第一章 【二】

 昇降口は部活終わりの生徒たちで賑わっていた。
 人よりも一回り小さな体格の李苑は埋もれてしまい、かき分けながら外に出た。
 想像していたよりも寒い。
 冷たい秋風に抱きしめられて体を震わせる。書類を胸に抱えて空を見上げる。
「そろそろコートの季節だなー……」
 夜空には満月。電灯がなくても夜道を歩ける明るさだ。澄みきった夜空に魅了されて、ほんの少しだけ立ち尽くす。
「さて。さっさと帰ろ。山辺先生は、と……ああ、あれか?」
 少し離れた校庭に、生徒たちに囲まれる先生の姿を見つけた。他に先生らしき姿は見当たらない。彼が山辺先生だろう。一息に階段を駆け下り、サッカーボールで遊ぶ男子生徒たちの横をすり抜けた。
「山辺センセー!」
 解散してはいても、サッカー部員はまだ結構な数が残っていた。その群れに飛び込んで李苑は叫ぶ。全員が振り返ったが気にしない。怪訝な顔をする山辺に走り寄って、書類を差し出す。
「生徒会長からです。文化祭の部屋割りみたいですよ」
 ここに来るまでに覗いていた李苑は、渡しながらそう告げた。
 生徒会長、との言葉に山辺は「ああ」と納得した。書類を確かめて何度か頷く。そうしてから改めて李苑を見た。
「……榛原李苑?」
「正解!」
 少し悩み、疑問形で確認する山辺に、李苑も真剣な表情で親指を立てて返した。
 山辺が破顔する。
 李苑は高校では結構な有名人だ。
 剣道部の部長であることもそうだが、両親を亡くして残された道場の師範を務めていることと、取り巻く友人たちが常人とかけ離れた人物ばかりであること。それらが注目される理由だ。李苑に言わせればいい迷惑だった。
「サンキューな。部活はもう終わりか?」
「うん、期待してて! 次の大会じゃあ絶対に全国行ってやるんだから。私んとこ今、一年生たちが凄いんだよ!」
 李苑は両手を腰に当てて意気込んだ。
「気合入ってるな」
 書類で頭を撫でられ、頬を膨らませる。
「だって前の大会、怪我して出れなかったんだもん。はた迷惑な響希のせいだ」
 山辺の微笑みは崩れなかったが、頬の筋肉が引き攣った。視線を外していた李苑は気づかない。
「頑張れよ」
「おう!」
 李苑は元気よく頷いて踵を返す。校庭にはもう生徒たちもほとんど残っていなかった。好奇心から二人の会話を聞いていた生徒たちは慌てて歩き出す。李苑は気づいたけれど気にしなかった。いつものことだ。
「翠沙、もう鍵返してきたかな」
 再び階段を駆け上がり、昇降口まで一気に走る。玄関ホールに入ると暖かな空気に包まれた。ほんの少しだけ背中が汗ばむ。
 上履きを取り出しながら、李苑は響希の下駄箱を見た。
「あれ。響希、まだいるんじゃん」
 外はすっかり日が落ちたというのに、珍しいこともあるものだ。
 李苑は意外に思って目を瞠る。
 そういえば、と思い出した。部活に行く前の教室で、先生に呼び出しを受けていたように思う。また何かあったのだろうか。
「げ」
 背後から低いうなり声。まさにその声の主を考えていた李苑は眉を寄せながら振り返る。
「何よ、げ、って」
 想像していた通り、後ろには背の高い友人の姿があった。苦虫を噛み潰したような顔をしている。しかしそんな表情をすぐに払拭すると、もう何事もなかったかのように通り過ぎる。頭上で固く結い上げられた髪が背中に落ち、濡れ羽色に輝きながら揺れる。
 極めて高い身体能力を持った彼女には並の男が束になっても敵わない。李苑と同じく、一人で帰ることに不安を覚えるような性格ではない。何事も即断即決。時に冷酷とも言える態度のせいで近づく者も少ない。
 無視された李苑は唇を尖らせた。
「今から帰るんでしょ? そろそろ翠沙も来るから一緒に帰ろうよ」
「断る」
 即答だ。頬を膨らませた李苑は響希を睨んだが、視線の鋭さでは敵わない。そっぽを向いて「いいよ」と吐き捨てた。
「勝手に追いかけるから、そこで待っててよ」
「ふざけんな」
 靴を履いた響希は李苑を一瞥し、上履きを下駄箱に投げ込んだ。そのまま本当に立ち去ろうとする。李苑は慌てて彼女の腕をつかむ。
「いいじゃん。一緒に帰ろうよ」
「お前が一緒にいるとロクなことがねぇ」
 酷い断言だ、と思ったが直ぐに察した。
「担任に呼び出されたのって、もしかしてまた新しい抗争のこと?」
 響希は舌打ちした。李苑を見る。身長差が大きいため、自然と響希が見下すような格好となる。
「言っておくが、関わるなよ」
「心配してくれてるの? 大丈夫だよ。私は」
