第二章 【四】

 1つだけ響いた咆哮に身を竦ませたのも束の間、四方八方からも咆哮が上がった。森の支配者が最初に上げた咆哮に、森の住民たちが応えたかのようだ。
 明らかに人間のものではない咆哮。森全体が震えていた。空気が凄まじい緊張感を伝えてくる。
 獰猛な獣。あるいは、闇に潜んだ底知らぬ魔物か。
 ランルを除いた全員が身を竦ませた。“宝珠”という得体の知れない力を見せられた後では、何が出てきても不思議ではないと思う。
「……なんだ?」
 闇に遮られた視界では窺うことができない。目を凝らしても同じことだ。状況が把握できず、響希は苛立って舌打ちする。
「ランル。今のって何?」
 李苑がランルに問いかけた。全力疾走しながらの問いかけだ。李苑の声は悲鳴のように放たれた。
「セフダニアの宝珠よ!」
 先頭を走るランルもまた悲鳴のように返す。
「あいつが発動させたんだわ!」
「そんな説明で分かってたまるか!」
 李苑は眉間の皺を深めて声を荒げる。けれどランルからの説明はない。余裕がないのだろう。この先に何が待ち受けているのか、把握できているのはランルだけ。この森にも何か仕掛けがしてあったに違いない、と歯噛みする。
「もう……!」
 どこまで馬鹿にすれば気が済むのかと、悔しくて涙が出てくる。
 ランルは奥歯を噛み締めて涙を堪える。
 何も知らない背後の3人をみすみす死なせるわけにはいかない。ランルにできることは、この場から彼女たちを遠ざけることぐらいだ。
「気持ち悪い」
 やがて、走っていた李苑が耐え切れないようにうめいた。
 走りながら振り返ったランルは、口許に手を当てて青褪める李苑を見る。僅かに速度を緩めるが、止まるわけにはいかない。李苑もそれは分かっているようで、何とか走り続けている。隣を走る翠沙が気遣わしげに李苑の様子を確認した。翠沙の顔色も相応に悪い。
 充満する匂いは濃度を増していた。周囲が濁った空気に包まれている。まるで匂いに色でもついているようだ。
 匂いの根源が間近に迫っている。
 何が起こるのか知らなくても、直感で危険を悟っていた響希は緊張する。
 全員が目撃者となった。
「最っ悪」
 とうとう全員が足を止めた。
 深い森の奥から現れた異形の者。ついに姿を見せた、匂いの根源。それらに誰もが嫌悪の眼差しを向けた。吐き捨てるように呟いた李苑に、誰もが心の中だけで激しく同意する。
 音を立てて垂れ落ちる腐敗した肉体。焼け焦げたように爛れた皮膚は色を変え、悪臭を放っている。目玉も溶けて滴り、口は苦しげに開かれていたが原形を留めていない。唇は剥がれて変色し、喉仏まで垂れ下がっていた。
「……日本にいたら環境問題で揉めそうな人だよね」
「言うべきことはそれだけか」
 気分の悪さも押して呟いた李苑の一言にはツッコミが入った。
「じゃあ……不謹慎だけど、戦争の被害者?」
「それなら同感だ」
 響希が剣を構えて頷いた。
 三人の脳裏には、学校で見せられた戦争関係のアニメ映像が蘇っていた。しかし現実はアニメを凌駕する。心配して駆け寄るよりも、立ち尽くすしかできない。足が動かない。目を逸らせない。どうすれば助けられるのか、思いつかない。
「すでに人ではないわ。宝珠によって作りかえられた、生ける人形よ。意志も持たずに操られるだけの存在」
 説明というよりも、自分に言い聞かせているかのような口調でランルは話した。
 剣を一閃させてランルが切り込む。何の手ごたえも感じないほど柔らかく、容易く切裂かれる。大きな肉片がボトリと落ちた。
 李苑は意識が遠のいた。
「そんなこと言われましてもですね、ランルさん」
 何の動揺か。李苑は剣を抱くように握り締めながら、緩慢な動作で迫るゾンビもどきを嫌そうに眺めた。いくら人間ではないと言っても、この光景は胸に来る。先ほどまでは生きた人間相手だったから手加減ができたが、こちらは手加減もできない。斬ったらすぐに崩れてしまうのだ。このままでも生きてはいないと頭で分かっていたが、体が拒否をする。見ているだけでも痛々しい。傷つけるなど恐ろしい。
 ためらう李苑の横を、響希が駆け抜けた。
「どんなに嫌がったって、ここでこいつらに殺られるわけにはいかないだろ」
 ためらわずに響希は剣を振るった。嫌な音を立てて、剣は肉を切断する。
 李苑はその様子を見ながら唇を引き結んだ。
 ――響希は間近に人の死を多く見てきたから。極道の娘だから。だから何とも思わず平気な顔をしていられるのだ。
 そんなことを考えそうになってかぶりを振る。
