来し方行く末 番外編 =未来への標=

 お客さんだ、とタロッテは廊下を駆けた。
 見咎めた屋敷の者たちが声をあげたが、タロッテは意に介さずひたすら走る。
 誰とも知らぬ客人。
 まだ幼さを多分に残す七歳のタロッテが出迎える必要はないのだが、普段の日々に慣れてしまった子どもにとって、新鮮なできごとは心躍る。常に自分でやりたがる。
 それ以外にも、タロッテには理由があった。自室の窓から見えた客人の髪は、太陽の光を一身に集めたような金髪。一度見たら忘れられないような色をしていた。
 見たこともない綺麗な容貌。
 いったい誰なんだろう、と興味が湧く。
 いまよりもっと小さな頃、そんな色を見た記憶があるような気がして、タロッテの胸は更に騒ぐのだ。
 長い廊下を全力で走る。広い階段を下りた先で執事が大きな玄関扉を開けていた。
 外から招き入れられるのは、やはり先ほど窓から見えていた金髪の人。
「タロッテ様」
 たしなめるように執事に名前を呼ばれたが、タロッテは聞いていなかった。
 自分がその扉を開けるんだと意気込んでいたにも関わらず、そのことすら忘れて階段の手摺に手を置いて足を止め、我を忘れて佇んでいた。
 くるりとした大きな瞳には金髪の人間しか入っていない。黄金の雰囲気を纏うようなその人に、タロッテは魅入っていた。
「……タロッテ?」
 見惚れていたタロッテは、その人物から声をかけられて我に返った。
 優しく微笑まれると頬が熱くなる。恥ずかしくなって俯いた。淡いピンクのスカートの上で、拳を握り締めて太腿に押し付ける。
「あらまぁ、セイ。お久しぶりだこと。お元気だったかしら? タロッテ。ご挨拶なさい」
 背後からの声に振り返ると、タロッテの母親がそこにいた。
 柔らかな微笑みを浮かべる老婦人。
 彼女に背中を押されて進み出たが、タロッテは途中で母親のスカートの影に隠れるように後ろに回った。
「リン婦人も。お変わりありませんか?」
「私もあの人も、なにも変わりはしないわ。どうしたの、タロッテ」
 階段を下りたタロッテは再び促され、おずおずと進み出た。両手でスカートを摘み上げ、腰を折って礼をする。そして恐る恐る窺うように見上げる。
 この人の目に私はどう映っているのだろう、と。
 タロッテの視界を金の残像が素早く過ぎった。目を見開いたときにはもう、とんでもなく整った顔立ちが目の前にある。タロッテと同じ視線の高さに腰を屈めたのだ。
 自分の肌と比べて客人の肌は真っ白で滑らかだ。紫紺の瞳は宝石のように綺麗。柔らかそうな金の髪も綺麗。触りたいけど、あまりの綺麗さに気後れしてしまう。
「こんにちは、タロッテ。覚えてるかな? ずっと以前に私はあなたと会っていましたよ」
 優しい笑顔から紡がれる声は、やはり優しいものだった。
 母の声も優しいが、目の前の人物からは優しさだけではない強さが感じられる。いったい何が違うのだろうか。
 タロッテは首を傾げた。会っていたという事実が信じられない。こんなに綺麗な人は一度見たら決して忘れられないような気がする。思い出したいのに全く覚えてなくて、悔しさに眉を寄せると頭を撫でられた。
「さぁ立ち話をするために来たのではないでしょう? 中にお入りなさいな」
 開放されていた扉から客人が離れると、執事はようやく扉を閉めることができた。風が入り込んでいたため少し寒かったようだ。気付いた客人は慌てて謝る。
 タロッテは笑みを浮かべた。今の場面だけでより好きになった。この人はきっと優しい人だ。
 客人はリンに案内されて歩き出す。タロッテはその後ろからついて行ったが、目の前にある客人の手に触れてみた。驚いたように振り返るのを見て慌てて手を放す。だが客人は直ぐにタロッテの手を握り返してくれた。手を引いて歩いてくれる。
 温かくて強い力にタロッテは笑みを浮かべる。金の髪を軽く揺らせて客人も微笑んでくれる。とても嬉しかった。