「夏の大会直前で怪我して俺に文句垂れてたのはお前だろう!」
 頭上で怒鳴りつけられて首をすくめる李苑だが、腕は放さない。
「やだなぁ。そんな昔の話」
「放せ。俺は一人で帰る」
 響希が力任せに引きはがそうとしたときだ。
「あら。今帰りなの、響希?」
 その場に割り込んだ穏やかな声に、響希は脱力した。
 最も苦手とし、強行できない人物の登場だ。下駄箱の影から翠沙が出てくる。
 翠沙は響希が何を思ったのか、正確に見抜いているような表情で笑った。
「――生徒会は終わったのか」
「ええ。先ほど、ね」
 翠沙は微笑みながら頷き、李苑に鞄を渡す。
「山辺先生には会えた?」
「うん。ちゃんと渡したよ」
「ありがとう」
「ううん」
 李苑は響希の腕を放して鞄を受け取った。翠沙が来れば、響希は大人しくなる。
「さぁ、帰りましょうか、響希」
 逃げ出す隙を窺っていた響希は、有無を言わせぬ声にうな垂れた。翠沙に勝てた試しがない。穏やかな微笑に、常に押し切られてしまう。
「俺は、一人で、帰るからな」
 無駄だと分かっていても響希は呟かずにいられなかった。
「またそんなこと言う!」
 李苑が頬を膨らませて怒る。そんな様を一瞥して響希は歩き出した。
「お前はともかく、翠沙がいる時に襲われたら危ないだろうが」
「あら。今回はどこの命知らず?」
 素早く靴を履きかえた翠沙が響希と肩を並べた。その反対側に李苑が並び、三人で横になる。響希はやはり押し切られたか、と肩を落とすのだった。
「ったく。だからさっさと帰ろうとしてたっていうのに、あの野郎」
 毒づく響希の脳裏には担任の姿が浮かんでいた。
 李苑は翠沙と顔を見合わせて肩を竦める。
「極道の看板娘も大変ね」
「その言い方はやめろ」
 全国的にも有名な天野組。響希は現在の組長の娘にあたる。いずれは継ぐことになるのだろう。彼女は学校一有名だった。
「ほらほら、満月!」
 李苑が嬉しげに指差す。
「あっそ」
 不機嫌極まりない声で無視をする。
「視界が利いて李苑もいれば、響希は無敵でしょう?」
 微笑む翠沙が心底憎らしくて睨みつけ、響希はため息を落とす。
「だから私は安心できるのよ」
 うそぶいた翠沙を、響希は軽く小突いて学生鞄を抱え直す。翠沙は悪戯っぽく微笑み、甘んじてその攻撃を受け入れた。響希が人を遠ざけるのは巻き込まないため。そこに踏み込めるのは李苑と翠沙だけだ。
「李苑がいるだけで俺の気苦労が増えるんだよ」
「え? 響希、呼んだ?」
「呼んでねぇ」
「金星発見!」
「ああそうかよ」
 李苑の相手をしていると果てなく疲れていく。
 響希はガシガシと頭を掻いて、ふと違和感に気付いた。首の後ろがチリチリと焼けるような感覚。覚えがあった。いつになく空気が緊張している。どこからか殺気を感じた。
 響希は表情を変えず、何気なくを装いながら、前を進む李苑を見た。浮かれた調子で歩く様子は変わらないが、彼女の背中も緊張していることが分かる。思わず笑みが零れる。
 笑われたことに気づいたのか、李苑が振り返る。少しだけ頬を膨らませている。それでも、その眼差しには確かな信頼がある。
「普段の行いが悪いんだもん、響希ってば」
「そりゃ光栄だ。退屈しなくて済むからな」
 二人は鞄を肩から外して手に持ち替えた。
 何気ない二人の様子に気づいた翠沙も、第三者の気配は分からないものの緊張していた。相変わらず穏やかな笑みを湛えたまま、口を挟まずに歩き続ける。
 誰も、何も喋らなくなった。
 通りに面した家からテレビの音が漏れることもない。
 静かな夜だ。
 三人が橋に差し掛かろうとしたとき、空気が動いた。
 このまま何もせずにいるなら良し、こちらからも動かない。けれど敵はそれを破ったのだ。
 沈黙の中で音がする。
 攻撃に移ろうとする衣擦れの音。力を込めたことによる呼吸音の乱れ。
 本当はそんな音など聞こえない。けれど長年の経験からか、第六感とも呼べる何かが二人を動かした。聞こえない音を拾い上げた。この音を聞くことができるから、二人は無事に生き延びて来た。
 李苑と響希は同時に動く。
 この場合、事前打ち合わせなどある訳がない。しかしあらかじめ役割分担が決められていたかのようにためらいなく動いた。
 狙われている響希は翠沙を抱きかかえて橋の手すりを飛び越え、下の河原へと落ちる。戦力外として予想されているだろう李苑は、袋に入ったままの竹刀をつかんで標的に向けて走り出す。鞄はその辺に投げ捨てた。
 一瞬後に、発砲音が響き渡った。