第一章 【三】

 銃弾が抉ったのはアスファルト。
 標的に逃げられた襲撃者は舌打ちする。
 最も成功率が高いと言われる闇討ちだが、標的が“彼女”であれば失敗するのも頷ける。その場でいかに冷静に対処できるかが力量だ。
 そう腹をくくる男だが、標的が橋を飛び降りて確認できなくなり、目標と共にいた少女が敢然と立ち向かってきたときには驚愕した。最初からこちらの気配を読み取っていたからこそできる行動だ。よもや気づかれていたとは思わなかった。
 男は少女に照準を定めようとしてためらった。
 勇敢なのか無謀なのか。向かってくるのは一般人だ。標的の学友であることは調べて分かっている。標的が学校を出たときから尾行していたが、見ていた限り、彼女はごくごく普通の女子学生だった。同業者ではない。
 撃てば彼女は死ぬ。一般人を巻き込んだならば風評が飛び交う。組の看板に迷惑がかかる。しかし彼女を排除しない限り標的には近づけない。ためらっていれば、いずれ出てくる標的にこちらの命が危うくなる。
 男は決意を固めた。そこに至るまでの逡巡こそが命運を分けたのだと、まだ気付いていない。互いの顔立ちが分かるほどに距離は縮まっていた。
 先ほどまで浮かべていたあどけない笑顔は塗りかえられている。強い眼差しに気圧される。不意に、標的の眼差しと重なった。どこにも似ている要素はないと思えたのに、彼女は標的の身内だったのだろうか。そんな憶測は男の背筋を凍らせるに充分な威力を持っていた。
 たまらず引き金を引いた瞬間、少女は消えた。完全に動揺していた。目を瞠る。漂う硝煙に、不発ではないことを確信する。銃弾を避けられる人間がいるとは思えない。けれど少女の死体は見当たらない。
 動揺していると視界の端に動く影を見つけた。反射的に銃口を向ける。消えていた標的が橋に上がってきているところだった。
 男は少女のことを努めて忘れ、当初の目的を遂行しようとする。脳裏に浮かんだのは標的の父親。抗争中の相手だ。娘が死んだとなれば動揺も狙えるだろう。
 娘に護衛をつけない自分を恨むんだな、と男は勝利を確信しながら笑みを浮かべる。その直後、意識が暗転した。


 :::::::::::::::