 リンはどうやら私室に案内するようだ。滅多なことでは招き入れない私室だが、この客人は特別なのだと認識するには充分だ。逆に、応接室に通す方が間違っていると思う。タロッテにとって応接室は閑散としすぎていて何の面白味もなく、つまらない場所として認識されている。
 私室であれば父が眠る寝室も隣にある。都合がいいだろう。
 厨房が近くなったとき、リンが振り返った。その意図を理解し、もとよりそのつもりだったタロッテは手を放して直ぐに厨房へ駆けた。厨房の入口で振り返ると二人がタロッテを見ており、タロッテは力いっぱい手を振る。
 客人はその場に留まってタロッテを待とうとしてくれたが、リンに促されて歩き出した。少し寂しさを感じたけれど仕方ない。今までずっと、訪れた客をもてなすのはタロッテの役目だった。
「タロッテ。今日はなんだ?」
 料理長がタロッテに気付いて声をかけた。
 タロッテは振り返って笑みを見せる。
 初めて聞いたときはその声の大きさに驚いて恐怖したけれど、今は平気だ。声は大きいけれどいつも丁寧に仕事をしてくれる。今では彼なしの厨房は考えられない。大好きになっていた。
 そんな料理長にタロッテは指で四人を示し、大きな戸棚からカップを四つ取り出してきた。途中、銀製のお盆を取ることも忘れない。タロッテ用の低い棚にお盆を乗せ、カップも並べて料理長を見上げる。
 彼はタロッテがなにを言いたいのか理解していた。その手にはいつも客用に出されている茶葉の瓶が握られている。
 タロッテは満足そうに頷いて、彼と位置を交替する。
 カップの中に澄んだ亜麻色が注がれていくのをワクワクしながら眺めることにした。

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 扉をノックすると直ぐに返事が返って来る。
 だがタロッテの両手は塞がっていたので、誰かが開けてくれるのを待つ。
 今日の状況からして、リンが開けてくれるだろうか。少しだけ待っていると扉が開けられ、タロッテは息を呑んだ。まるで後光が差しているかのように綺麗な金の髪が揺れ、客人が出迎えてくれた。
 絵本の中に出てくる女神さまみたいだと見惚れ、お盆を危うく取り落とすところだった。
 タロッテは戸惑いながら礼をする。
 客人が扉を開けるなど、これまで考えられなかったことだ。ここからも特別な客なのだと分かる。リンを見ると困ったように笑っていた。その隣には父親の姿もあった。彼はきちんと身なりを整えている。タロッテが起きた頃、彼はまだ眠っていたから、客人の訪問に慌てて起き出したのだろう。そう思うと少しおかしかった。
 タロッテは零さないようにカップを並べ、お盆を下げて安堵した。こんなに綺麗な人の前で失敗なんてしたくなかった。
 飲み物を置いたら出て行かなければいけない。でもこの客人ともう少しだけ一緒にいたい。そう思って自分用のカップも用意してもらった。
 両親に視線を送ると直ぐに気付いてくれ、二人は破顔した。
「それを置いたらいらっしゃいな」
 リンが楽しげに促す。タロッテは嬉しくて頷き、早く置いてこようと足早に扉に向かった。
「元気だったか、セイ?」
 扉を閉める直前、父の嬉しげな声が聞こえた。タロッテは扉を閉める速度を遅くして隙間から覗く。父の正面に座る金髪の客人が頷くのを見た。
 ――あの人は“セイ”というんだ。
 最初に母がそんな名前で呼びかけていた気がする。客人に見惚れていて覚えていなかった。今度はしっかりと名前を胸に刻む。
 タロッテは高揚する気持ちを抑えながら扉を閉めた。

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 料理長にお盆を返し、早くセイのそばに行き、彼らの輪に入れてもらおうと弾みながら廊下を歩いていたとき。
 タロッテは窓からとても嫌な光景を見た。
 思わず壁に隠れ、窓から自分の姿が見えないようにしてしまう。
