闇に紛れた張子の虎 番外編

=あの夜何があったのか=

 手を伸ばさなくても。例えば、体を少し屈めるだけでもディアに触れることができる。
 そんな近くに眠ることを許されたセイは滲む笑みを隠せずにいた。
 少しでも動けば、その振動さえ伝わる。
 セイは目の前で緊張する背中を見つめる。どうにか振り向かせてみたいが、下手に刺激すればせっかくの場所から追い出されてしまう。少し卑怯な手段を使って手に入れた場所だ。失いたくない。
 寝たふりを装ってディアの背中に額をつけてみた。背中が強張るのが分かる。そんな些細な反応も愛おしい。ディアは決して振り返らない。
 冬ならもう少し簡単だったろう。寒がりなディアは、寝ているとき傍に行けば温かさを求めて手を伸ばしてくれる。眠っているとき限定の、無意識の行動だ。大きな腕に抱きしめられると少し苦しいが、その温かさと柔らかさはいつもセイを幸せにさせる。
 セイは思い出して小さくため息をついた。
 今の季節は夏。季節ばかりはセイにも動かせない。
 せめてもう少し近くに行きたい、と近寄ったセイは、寝返りを打ったディアに潰された。
「……ディア」
 あまり嬉しくない潰され方に不満を上げるが反応はない。
 セイは自力で這い出した。上半身だけ起こし、ディアを見る。
 どうやら眠ったようだ。仰向けになって、掛け布団の端をつかんでいる。
「ディア?」
 頬に触れても起きる気配はなかった。
 セイは眉を寄せる。ディアの表情は苦悶に歪んでいた。額に手を当てると汗ばんでいる。快眠を貪っているとは言いがたい。ただ暑さに当てられているだけなのか、うなされているのか。
 起こすべきか悩みながら、布団の端を固くつかんでいるディアの手を解いた。すると代わりに手を握りこまれる。その力強さに、セイは表情を改めた。
「ディア」
 少し揺するとディアは微かに瞼を開けた。セイは安堵して呼びかけようとしたが、瞳の焦点が合っていないことに気付いてためらった。ディアの瞳は、ここではない別の何かを見ているようで、不安になる。セイの存在に気付いていないようだ。
 不意にディアの目尻から涙が零れた。
 セイは指で拭い、拳を握る。ディアを悩ませるすべてを払拭させたい。けれど方法が分からない。支えになりたいのに、自分はディアの何も知らない。ただ隣にいることを許されただけだ。まだまだ足りない。いっそのこと、自分を刻み付けてしまえればいいのに。
「セイ……?」
 ディアがゆっくりとセイを見た。まだ瞳はぼんやりとしている。夢うつつなのだろう。
 湧き上がる衝動のまま、セイはディアに体を乗り出した。首筋に唇を寄せる。くすぐったそうに身をよじったディアを体で押さえつける。先ほどつかまれていた手を強く絡め直した。反対の腕をディアの背中に回すと、応えるようにディアの腕がセイの頭に回った。抱きかかえ、鎖骨の付け根あたりを強く吸う。赤い痕が残る。
「……て」
 小さく零された声にセイは我に返った。ディアを見ると、瞳を閉じている。また眠るのだろうか。瞼の端には涙が滲んでいる。
「――大丈夫ですよ。ディア」
 己の浅ましさに嫌悪感を抱きながらディアの腕を外す。湧き上がる衝動を必死に抑えた。ディアをきつく抱きしめて「大丈夫」ともう一度囁く。
 ディアが眠るまでそうして抱きしめる。やがてディアは完全に眠ったのか、全身から力が抜けた。セイは長いため息をついた。
 支えになるのとこれは別だ。払拭はできるかもしれないが、このような方法に頼ったのでは軽蔑される気がする。男として辛いものはあるが、ディアが自ら話してくれるまで待つこととしよう。旅は長いのだから。
 セイは苦笑を零してディアを見つめた。苦悶の表情は和らいでいる。
 さて、ディアの鎖骨に残る痕をどう言い訳しようか。それを考えるのはとても楽しいことだった。
 セイは微笑みながらディアの肩に顔をうずめる。

 『そばにいて』

 彼女の言葉だけが唯一の救い。

END