目を擦りながら外を見たディアは絶句した。
 もう枯れているだろうと思っていた花畑はまだそこにあった。それだけでも驚嘆するのに、今はさらに驚くべき現象が起きていた。幻想的な色合いの花畑を覆い隠すように薄い霧がかかり、昇り始める朝日を反射して、霧は虹色に染まっていた。
 淡い色彩は時間と共に消えていく。名残惜しくその様子に魅入るが、現象は終わらない。虹色の霧は、二人の眼前に鮮やかな本物の虹を作り出した。見事な半円を描く。
 花畑を覆う霧は朝日が強まると共に薄れていくが、生まれた虹は消えない。霧が消えていくと同時に、虹の上に更なる淡い虹が生まれた。
 今まで見たこともない光景だ。
 昨夜はおどろおどろしい雰囲気さえ醸していたというのに、朝日に浄化されたこの景色は、どこかおとぎの世界に迷い込んだのではないかと思わせた。
「あ、消えていく……」
 名残惜しそうに呟いたのはセイだが、気持ちはディアも一緒だった。
 鮮やかな虹は段々とその精彩さを欠いていき、森の向こう側から一瞬走った光の中に溶けていった。光は陽となり空に昇っていく。窓の桟にかけた両手が温められていくのが分かる。
 花畑に視線を移せば、強い朝日の中では儚さよりも強さを感じさせる。昨日までと同じ色合いのまま、ただ風に揺れている。
「きっと町の皆さん、これを見せようとしてくれたんですよ」
 言われて思い出す。酒場には一人旅の者など沢山いたが、依頼人たちはセイとディアに、しきりにこの仕事をしてくれと頼み込んでいたし、請け負った後は「泊り込みで」ということを強調していたように思える。
「でもなんでこれを私たちに?」
 眼福だとは思えるが、理由が分からず首を傾げると、セイは小さな笑みを洩らしてディアの手を取った。その所作に内心で慌て、ディアは視線を外に移す。
「今日は異教徒たちの聖なる日なんですよ。恋人たちのイベントにもなっていますけど」
「ふーん?」
 聞いたことがなかったので、一部の地方にだけ伝わるものだろうかと納得する。取られていた手を少し強く引かれ、顔を向けるとセイの金髪が揺れた。確かめる前に彼の端整な顔が迫って思わず瞳を閉ざす。触れるだけの軽いキスが贈られる。
「ディアと一緒に見ることが出来て嬉しいです。あとでお礼に行きましょうね」
「お、う」
 なんだかまだ夢の中にいるような気がして瞳を瞬かせたが、強く握りこまれた手から伝わる熱は本物だ。怒る機会を失ってしまう。ゆっくりと現実に引き戻されながら、同時に顔の熱も上がっていく。
「あ。子どもたちが集まってきたようですよ」
 セイの言葉に視線を向ける。まだ遠いが、森の奥――町の方向から、子どもたちの小さな影が近づいてきていた。幼い足に小さな花弁が散らされて風に舞う。季節外れの花吹雪。
 ディアは目の前をよぎっていく小さな花たちに目を細めた。
「ディアもなにか歌って差し上げるといいのに。得意でしょう?」
 窓の桟に肘をつきながら、子どもたちに手を振っていたセイは微笑んでディアを振り返る。そりゃお前よりはな、と憎まれ口を叩こうとしたディアはやめた。
「ディアの歌声も好きですよ」
 聞かせて下さいと迫るセイに、ディアはぎこちなく「考えておく」と返した。
 繋いだ手は熱くて。
 情熱を宿す紫紺の瞳を正視できなくて、複雑に視線を逸らせた。