 表情が強張って足が震える。なんだか一歩も動けなくなって、その場にしゃがみこんでしまう。
 窓から見えたのは下町に住む男の子たちだ。年齢はタロットとそう変わらない。彼らはそれぞれ意地悪い笑みを浮かべながらタロッテの住む屋敷へ近づいてきていた。
 ――どうして。
 タロッテは哀しい気分で呟いた。
 今日はセイと一緒にいたかったのに、なにもこんな日に邪魔をしに来なくてもいいじゃないと泣きたくなる。
 無視して部屋へ行ってしまおうと思った。だが、彼らが屋敷の扉を叩くのは時間の問題だ。そうしたら執事が嫌な思いをしてしまうかもしれない。
 いつも他人を思いやる心だけは忘れないようにと言い聞かされて育ったタロッテは、息を吸い込んで立ち上がった。勇気を奮い起こす。両親と話をしている客人が嫌な思いをしないためにも、あの子たちに会わないといけない。
 タロッテは玄関に走った。
 淡いピンクのスカートが翻る。視界の端にその色が見えたとき、タロッテは着替えてこようかと思った。このワンピースはタロッテの一番のお気に入りなのだ。
 だが着替えてくる時間もないと言い聞かせる。服は他にもあるから、我慢しようと思う。あの金髪の人と引き換えになんてできないから、いい。
 玄関には執事がいた。彼は自分の控え室から子どもたちが近づいてくるのを見ていたのだろう。扉を開けようと、ドアノブに手を掛けていた。
 彼はタロッテが駆けてくることに気付いて顔をしかめた。困ったように首を振る。
「タロッテ様。お出になるのですか?」
 どうやらタロッテが廊下を走ることを咎めたわけではないらしい。
 タロッテは微笑み崩れて頷いた。開けて欲しいと目で訴える。その瞳に執事は勝てない。
「……無茶はいけませんよ。お体が丈夫な方ではないのですから」
 タロッテは笑顔で頷く。少しだけ開けられた扉から滑るように外へ走り出て、向かってくる子どもたちを見つける。その姿に知らず表情が強張る。だが無理に笑顔を作って屋敷を振り返った。出てこようとする執事を押し戻し、バイバイと笑顔で手を振る。扉が閉まったことを確認してから子どもたちに駆け寄った。
「タロッテが出てきたぞー」
 タロッテが近づくと子どもたちは一斉にはしゃぎ出した。タロッテを指差して笑い出す。
「見ろよあの格好。やっぱり貴族さまは違うよなぁ!」
 タロッテの頬が紅潮した。泣き出しそうな気分で睨み付けると彼らは嬉しげに瞳を輝かせる。タロッテをからかう言葉を喚き散らしながら一斉に走り出した。
 町の方向だ。負けるもんかとタロッテも走り出し、精一杯の力で彼らを追いかけた。今回こそ彼らをやり込めるのだと強く思う。
「お前が口きけないのは、お前の父ちゃんと母ちゃんが悪い魔法を使ってるからだ」
「悪魔の子なんだよ、悪魔の子」
「わー、くるなー、悪魔がうつるぞー」
 タロッテは唇を引き結んで追いかけた。屋敷から離れて下町に出る。そこでとうとうタロッテは立ち止まり、荒い息を繰り返しながら胸を押さえた。苦しくてもう動けない。そうしていると前を走っていた子どもたちが気付き、戻ってくる。タロッテの周りを囲んで再び騒ぎ出す。
 いつも言い返そうとして言葉につまる。口を開いても言葉がでてこない。両親の悪口を取り消して欲しくていつも走る。けれど、いつも追いつかない。
「違うんなら言い返してみろよ。弱虫!」
 タロッテは子どもたちを睨みつけた。しかしその瞳には涙が滲んでいた。悔しくて悔しくて、ついに溢れだす。
「こいつ泣いてるぜ」
 再び揶揄する声が上がった。一人の少年の、その声に合わせて周囲の子どもたちも笑い出す。合唱だ。通りかかる大人たちは無関心を貫いて、誰もタロッテたちを振り返らない。子どもの他愛ない喧嘩かと思っているのか。
「弱虫タロッテ!」
 言葉のかわりにタロッテは勢いよく首を振った。
 そのさなか、囲む子どもたちの隙間から近くの店が見えた。
