満天の夜空

 満天の夜空を仰いだ。
 空気は澄んで冷たく雲はない。艶やかな闇衣にきらめく星光が零れ落ちそうなほど。
 丁寧に結われた髪を優しい風になびかせながら、屋敷の華やぎから逃れてきたディアは空に手を伸ばした。
 気が遠くなるような長い時間を一人で過ごした。身を守るための力を手に入れた。少しでも父に近づけるように剣を覚え、いつか連れ戻される恐怖を覚えて戦ってきた。そんな、一人で全てを為してきた手は骨ばり、女らしさの欠片も残っていないと思ったけれど。
「ディア?」
 振り返り、見慣れた姿が近づいてくることを知る。暗がりのためにこちらが誰だか判然としないのだろう。半信半疑で窺うように近づいてくるその姿に、ディアはそっと笑みを洩らした。
「セイ」
 呼ぶと安堵したような空気が伝わってくる。
 ディアは座ったまま彼の到着を待った。
「どうかしたのですか? このような所に」
「涼しい」
 一言だけで伝えるとセイは苦笑した。つきあうことにしたようだ。隣に腰を下ろすが、芝生が夜露を含んでいることに気付いて顔をしかめた。咎めるように視線が向けられたが、ディアは素知らぬふりで空に視線を戻した。
「疲れましたか?」
「あー……少しな。ああいう場面は慣れてない」
「そりゃ、慣れていたら複雑ですけど」
 本当に複雑そうなセイの声にディアは笑い声を上げ、芝生に寝転んだ。しかし今度こそセイが慌てる。
「ディア! そんなことしたら」
「平気だって。もうあとは自主解散だろう? 私が戻らなくても用は足りるさ」
 久しぶりにまとう薄手のドレスを通して冷気が伝わる。けれどそれも、先ほどまで酷い熱気の中に置かれていたディアにとっては心地よいものでしかない。
 寝転がって幸せそうに涼しさを満喫するディアに諦めたのか、セイは小さく嘆息して膝を崩した。
「でもせめて、髪は濡らさないようにして下さいね。ぜったい風邪引くんですから」
「ガキじゃあるまいし、大丈夫」
「大丈夫じゃありません」
 語尾を引き取ってセイは険しい表情をする。寝転がるディアを強引に起こして膝枕をする。さすがにディアは真っ赤な顔で暴れようとしたが、迫った真剣な眼差しに大人しくなった。
「……そ、そうして見つめられてると空が見えないんだが」
 せめてもの抵抗にそう告げると、セイは「ああ」と気付いたように顔を上げる。セイの顔に視界を占領されていたディアは、途端に広がった夜空に瞳を細めた。近くにあるセイの金髪と、遠い瑠璃色の天空の対比があまりに綺麗で胸を衝かれる。
「静か、ですよね」
「……ああ」
 零れるように微笑みを落とすセイに、ディアも笑顔をみせた。
 屋敷から少し離れているため、賑やかな声はここまで届かない。虫たちの饗宴が染み入るように渡っていく。
 しばらく二人で空を眺めていたが、さすがに寒さを覚えてきたのかディアが身じろぎした。気付いたセイが助け起こし、背中についた草を払い落とす。セイが来るまで何をしていたのか、ドレスの前や頭にまで草が絡んでいてセイは呆れる。
 濡れたドレスにディアは顔をしかめた。
「だから言いましたのに」
 ディアの表情から何を思ったのか敏感に読み取ったセイはため息を零す。彼は外套を羽織っていたため服は濡れていない。外套についた草や露も、払えば簡単に落ちるようなものだ。
 ディアは唇を尖らせたものの自分で選んだ結果だったため黙っていた。その代わりに軽く睨む。セイは笑い、ディアが言葉を継ぐ間もなく素早く目尻に口付ける。不意打ちを食らったディアは目尻を押さえて呆気に取られた。手を繋ぎ、微笑みながら屋敷に向かおうとするセイを見つめる。
「……ちょっと、セイ。お前、屈め」
「はい?」
 屋敷に戻る途中、憮然としながら告げるとセイは首を傾げた。
 悔しいことに、セイはまた身長が伸びたらしい。今ではセイの目線が上なのだ。ディアが縮んだんじゃないですか? などと憎まれ口を叩くほどにもなり、非常に悔しい。もう虚勢の目的は達せられたと魔法が解けることになったとしても、セイの言葉には絶対に頷けない。今から縮んでたまるものかと思う。
 素直に従って屈むセイに、ディアはそっと口付けた。
 驚くセイの肩に手をかけて触れるだけの口付けをしたディアは、次いで遠慮なく彼の外套を奪い取った。
「わっ、ディアッ?」
「拝借料は払ったぞ」
 笑いながら外套を羽織るディアに、セイは情けない顔をして唸った。ディアは楽しげに、さらに笑う。
「ドレスは薄くて寒いんだ」
「ちゃんと渡そうと思っていましたのに。先を越されました」
 セイは悔しそうに顔をしかめた。
 彼の温もりが残る外套を羽織ったディアは、苦笑しながら肩を竦める。
「これだったらドレスも隠せるしな」
「そうですね。そのまま戻ったら何事かと思われますものね」
「邪推されても構わないけどな」
 セイが驚いたように目を瞠った。その表情にディアは顔を赤くし、馬鹿なことを言ったかもしれないと踵を返す。乱暴に歩き出した。深い意味はなかったはずなのに。
 夜霧が出てきたらしい。足元に溜まる冷気を散らしながら屋敷の光を目指すと腕を引かれた。ごく自然に手を繋ぐ。隣に並んだセイは微笑んだ。
「私も、ディアだったら構いませんよ」
「言ってろ馬鹿」
 繋がれた手に力を込めて、セイの脇を叩く。
 笑いながら避けたセイは反対の手でディアの腕を取り、目の前に向かせてディアの手を掲げた。神聖なものに触れる厳かな仕草で、指先に唇を寄せる。
 何もかもを一人で抱えてきた強い手には約束の証。
 世界中の星光を凝縮したかのような指輪と宝石。
 セイは最愛を込めて口付けた。

 END