第三章 【一】

 森を抜けた先には広い川があった。まるで海かと見紛うほど広大な川は、対岸が霞んで見える。
 四人はその場で足を止めた。
「うわぁ……」
 感嘆するのは李苑だ。
 落ちないよう気をつけながら川の側までにじり寄り、恐る恐る覗き込んでみる。
 蒼く澄んだ水は川底まで見通せそうな雰囲気であったが、実際に覗き込めば何も見えなかった。白い飛沫が邪魔をする。
 轟音に近い音を立てて流れる川に、流石に手を伸ばすことは無かった。
「音楽の教科書に載ってたモルダウみたいだよね」
「見たことも無いくせに」
「こういうのは雰囲気が大事!」
 両手を胸で組み、瞳を輝かせた李苑はうっとりと呟いた。直後に響希に鼻で笑われて唇を尖らせる。振り向きざま指を突きつける。
 先程まで緊張状態にあったことが嘘のようだった。
 まさか忘れた訳ではなかろうに、李苑から悲愴さは伝わらない。持ち前の明るさが全てを払拭していた。
 変わらぬ李苑に、響希と翠沙は互いに顔を見合わせて軽く笑った。
 これだけ大きな川の側は気分が良くて、翠沙は小さく伸びをする。李苑もそれにならって大きく伸びをしたが、響希に後ろ襟を掴まれて悲鳴を上げた。
「何するのよ」
「落ちるつもりか」
 響希はごくごく静かに李苑を睨む。彼女が先程までいた場所は本当に川べりで、少しでもバランスを崩せば落ちかねない場所だった。
 李苑は唇を尖らせたまま響希の手を解く。
 翠沙は二人の様子に笑いながらランルに視線を向けた。彼女はまだ警戒を解かぬように強張った表情で、周囲を確認している。
「ここを渡るつもりなの?」
 見渡す限りの大自然に、文明の利器は見当たらない。
 激流である為か、船も橋もない。
 翠沙が首を傾げるとランルが笑った。
「心配無用よ。ここからはもう、ガラディアの領内だからね」
 ランルは微笑んで足を踏み出した。一度だけ、森の中を確認するように振り返ると視線を戻す。呼吸を整えるように腹に力を入れる。
 ランルは先程、李苑が響希に引き剥がされた場所へ行くとしゃがみ込んだ。少し崖のようになっている場所から身を乗り出して右手を伸ばす。川へと飲み込まれそうなランルに響希は体を動かしかけたが、気付いたランルが振り返り、視線で制止するよう告げた。
 三人は黙ってランルの様子を見守る。
 ――ランルを受け入れた川は、その場所から穏やかな流れに変わろうとしていた。透明度を増して、緩やかな流れは更に速度を落とす。幾秒も経たずに流れが完全に止まった。川底が浮かび上がるように、水面に映し出された。
 響希は思わず上流を見たが異変はない。李苑と翠沙も、一体どういう原理になっているのかとランルの背中を凝視した。
 ランルはしばらく水温を楽しむような仕草をしていたが、やがて囁くように呟きを零した。
「私たちを向こうへ連れて行って」
 ランルの胸元で宝珠が光を放った。川は、ランルが触れていた場所から変貌を遂げた。
 水が重力に逆らって浮かび上がる。空へ舞う。まるで凝固剤を入れて、川の流れをそのまま持ち上げたようだ。水が空へ離れたお陰で、水底は道を晒した。
「うっわー……」
 李苑は口を開けて空を見た。響希も見惚れるほど幻想的な超常現象が、そこにあった。
 川の流れは空へ移された途端に復活したようだ。流れが細かな光を反射して虹を作り出している。
「水のトンネルだ」
 丁度人が通れる分だけの水底を晒し、一緒に持ち上げられた水は既に戻されていた。流れはせき止められることなく、不自然な盛り上がりを見せて流れ続ける。
 ランルは呆けている三人を横目に、素早く水底へ飛び降りた。
「ランル!」
 水底までは結構な距離がある。
 駆け寄った三人だが、視線の先にはしっかりと自分の足で立ち上がるランルの姿があって胸を撫で下ろした。
 水の気配を全て空へと舞わせた水底は、石や苔などで足を取られることもない普通の地面に思えた。ランルが降り立つ前に、まるで誰かが綺麗に掃除をしていったかのようだ。
「生活感がない水底!」
「そんなものがあってたまるか」
 ランルを追いかけて李苑も飛び降りる。およそ三階ほどの高さがあったが、李苑には何の負荷もかからない。ランルが宝珠で援護したのだろう。
 水底の様子を叫んだ李苑は、次いで翠沙と共に飛び降りた響希の下敷きとなった。
「あ、歩き難いっていうのが物語の定番……っ」
「喧しい」
 飛び降りた瞬間は不安な様子を見せていた翠沙だが、無事に着地できると笑顔を見せた。周囲の水に反射した光が翠沙の髪に映りこみ、キラキラと揺れていた。
「さぁ早く。私の側にいないと、水は直ぐに貴方たちを襲うわよ」
 李苑の抗議を封じ込めてランルは歩き出した。どういう意味なのか深くまでは分からなかった李苑たちであったが、ひとまず従っておいた方が無難だろうと、慌てて追いかけた。
「……凄ぇな」
 響希は横を流れる水を手で掻いて、肩を竦めた。隣では翠沙も感嘆して頷く。
「綺麗ね。見て、満月」
 翠沙が見上げる先には、水に揺れる満月があった。水を通すと形が正確に掴みづらいが、それでも綺麗で幻想的な光が注ぎ込んでいた。月光は七色に煌いている。それに伴って小さな虹があちこちで揺れていた。
 最後尾を努めていた李苑は言葉にならない喚きを口の中で小さく呟き続け、落ち着きなく周囲を観察していた。ふと後ろを振り返って絶叫した。
「見てみてよ、後ろ!」
 李苑の絶叫に何事かと振り返った響希は目を瞠った。李苑が指差す先では川が落下していた。水のトンネルが徐々に崩れ出して、元通りに流れ始めている所だった。
 李苑が一歩進むとその距離だけ川も流れ始める。たった今歩いた場所が川に埋もれ、自分には水が襲い掛からないという、その現象が面白くて李苑は後ろ向きに歩き始めた。
 その後を想像するのは容易い。
「……おい」
 響希が低い声で声を掛けようとした瞬間だ。
 珍しいもの見たさで後ろ向きに歩いていた李苑が、背中から川に突っ込んだ。
「んの馬鹿!」
 目を剥いた響希は慌てて駆け寄る。声もなく、流されかけた李苑を掴んで素早く引き戻す。水に濡れて重くなった李苑を容赦なく投げ捨てる。
 李苑は情けない顔で唸った。
 最初こそ驚いていたランルと翠沙は、李苑が心配ないと知ると安堵して笑い出した。李苑は更に憮然と唇を尖らせる。
「気をつけてね。誤って流されたりしないよう普段は表面加工してあるのだけど、今は特殊だから、さっきみたいに側面から入った場合は簡単に流されてしまうわ。この川はどこにも繋がっていないから、もし流されでもしたら延々と回り続ける事になるわよ」
「は?」
 情けない顔でジャージを絞っていた李苑は眉を寄せた。
「この川はね、他国の侵入を防ぐ為の結界となっているの。宝珠で造った、ね。ガラディアを囲むように一周してるのよ。勿論、増水を防ぐ為に生活水として利用したり、分岐させて国中を通らせたりはしているけれどね」
 李苑は視線を頭上に固定した。
 坂道を登る川、というのも不思議ではない。そんな李苑の思考を読んだのか、響希は直後に溜息を落とした。

