第二章 【三】

 翠沙が走る方向に合わせて意識を切替えながら、李苑は前方に立ちはだかる敵を退けていった。もう何人退けたのか分からない。いくら潜在能力が高いと言っても、自分よりも体の大きな大人たちを相手にするのは辛い。技力が足りなくて力任せに投げ飛ばした男もいた。限界を超えた大きな力に、体の節々が悲鳴を上げている。
 李苑は意識を周囲に向けたまま、視線を響希たちに向けた。先ほど響希がランルを助けた様子を、しっかりと感じていた。そのことが単純に嬉しい。他人のことはどうでもいいと断言している響希がランルを見捨てなかった。その事実が李苑の頬を緩ませる。
 李苑は再び視線を前に向けた。響希たちとは距離が離れているため、残念ながら会話は聞こえてこない。耳を傾ける余裕もない。
 李苑は新たに立ちはだかった兵らしき男を見て、拳を握り締めた。
 他の者たちより幾分若い兵士だった。体つきも甘く、他の兵に比べてひとまわり小さい。男は素早い突きを繰り出してくる。
 李苑は紙一重で剣をよけ、彼の懐に飛び込んだ。間近で視線が絡むと罪悪感が湧き上がる。間近で見た男の顔は、予想外に若かった。一言「ごめん」とだけ呟く。
 李苑は男の懐で体を反転させた。剣を持つ男の手首を下からつかみ、同時に両足で強く踏みしめる。振り解かれる前に男の腕と手首をつかみ、決して逃げられないようにした。そして、背負い投げする。李苑ひとりの力では足りないが、男の勢いを足せば容易だ。投げ飛ばす寸前に剣を拾い上げると、懐から突進してきた別の男の剣を受け止めた。
「剣さえあれば負ける気なんて全然しないもんね! なくても負けるつもりないけどさ!」
 李苑は受け止めついでに、剣を交差させたまま相手の懐に飛び込んだ。剣の柄尻で男の手首を打つ。目論み通りとはいかず、男は剣を取り落とさない。しかしつかむ力は緩んだようだ。李苑は素早く二度目の攻撃を仕掛け、男の剣を弾いた。
「響希に恩を売っておくのも悪くないしね」
 弾いた剣が高く上がる。回りながら落ちてくる剣を、李苑は跳躍してつかんだ。空中で体を反転させると響希に剣を投げる。
「響希!」
 声が響希に届く前に、剣は響希目掛けて飛んでいく。ともすれば危険な賭けだ。しかし響希は即座に反応して剣をつかみ取った。その表情が不機嫌そうに歪んだのは、李苑の見間違いではない。李苑は思わず笑みを零す。だがその笑みが崩れるのは早かった。周囲の敵に隙を作り過ぎていたようで、追いついた兵士が李苑を狙っていた。冷静に体勢を立て直そうとした李苑だが、どこかで間に合わないとも感じてしまう。戦慄のまま剣を振るおうとした瞬間、目の前を鮮血が舞った。
 ――李苑に剣を振りかぶった男はその体勢のまま剣を取り落とした。
 李苑は瞳を細める。彼の手首には、どこかで見たことのある小刀が突き立っていた。響希が緊急時用に忍ばせている小刀だ。
 そんな理解を一瞬で終えると、苦痛に顔を歪めた男の額に、柄尻で一撃を加える。男は意識を失って昏倒した。
 李苑は翠沙を振り返って息をつく。彼女は無傷だ。そのことに安堵したが、彼女の背後から新たな兵士が走り出てくるのを見つけ、悲鳴を上げた。
「もう疲れたんですけど!」
 竹刀よりも重たい剣は、腕の負担が大きい。
 それでも、傍観していれば翠沙に危害が及ぶ。李苑は走り出そうとしたが、響希が追いついてきたことを知ると、翠沙の手を取った。この場は彼女に任せた方がいい。楽ができるところでは楽がしたい、と思いながら、李苑は先へと走り出した。


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 翠沙は周囲で倒れていく男たちを見ながら瞳を曇らせた。
 李苑たちは致命傷がないよう剣を振るっているようだが、どうしようもない強い敵の前には手加減ができない。直ぐに手当てをしなければ失われてしまう命もあるようだった。けれど、彼らに治療を施している余裕などない。なぜ自分たちが逃げなければいけないのか、そこに疑問が辿り着くが、ここで立ち止まってその疑問を彼らに投げるわけにはいかないだろう。
 このような戦いは李苑たちの本意でもないはずだ。それでも翠沙を守ろうとする彼女たちの気持ちに、申し訳なさを覚える。斬られた者の痛みが胸に響く。
