伯爵夫人にまつわる噂

【二】

 結局、セイに提案されていたフェレーリアの運動はできぬまま部屋に戻ったディアだ。食事を済ませたあとにカナーリャを見つめる。
 セイのいない昼食は簡素なもので、ディアにつけられる使用人の数は片手の指に満たないほど。それすらディアが嫌うため、また、ディアは屋敷を飛び出すのが得意なため、使用人たちがディアに時間を割くことは少ない。
 今回はカナーリャが全てを取り仕切るらしく、執事や婦長が食事初めに顔を見せたっきり、ディアはカナーリャと二人っきりにさせられた。
「それで、カナーリャ」
 食後に紅茶を淹れていたカナーリャは動揺したように肩を揺らせた。零しかけたポットを机に置く。
「なんでしょう」
 気まずさがその場を包んだが、今を逃すわけにはいかない。そろそろセイが戻ってくる時間だ。そうなればディアは再び使用人たちに囲まれる。カナーリャと二人っきりになれる時間が今後取れるとは思えず、すると今感じている苛立ちの視線を問い質すことができなくなる。
 ディアはひとまず羞恥心を忘れることにしてカナーリャに向き直った。
「最近私を見ていたのはカナーリャだろう? さっきフェレーリアの近くでもそんな気配を感じた。私に何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
 朝に見たときは新人特有の雰囲気を漂わせていた彼女だが、いま感じるのは熟練の者たちと同じ雰囲気だ。彼女はジェン=ラミアスの元で立派に働いていたのだ。ここで必要なのはどうやら『慣れ』だけだったらしい。
 朝から今まで、このような短い時間で驚くほどの順応性を見せたカナーリャに舌を巻きながらディアは訊ねた。カナーリャは少しだけためらう様子を見せたが、ディアが促すとあっさり口を割る。
「奥様は屋敷外での噂をご存知でしょうか」
「……噂?」
 思わずディアは眉を寄せた。噂、と聞くものに良い思い出は全くない。
「今度は一体どんな噂が走ってるわけだ?」
 うんざりしながら椅子に深く腰掛けると、カナーリャは苦笑するような笑みを見せた。再び給仕に励む。カップに注がれていく紅茶の温かな音を黙ったまま聞く。
「仮面夫婦」
 単語のみで放たれた言葉に、ディアは脳裏に『仮面をつけて過ごす夫婦』の絵が浮かんだ。しかし実際にそんな夫婦がいるわけない。
「……は?」
 一瞬遅れて反応したディアに、カナーリャは慣れた手つきで飲み物を運ぶ。視線はディアを捉えない。唇に軽い笑みを刷いて、お菓子も用意した。
「女神のようにお美しい旦那様は、心までお美しい方」
 まるでお伽噺を語る母親のようだ。全ての給仕を終えたカナーリャは語りだした。給仕に使った銀製の盆を両手で持ち、視線は食卓に固定されていた。
 ディアは眉を寄せる。彼女の言葉がセイを指すものだとは、考えなければ分からなかった。奇妙な気分になりながら冒頭を聞く。
「困る人々を見過ごせない旦那様は、町を訪れる旅人にも施しをお与えになるのです」
「……施し?」
 気に入らない単語にディアは呟くが、カナーリャは頷くことも否定することもしないまま続ける。
「訪れた旅人は誰もが恐れる人物。大きな剣を振り回し、大きな体で人を威圧することしか知らない。類稀な剣使いでもあった旦那様は旅人を簡単に押さえ込み、勝利しました。けれど剣を振るうことに心を痛めていた旦那様はその勝利に涙を零します。その心根の美しさに旅人は一目惚れしたのでした」
 ディアは大きく息を吸ったが、吐息が言葉となる前にカナーリャは次を続けた。
「旅人は女性でした。それまで粗野な態度で自分を表すことしか知らなかった旅人はどうすればいいのか悩みますが、解決策は見つかりません。旅人は思いあまり、旦那様の誘拐を画策しました。そして異国の地で、旦那様に求婚を迫るのでした」
 ガツッと食卓の下で何かの音が響いたが、カナーリャはやはり気にせず続ける。
「旦那様は心優しい方でしたから、そのような乱暴を働かれても旅人をお許しになりました。求婚を受けて結婚を誓いました。旦那様はようやくこの地に戻ることを許されましたが、旦那様が旅人に抱くのは愛情とは程遠い、同情と紙一重の優しさだけ。旅人も遅まきながらそのことに気付きますが、旦那様のそばを離れることもできずに留まり続けるしかない。そのような事情を抱えた結婚生活では上手くいくわけがありません。旦那様が旅人に向ける優しさは変わりませんが、旅人はそれが愛情ではないことを知っているため、結婚生活はじょじょに歪みが生まれ、やがて旅人は旦那様を拒否されます。否定された旦那様は深く傷付いて涙を零しました。やがて二人は互いを傷つけることのないよう嘘の生活を始め、今も仮面を被ったまま、夫婦生活を送っているのです。おしまい」
