第一章 【一】



 直ぐに帰ってくるよ――お前が待つこの場所へ。


 微笑んだのは誰に向けてか。
 貴方は既に、ここにはいない。



 追われていた。
 城を囲む森に飛び込み、全力で走った。
 ――失敗した、失敗した、失敗した。
 獣道を走りながら、ひたすら自分を罵った。
 行く手を遮る蔦を素早く切り落とす。敵に逃走経路を知らせるだけだが構っている余裕はない。どちらにしろ泥道のせいで足跡は残っているのだから、筒抜けであることに変わりはない。捕まる前に安全圏まで行けばやり過ごせる。時間との勝負だ。
 泥が跳ねた足元はずいぶんと汚れたが、気にしている余裕もない。
 いつの間にか、胸元で宝珠が元気に飛び跳ねていた。走るのに合わせて胸元から飛び出したのだろう。
 目に飛び込んで来た大きな樹木の影に飛び込んで背中をピッタリと幹につけた。静かに後ろを振り返る。視界にはまだ誰の姿も入らない。耳を澄ませても自分の呼吸音が聞こえるだけで、誰かの気配は感じない。
 夜空には満月が輝いてるはずだが、横に伸びた枝や葉に遮られて、光はあまり届いていなかった。足跡を辿るのにも時間がかかるのだろう。
 全力疾走と焦燥感から、心臓が胸を突き破ってきそうなほど強く早く脈打っていた。胸に手を当てて宥める。被り物を取って、軽くかぶりを振る。
 肩口で切り揃えた紫の髪が、宝珠と同じきらめきを宿して揺れた。
 不意に襲われた眩暈。
 耐えるように瞳を閉ざして宝珠を握りしめる。背筋を伸ばし、呼吸を整える。
 それから数秒後。
 開いた瞳に疲労はなかった。呼吸音も正常に戻る。胸の鼓動も落ち着いた。
 驚くほど早い回復だが驚かない。
 宝珠を服の中に再び戻し、その上から被り物を首に巻いた。もう出てこないだろう。
「思い知ればいいのだわ」
 小さな呟き。頭上を仰ぐ。
「逃げることなんてできないって」
 声には言葉ほどの棘がない。
 先ほどまで強く闇を睨んでいた瞳はまるで泣き出しそうだった。
 視線を前に戻し、大きく深呼吸した。


