第三章 【二】

 ――引き戻せない。
 響希は前を見据えながらそんな事を思っていた。
 ランルが開く路には退路がない。歩く側から道は塞がれ、決められた一つの道だけを歩き続ける。ランルは気紛れ一つで路を歪め、響希たちを水没させる事も可能だった。
 ――自分の命運が誰かの手に委ねられている。
 そう思うだけで響希は忌々しい思いを抑えられない。時間が経つに連れて、ランルの背中を見つめる視線も険しくなる。
 水流が深い唸り声を上げた。水壁の向こう側に見えぬ魔物でもいるかのように。
 翠沙が怯えたように小さく体を震わせた。気付いた響希は歩調を緩め、翠沙の直ぐ側に立つ。それだけで翠沙は安堵したように弱々しい笑みを見せた。
「少し、寒いだけ」
 強がる言葉に響希は苦笑を洩らす。だが翠沙の言葉には本音も含まれているようだ。白い顔が、今は寒さの為にか青白く見える。それに気付いた響希は歩きながら周囲を眺めた。路を絶えず流れる風が、水の冷気を纏っているのだろう。李苑を見ると相も変わらず楽しげにしていたが、やはり寒そうに腕を抱えている。最後尾である李苑の位置は、ちょうど風の吹溜りとなっているのだろう。
 響希がそう思った時だ。視界の隅でランルが振り返り、宝珠に触れた。途端に宝珠は光を発し、響希は思わず身構える。
 ――響希の懸念は杞憂に終わった。
 どうやらランルの耳にも背後の会話は届いていたようで、その対策の為だけに宝珠の力を使ったようだった。
 爽やかな音を奏でて頭上の水が払われる。風は、薄くなった水面目掛けて進むように調節されたようで、翠沙たちにはそよ風ほどしか届かなくなった。ゴボリと音を立てて水中に潜り込んだ風が、無数の気泡となって揺れ出した。月光は見る間に形を変える。幾重にも光の輪を作り出しながら外の空気に溶けていく。
 幻想的な光景。
 李苑が歓声を上げて両手を叩いた。
 無邪気な子どものように喜んだ李苑を見たランルは軽く笑った。翠沙も笑い、ランルと視線を合わせるとどちらからともなく微笑んだ。響希だけは呆れた視線を李苑に向ける。
 夜は徐々に更けていく。大きく存在を揺らめかせていた満月は、既に天頂高く昇りつめて、小さくも強い光を煌々と放っていた。それに伴い、水面で幾重にも弾けていた虹が、今ではそれほど大きな変化を見せなくなってしまう。崖の側では月光も届き難くなっている。
 李苑は残念そうな声を出して響希たちの側に走って来た。
「そう言えばランル。この川のこと、結界って言ってたけど、戦争でもしてるの?」
 パタパタと小さな足音を立ててランルの隣に並んだ李苑は、ランルの顔を覗き込むようにして疑問をぶつけた。
 川底は滑りやすいから気をつけてねと、言おうとしていたランルだったが杞憂と悟って苦笑する。そして何を言われているのか分からないように首を傾げ、少し考えてから「ああ」と声を上げた。
「そういう訳ではないのよ。この結界というのは……ある意味、観光名所ね」
「はい?」
 李苑だけではなかった。何とはなく二人の会話に耳を傾けていた翠沙と響希の声も重なった。ランルは三人を順に見渡して微笑み、前を向く。
「一種の牽制よ。普通ではありえない力を見せていれば、手出ししてくる輩は少ないでしょう? 宝珠国に戦争を仕掛ける馬鹿はそうそういないっていう話」
 ランルの横顔は川影に沈み、鋭利な輪郭だけが光に浮かんでいた。紫髪が鋭い光沢を煌かせる。
 李苑は小さく「ガラディア」と口の中だけで呟いた。
「宝珠は世界を支える力なの。保持している国が倒れれば、世界を支える力が一つ欠ける事になる。手に入れたいと望む事はあっても、共倒れを望む事はないでしょう」
 視線を投げた李苑にランルは告げた。しかしそれでも李苑の好奇心は尽きないらしく、ランルの言葉が終わると身を乗り出した。
「我が手に! って望む奴から攻撃受けたりしないの?」
 李苑の口振りにランルは吹き出した。けれどそれだけの意味ではない笑いに、李苑は首を傾げる。ランルは必死で笑いをおさめて頷いた。