 淡々とした話し方に淡々とした終わり方だった。
 ディアは途中から食卓に両肘をつき、組んだ手に額を当てて黙ったまま聞いていた。カナーリャの話が終わったあと、たっぷり10秒の間をあけてから顔を上げた。
「……単なる捏造だろう。どこら辺が噂話だ?」
「でも世間で流れている話はこのようなものでしたよ。真実と違う話は、噂と呼んでいいものではありませんか?」
 ディアは眦を険しくさせた。
「ていうか! 私を負かせた時の奴は泣くどころか笑ってたし! 何度も帰れって言ったのに、無理矢理ついてきたのはあいつだし! だいたい、なんでセイがそこまで被害者だっていう噂が立つんだ。被害者なのは明らかに私だ私!」
 両手で力いっぱいバシバシと食卓を叩きながら叫ぶディアだが、カナーリャは「私には分かりかねます」と首を傾げただけだった。
「でも、これでお分かりいただけるでしょう? 奥様たちに向ける世間一般の見解はそのようなものなのです」
 ディアは納得がいかなくて唸ったが、カナーリャは動じずディアを見据えた。自分がこれからお仕えする主がそのような人物だと思われていることは、彼女にとっても納得いかないことらしい。
 そう思えば少しだけ胸のすく思いがしたが、全然足りない。あり得ない。
「冗談じゃないぞ。どこが仮面夫婦だ。できることなら私だって仮面をつけたいよ……!」
 ぶつぶつと怒りを吐き出すディアにカナーリャは苦笑して頷いた。
「私も、お二人を実際に目にするまでは噂の方を信じてしまっていたのです。セイ様の幼少時代はジェン様より窺っておりますし、実際、セイ様の周囲では身代金目当ての誘拐や、彼自身を狙った誘拐などがひんぱんに起きていたというお話もありましたし」
 ディアは瞳を瞬かせた。初めて聞く話だ。しかしセイならありえなくない、とも思える。旅をしていた時も何度も絡まれたのだ。その上でカナーリャが言うような噂話は、貴族ならばあるのかもしれないと、平民は思っているのかもしれない。これはなんとしても噂の是正を図らねばなるまい。
 ディアは頭を抱えて唸り声を上げた。
「奥様。噂を消すことなど簡単ですよ」
 その声に顔を上げると、悪戯な笑みがそこにあった。どことなくセイを彷彿とさせる笑みを目にしてディアは固まるが、カナーリャは気付かない。誰もいない部屋だが、内緒話をするように顔を近づけるのだ。
「お二人で社交界に出席なさればよろしいのです。旦那様が奥様に向ける愛情は一目瞭然でございます。噂など直ぐに消えますよ。真実が分からないからこそ噂は存在するのですから」
 何でもないことのようにアッサリと告げるカナーリャを凝視した。カナーリャは離れると「いかがでしょう?」と微笑みながら肩をすくめる。
「いつもそれを思って奥様を見つめていたんです。好きな人を前にして照れくさいのは分かりますが、この機会に少しだけ努力してみるのもいかがですか?」
「お前……実は、セイに根回しされてるとか言わないよな」
「はい?」
 あまりにもセイに都合のいい展開にディアは邪推してしまうが、カナーリャは分からないように首を傾げただけだった。だが思い当たる節があったのか、「ああ」と声を上げて笑い出す。突然の課題に混乱していたディアはその様子に思わず体を引いた。
「根回しならジェン様にされました。あまり社交界に出たがらないお二人ですから、そんな噂を払拭させるために是非とも誘ってみて欲しい、と」
 義兄からのとんでもない伝言にディアは今度こそ言葉を失くして口を開く。カナーリャは一人楽しげにクスクスと笑い声を上げる。
「貴族とは噂話くらいしか娯楽がありませんからね。放っておけばもっと壮大な物語を作られてしまいますよ。そうならないためにも皆様が見ている場所で、堂々と旦那様に甘えればよろしいのですよ。そうすることが一番の早道です。奥様には難しいことかもしれませんが」
「あ、甘え……っ!」
 ディアの頭が音を立てて爆発した。
 真っ赤になったまま動こうとせず、ディアはそのままセイの帰宅が告げられるまで、カナーリャと睨み――否、見つめあっていた。

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 セイを乗せた馬車が玄関前に停まり、執事が扉を開ける。
 黄昏の光が満ちるなか、現れたセイは金髪を鮮やかにきらめかせてディアを見る。思わずディアの顔が綻ぶくらい嬉しそうに、満面の笑みを見せる。そこに、噂で語られるような仮面は欠片もない。セイがあのような噂を耳にしたらどう思うことか。