 オープンテラスの喫茶店だ。そのテーブルに一人が腰掛け、タロッテを見つめている気がした。誰だろうと確かめる暇もなく、その人物は子どもたちの影に消された。タロッテを囲む輪は段々と小さくなっていく。
「弱虫じゃないなら証明してみせろよ」
 タロッテは顔を上げた。声を出す以外で証明とする方法。いったい何をして証明すればいいのか。
 タロッテの視線の先で、子どもたちはニヤニヤとした笑いを浮かべながら、示し合わせたように皆で同じ場所を指差した。
 彼らが指したのは橋だった。
 タロッテが住む町の中心部には川が流れており、町は大きく二つに分かれている。その川を跨ぐ大きな橋だ。両親に連れられて外出したとき、橋の上から川を覗いたことがある。首を竦めたくなるほどの大きな渦があったことを覚えている。
 昔お前はここから落ちかけたんだぞと言われ、そんな記憶のないタロッテは首を傾げた。落ちなくてよかったと思っただけだ。
「あの橋から飛び降りてみせろよ」
 タロッテはぎくりとして子どもたちを振り返った。皆の目はにやけた笑みを浮かべている。タロッテにはできないと思っているのだ。そしてそれはきっと正しくて。
「あの橋から飛び降りることができたら、弱虫じゃないって信じてやってもいいぜ?」
「よせよせ。おまえなんかには無理だって」
 少年二人に合わせて周囲が嘲笑する。
 彼らを全員睨みつけ、タロッテは両手を握り締めた。
 川の特徴は両親から聞いたことがある。特殊な水流となっており、飛び込んでも浮かぶことができないのだという。だから間違っても近づいてはいけませんよ、と心配する瞳を向けられた。
「やっぱりお前は弱虫なんだな」
「あの屋敷に住んでる奴らには、みんな呪いがかけられてるんだぜ」
 タロッテは怒りを閃かせ、目の前にいた男の子を突き飛ばした。予期していなかった反撃に男の子は無様にも転ぶ。崩れた輪の中からタロッテは泣きながら飛び出した。はやし立てる子どもたちの声が後ろから追いかけてくる。
 悔しい。絶対に見返してやる。
 そう心に決めて、タロッテは指定された橋に走った。
 橋の手摺に両手をかけて振り返る。タロッテを嘲笑った子どもたちが目を丸くしていた。タロッテはそんな彼らに、挑みかけるようにゆっくりと視線を巡らせた。
 子どもの背には大きいその手摺にしがみ付き、よじ登る。橋の上から川を見ると、増した渦が広がっていた。黒々と、全てを飲み込むかのような激流だ。
 タロッテは息を呑み――飛び降りた。

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 ――あれ? 冷たくない。
 橋から飛び降りたはずなのに冷たさは感じない。さらには呼吸も普通にできて、タロッテは閉じていた目をあけた。
 眼下には唸りを上げる激流がある。
 タロッテはその上にいた。
「この、馬鹿がき共が……!」
 苛立ったような低い声が頭上から降ってきた。そこでようやくタロッテは誰かに引き上げられていることを自覚した。
 見上げると、必死の形相をした誰かがタロッテの服を掴んで助けている。
 誰だろうか。町で見かけたことのない顔だ。
「タロッテ!」
「タロッテ!」
 呼ばれて振り返ると、先ほどまでタロッテを馬鹿にしていた子どもたちが驚愕を滲ませて駆け寄ってきていた。彼らの変わり身の早さに、危険な場所にいることも忘れて思わず笑う。
「だ、この馬鹿!」
 怒られて首を竦めたとたん、タロッテは服が脱げたことを悟った。
「くっそう、またこれかよ!」
 忌々しげな声。タロッテはぼんやりと川に落ちていく自分を感じていた。
 その次の刹那、服が首に絡まった。苦しさに上を向く。空中にいるかのような無重力。いつの間にかこちらを注目していた大人たちの姿が目に入り、次いで青い空が目に映り、そして、横になった地面が見えて平衡感覚を取り戻そうとしたとき、体は石畳に投げ出されていた。
