来し方行く末 番外編 =残滓=

 手拭を無造作に洗面器へ投げ入れたディアは重たい溜息をついた。
 視線の先にはセイがいる。熱で苦しみ、色白の頬を紅潮させている。先ほどは自力で着替えをしていたが、それだけで体力は削られてしまったようだ。額に大粒の汗をかいている。もう少ししたら再び着替えさせなければいけないだろう。
「よくよく風邪引く奴だよな……」
 ディアは容態を観察しながら呟いた。
 風邪ならばディアも引いたことはあるが、セイの頻度には敵わない。彼は1年に数度、大きな風邪を患って寝込む羽目になるのだ。
 風邪とは雰囲気がたおやかな者を好むのだろうか。
 ディアはぼんやりと思考を巡らせた。
「……ディア」
「何? セイ」
 それまで瞼を閉じていたセイがディアを見上げていた。
 ディアは伸ばされた手を掴んで寝台に身を乗り出す。まだ高熱のようだ。掴んだ手も熱い。ディアの眉が寄せられる。新しい濡れ手拭をセイの額に当てて汗を拭う。
 少しは楽になるだろうか。
 潤んだ紫紺がそっと閉じられた。セイは何かを囁くように口を開いたが聞こえない。そのまま彼は眠りに落ちる。ディアは握り込んだ手をそのままに、セイが眠ったことを確認すると腰を落とした。空いていたもう片方の手でセイの手を包むようにする。
 背後で扉が開く気配がしたが、ディアは振り返りもしなかった。
「失礼します、奥様。そろそろ奥様もお休みになって下さい。旦那様は私たちがお世話いたしますよ」
「――いや。いいよ」
 時刻は夜中を回っていた。
 寝室に入ってきた使用人たちに、ディアは少しだけ振り返ってかぶりを振った。心配する彼女たちの心遣いは有難いが、セイのいない場所で休むつもりはない。この寝台はディアの物でもある。それに、握り締められた手を振り解くことはできない。
「慣れてない他の部屋使うのも面倒だ。私はもともと頑丈にできてるし、一晩くらい風邪引きと一緒にいても死にはしないさ」
「素直に旦那様が心配だからと仰って下さい」
「うるさいな!」
 侍従頭を務める女性に呆れられてディアは顔を赤らめた。不機嫌に怒鳴る。
「いいからお前らはもう休め!」
 ディアに睨まれた使用人たちは戸惑う視線を交わし合ってセイを窺う。やがて諦めの溜息と共に、彼女たちは笑顔を見せた。
「では……旦那様。奥様をお頼みしますね」
「あ?」
 深々と礼をして去る彼女たちに、ディアは顔をしかめて眉を寄せた。同時に、背後で動く気配がしたことに気付き、複雑な面持ちで振り返る。先ほどの怒鳴り声が覚醒を促したのか、端整な顔立ちを辛そうに歪め、セイが起き上がろうとしているところだった。
「わ、悪い。響いたか?」
「……少し」
 セイは体を起こすと額に手をあて、乗せられたままだった手拭を外した。ディアは慌ててそれを受け取る。面倒で、少し離れたところにある洗面器に投げ入れた。セイの視線はその行方を追って苦笑する。
「起き上がって平気なのか?」
「先ほどよりはよほど」
 それでもセイの声は普段よりも淡々としていて低い。感情の変化にも乏しい。夕食を摂っていないこともあって、体力低下は顕著らしい。明日もそんな状態が続くようなら体はさらに弱るだろう。
「もう夜も遅いんだから、黙って寝てろよ。私がそばにいてやるから」
 滅多に使われない言葉だ。今ばかりは隠すこともせず、ディアは本心から告げる。セイは睫毛を震わせて嬉しそうに微笑んだ。風邪を引いたときにだけ受けられる恩恵だ。さすがのディアも、病人相手に暴れるようなことはしない。
「ディアに先に眠っていただきませんと、安心して眠れませんよ」
「何が」
「明日になれば熱は引いていると思いますし。私の看病でディアが熱出したりしたら、本末転倒です。私は先ほどより大分楽になりましたし、ディアは」
「病人が何の心配してやがる。さっさと寝ろ」
 セイは喉を押さえて辛そうにしていたが、それでもディアの心配をして喋り続ける。
 ディアは顔をしかめて遮った。彼の額に手を当ててそのまま押し倒す。彼の体が寝台の上で弾むくらい、結構な勢いをつけて。
 ――押し倒されたセイが苦しげに咳き込んだ。
「私の心配してる余裕があるなら熱下げに回せ!」
 ディアは指を突きつける。据わった目で睨みつけた。セイは無理をしたせいで先ほどより苦しげにしている。抗議の視線が向けられたが、ディアは鼻を鳴らした。
「……ディア」
「うるさい。苦しむのが嫌ならさっさと治せ」
 弱っている今ならいつもの力も出ないだろう。
 ディアは不機嫌な表情のまま彼の額を押さえつけた。
 セイは反論する素振りを見せたが結局なにもできず、そのまま深い溜息をついて瞼を閉じた。冷たいディアの手は不快ではないはずだ。
「――では、私が眠ったらディアも、眠って下さいね。ちゃんと、暖かい場所で、寝台に入って……」
 言う間にもセイが眠りに落ちていくのが分かる。ディアは苦笑しながら頷いた。額に張り付いた金髪を払うと寝息が聞こえてくる。
 相変わらずどれほど近くで見ても鑑賞に値する美麗な顔。熱も手伝ってか妙な色気まで感じてしまう。色づいた頬に手を当てると結構な熱が伝わってきて、ディアは表情を改めた。
 セイを掴む手に力を込める。
「早く、治れよ」
 セイの手を自分の額に押し当て、祈るように瞳を閉じる。
 屋敷の外を駆ける風が強く聞こえて落ち着かない。セイからの言葉はなにもない。手の平から伝わる温もりだけが今縋れる全て。
 母国を離れて久しい。もう追われるようなこともない。それなのに、植えつけられた恐怖と絶望はまだ拭いきれていないらしい。もしかしたら身にかけられた呪いが残っているのかもしれない、とディアは後ろ向きな考えを巡らせる。本来なら自分が受ける苦しみをセイに与えてしまっているのかもしれない。自分には守護魔法がかけられているから、一番近くにいるセイに呪いが降りかかっているのかもしれない。
 そんな不安を打ち明けたら、きっと彼は全力で否定するだろう。そして、自分が風邪を引くのが悪いのだと考えてしまう。これまで以上にディアを気遣うだろう。それはディアの望むところではない。だから、この不安は決して打ち明けられない。一度根付いてしまった恐ろしさは、未だ深いところで燻っているというのに。
「――セイ」
 ディアは栗色に濡れた瞳を開いた。
 セイはまだ苦しげな呼吸を繰り返している。
 呪いがセイに降りかかるのが嫌なら側を離れればいい。簡単な図式だ。しかし、それはできない。
 セイの寝顔を見つめ、繋ぐ手に力を込めながら、ディアはそっと口付けを落とした。


 END