 いくら人の死を多く見てきたからといって、平気になるような響希ではない。そんなことを思ってしまいそうになった自分を嫌悪する。
「でも、だって……こんなの、何か嫌だ!」
「生きてる人間よりはやりやすいだろ。ただの化け物と考えろ」
 響希の言葉に李苑は俯いた。
 どれほどいるのだろう。彼らは森の闇から続々と出没している。途切れる気配がない。
 彼らが先ほどの兵たちと同じ鎧をつけていると知り、李苑は震える声で尋ねた。
「私たちが気絶させた兵たち……?」
「ええ。恐らくはね」
「何でっ?」
 ランルは李苑を振り返った。
 短剣では飛び散った肉が直接肌に付着するだろうに、ランルはその手を休めない。首を狙っただけでは、生ける屍は動き続ける。両足を切断するか、一突きで頭を落とすしか止める手段はない。
「捕まえる……という意志はあるだろうけど、面白がっているだけね。こんな悪趣味な宝珠の使い方……!」
 ランルは眦を険しくさせて、目の前に広がる屍の群れを見た。そんな彼女の言葉に、李苑は更に泣きそうな表情となって拳を固める。
「面白がって……?」
「ここの王には理由なんて必要ないの。スイサ、走りなさい!」
「でもランル。ここは閉じられているのでしょう?」
「開くわ! 絶対になんとかする」
 翠沙は頷き、ランルが切り開いた道を走った。李苑の横を通り過ぎるときに彼女の背中を叩いて微笑む。
「行きましょう、李苑。それで、ここの王って人に殴りかかるのよね」
 そんな励ましの言葉に李苑は剣を構える。とてつもなく嫌な気分だ。匂いのせいもあるが、それよりも、こんな化け物を人間から造り出したという相手に、嫌悪感を抱く。
 李苑は翠沙の微笑みを見つめてゆっくりと頷いた。
「絶対に、ね」
「ええ」


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 剣を振るい、人の形をした化け物たちを屠るたびに、響希は心が冷えていくのを感じていた。
 ――いまさら。李苑でもあるまいし。
 胸中でそう呟いて剣を一閃させる。腐った匂いが一段と強くなり、腐敗した肉が地面に落ちる。あまりの醜さに響希は顔を歪めた。
 李苑は翠沙を守りながら遥か前方を走っている。屍相手に剣を振る様子は嫌々だったが、その剣にはもう迷いが見られない。そんな姿に苦笑する。彼女たちを見失わないよう追いかける。
 追いすがろうと手を伸ばしてきた屍の腕を、回し蹴りで一掃する。
 爛れた肉は、人体に有害そうな悪臭を放ちながら地面に落ちる。落ちた地面は音を立てて、やや溶けた。塩酸と似たような成分なのだろうか。こんな物が肌に触れたらとんでもないなと感じた。実際、飛び散った肉が手の甲に付着し、そこはヒリヒリと痛みを訴えていた。
「唯一の救いは動きが機敏じゃないってことか」
 響希は向かってきた一体の額に剣を突き立てて蹴り倒す。剣についた肉片を振るい落とす。
「気分、悪ぃ……!」
 吐き捨てたとき、背後にいたランルから清涼な空気が流れてきたような気がして振り返った。
 宝珠と呼ばれる宝石を両の手に閉じ込め、胸元で祈るように抱き締めるランルの姿があった。両手に閉じ込められた宝石は光を放っている。指の隙間から零れる青光が徐々に濃さを増していくのが分かる。ランル自身がまるで光を放っているかのように、青い光に包まれた。
「直線で浄化するわ。リオン、スイサ、避けて」
 小さな呟きが、遥か前方の2人に届くはずがない。
 ランルの視線が一瞬だけ響希に向けられた。その視線は集中を高めるため直ぐに瞼の裏に隠されたが、響希は迷わず指示を飛ばした。
「李苑! 避けろ!」
 響希の怒号に反応した李苑はそのまま翠沙を突き飛ばすようにして、その場から大きく外れた。反射的とも言える反応だ。
 次の刹那、ランルから蒼い巨大な光が放たれた。李苑がいた場所を突き抜ける。非常に細かい、蒼い粒子の集まりが遠くへ離れていく。粒子はまるで蛍が舞い踊るかのように屍たちに降り注いだ。その光に触れた屍たちは、光の分子へと分解されて消えていく。
 ランルから放たれた光は一条の矢となって、闇を裂いて森の奥に溶けた。
 光の軌道上から危うく逃れた李苑は目を丸くしていた。李苑の下敷きになった翠沙は顔をしかめながら起き上がろうとする。
「臥せて!」
 ランルの怒号と共に、光が溶けた森の彼方で再び光が爆発した。
「うわ」
 眩しさに思わず瞼を閉じ、顔を背ける李苑と翠沙。
 響希は腕をかざして瞳を細め、変わり映えしなかった森の景色が微かに歪むのを見た。平衡感覚がなくなり、その場に片膝をつく。
