紡ぎ糸のような 番外編 =ディア的見解=

【一】

 馴染んだ気配に気付いたとき、ディアは舌打ちをしたい気分で跳ね起きた。常ならばそれだけで起き上がるセイも、いまは静かな寝息を立てている。体を揺すっても反応はない。頬を叩いても状態は変わらない。出遅れたことを悟らざるを得なかった。
「くっそ。さすがに素早いな」
 ディアは歯軋りして寝室の扉を睨んだ。
 小屋に充満しているのは砂糖菓子を煮詰めたような甘い匂いだった。数年前まで毎日のように嗅いでいた匂いだ。脳裏に刻まれた警鐘が匂いに反応し、はやく逃げろと兄の声で告げていた。
 ディアは寝台近くに設置された棚に腕を伸ばした。そこに置かれていたセイの剣を拝借し、ディアは薄着のまま寝台から下りた。セイの温もりが途端に絶えて足元から冷気が駆け上る。再び熱が失われていく。
 振り返ってもセイは起きない。そのまま眠り続けている。大して大きくもない寝台に金の光が散らばっていた。月光もない今宵、その光は朧に闇に霞んでいる。
 ――私がいなくなったらどうするかな。
 そう思ったディアは勢いよくかぶりを振った。弱気な考えを無理やり締めだした。冗談ではない、いまさら戻されてたまるものかと奥歯を噛み締める。
「まだ、一緒にいたいからな」
 呟きがセイに届くことはない。知っているからこその呟きだ。
 ディアは剣を抜くと鞘を投げ捨てた。乾いた足裏を擦るようにして扉を開け、居間から光が零れているのを確認する。同時に鼻をつく匂いが強まって顔をしかめる。
 何度嗅いでも慣れない匂いだ。脳裏の警鐘は激しさを増し、頭痛まで起こす。もっとも、これのお陰で旅に便利な特殊体質になったため文句ばかりは言えないが。
 ディアは深呼吸して光を睨みつけ、突進した。
「これは、穏やかではありませんな?」
「黙れ!」
 居間に大きな光の塊があった。そこへ剣を振り下ろしたのだが、剣は宙を薙いだ。手ごたえがない。真空の唸り声を聞きながら、ディアは光の中から現れた侵入者に剣を向ける。
 黒いローブを頭から被り、瞳も見えないほど目深く下げている。記憶が正しければ、その顔には結構な皺が刻まれているはずだ。
 ディアは油断なく距離を取る。
「おまえ一人か?」
「ええ。そうですよ」
 素早く部屋に視線を巡らせて真実を知る。男の言葉に嘘はないようだ。
 扉は閉めきられており、光に照らされた周囲に人影はない。だからと言って安心はできない。一人でも厄介な存在だということに変わりはない。
 侵入者を包むように存在していた光が徐々に収縮していく。ディアは男の間合いへ素早く踏み入り斬りこんだ。
 セイから毎日のように剣の手解きを受けていたため、勝てるかもしれないという希望はあった。それでも、ディアの剣は男のローブを軽く薙いだだけで手ごたえはない。男が纏うローブの裾が、視界の端で舞うように揺れたのを視界の端で捉える。素早く側転して彼の背後に回りこむ。足払いをかけようとしたが再びかわされた。
 動きが全く読めない。規則性を持たないそれにディアは舌打ちする。
 あまりに男の懐に入りすぎたため後退しようと跳ぶと背中を打ちつけた。視線だけで振り返り、テーブルにぶつかったのだと知る。狭い小屋の中ではディアが圧倒的に不利だった。剣を振り回すことができない。かと言って広い場所を与えたら有利になるのは侵入者も同じだ。
 バランスを崩して倒れかけたディアだが、なんとか床に転がり、動きを捉えられないよう気をつける。
「あなたを包んでいた守護が途切れたのでね。少々年齢が過ぎてしまったが、構わないでしょう。次代まで、あなたが必要だ」
「冗談じゃない……!」
 優位を確信した者の、絶対者としての台詞。高圧的な口調に苛立ちと焦りが湧く。伸ばされた手を乱暴に剣で払い、逃げようとした。だが出口は男の背後にある。仕方なく寝室に続く廊下を走る。しかし寝室まで入るのは躊躇われた。そこでは何も知らないセイが眠らされている。寝室に入れば窓があるが、どうしてもこの扉を開けることはできない。
 廊下の端でディアは踵を返し、歩いて来る男を見つめた。
 心臓が早鐘を打つ。頭にまで響いてくる感覚だ。警鐘はもう役に立たないと悟っているのか、頭痛は消えていた。温められていた体は既に冷え切っている。剣を握る感覚も失われかけている。
 ――戻るのだけは絶対に嫌だ。再び逢える確信がないまま別れたくない。
 さらに言えば、ここで連れて行かれてしまったら、きっと二度と会えない。
 荒い呼吸が耳につく。もう目の前まで迫った男にゆるく首を振る。嫌な汗が背中を流れ落ちる。
「くっそう……!」
 振り上げた剣が廊下の壁に当たった。ディアの動きが一瞬だけ止まる。その隙を逃さず、素早く目の前に入り込んだ男の両手がパンッと打ち鳴らされた。瞬間、生まれた閃光に目が眩む。失態を自覚し、それでも諦めきれずに剣を振り回したが何にも当たる気配がなかった。
 白い閃光に包まれる。瞳から入り、頭の奥に闇を刻む光だ。
 両極の存在に圧しかかられてディアは身動き一つできなくなる。どこからか声が響く。
「あなたを助ける者は、もうどこにもいませんよ」
 残されたかすかな希望すら奪う言葉にディアの表情が歪む。封じていた数年前の絶望が解き放たれ、加速度を増して目の前に迫る。
「――っ」
 悲鳴は喉の奥で押し殺されて声にならない。
 ディアは、両手首が砕かれた感覚を最後に、意識を手放した。
 白く灼き尽くされた思考のなかでは、金の光も目立ちはしないようだった。