「そ、そうね、いないわ。資格の無い者が持てば、宝珠は暴走するの。そして宝珠は人を見るの。管理者の血を継ぐ者以外が持てば、間違いなく暴走すると言われているわ。だから、常識を知ってる人は奪おうだなんてしないわよ」
 李苑は笑われた理由が分かって口を歪めた。世界の常識など分からない。
 そしてふと、気付いたように手を打って、笑顔を浮かべるとランルを見上げた。
「じゃあやっぱり、響希の持つ宝石が宝珠かもっていう期待は捨てた方がいいかもね。響希が殊勝に“暴走させないように”なーんて考えながら持ってる訳ないからね!」
 自信たっぷりに胸を張って笑う李苑に、背後から近づいた響希の制裁が加えられた。
「いちいち俺を引き合いに出すな!」
「えー。長らく会話に入れなくて、響希がこれ以上ぐれたら困るし」
「お前の価値観で人を決めるな!」
「人の好意を無にするのは人間として駄目な証拠よ響希!」
「上から目線で勝ち誇るな、余計に癪に障る!」
 どうあっても李苑と響希は喧嘩に発展するようである。二人の怒鳴り声が水のトンネルに響き渡り、ランルはどこで止めればいいのかと機会を窺う。
 そんな時、喧嘩から無縁の所にいた翠沙からの視線を感じてランルは振り返った。静謐な双眸に鼓動を一つ強く打ち、ランルは落ち着かない気分になって翠沙を見つめる。
「宝珠は幾つ存在すると伝えられているの。今の段階では」
「え、えぇっと……確認できているのは三つよ」
 どうしてか翠沙の瞳を真っ直ぐに見つめ続ける事ができなくて、ランルは歩く事に集中するふりをしながら視線を前に落とした。宝珠の力を定めながら新たに水を持ち上げて道を開いていく。前を進む響希たちは賑やかに言い合いながら力強く進んでいく。
「ガラディア、セフダニア、イフリート。これだけ。太古に滅んだ都にはもう一つの宝珠があったと言われているけど――古い文献も、信憑性が低いものばかりでハッキリしないのよね」
 最後の声は独白のようだった。
 ランルは教科書の挿絵を脳裏に浮かべ、人差し指を顎に当てて考える。
 ――響希が持つ宝石を見た時、真っ先に思いついたのは「失われた宝珠」だった。響希の手に渡った経緯は分からない。けれど管理者としての直感が確信していた。
 響希は宝珠に主と認められている。だから暴走も起こらず沈黙を保ったまま、今もただ眠っている。ランルが宝珠の力を駆使しても、引き摺られずに静かなままだ。これがもし野放しにされていた宝珠であれば、これ幸いと共鳴を起こし、予想外に強大な力を解放して全てを飲み込んでいただろう。
 ランルは前に向ける眼差しを僅かに険しくしながら言った。
「今は何も起こらないのかもしれない。でも、もし宝珠が暴走したらどうなるの? 宝珠の力を何も知らない主が止められるとは思えない。たった一つの宝珠だけで、世界が崩壊するわ」
 断言するランルの横顔は酷く大人びていた。
 強大な力に飲み込まれそうになり、恐怖した日々。今は静かにランルを主と認めている青い宝珠だが、昔は持て余されていたのかもしれない。
 翠沙が軽く瞳を伏せた。
「そんな事させないわ」
 辛い事を思い出させてしまったようでごめんなさい、と翠沙は謝るように告げた。励ますようにランルの背中を軽く叩く。
「響希の持つ宝石が、もし宝珠で、響希が主で、もし暴走してしまっても、私と李苑が必ず止めるわ」
 強い煌きを宿す一対の瞳は酷く何かを掻きたてるもので、ランルは囚われたように見入った。思考が奪われたように何も考えられない。黒い筈の瞳が色を宿すように思えて眉根を寄せる。
 ランルが改めて翠沙を覗き込もうとした時、前から声がかかった。
「ランル。どうかした?」
 いつの間にか戻っていた李苑がランルを覗き込んでいた。その声に我を取り戻し、ランルは自分が何をしていたのか、一瞬分からなくなった。横を通り抜けた翠沙を視線で追う。
「ねぇねぇ翠沙。響希がね」
「いい加減に煩いんだっての」
 李苑が翠沙の腕に縋り、先に行っていた響希が嫌そうに眉を寄せる。翠沙は二人を見比べながら穏やかに笑い声を上げた。
 ランルに意志を告げた時とは全く別の、ごく平凡な女子高生の顔に戻った。
