第二章 【一】

 ひどい吐き気と眩暈。
 まるで遊園地のコーヒーカップに仰向けで倒れているかのよう。
 冷たい地面に体温を吸い取られている。指先の感覚がない。このまま立ち上がっても真横に倒れてしまいそうな気がした。
 体が震えたことに気づいた李苑は瞳を開けた。けれど何も映らない。夢うつつの状態で、ここはどこだろう、と自問する。先ほどまでの場所とはかけ離れた場所に来てしまったのだと、おぼろげに理解していたことが不思議だった。それが当たり前のような気もした。
 切なさが胸を占めている。大切な何かに繋がる夢を見ていた気がした。
 寝返りを打ち、冷えた体を温めるように手足を折った、その直後だ。
 直感的に危険を感じ取った李苑は意識を完全に取り戻した。体を転がして起き上がる。地面に片膝をついて顔を上げる。
 ダンッ、と目の前で地面が鳴った。
 李苑は瞠目する。
「ちっ、外した」
 今の今まで寝ていたその場所には響希がいた。足蹴にしようというつもりだったに違いない。地面を踏みしめる音はかなり強かった。
 李苑は全身の血を沸騰させた。
「きょーうーきー! なんてことするのさ、危ないじゃん! 私を潰すつもりっ?」
「まったくもって大正解」
 淡々とした答えに李苑は「うがーっ」と叫んだ。反撃、とばかりに響希の襟首をつかもうとしたが、簡単に避けられた。もともと身長差がかなりあるのだから仕方ない。そんなことはいつものことだ。李苑は気にしない。そして諦めない。避けられた直後、視界を過ぎった響希の髪をつかんで思い切り引いた。これならば李苑でも手が届く。何しろ響希の髪は頭の上で固く一つに結ばれていてもなお、腰まで届くほど長い髪なのだ。
 引っ張られた響希は舌打ちした。
「放せ!」
「先に仕掛けてきたのは響希じゃん!」
 振り払おうとした響希の蹴りが飛んでくる。予想していた李苑は跳びあがることでそれを避けた。
 思ったよりも高く跳んでしまった李苑はそんな自分に驚き、そして高い視点からの周囲に眉を寄せた。
「――森?」
 着地して呟いた。今度は意識して周囲を見渡す。
 緑の濃厚な匂いに相応しく生い茂る緑樹。その太い幹に巻きついた蔓や、地面に広がるあらゆる雑草は、李苑の瞳を輝かせた。モンゴル人かと揶揄されるほど良い視力を持つ彼女は夜目も利く。詳細までも見分けて感嘆する。圧倒されるほどの自然を見たのは初めてだった。東京にいたらまずお目にかかれない種類の風景だ。熱帯雨林にも似た植物たちが生い茂っている。
 李苑は怪訝に思うよりも感動した。
 事態に気付かないそんな李苑の後頭部に、響希の平手が炸裂した。
「きょーうーきーっ!」
 感動を壊された李苑はゆっくりと首を巡らせ、響希を睨みつけた。またしても喧嘩に突入である。
「二人とも」
 しかし今度は介入者がいた。ここまで大人しく成り行きを見守っていた翠沙だ。いつも穏やかな彼女だが、今は声に苛立ちが込められていた。
「そろそろ本題に入ってもいいかしら?」
 今しもつかみかかろうとしていた二人は大人しく両手を下ろして翠沙を見た。互いに向ける苛立ちは綺麗に消える。翠沙は魔法を使っているのではないかと、李苑は毎回思っていた。
 翠沙は寒いのか、自分で自分を抱き締めるようにして空を仰いでいた。その表情にはどこか焦りがある。眦は険しさを帯びていた。
 常と違う翠沙の様子にこそ不安を覚えた李苑は、同じように空を見上げてみた。生い茂った枝に阻まれて月明かりはほとんど届かない。もう少し開けた場所に行けば明るくなるだろうか。
「あれ、竹刀がない。ああっ、鞄も!」
 今更気づいて頭を抱える。
