紡ぎ糸のような 番外編 =ディア的見解=

【二】

 両手首に巻かれた白い包帯。
 穢れを祓われたそれを無感動に眺め下ろしながら、ディアは揺れる馬車の中にいた。真正面にはディアをこのような状況に陥れた張本人が腰掛けている。治療を終えた彼は温和な笑みが刻まれている。怪我をさせたのも彼なら癒したのも彼だった。全ては彼の手の平でのできごとだ。
 ディアが睨みつけても効果はない。
 黒闇を宿すカーテンが窓を覆っていた。暗鬱とした車内に嫌気が差してカーテンを破り去りたい衝動に駆られるが、怪我をしているためできない。手を動かすことが困難だ。
「再生にはもうしばらく時間が必要でしょうな」
「転送は馬車の中までか。お前らも腕が落ちたもんだな」
 せめて自由になる口だけでも達者でいようとしたが、彼は怒ることをしない。変わらない笑みを浮かべ続けているだけだ。それがディアの苛立ちを煽ると気付いていないのか。それとも気付いているからこそなのか。どちらにしろ、怒りは加速していく。
「いかな私であろうと結界を越えることはできませんよ。それでもかなりの距離を飛びましたからね。その足であの場所に戻ることは不可能でしょう」
「繰り上がり貴族が偉そうに」
 一瞬、男はディアの言葉に怒気を閃かせたかに見えた。しかし浮きかけた腰を落とす。どうせ逃れられないのだからと思い直したのかもしれない。再度ディアを見下ろす表情には嘲りが滲んでいた。ディアの両手両足が動いたなら確実に馬車の外へ落とされていたであろう眼差しだ。
「ご安心を。せめてもの情けに生家へ戻ることが許されておりますので」
 これまで無関心を装い、無表情を繕っていたディアの表情が初めて大きく動いた。瞳を大きく見開く。それを目にした男は満足そうに笑う。小さいが耳障りな笑い声だ。
「最後の逢瀬を楽しむがよろしかろう」
 その言葉が誰とのことを指しているかは明白だった。
 ディアは奥歯が噛み砕かれそうなほど、顎に力を込めて眦を強くし、男を睨みつけた。

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 大きな窓を背にして長身の男が立っていた。
 ディアよりも高い。もしかしたら抜いているかもしれないと思っていただけに、結構な衝撃だった。
 男が背にしている窓から昔、雷を見せてもらったことがあると思い出して顔をしかめる。思い出すには痛い記憶ばかりだ。
 通された部屋にはディアと男だけがいた。ここまで運んできた男は笑みを深め、どうぞごゆるりと、という言葉を残して消えていた。屋敷の近くに気配はない。だが必ず監視はされているはずだ。そう思うと癪に障る。
 ディアはまだ痛みを訴える両手首を見やり、巻かれた包帯を癒すように片手を重ねた。
「昔に行方知れずとなった少女がようやく発見された。国近くの小屋で、両手首に深い怪我を負っていた彼女は国専魔導師が保護し、連れ戻った。親族は喜んだ。国民たちも喜んだ。国を代表する英雄の忘れ形見が見つかったと。皆が生存を諦めていた少女の生還だ。奇蹟だと崇め、その恩恵に縋ろうとする婚約話まで舞い込んでいるという」
「――受けたんじゃないだろうな」
 ディアは部屋に入った位置から動いていない。同じく、窓を背にしたまま動かない男を睨み付ける。彼が纏うのは一定以上の地位につく者だけが許される外套だった。左肩には国産のバイラ鉱石でつくられた留金が光っている。どれも高級な代物だ。
 深く渋い青味の外套を少しだけ揺らせ、男は微笑む。
 栗色の髪に栗色の瞳。ディアは自分と同じ色を持つ彼の瞳を、小さい頃そうしていたように黙って見つめた。
「婚約話を持ち出しているのはいずれも国専魔導師たちだそうだ。第一級魔導師たちは皆が欲しがっている。受けてみたらどうだ? 一生の安泰を約束されるぞ」
 何が安泰だ、とディアは胸中で吐き捨てて顔をしかめた。
 男からし線を外し、腕を組んで扉に背中を預けた。手首はもう動かしても痛くない。剣を持とうとすればさすがに響くだろうが、静かな動作ならば問題はない。忌々しいが便利な力だ。
 窓際に立ち尽くす男へと、複雑な思いを向けながら口を開いた。
「国お抱えの魔導師たちと栄華に囲まれて一生を過ごすのと、私自身が必要だと言ってくれて楽しい奴と共に一生を過ごすのと」
 おや、というように男が片眉を上げて表情を変える。ディアは挑むように睨み付けて言葉を続ける。
「どっちがいいかなんて答えは決まってるんだよ。馬鹿兄貴」
 男は和むように笑った。
「好きな奴でもできたのか」
「か、関係ないだろ!」
 脳裏にセイの顔が浮かんで慌てて怒鳴る。しまったと顔をしかめる。顔を赤くしてしまえば認めているようなものだ。案の定、男は「図星か」と言って楽しげに肩を震わせる。
 バツが悪いのと忌々しいのと、それらが混じって舌打ちする。ディアは気恥ずかしさを隠すように大股で彼に近づいた。強制的に着せられた華やかな衣装の裾を蹴るように歩く。似合いもしない真っ赤な色が癪に障る。
「さっきの話。受けたんじゃないだろうな?」
「なんで俺がわざわざあいつらを喜ばせなければいけないんだ。冗談じゃないぞ」
 男は嫌そうに言って咎める視線をディアに向ける。だがディアの中で彼に対する苛立ちはおさまらない。腕を掴み、真正面を向かせる。僅かな力を込めただけだが腕が痛み、顔をしかめながらやり過ごす。
「冗談じゃないのはこっちの方だ。アーネットがもっとしっかりしていれば私は呼び戻されることもなくて」
「俺ばかりが悪いんじゃないだろうが。お前、父上の剣をどこにやったんだ」
 男の視線はディアの腰に落ちた。もちろんドレスを纏うディアにそんな携行品があるとは思ってもいないだろうが。
 確かめ、彼は溜息をつくようにディアに囁いた。
「いまこの国にはガーランドもサミリアもいない」
「……いない?」
「お前が戻ってくる少し前にサミリアは国を出た。その三年前にはガーランドだ」
 ディアの脳裏に魔導師の言葉が蘇った。助ける者などいないという言葉は真実だったのだ。
 ディアは悔しくて拳を握り締める。仁王立ちになって男を睨む。
「お前は何をやっていたんだ!」
「自分の身は自分で守れと言ったはずだ!」
 白くなり、爪が食い込むまで拳を握り締めての叫び。
 悔しいのは自分だけではない。数年前、国からの脱出を手伝ってくれた彼も同じ悔しさを感じている。それは痛いほど理解している。しかし、それでもどうにもならない。ディアは奥歯を噛み締める。涙が溢れて零れ落ちる。
「兄さん」
 手を伸ばして彼の腕に額をつける。男は反対の腕でディアを抱きしめた。
 長年、連絡を取り合うことすらできなかった兄妹の、久しぶりの再会だ。
「俺にできることなんて何もないからな――ディア」
 既に定着してしまった愛称で呼ばれ、ディアは縋りつくように力を込めた。
 二度とあの者のそばに戻れやしないと囁いてくる内なる声に反発したい。ディアは自分の名を呼ぶ声を、必死で手繰り寄せようとしていた。