 李苑は男の頭上にいた。指の動きに注視していれば、発砲と同時に飛びあがることは造作もない。銃弾を避け、空中で体勢を立て直しながら竹刀を構えた。頭頂部を狙ったが途中で気が変わる。
 一撃で意識を奪わなければいけない。
 ダメージが滑りやすい頭頂部は避けた方がいい。
 そう思い、李苑は狙いを首の後ろに定め、力いっぱい竹刀を振るったのだ。
「もー……」
 目論見は見事に成功した。男は気絶し、誰にも被害はない。もちろん李苑も無傷だ。男が最初に放った銃弾は道路に埋まっただけで、跳弾はしなかった。
 しかし李苑は不満顔だ。
「自分ばっかり楽して! ずるいじゃん!」
 地面に降り立った李苑は怒鳴りつける。もちろん、響希に向かってだ。
 響希は李苑の不満をあっさりと聞き流して携帯を取り出した。一緒の下校を断ったのに、無理についてきたのは李苑だ。文句を言われる筋合いはないというのが彼女の言い分だろう。
 言葉にされない響希の胸中を正確に読み取った李苑は軽く嘆息する。だてに長く付き合ってきているわけではない。
「これ、どうしよっか」
 竹刀で指すのは気絶させた男だった。
 30代後半らしい男は白目を剥いて倒れている。あまり見つめたくない光景だ。
 李苑はすがるように響希を見たが、彼女はまだ携帯で会話を続けていた。後始末は任せる、との声が聞こえてきて肩を下ろす。
「んじゃ、こいつはこのままでいいのね? 加減はしたけど簡単には目を覚まさないはずだし……でもこんなところに転がってたら迷惑っぽいよね。ああ、電柱の影にでも隠しておこうか? 電柱あるエリアで良かったねぇ。じゃなきゃマンホール探さなきゃいけなくなってた」
 響希は呆れ顔で李苑を見た。しかし、そんな日常茶飯事にいつまでも気を取られることもない。直ぐに意識を切替えて李苑を促す。
「馬鹿なこと言ってないで行くぞ。俺はさっさとお前らから離れたい」
 投げ出していた荷物を抱えた響希は、肩越しに李苑を振り返った。
 置いていかれては大変、と慌てて駆け寄る李苑に翠沙が首を傾げる。
「怪我はない?」
「もちろんよ!」
 李苑は力いっぱい頷いて親指を立てた。翠沙が微笑む。
 翠沙は乱れた短髪を手で直し、道端に投げられた鞄を取ろうと身を屈める。
 その刹那、心臓が音を立てた。全身を駆ける悪寒に鳥肌が立つ。呼吸を止める。鞄を拾う格好のまま、翠沙は凍りついた。
「翠沙?」
 様子を訝り、李苑は覗き込もうとした。その耳に何かの声が聞こえた。空気を切裂くかのような、か細く鋭い、女性の声だ。覗き込もうとしたことも忘れて顔を上げる。
「だ、れ?」
 李苑は息を止めて双眸を瞠った。ピンと背筋を伸ばす。誰かの声は、頭上から降ってきたように思えた。
 煌々と輝く満月に重なって見えた、誰かの面影。
 失われた両親の顔にも、クラスメイトの顔にも、見知らぬ誰かの顔にも思えた。
「おい?」
 足早に去ろうとしていた響希は二人がついてこないことに気付いて振り返り、二人の異変に気がついた。異様な空気に駆け寄った。その途中、響希にも異変は訪れる。
 胸元が燃えるように熱くなった。足が重くなり、響希はその場に縫いとめられる。額に汗を浮かべて眉を寄せる。胸元で熱を発するものを、取り出した。
 それは母親の形見。黒曜石のような輝きを宿し、手の平に収まるほどの小さな裸石。普段は玲瓏としたきらめきを宿すだけの宝石が、今は触れることもためらわれるほどの高温を宿していた。響希の顔を映して鈍い光を放っている。
「何が」
 響希は困惑しながら形見を握り締める。手の平が痛みを訴えたが無視をする。李苑と翠沙に手を伸ばそうとして、衝撃が来た。
 視界が歪む。耳鳴りがする。体が重くなる。
 空気が響希の体を拘束したかのようだ。重力が何十倍にもなって圧し掛かる。それでも響希は倒れずに両足で踏みしめ、動けないまま前を見た。
 翠沙が地面に倒れた。乱れた短髪の間に苦悶の表情が見える。響希は焦ったが、その腕が彼女に触れることはない。もどかしい思いを抱えたまま視線を動かし、李苑を見た。彼女もまた、両耳を押さえて座り込んでいた。何かに耐えるように、瞼を固く閉じている。
 周囲は閑散とした住宅街。つい先ほど銃声が響いたというのに人々は外に出ようとしない。もしかしたら警察に連絡くらいはしているのかもしれないが、それも怪しい。天野組の縄張りであるこの付近では、今夜のような事件は珍しくなかった。
 けれど銃声の過ぎたこの事態は異常だった。それなのに、誰も騒ぎ立てる気配がない。もしかしたら翠沙たちと同じように、周囲の人々も家の中で倒れているのかもしれない。
 響希は鞄を投げ出した。渾身の力を込めて一歩を踏み出す。それが限界だった。
 踏みしめた地面が隆起を始めたように思え、平衡感覚を失った。何とか倒れずにいようと片足を前に突き出して抵抗したが、たまらず膝をつく。両手が地面に触れる。そのさなか、意識が闇に引き込まれようとするのを感じた。視界に帳がおりようとする。音が消え、耳鳴りがし、響希も双眸を固く閉ざして意識を手放した。


 冴え冴えとした月光が降り注ぐなか、どこかで扉が開く気配がする。
 おかえり、ただいま、見つけたよ、助けて、今行くよ、さぁ帰ろう。
 何千もの声が木霊する。
 倒れた三人の体は月明かりに溶けていく。
 目撃者は誰もいない。