 そうしてからようやく、ここに至るまでの経過を思い出そうとする。眉を寄せて唇を引き結ぶ。脳裏に刻まれた満月の姿が毒々しく色づいて思い起こされた。
「……どこまでが夢……かなぁ……?」
「俺を見たって何も出ねぇ」
 助けを求めるような視線に、響希は腕組みをしたまま視線を逸らす。李苑はそのまま翠沙に視線を移したが、彼女からも返答はない。翠沙は相変わらず怯えるような表情で頭上を仰いでいた。この異常事態が信じられないのだろう。仕方なく李苑は自分で考えることにする。
「橋……に、いたんだよね。響希のせいで襲われて。倒して。銃があって。それから」
 さりげなく『響希のせい』を強調すると不機嫌に睨まれた。気にしない。
「まだ眩暈がしてるわ……」
「そうそう!」
 翠沙の呟きを拾い上げて両手を打ち鳴らせる。
「地面がグニャグニャしてて、地震かなと思って!」
 そこまでで追憶は途切れた。いくら頭をひねっても、この場所で寝転がっているまでの繋ぎを思い出せない。もう一度周囲を見渡した李苑だが、何も変わらない。
「私考えるの苦手なんだからさぁ」
「たまには使わないと腐るぞ」
「え、やだ」
 そんなやり取りはいつものこと。自分の頭を両手で押さえて顔を引きつらせる。響希は冷めた目で一瞥し、ため息をつく。先ほどから様子のおかしい翠沙の意識を引き戻す。
「とりあえずここから動く。ここがどこにしろ、無人ってわけでもないだろう」
 李苑と翠沙に異論はない。二人は黙って頷き、先に進む響希の後につく。
 けれど、どちらに進めば人に出会えるかも分からないのだ。
 四方のどこを見ても建物がない。
 舗装された道も見当たらない。
 先ほどまで倒れていた場所は、何の変哲もないただの大地だった。
 茂みを越えて木々を迂回していると、自分が真っ直ぐ進めているのかも分からなくなる。どれほど進もうと、景色は一向に変わらない。
 早々に飽きた李苑は、聞こえ出した虫の声に耳を澄ませた。けれど探そうと足を向けるとすかさず響希に襟首をつかまれる。危うく迷子になりかけた自分を自覚し、そのときは反省するのだが、次に興味を惹かれるのもがあれば再び同じ行動を繰り返す。
「お前は、なぁ……」
 響希の睨みを受けて肩をすくめる。
「だぁって、飽きた」
「少しは黙ってろ」
 容赦なく切り捨てられた。
 再び前を進む響希の背中に舌を出してみせる。見る者は誰もいない。
 ふと李苑は横を歩く翠沙を振り返った。彼女の表情は相変わらず晴れない。もっとも、このような異常事態の中で緊張しない方がおかしいのだ。李苑は小さくため息をついて首を傾げた。
 緊張することにすら飽きてしまった。命の危険に直接晒されているわけでもない。そうであるならば、李苑は自分の興味を優先させたい性格だった。いくら考えても分からないことに頭を使うのは苦手である。
「ていうか鞄もない私たちってさ、食べるものなかったら餓死決定よね」
「黙れ李苑」
 即座に低く返された命令に眉を寄せた李苑だが、直ぐにその意味に気づいた。
 響希の視線は振り返らない。歩みが止まり、何かを警戒するかのように背中が緊張している。
 遠くから微かに聞こえた、人の気配。
 走っているのか、茂みを揺らす音が近づいてくるのは早い。
 李苑と翠沙は顔を見合わせて表情を明るくした。早速声を張り上げようとしたが、響希に止められた。その鋭い制止に呻くこともできない。李苑は視線だけで響希に問いかけた。しかし響希は真剣な表情を崩さずに耳を澄まし続けている。
 見知らぬ土地で、武器を持たぬこと。その場で出会うのが味方だとは限らない。杞憂ならばいいが、楽観しすぎて命を失う真似はできない。