 荒い呼吸を繰り返しながらひたすら走り続けた翠沙は、周囲から徐々に兵士の姿が消えていくことに気付いていた。彼らの勢いは衰えないが、それでも確実に撃退できているようだ。彼らの減少は出口が近いことも示しているのだろうか。
 焦れる気持ちを抱えながら前方に目を凝らした矢先だ。翠沙の横で応戦していた李苑が不意に転んだ。
「李苑っ?」
 これ幸いと、劣勢だった男が嬉々として剣を振り上げる。常なら直ぐに避ける李苑だが、疲れが限界に達しているのか動かなかった。
 翠沙は思わず飛び出して李苑にかぶさった。
 李苑の驚愕の表情と、響希の怒声が翠沙の胸を打つ。二人のどちらも絶対に間に合わないと知っていても、自分では体を張って守るしかできなくて唇を噛み締めた。
 迫る瞬間を覚悟して瞳を瞑った翠沙だが、来たる瞬間は永遠に訪れなかった。
 ランルが短剣に力を込めて振るい、男の剣を砕いたのだ。それから一瞬遅れて辿り着いた響希が剣を振るう。彼女の剣は男の鎧ごと腹部を貫通した。男は痛みに転げ回り、直ぐに力を失ってバタリと倒れた。そうして周囲は途端に静かになった。
「何をやっているっ?」
 響希の怒りに翠沙はうな垂れる。辺りは血の海と化していた。
「ごめん、響希」
 ようやく起き上がった李苑が肩で息をしながら謝った。どうやら草に隠れていた地面の窪みに足を取られていたようだ。響希はやり場のない怒りを示すように頭をかいて、足元の雑草を踏み潰す。
「将来禿げるよ?」
「言いたいことはそれだけかお前は!」
 やり場のない怒りは李苑に向けられた。響希は容赦なく彼女の尻を蹴り飛ばす。
「……諦めたのかしら?」
 響希たちを眺めていたランルはため息をついて窺った。警戒は解かないまま、短剣を元の鞘に戻す。
 累々と横たわる兵士たち。そのほとんどは気絶しているようだが、中には命がない者もいる。まだ周囲を囲んでいた兵士たちは、いつの間にか撤退していた。静寂が恐ろしいほど不気味だ。
 息を整えた四人は歩き出した。辺りを窺いながら慎重に進む。しかし、幾ら歩けど敵は出てこず、次第に緊張は緩んでくる。呼吸も平常へと戻ろうとしていた。
「こんなに深かったかしら?」
「え?」
 李苑がランルを振り返る。響希に蹴られたダメージはまだ引いていないのか、顔をしかめながら尻を手で押さえていた。因みに響希は不機嫌そうにそっぽを向いている。
 ランルは訝しげに眉を寄せながら顎に指を当てて首を傾げた。
「入ってきたときと距離が違う気がする。なぜ、まだ出口が見えてこないの?」
 ランルを振り返っていた翠沙は視線を前に転じた。彼女の言う通り、出口はなかなか見えてこない。深い闇が支配するばかりだ。
「方向は合ってるのか?」
「迷ってるって言いたいの?」
 ランルは唇を尖らせたが『絶対』と断言することはできなかった。
 沈黙が下りたことを幸いに、李苑が下唇を突き出しながら気力も萎えた声を上げる。
「てかここってどこなのさ。明らかに日本じゃないっぽいんですけど」
 独り言にも思える言葉を捉えた響希と翠沙は顔を見合わせた。李苑は気付かない。剣に付着した血を払い落とす。
「うわ、新品みたい」
 振っただけで落ちた血と、生まれ変わったかのような白銀の刃。
「ここはどこなんだ?」
 見惚れる李苑を横目にし、響希はランルに問いかけた。ランルは意味が分からないように首を傾げる。
「どこって?」
「日本じゃないんだろう?」
「にほん?」
 ランルは怪訝そうな表情をますます険しくさせた。間近でその瞳を見つめた響希は引こうとしたが、ランルは既に踏み込んでいた。逃げることを許さずに追及する。
「貴方たちはどこから来たというの? 城の関係者なのでしょう?」
「城?」
 その単語にだけピクリと反応した李苑は、剣を提げると振り返る。
「え、城って、え、どこに?」
「どこって」
 響希の呆れた視線も物ともせず、李苑はランルに詰め寄る。
 そんな李苑にランルは絶句した。
 雲行きは徐々に怪しくなる。しかし明らかにしておかなければ身動きも取れない。面倒な事態に響希は舌打ちを零した。ランルは李苑を宥めて響希を仰ぐ。
「貴方たちは、セフダニアの軍関係者ではないの?」
 年の頃は変わらないようだが、響希たちの戦闘能力は高い。そのためランルは響希たちを軍に関わる人間だと思っていたが、違うようだ。同じ思いで翠沙のことも、城に勤める研究員か何かだろうと思っていたが、話の流れではそれも違うということになる。
 ランルは当初に覚えた違和感を思い出しながら李苑たちを交互に眺めた。