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 李苑は部室の照明を落とすと鍵を掛けた。
 鍵のプレートには『剣道場』の文字。無造作に引き抜いて踵を返す。
「李苑先輩! また明日ねー!」
 顔を上げると遠くに後輩たちの姿が目に入った。彼女たちのいる玄関ホールはまだ明るい。李苑は唇を緩ませて大きく手を振る。
「気を付けて帰ってねー!」
「はーい!」
 李苑と同じように大きく手を振った彼女たちは足早に下駄箱へ向かう。その後ろ姿を見守って微笑ましく笑う李苑だが、ふと物寂しさを覚えて笑顔を消した。挙げていた手を降ろす。廊下の照明が落ちていたから玄関ホールの明るさに寂寞を覚えたのだろうか。足元に視線を落としてそんなことを考えた。
 ふと窓に視線を向けると自分の姿がはっきりと映っていた。いつもより疲れて見える。練習に身を入れ過ぎたのだろうか。それは仕方のないことだ。一年の中で一番大きな大会が迫っているのだから。
 部室を振り返って時計を確認し、すっかり遅くなったことに眉を寄せた。
 この地域は武闘派極道の天野組の勢力圏にあるため、何かと騒ぎが絶えなかった。天野組が一般人を相手にすることはまずないのだが、関東随一と呼ばれる彼らを倒そうとする者たちが後を絶たず、一般人の生活など考えない彼らのおかげで治安が悪い。ひとたび抗争が始まれば警察が出動し、学校側も集団下校や午前授業などの必要に迫られる。迷惑な話だった。
 腕に自信のある李苑は1人で帰ることに抵抗がなかった。それに、天野組の抗争に時間帯は関係ない。巻き込まれるときは巻き込まれるのだと考えている。李苑が時間を気にするのは、一緒に暮らしている親戚が過剰な心配をしてくるからだ。つい最近も怪我をしたばかりなので、彼らの心配が高まっているのは分かっているが、李苑にとっては重荷だった。それでもあまり強く反抗できない。李苑が留守の間、亡き両親が遺した道場の経営をお願いしているからだ。
 師範を務めているのは李苑だが、未成年という理由で親戚が後見人について経営を行っている。大会が近付いている今、道場を留守にする時間が増え、彼らの負担が増える。これ以上の心労は増やせない。
 早く帰ろう、と足早に歩き出した。その途中で再び窓を見る。窓に映る自分を通り越して外を見る。色づき始めた紅葉や銀杏が豊かな枝を広げている。
 どうやら今夜は満月らしい。大きな月が夜空を飾っているのが見えた。夜道は明るいはずだ。
 どこかで狼男の遠吠えが聞こえたりしないかな、と半分本気で李苑は思う。
 下級生からは“頼りになる先輩”や“身近に感じられる先輩”として親しまれている李苑だが、実体を知る同級生たちからは“要注意人物”として見られている。本人は事実を知らない。知っても気にしないのが李苑だ。
 視線を玄関に向け直して少しだけため息をつく。
「でも本当にまた怪我したら困るんだよね」
 前回の大会は、部長である李苑が棄権したせいで士気が上がらず、大敗を喫したと言ってもいい。今回また棄権する羽目になったら、今度こそ部員たちから縊り殺されそうだ。三年生たちは既に引退。自分たちだけで乗り越えないといけない。
「とは言っても……響希から離れるわけにもいかないし……」
 他ならぬ響希が聞いたら『頼んでない』と本気で嫌な顔をするだろう。しかし李苑は怯まない。そのような反応は日常茶飯事だ。
「私がドジ踏まなければ問題ないんだけどさ」
 結局はそこに辿り着く。
「部活はもう終わり?」
 鍵を空中に投げて遊びながら職員室に向かう途中、前方から声をかけられた。よそ見をしていた李苑は視線を向けて笑顔になる。職員室前にいたのは友人の翠沙だった。大きく頷いてガッツポーズをしてみせる。
 翠沙は小さく笑った。華奢な体の彼女は決して大声で笑わない。口の端を緩めて優しげに笑うだけだ。今も、まるで母親のように暖かな笑みを浮かべている。
「翠沙も、生徒会は終わったの?」
 李苑と同じく高校二年生の翠沙だが、後期の生徒会長を務める切れ者だ。信任投票ではかなりの差をつけて就任したと噂で聞いた。
 彼女に抱えられている書類の束は来月の行事予定なのだろう。このような遅くまで良く働くものだ。いつもながら感心してしまう。
「待っててね。今、鍵返してくるから。一緒に帰ろ」
 翠沙の足元に鞄を投げ捨てると、李苑は返答を待たずに職員室に飛び込んだ。
 誰もいない。会議や部活で出払っているのだろう。もう少し経てば戻るはずだ。
 李苑はそれを確認すると鍵の保管庫に視線を移した。
 本来なら先生に鍵を返し、貸出帳簿に印鑑も押して貰わなければいけない。しかし待つ時間が惜しい。ためらうことなく保管庫を開けて鍵を返した。時計を確認して貸出帳簿に時間を書き込む。どの先生の物か分からないが、一番近くにあった机の引き出しを開けて印鑑を拝借し、帳簿に押すと元に戻した。素早く廊下に出る。
 ちなみに保管庫の暗証番号は前の部長から密かに教えてもらった。
「李苑……」
 呆れた、と翠沙の声がなじるが、李苑は意に介さず笑った。
「今日は特別よ。なんたって週末の金曜だし、満月だし!」
「それは理由になりません」
 翠沙はため息をつきながら額に手を当てた。呆れた、と思っているのだろう。笑っていると額を軽く小突かれ、書類を預けられた。
「この書類を山辺先生に届けてくれる? その間に私も部屋を閉めてくるわ」
「山辺先生って、どんな先生だっけ?」
 翠沙は再び苦笑した。山辺は三年の学年主任で生徒会の顧問でもある。翠沙と接点はあっても、李苑との接点はない。山辺が二年の校舎に顔を出すこともないため、部活以外では職員室に顔を出さない李苑の質問も分かる。
「そろそろ三年生にもなるのに」
「いいじゃん。関わりない先生の顔と名前まで一致させてらんないよ」
 李苑の脳には必要最低限の知識しか蓄積されないらしい。翠沙は笑う。
「サッカー部の顧問よ。まだ校庭にいると思うけど」
「ああ。あの体が四角い先生か!」
 一言付け足され、直ぐに分かった。両手を打ち鳴らす。翠沙は笑みを強めて頷いた。
「じゃあ外ね。行ってくる!」
 李苑は振り返りもせず元気に走り出した。
「廊下は危ないから走るなって、何度」
 そんな小言が聞こえた気がしたがあっという間に遠ざかった。