 響希は視線だけで李苑たちに意志を伝えると、方向を見定めた。人の気配はもう直ぐ側まで迫っている。緊張を上塗りする、鋭い誰何≪すいか≫の声を張り上げた。


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 ランルは紫の髪を撫でて拳を握りしめた。
 湿地帯は抜けたが、まだ地面は柔らかい。
 数日前に降った雨のせいだろう。地面のほとんどは乾いて固まっているが、乾ききっていない場所を走ると滑りそうになる。泥道よりも厄介だ。できる限り乾いた場所を見極めて通る。既に走ることは困難で、足早に通り抜けることしかできない。
 わが身の不運を嘆いても仕方なかった。先ほどよりも条件は良くなっているが、捕まれば、ここでも不利なことは明白だ。早々に安全圏まで行かなければ、すべてにつきまとってきた責任が鎌首をもたげるだろう。
 縦横無尽に走る根にも足を取られ、転びそうになりながらも、必死で前へ進む。表情には焦りが浮かんでいた。
 後ろを振り返り、誰の気配もしないことに胸を撫で下ろす。
 ランルは舌打ちした。
 過去を嘆いても現状が変わるわけではない。それでも思ってしまう。この国に来てしまったこと自体が失敗だった。もう少し部下を信頼して情報を待てば良かったのだ。もしくは、部下を派遣すれば良かったのだ。自分が動かなければいけない理由はないのだから。
 視界で飛び跳ねた蒼い宝珠に気づいて眉を寄せた。首に巻いていた布がいつの間にか解けている。結び直すのは億劫で、宝珠を握りしめる。
 実力行使で突破する――そんな言葉が脳裏をよぎる。しかし国政に関わる権限を持たない限り、独断での行動は裏切りだと判断されてもおかしくない。今回のことは内密に処理しなければならない。
 肩につくか否かのところで切り揃えられた、艶やかな紫の髪。全力疾走してきたために乱れてはいたが、人目を惹く美しさは損なわれていない。
 ランルにとって、この場は慣れない異国の地。それでも足取りが迷うことはない。方角は頭に入っている。
 あともう少しだ、と強く念じる。
 この領域から出てさえしまえば、あとは幾らでも力押しができる。世界はそのように作られている。
 手前に見えた大きな樹を左手側にして、下の茂みを飛び越えた。わずかに傾斜になっている場所を一息に下る。茂みが大きく揺れて音を立てた。
「そこから動くな! 誰だっ?」
 間近から聞こえた声にランルの心臓が跳ね上がった。
 火照った体が瞬時に冷えた。
 背中に回した手で、腰帯に差していた短刀を抜き放つ。まだ見えない敵の姿を捜して足を踏み出す。敵側からも姿は見えないはずだ。応援を呼ばれる前に仕留めなければいけない。
 脳裏に浮かんだのは師である男の姿だった。記憶と共に蘇った鮮やかな深紅に呼吸が落ち着く。失敗は許されない、と肩に入っていた力が抜けた。男の教えを何度も反芻する。失敗が許されないことには違いないが、先ほどまでランルの頭を支配していた焦燥が消えていた。応援を呼ばれても構わない。この場所での殺戮行為こそが敵の思う壺なのだと言い聞かせる。
 捕らわれた後のことまでが瞬く間に組みあがった。その中で最善の道を選ぶ。
「怪我をしたくなかったら」
 いつでも飛び出せるように溜めていた力を抜いたランルは、言いながら茂みを抜けた。そうして敵の姿を見出した途端――双眸を大きく瞠った。
 茂みの向こうにいたのは小柄な女性が二人。そして、背の高い女性が一人。
 捕まえに来た兵士とは思えない雰囲気だ。直ぐに捕まえに来る様子もなく、応援を呼ぶ様子もない。互いに牽制して睨み合っている。
 後ろ手に隠した短刀に思わず力が入った瞬間、相対する一人の瞳が細められた。