「待って。勘違いをしているわ。ええと……」
 翠沙が慌ててランルに手を振る。名前を呼ぼうとし、自己紹介もしていないと気付く。そのことに李苑たちも気付き、どちらからともなく笑みを浮かべた。緊張が僅かに薄れ、李苑が先に口を開く。
「私、李苑。榛原李苑ね。こっちが響希で、翠沙」
「改めて、よろしく。日計翠沙です」
「……天野響希」
 ランルは三人を交互に見比べて名前を反芻した。
 李苑たちはランルを見つめて紹介を待ったが、なぜかランルはためらう素振りを見せた。少しの間だけ沈黙し、決意したのか口を開く。
「私はランル。ライール=ガラディア=サラン」
 翠沙が軽く瞳を瞬かせた。李苑や響希も同じだ。しかしその意味は、ランルの予想から大幅にずれた意味合いの驚きだった。
「明らかに日本じゃないねぇ、響希?」
「うるさい黙れ」
 李苑の表情が嬉しげに綻ぶ。対して響希は苦虫を噛み潰したかのように李苑から視線を逸らす。彼女たちのやり取りを聞いた翠沙は苦笑した。
 ランルもまた、彼女たちのやり取りを聞いて眉を寄せる。懸念は杞憂だと思い知った。それでも楽観はできない。警戒心を忘れないように努めようとした矢先、李苑が飛び跳ねるようにランルを振り返った。懸念など吹き飛ばしかねない明るさだ。
「ランルって呼べばいいわけね?」
「そう、ね……構わないけれど」
 本来なら親しい者たち限定の愛称だ。初対面の李苑に呼ばれると違和感を伴うが、ランルは承諾した。李苑の言葉には清々しいほど悪意がない。そんな彼女を否定する言葉は使いたくない、というのが本音だ。
 ランルはまじまじと三人を観察した。身分と名前は直結しているため、ランルは名前と同時に身分も明かしていることになる。しかし李苑たちにそのような事情が分かるわけもなく、ただ、とんでもない場所に迷い込んでしまったことを朧気に感じるだけで、ランルの探る瞳にも気付かない。ランルには分からない単語がその場で飛び交う。
 驚きを期待していたわけじゃないけれど、とランルは微かなため息を落とした。殊更に驚かれて騒がれるよりはいいのかもしれないと思い直す。けれど李苑たちの自然体がどうにも引っ掛かって訝りは消えない。明かしたのは早計だったろうかと、和気藹々と――しているのは主に李苑だけだったが、ランルはそう思った。釈然としない気持ちだ。
 李苑が再び元気にランルを振り返る――と同時に響希が李苑を押しのけて前に出た。これ以上李苑に勝手をされると自分が話せないと思ったのだろう。正しい選択だった。響希の影に隠された李苑は盛大に抗議の声を上げたが相手にされない。翠沙が苦笑しながら彼女を宥めた。
「それで、ランル? 結局お前は誰で、ここは何で、俺たちは一体何だ」
「……はい?」
 ランルの顔が強張った。李苑の瞳が楽しげにきらめく。
「響希、その聞き方変! 私より変! 普通、そんなこと聞かないよ、うわー」
「うるさい、お前は黙れ!」
 自覚があった響希は苦々しく吐き捨てて李苑を殴った。誰が見ても八つ当たりにしか見えない。
「大丈夫?」
 痛みに頭を抱えた李苑に翠沙の声がかけられたが、翠沙は堪えきれないように微笑んでいた。李苑は情けない声で唸りながら翠沙を睨む。
 李苑を黙らせた響希は改めてランルに向き直った。
「それでランル! 何なんだ?」
 ランルは強張った表情はそのままに、視線をさまよわせてどのように問うべきなのか言葉に悩んだ。様々な言葉が浮かんでくる。どれもが相応しくないと眉を寄せる。これまでで最大級の困惑を浮かべて李苑たちを見つめる。
「貴方たち、誰?」
 こちらもまた妙な問いかけだった。自己紹介は済んだはずなのに『誰』とは。
「自己紹介はしただろう」
「そうじゃなくて!」
 言いたいことが伝わらない。
 ランルは声を荒げて言葉を詰まらせた。同時に、彼女たちからの問いかけも同じ意味なのだと悟った。言い表す言葉が分からない。こんなことは初めてだ。ランルは迷うように視線をさまよわせて宝石を握り締めた。
「私は名前を明かしたわ」
 慎重に言葉を選ぶ。響希たちも真剣に耳を傾ける。その様子からランルは、戸惑う意識とはまた別の意識で、彼女たちは敵ではないと確信する。敵ならば言葉による戸惑いなど覚えない。
 ランルは紫紺の瞳で三人を交互に眺めた。
 響希たちの表情が次第に変化していくのを見ながら、ランルは一呼吸置いて、問いかけた。