「ただいま、ディア」
「……ああ」
 ディアは頭の隅でカナーリャの言葉を思い出しながら頷いた。いつもと違うディアの様子を敏感に悟ったセイはわずかに首を傾げて瞳を覗き込んだ。
「ディア?」
 夜空を切り取ったような紫紺の瞳を、ディアもまた見つめ返して顔を近づけた。
 柔らかな唇に自分の唇を重ねる。
 その瞬間、背後で女性たちの凄まじい黄色い声が上がり、ディアは耳まで真っ赤にして直ぐに離れた。セイの驚く顔が心臓に悪い。
「た、たまには私からしろと言っただろう」
 問われる前にそう怒鳴り、ディアは踵を返した。その場の全員の視線が突き刺さるが、耐えるように拳を握り締めて足早に歩く。
「ディア!」
 直ぐに追いかけてくる声と靴音が響いてくる。ディアは猛スピードでそれから逃げた。努力するはずだったのに、捕まってたまるものかと全速力で逃げ出した。
 セイの声が一瞬遠ざかる。だが怒ったような声が聞こえ、距離は直ぐに縮まる。あともう少しで鍵のかかる私室に逃げ込めるのに、と思ったところで捕まえられた。
「なんで、逃げるんですか……」
 息切れして苦しげなセイに、こちらはもっと苦しかったディアは声もなく首を振った。壁を背にして挟まれるように両手をつかれ、近い距離に動悸はさらに激しくなる。
「む、無理だ。あれ以上は私には無理。不可能。心臓が壊れるっ」
 ずるずると壁を伝ってしゃがみこんだディアを追いかけるようにセイもしゃがみこみ、両手で顔を覆うディアを困ったように見やる。
 遠巻きに使用人たちが固唾を呑んで見守っていた。主人たちが心配になったというよりも、好奇心が半分以上だろう。セイは苦笑して私室の扉を開ける。動かないディアを抱えて中に入ると、残念そうな悲嘆が廊下に木霊した。非常に主人想いな彼らだ。
 使用人たちの視線から逃れられたことで動悸がおさまってきたディアは顔を上げる。念のためにと鍵をかけるセイを見上げる。
「……なんで鍵まで閉めるんだよ」
「つい、勢いで」
 悪びれない笑顔を見せるセイにディアは苦々しく顔を逸らす。未だ激しく高鳴る心臓に両手を当てる。
「ディアこそ、逃げることないじゃないですか」
「勢いだ」
 セイは笑い声を上げた。意識したわけではないが同じ言葉になったディアは苦く唇を尖らせる。動悸を宥め、立ち上がる。覚悟してセイを見た。
「あのさ。セイ」
「はい」
 笑顔を絶やさないままディアの前に移動したセイは、ディアの手を取って首を傾げた。
「次の休み――いつもは断ってた食事会とか舞踏会とか、に、行ってみないか?」
 いつものディアからは考えられない言葉にセイは双眸を見開き、ディアを覗き込んだ。その瞳は「いったい何があったんですか」と聞いている。まさか噂話をそのまま伝えるわけにもいかないからディアは言葉を濁した。
 言葉を探し、おもむろに、今まで首を覆っていた防寒具を取り去る。キスマークが付けられたと思われる場所を震える指で示した。
「行く前に、もうちょっとしっかり、つけて」
「え?」
 何を言われるのかと怪訝な顔をしていたセイはそれこそ本当に目を丸くしてディアを見た。ディアはと言えば、自分の言葉に衝撃を受けて言葉を失くしている。人前で甘えるなど絶対にできないと思ったため、噂を払拭させるにはそれしかないと考えた末の言葉だったけれど。やはり覚悟はしてても死にそうなほど恥ずかしい。幸い、この部屋はカーテンを閉めたままで薄暗いということが唯一の救いだった。
「つけて、行くんですか?」
 言葉もなく頷く。沈黙はやめて欲しいと思うのはディアだけだろうか。見つめられているのが分かり、気まずくて顔を逸らすが、視線からは逃れられない。敏感になっていたのか、首筋に触れられて声が出るほど驚いた。
「……そうですね」
 囁かれ、再び足から力が抜けていくように思えた。座り込む手前でセイに抱きつくと、背中を抱えられて静かに下ろされる。初めてのときより格段に羞恥心が強い心理状況に置かれ、ディアは震えるようにして口付けを受ける。自然に零れてきた涙を拭かれて囁かれ、頷きで答えを返して。
「予行練習ですね」
 少しだけ楽しげに笑うセイにディアも笑い返した。抱え上げられて寝室に連れ込まれる。
 セイの胸に手を当てて、自分の胸にも手を当てて。不思議そうな顔をしたセイには何も言わずにいつもの笑みを見せる。
 二人とも、こんなに心臓が早鐘を打っているのに、これが嘘などと言わせてたまるか。あのような噂など、絶対に打ち砕いてやると決意して。
 セイに抱きしめられて深い安堵に包まれながら、愛してると囁いた。


 END