 光が静まったあとの森は出口を示していた。外からの光を招き入れている。
「成功……」
 疲れたように呟いたランルの前方で。
「李苑!」
 切羽詰ったように翠沙の声が響く。
 響希が慌てて視線を向けると、先ほどの光で浄化されなかった一体の屍が李苑の首を絞めていた。
「やめて!」
 翠沙は屍が身につけている鎧に両手をつく。押し返そうとするが、彼女の力では敵わない。手の平に鋭い痛みが走る。けれども翠沙は構わず、李苑から引き剥がそうと、細い腕を振るった。
「李苑、翠沙!」
 響希は素早く駆け寄った。李苑をつかみ上げる屍の両手を切り落とす。
 ランルは先ほどの件で疲れているのか、顔は上げるものの動けず、地面に座り込んでいた。
 響希は屍の両手を切り落とした勢いのまま、屍の胴体を薙いだ。
 支えを失った李苑が地面に落ちる。しかし意識を失っているのか、反応がない。
「李苑!」
 響希が呼びかけても無反応だ。
 李苑を仰向けに転がした響希は瞳を瞠った。細い首には、つかまれたと思われる痕が残っている。焼け爛れているようだ。草を焦がした肉塊を思い出して唇を噛み締める。こればかりは自分ではどうしようもない。
「くそ!」
 李苑の首は抉れ、喉骨が見えそうなほどだ。
「李苑……」
 拳を握り締めた響希の肩を軽く押し、前に出たのは翠沙だった。
 翠沙は悲愴な表情のまま李苑の具合を観察し、その首に両手を翳した。その手は淡い光を帯びている。そのことに気付き、響希は翠沙を睨んだ。
「無理するな! お前だって怪我してるだろうっ?」
「李苑は死なせないわ。私なら大丈夫よ、響希」
 手の平に負った痛みを微塵も感じさせない笑顔で響希を黙らせる。
 そして翠沙は集中した。
 幼い頃から自然に身についていた“癒し”の力。他者とは違うこの力のせいで苦い思いをしたこともあるが、今このときにおいて、この力は必要だった。李苑の苦しみを和らげることができる。
 翠沙は、翳した手から何かが李苑に流れていくのを感じた。それに呼応するように李苑の怪我がゆっくりと癒されていく。
 翠沙は力の放出に眩暈を感じたが、終わるまでは倒れない、と強く胸に刻んで集中する。
 響希が見守る前で李苑は完全に治った。
 そのことに翠沙は安堵して脱力する。倒れかける前に響希が支えた。
「ありがとう」
「自分の怪我も治しとけ。ランル。そっちも大丈夫か?」
 少し離れた場所に座り込んで俯いていたランルの顔が上がる。その唇に、微かな笑みが宿る。
「もう出口よ。やっとここから去れる」
 視界の端で、李苑が寝返りを打った。
 響希が見下ろすと、先ほどとは打って変わって幸せそうな寝顔がある。その顔に腹が立った。響希は座りながら、李苑に踵落としを仕掛けた。
 李苑の腹に命中するはずのそれは素晴らしい彼女の本能によって避けられた。
「っの、響希ー!」
 起き上がるなり、険しい表情で響希に迫る李苑。普段と変わらぬその様子に響希は眉を寄せ、うるさい、と睨みつけた。
「いつまでも寝ぼけているな」
「あれ、ランル? 翠沙? あ、もしかして出口?」
 ころころと興味対象を変える李苑に響希はため息をつき、翠沙は微笑んだ。
 3人から離れた場所で、ランルは闇が晴れた空を見上げながら体力回復に努めていた。
 ――異界からの闖入者。セフダニアの変貌。宝珠の崩壊。
 どこを取っても頭の痛いことばかりだ。目先だけを見れば終わりだが、これからが本当に大切なことになる。
「サウスの、ばーか……」
 滲んだ視界に気付いたランルは慌てて拭った。勢いよく立ち上がる。眩暈に襲われたが、何でもないフリを装って響希たちに向き直った。
 そして、ふと気付く。
 先ほど浄化した屍たちは最低限の数だったはずだが、いつの間にか、光を受けていない屍たちも消えていた。
「これも、得意のお遊びだというの……!」
 ランルは煮えたぎる怒りのまま吐き捨てた。
 意識すれば分かる、監視の視線。なんて鬱陶しいのだろうか。
 足取りも乱暴に響希たちのもとへ向かう。
 翠沙に手を差し伸べると、彼女は不思議そうにランルの手を取った。ランルは宝珠の力を少しだけ引き出して翠沙に注ぐ。ランルの両手から蒼い光が溢れ、直ぐに消える。翠沙が目を丸くした。
「あ……ありがとう」
 翠沙が手の平に負っていた痛みは綺麗に消えていた。
「行きましょう。この森を抜ければ我が国の領土、ガラディアだわ」
 もちろん3人に否はない。ようやく肩の力を抜けると喜び、ランルの後を追いかけた。