「貴方たちは、どんな“世界”からここへ来たの?」
 三人の目が大きく見開かれた。
「……なんでいきなりそこまで話が飛躍するんだ。単に誘拐されて来たのかもしれないだろ。お前が知らない文化圏から」
 響希はまるで憎い仇にでも向けるような目をランルに向けた。逆に顔を輝かせたのは李苑だ。大きな瞳でランルを見つめる。両手を胸元で組んで、笑顔になる。
「異世界! ファンタジー! 私そういうの大好きよ!」
 飛びあがろうとした李苑の頭部に響希の拳が見事に決まった。
 ランルはため息をつく。
「ならば貴方たちがこの世界の者ではないという証拠を見せるわ。それで私は納得できる」
 ランルは首から提げた宝石を取り出した。手の平に包み込める大きさだ。全員の注目を受けて、宝石は小さく光る。
「サファイア?」
 李苑の言葉にランルは瞳を伏せた。
「貴方たちにはこれが何か分からない。それこそが証拠。この世界に住む者なら誰もが知っているこれは、宝珠」
 ランルはそこで翠沙に視線を向けた。彼女は示された宝珠を食い入るように見つめ、何事かを思案している。
「私でなければどこの田舎者だと笑い飛ばすところだけどね」
 ランルは苦笑しながら続けた。
「伝承でしかないけど、太古に滅びたジャンタークには、異世界に通じる門が開いたこともあると聞いているし……実際にどんなところなのかは分からないけど、私は信じるわ。これが本当に記憶喪失なら話は簡単でしょうけどね。現実離れしすぎた話だわ」
「俺としては、さっきのお前の力の方が現実離れしてるんだがな」
 響希は最初の戸惑いから抜けたのか不機嫌に告げた。ランルは再び苦笑する。
「そうね。宝珠を知らない者からすれば、現実離れしているのかもしれない」
 ランルは宝石に視線を落とす。
 李苑は食い入るように、翠沙は既に落ち着いた静かな瞳で、響希は胡乱に。それぞれ違った眼差しを宝石に向ける。
「こちらの世界にも数個しかない、力の結晶よ。この宝珠から力を引き出して使うことができるの」
「綺麗」
 李苑がぽつりと感想を洩らした。宝珠の放つ淡い光が李苑の瞳に映りこみ、不思議な色を宿す。
 誰も、何も喋らない。
 次にどんな行動を取ったら良いのか分からない。
 しばらく宝石を眺めていた李苑が、ふと響希を振り返った。
「いま思ったんだけどさ。これって、いつも響希が持ってる形見に似てない?」
 李苑は宝珠を指して告げた。響希は渋面のまま頷く。李苑に言われずとも酷似には気づいていた、と表情が告げていた。響希は腕組みをしたまま動かなかったが、ランルや翠沙から凝視されると、面倒そうに腕を解いた。そして、懐のお守り袋に入れられた宝石を取り出した。いつも肌身離さず持っている、母親の形見だ。
 現れたのは黒水晶。
 ランルが持つ宝珠と同じように、それは皆の注目を浴びると一度だけ光を宿した。
 ランルが息を呑む。
「それ! 貴方、でも……」
 ランルは勢い込んで何を言おうとしたのか、言葉を濁した。響希が見せた宝石を凝視したまま言葉を失っている。響希は宝石を懐に戻した。
「母の形見なんだ」
 静かな呟きは冷淡に突き放す声音だったが、宝石を戻す手付きは優しいものだ。
 ランルは何と声をかけるべきか思い悩む。この世界の常識が通用しない相手にかける言葉など、考えたこともない。
 そんなとき、翠沙が蒼白な顔で口を手で覆った。
「李苑」
「……うん」
 翠沙は近くにいた李苑へ縋るように手を伸ばした。その頃には李苑の表情も険しくなり、視線が森へ向かっていた。体を折るようにした翠沙の腕をつかんで支える。
 二人の様子に気付いた響希が声をかけようとしたとき、彼女もまた気づいた。
「なんだ。この匂い」
 響希も口を手で覆う。
 甘い、を通り越した匂いだった。砂糖をどろどろに煮詰めたようだ。頭の芯が痺れを訴えるような――吐き気を催す匂いだった。
 他に気を取られていたランルが気付いたのは最後だった。我に返り、匂いが充満していることに息を呑む。その意味を知っていたランルは自分の迂闊さに舌打ちする。
「逃げなくては!」
「え?」
 ランルは突然走り出した。
 その後ろ姿を呆気にとられて三人は見送ったが、慌てて追いかける。前方でランルが振り返り、早くしなさいと怒鳴りつける。
 体力が奪われていくような匂いのなかを、数歩走ったときだ。
 常軌を失って狂ったような凄まじい咆哮が、背後から響いた。