 :::::::::::::::

 水底を歩き出してからしばらく経った頃だ。
 霞むように見えてきた対岸に、響希は絶句した。
「対岸ね」
 翠沙はあくまで微笑んだ。
 恐らく川の流れに削られて出来上がったであろう、ねずみ返しの崖。反り返ったそれは登る事などできやしない。
「これ、登らなきゃいけないのか?」
 自分の背など遥かに超える高さに、響希は最初からやる気を削がれてランルを振り返った。腕組みをしていた李苑が横槍を入れる。
「響希、飛べ! それで上から私たちを引き上げ――」
「できてたまるか!」
 響希の怒声とともに李苑は蹴られた。その勢いで危うく川に突っ込みかけたが、側にいた翠沙に抱きつく事で危険は回避できた。
「ちょっと位置がずれたわね」
 一連のやり取りも珍しくはなくなってきたらしい。ランルは淡々と目の前の崖を見上げて呟いた。
 声に反してランルの横顔はちっとも困っているようには見えない。しばらく唸っていたが、やがて「ああそうだ」と響希を振り返った。
「ねぇキョウキ。宝珠を持っていたわよね」
 響希は黙ったままランルを見返した。片眉を上げて不愉快を示すがランルは気にしない。
「もしあれが本当に宝珠なら、それを手に出来る貴方は宝珠の主だということになるわ」
 ランルの瞳に真剣さを感じ取って、李苑は口を挟みたいのを堪えて響希を見た。
「主なら、宝珠の力を使えるはずよ。力を貸して頂戴。ここに階段を造るの」
「――そんなの知らない。これは母の形見だし、そんな力はない」
 ランルは食い下がった。
「いいえ、そんな筈ないわ。私、宝珠が本物か偽物かの区別くらいつくもの。それは間違いなく宝珠よ」
 響希は黙ったままランルを見返した。
 響希に取っては母の形見でしかありえず、付加価値を付けられたからと言って、どうにかなる訳ではない。ランルの言う事に瞳を輝かせるような感情は持ち合わせていない。
 代わりに瞳を輝かせて興味を湧かせたのは李苑であった。
「その宝珠って何なの? ランルの言い様じゃあ、すっごく大事な物みたいだけど」
 肝心の響希に無視されたランルは、戸惑いながら李苑に向き直った。
「宝珠は、この世界そのものを支える力よ。元々一つだったと言われているけど、その一つの力は今では色々と分かれて散ったとされているわ。……現在、確認できている宝珠は三つだけよ。だから」
「確かめてやってもいいぜ。くだらないがな」
 響希は唇に皮肉な笑みを刻んでランルに近づいた。
「くだらなくなんかないでしょう? 響希のお母さんのこと、何か分かるかもしれないじゃん」
 響希は李苑を睨みつけた。しかし睨まれた本人は肩を竦めただけで堪えない。
「私は反対だわ」
 李苑に続いて翠沙の声がとんだ。不愉快そうに、少しだけ低い声音で紡がれる。
「面白半分で確かめてみるような物じゃないでしょう、それは? 響希にとっては何よりも大切な物だもの」
 一呼吸置いて、翠沙はランルを見た。
「貴方はそれを確かめる為にわざとこちらの道を選んだの?」
 さして鋭くもなく、柔らかな物腰の翠沙にランルは気圧された。慌てて否定する。
「違うわよ。ここへ来てしまったのは本当に偶然! それでちょっと思いついただけよ」
「そう。ならいいけれど。響希も乗らないの」
「俺は本当に構わないんだがな」
「いえ、いいわ。確かに、私が軽率だった。ごめんなさい。行きましょう」
 ランルは強引に話を終わらせて踵を返した。その横顔は強張っており、もう意見を変える気などなさそうだった。
 響希は面白くなく肩を竦めて崖を見上げた。