 来る――攻撃に転じるその一瞬、ランルは体に力を入れる。けれど。
「馬鹿響希!」
「てっ!?」
 今しも飛び出して来そうだった女性を止めたのは、背後で様子を窺っていた亜麻色の髪の少女だった。背後から蹴りを入れたように見えた。響希と呼ばれた女性は前のめりに転びかけ、寸でのところで体勢を立て直す。
「そんなだから敵が増えるのよ! もうちょっと接客業を学んだらどうなのっ?」
「学んでたまるか、役に立たん!」
「そうね!」
 思わずランルは脱力した。緊張感も何も、あったものではない。
 突如として言い争いを繰り広げる二人に短刀を下ろして口を開ける。
 見たことのない服装に不信感を覚えたのも確かだが、自分を追いかけて来た敵ではないと直感する。だからと言って敵ではないとは言い切れない。敢えて言うなら、新たに現れた第三の立場の者だろうか。
 交渉の材料に使えないかと考えを巡らせようとし、再び短刀に力を込める。
 賑やかな言い争いに加わらなかった小柄な女性が近づいてきていた。
 無防備に、何の敵意もなく。これほど近くに寄られるまで気配に気づかなかった自分に驚きながらランルは短刀を向ける。
「うわ、響希。そのままで大正解よ」
「知るか!」
「動かないで!」
 近づいてきた女性はあっけなく人質になった。彼女の首に短刀を突き付けながら、言い争っていた二人に視線を向ける。振り返った二人は人質の姿に目を瞠る。そして、最初に飛び出そうとしていた背の高い女性は見る間に危険な雰囲気を漂わせた。やはり警戒しなければいけないのは彼女だけのようだ。
 ランルはそう思いながら彼女を睨んだ。
「お前の直感をあてにしてたまるか」
 小さな呟きは亜麻色の髪の女性に向けられたもののようだ。意味が分からずにランルは眉を寄せる。しかし意味を理解する理由などないのだと思い直し、突き付けた短刀を二人に見せるようにしながら口を開く。
「黙って私を通しなさい。そうすれば危害を加えないわ」
 彼女の戦闘能力がどれほどのものか分からない。戦闘はできるだけ避けたい。こうしている合間にも本来の追手には距離を詰められているのだろう。
 それにしても不思議だ、と緊張する意識の裏で思う。短刀を突き付けた女性からは何の抵抗も怯えもない。そして黒髪の女性も、亜麻色の女性も、冷静に状況を見極めようとしているようだ。もしかしたらこの脅迫自体が無駄で、最初からただ話をしていれば問題なかったのではないかと思えて来た。今更だ。
 剣呑な眼差しが交錯する。沈黙が続くほどに緊張感は高まり、どちらが先に動いてもおかしくない。交渉の余地は、もうない。
 短刀を突き付けられた女性が小さく嘆息した。
 肩を竦める。わずかに剣先を首から外し、体を斜めにした。ランルと二人を結ぶ直線上に、自分の体が入り込まない程度の余裕を作った。
 ランルがその不自然な動きに気づき、間合いを詰めようとした瞬間と、彼女たちが動いたのは同時だった。
 合図は何もなかった。それでも、打ち合わせたかのようにタイミングを同じくして、二人は一足飛びにランルに近づいた。追いつけない早業にランルは驚愕して右足を引く。目の前に黒い瞳が迫ったと思った瞬間、右手首に強烈な痛みが走る。短刀を叩き落されたのだ。反対の手で短刀を拾おうとしたが、彼女が取り上げる方が早かった。転がった短刀を足で弾いて宙に投げる。
 しまった、と思った時にはもう遅い。
 いつの間にか人質に取っていた女性も遠くにいる。先ほどのタイミングでもう一人の女性が救出したのだろう。
「これで形勢逆転」
 不敵な笑み。手の中で短刀を回し、彼女はランルに切っ先を突き付けた。