 額に擦り傷をつくり、なにがどうなったのだろうかと瞳をあけたとき、視界を栗色の髪が過ぎったような気がして目を瞠った。
 誰かが川に落ちたかのような激しい音が遥か下で聞こえた。
 直感的に悟った。助けようとしてくれたあの人が代わりに落ちたのだと。
 人々が騒いだ。大変だ、と叫び、誰か、と叫び、だが誰も助けにはいかない。青くなったタロッテは橋に駆け寄って覗き込んだ。水流は轟音を上げているだけで助けの声は聞こえない。落ちた人物の影も見えない。
 なぜだろうと眉を寄せたとき、脳裏に声が蘇った。
 ここの川は特別で、浮き上がることができないのだ。
 タロッテは激しく呼吸を繰り返した。周囲の様子など何も目に入ってこない。ただ『いやだ』と強く思った。誰も助けにいかないのなら私が、と動こうとした矢先、タロッテのそばを何かが通った。金の影が川に飛び込んだ。
 その正体を確かめようとタロッテが再び川を覗き込もうとしたとき、タロッテは後ろ首を掴まれた。
「タロッテ!」
 頭が割れてしまうかと思うほどの大怒声。
 タロッテの服を掴んで動きを制限し、凄まじい形相で怒鳴り声を上げたのはロードだった。
 タロッテの父だ。彼の後ろには母のリンもいる。いつもは温厚な彼女だが、今はロードと同じく険しい顔でタロッテを睨んでいた。
 言いつけを破って落ちようとしたのだから怒られて当然だ。
 タロッテの目に涙が浮かんだ。
「タロッテは悪くないよ!」
 割り込んできた声にタロッテは目を瞠った。
 それはロードたちも同じようだった。ロードとタロッテの間に割って入ったのは、先ほどまでタロッテを馬鹿にしていた少年たちだった。
「僕らがタロッテにやれって言ったんだ。タロッテのせいじゃない」
「叱らないで、おじさん」
 タロッテは唖然として彼らを見た。またからかわれているのかと思った。しかし彼らの表情は誰もが必死だった。タロッテの瞳に別の意味で涙が浮かぶ。
 最初こそ虚を突かれたロードだが、再び険しい顔を作った。
「しかし、それを真に受けて約束を破るのは」
 ――こんなときの言葉は。
 タロッテの頭の奥深くで何かが悲鳴を上げた。タロッテは膨大な記憶の渦に飲み込まれたような気がして両手を強く握り締めた。周囲から少年たちの姿も両親の姿も全てが消え、真っ暗な中に一人で佇んでいるような錯覚に陥った。
 タロッテはその暗闇の中から言葉を拾い上げた。
「ご、めんな、さい」
 無意識に唇が動き、言葉は吐息とともに紡がれた。
 その瞬間タロッテは暗闇から戻された。気付けばぼろぼろと涙を零している。周囲の視線を浴びて自分が何を言ったのか思い出した。喉を両手で押さえ、タロッテは体を震わせる。言葉にならない何かが胸の奥を震わせる。暗闇の中で掴んだ記憶は一瞬で消え去り、タロッテに言葉を残してもう戻らない。
 タロッテは大声で泣き出した。
「タロッテ」
 ロードの声が戸惑うように揺れる。
 タロッテは衝動のまま立ち上がり、ロードに力いっぱい抱きついた。泣き声は止まらない。まるで産声のように力強く泣き続ける。ロードの肩越しにリンの姿を捉え、彼女にも腕を伸ばす。リンは口許に当てていた手をタロッテに伸ばし、ロードごと抱きしめた。
 そのとき歓声が上がった。
 ロードがタロッテを抱いたまま橋に近づく。そこでタロッテも見る。川に落ちた二人が無事に引き上げられたところだった。
 タロッテは泣き声を上げるのをやめ、小さな声で歓声を上げた。
 ロードの腕が震える。だが直ぐにタロッテを抱えなおして背中を撫でる。
「タロッテ!」
 タロッテは見下ろし、少年たちが心配そうな目で見上げているのを見た。
「またね」
 ロードとリンはタロッテを伴って馬車に戻る。
 帰り際にタロッテが笑顔を見せて手を振ると、少年たちは一斉に息を呑み、タロッテの何倍も力強く手を振った。
 タロッテはロードの首に抱きついた。

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「無茶しないで下さいよ!」
