紡ぎ糸のような 番外編 =ディア的見解=

【五】

 絶望の闇。ときおり励ますように金の光が掠めるが、手を伸ばしても触れることはできない。あとどれくらいの時間をこの中で過ごさなければいけないのか。いつからここにいたのか、時間の感覚も曖昧だ。何年も過ごしたようにも、つい先ほどのできごとにも思える。疲弊しきった心では負けてしまう。
 悪夢は繰り返される。何度でも。
 幼い頃、父親に連れられて挨拶した王は見る影もない。
 アーネットを戦争に赴かせた時点で分かっていたことだ。自分の弟を好んで死地に追いやる者が常人の心を失っていることは容易く想像がつく。人々の噂にものぼる。
 けれど、自分で確かめるまでは信じないと――そう、いちるの望みをかけていたけれど、玉座の間で向けられた瞳は、姪に向ける瞳ではなかった。
 自らの過ちを払拭するための、ただの道具に向ける瞳だ。
 父親のような暖かさを少なからず望んでいたディアにとって、それは絶望を呼ぶのに充分だった。よく兄が仕えていられるなと尊敬の意さえ覚えてしまう。もちろん、兄がこの老王に仕えているのは、他ならぬ自分のためでもあると分かっているけれど。
 ディアは淵底から光を見上げていた。水の中にたゆたっているような気分で瞳を開く。深い絶望の闇が再び動き出そうとしているのを感じた。
 ディアの意識が覚醒する。闇はディアの記憶から気に入ったものだけを抜き出して本物のように現実を形成する。別の器へと吐き出されたそれらを、ディアは虚ろに見やる。封印していた過去をこう何度も繰り返し見せられては抗う力も失せていく。自身を責める言葉ばかりが浮かんでくる。
 水晶に閉じ込められてから何度も経験した絶望。それでもまだ正気を手放せないのは、ときおり掠めていく金の光を信じているから。もう一度逢いたいと思っているから。
「……セイ」
 名前は勇気を奮う魔法となる。
 何度も繰り返し呼び続ける。
 負の感情を食らう闇が、自身に潜むセイの存在に気付かぬよう、壊されてしまわないよう、大切に呼び続ける。
 やがて闇が新たな動きを見せたとき――ディアは遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたと思った。

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 ――ディア。
 名前を呼ばれ、睫毛を震わせる。ひどく寒気がした。
「ディア」
 闇しかなかった周囲に光が満ちていた。
 ディアは環境の変化に驚きながら僅かに瞼を開く。見覚えのある眩しい金色がそばにある。眩しすぎて捉えることができず、視線を逸らす。長らく刻を止めていた心臓が強く脈打っていた。
 ディアは呼吸し、息がつまって苦しくなった。
 先ほど見た金色をもう一度見たくて視線を巡らす。焦燥が強くなり、間近に迫っていたその顔に息を呑む。夢でも良かった。別れたときよりかなり伸びた髪に触れ、頬に触れる。いつもの夢と違うのは彼に体温があることだ。
 新手の罠かと思った。
 夢ではないと確信し、嬉しさを覚えたところで突き放す――そんな絶望を味わせるための、新たな仕掛けなのかと思った。背中に回されている腕は強く、その温かさすら伝わってくるというのに。
「夢など……いらない」
 裏切られることが怖くて自分から拒絶する。これ以上の絶望はたくさんだ。本物以外はいらないのに、なぜ夢は望みを叶えようとするのだろうか。それが主の希望を奪うと知っているのか。
 ディアは自分から瞼を閉じて、この悪夢から逃れようとした。だがいつもの夢とは勝手が違うようだ。強く肩を抱かれて揺さぶられた。
「夢じゃないです、ディアッ」
 取られた手が温かな頬に触れた。
 抱かれた肩からも彼の体温が広がっていく。夢ではないと言い切るその夢に、これが現実ならどんなにいいだろうかとゆるくかぶりを振る。諦めてこのまま眠ろうとした。
 だが頬を掠めて落ちたものに驚いて瞼を開けた。
 間近に迫る紫紺の瞳が潤んでいる。夢とは違った。男のくせに涙もろくて誰よりも女らしい外見を持ったセイだが、夢の中で彼は誰よりも強く男らしく、ディアを守る騎士という立場にいた。そんな彼に、らしくもなくディアはときめきながら公爵家の令嬢としてセイと恋愛を楽しむ立場にいた。夢の中でのセイが泣くことはありえない。
 だが目の前にいるセイは瞳を潤ませて涙まで零していた。ディアの手を握り締めながら、何かを訴えるように叫んでいる。強く胸を揺さぶる声で。
「……なぜ、ここにいる……」
 まさかと期待する心を必死で宥めながら、ディアは呆然と呟いた。
 するとセイは微かに瞳を緩ませて囁く。
「追って来ましたから」
 当然のように告げる。その微笑みはまだ涙に濡れている。
 ディアは強い衝動に襲われるままセイに腕を伸ばそうとした。しかし腕は思うように動かない。触れたいのに沈黙を保ち続ける。口を開くと震えることしかできない。
 セイはディアの前に膝を折った。顔を近づけて口付けてくる。して欲しいと思うことをしてくれるなど、やはり夢だろうかと思ってしまう。だがそれも深い口付けに溶けてしまう。
 体温など忘れていた体が熱くなる。セイの肩に手を添えて瞳を閉じる。
 夢ではないと囁くように。
 冷えていた手足の末端まで、すべてが目覚めていくような感覚だ。強く抱きしめられて安堵の息をつく。これが現実なのだと納得しようとする。どこかでまた消えてしまうのではないかという不安が首をもたげるが、そうはさせまいとセイの胸に頭を押し付けて抱きつく。
「悪かったな」
 夢ではないから謝っておかなければ。
 いつの間にこんなに大きく頼れる存在になっていたのか。
 この国を見つけることからして大変だっただろうに、最難関だと思われる王宮の奥にまで入り込んで迎えにきてくれた。もう一度逢えた。それだけでもういい。
 ディアはセイに抱きついた。
 この体温を失いたくないと、心底から思った。


 END