「もとを正せばお前が悪いんだろうが!」
 タロッテを庇って川に落ちた人物は“ディア”と名乗った。そのディアを追いかけ、川に飛び込んだ人物はセイだった。
 二人はいま、ロードの屋敷に招かれて暖炉の前に並んでいた。寒そうに毛布を体に巻いている。引き上げられたときディアには意識がなくて、必死で呼びかけていたセイの顔が忘れられない。とても大切な人なんだろうなと思うのに、肩を並べた二人は怒鳴りあっている。
 タロッテは二人を観察しながら飲み物を運んだ。気付いたセイが直ぐに微笑みを向ける。続いて気付いたディアも、笑顔で礼を告げる。お礼を言わなければいけないのはこちらなのに。
「お前らは相変わらずなのか?」
「それこそこっちの台詞だね。この童顔男が」
 入ってきたロードに容赦ない言葉が浴びせられた。常々ロードが気にしていたことだ。
 タロッテは哀れに思って父を見上げた。
「だいたいな。私を置いて出かけようとするからそんな目にあうんだ」
 ディアは憤然と鼻を鳴らす。
 実際に酷い目にあったのはディアなのでは、と思うタロッテだが答えは誰からも返らない。ディアは飲み物を一気に飲み干してカップを少し乱暴に戻した。噛み付くように怒鳴るディアの隣で、セイはあいまいな微笑みを浮かべる。
「いつも置いていかれるばかりでしたので、少し仕返ししようと思っただけですのに」
「なにが仕返しだ。朝起きていきなりお前が消えてたときの私の気持ちも考えろ」
 タロッテは笑みを零した。結局ディアは置いていかれたのが嫌だったのだと、子どものような理由におかしくなる。小さく声を上げてくすくすと笑うと周囲の視線がタロッテに注がれた。
「でもディア。体は大事ありませんの?」
 少し離れた椅子に腰掛けていたリンが口を開いた。
「お腹の子に負担はかからなかった?」
 ロードばかりか、セイまでもが目を丸くしてディアを見た。
 注目を浴びたディアは舌打ちしてリンを睨み付ける。その頬は微かに赤い。
「誰にも言ってないのになんで分かるんだよ」
「あら。人生の先輩ですもの」
 にこりと微笑むリンにディアは顔をしかめる。そして唖然とする周囲を眺める。
「え、ディア……お腹の子って……」
「そうなのかディア!?」
 詰め寄られたディアは鬱陶しそうに「ああ」と頷いた。
「それって、え、あの、私との……?」
「それは私に対する侮辱かセイ!?」
 怒鳴りつけられたセイは慌ててかぶりを振る。そして呆然としながらディアを見つめる。両手を胸の前に組み、その瞳が感極まったように潤み、そして彼が口を開いたとき。
「そうかぁディア。おめでとう!」
 ロードがディアに抱きついた。と思う間もなくセイによって引き剥がされた。
 タロッテは一瞬、見てはいけないものを見てしまったような気がして、幻覚よね? と瞳を瞬かせる。
「で。肝心のお前からは何かないのか?」
 ディアはセイを覗き込むように近づいた。その顔はどこか期待するように綻んでいる。挑戦的にセイを見つめ、唇に笑みを刻む。
 セイはロードを投げ捨てると泣き笑いのような表情となり、ディアを抱きしめた。
「凄く――嬉しい」
 抱きつかれたディアは慌てたが、その台詞を聞いて大人しくなる。セイを抱き返して微笑を浮かべる。
 見ていたタロッテは嬉しくなって微笑んだ。
 ディアの微笑みは、抱きしめているセイには見えていないだろう。それでも伝わっているかのように二人の雰囲気が優しい。タロッテはその笑顔をセイに見せてあげればいいのにと思わないでもなかったが、それでもセイが幸せそうなので良いことにする。
 隣でロードが面白くなさそうに唇を尖らせていたが、タロッテはすっかり陶酔するような瞳で二人を眺めて誓った。
「いつか大きくなったら、こんな幸せそうな二人みたいになろう」
 それを聞いたロードは複雑な顔をしたのだが、タロッテの目には入っていなかった。


 END

 オマケ