「なぁに? 今度はいったい何をやらかしたの」
 あまりに他愛ない会話にランルは拍子抜けした。
 彼女たちの後を追うようにし、けれど距離を取る。友人たちと笑いあう翠沙の横顔は屈託がない。無邪気とさえ言えるものだ。
 ランルは疑うように彼女の横顔を凝視し、そして彼女の意識が自分から外れた事に、なぜか安堵した。

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 崖を左手に見て結構な距離を進んだ頃だ。
 ランルの歩調が徐々に乱れ始め、速度はゆっくりなものに変化した。
 先頭を歩いていた筈なのにいつの間にか響希や翠沙と並び、そして再び最後尾にいた李苑と一緒に歩くまでになり、ついにはそのまま立ち止まる。
「ランル。どうしたの?」
 覗き込んだ李苑は眉を寄せた。
 ランルの息遣いが平常と違って荒く、顔色も悪く思えたからだ。額には汗が滲んでおり、掴んだ腕は熱かった。
「具合でも悪いのか?」
 反対側から響希も覗いた。
「平気……」
 ランルは小さく笑おうとしたが失敗する。込み上げるものを抑えきれないように口を手で覆い、微かに呻いて固く目を瞑る。辛さを示すように眉間には深い皺が刻まれた。
 不安に見つめる李苑の視線の先で、ランルは衝動をやり過ごすと今度こそ微笑んだ。皆の視線から逃げるように緩く首を振って、先を見据える。
「疲れただけよ。休みなく宝珠を使っていたから……でも、そろそろ終わるわ。早く、登る道まで行かないと……」
 ランルは眉を寄せながら周囲の水を窺い見た。
 宝珠によって固定されている筈の壁は、今や不安定に揺れて頼りない。少し衝撃を加えれば簡単に崩れそうに思える。
 李苑は頬を引き攣らせた。
「もしかして流されちゃったり……する?」
 ランルは何も言わずに李苑を見返した。その沈黙に、李苑は更に頬を引き攣らせる。
「登る道まではまだなのか?」
「そろそろよ。洞穴があるの。そこから上に繋がってる」
 ただ歩いているだけなのに息を切らせて、ランルは告げた。響希はただ「そうか」と頷いてランルを抱きかかえる。
「きゃあ!?」
「暴れるな、落とすぞ。歩けないなら誰かがお前を抱えて行かなきゃいけないだろうが」
 いきなり何をするのと怒鳴りかけたランルはグッと詰まった。響希の言葉は理にかなっている。たとえ足を止めて休憩しても、宝珠を使い続けていなければ道は消える。ランル自身の休憩にはならない。ならば足を止める意味がない。
 ランルは沈黙して納得したが、同姓に横抱きにされる事に違和感と不満を感じて頬を膨らませた。響希の腕は力強く、華奢な男性よりも安定感があったが、それでもランルは釈然としなかった。
 抱えられたままそんな事に思考を巡らせていたランルはドキリとした。直ぐ近くに翠沙が寄ってきており、ランルの手を握ったのだ。
 細く白く、溶けそうなほど柔らかな感触。
 ランルは振り解く事もできずにそのままでいた。
 葛藤するランルを知ってか知らずか翠沙は軽く微笑み、少しだけ瞳を伏せる。
 腕を伝わり翠沙からランルへと流される何か。それを感じてランルは双眸を見開いた。温かな何かが体全体に染み込み、まるで疲れが取れていくように感じる。
「何、これ?」
 何の危険も心配もない、温室に入れられたかのように思えて安心する。
「翠沙は他人に同調して癒せる力を持っている」
「癒し……?」
 ランルは翠沙を見た。翠沙は集中していて視線が合うことはなく、真剣な様子である。そんな様を意外に思う。
 後ろを歩いていた李苑が走ってきて、反対側の翠沙の手を取った。
「翠沙の方こそ無理しないでね。他人癒して自分が倒れたら本末転倒よ」
 響希が胡乱な目で李苑を見やった。
「そう思うならお前は大人しくしてろ」
「響希がそういうこと言わなければ大人しくしてるよ!」
 自然と笑みが零れる会話を聞きながらランルは瞼を閉じた。
 酷く眠たかった。
 訴えかけるように広がる癒しの力に安堵が込み上げてきて、意識が闇へと沈んでいく。このまま眠ってしまえば道を保持する力が消えてしまうと分かっていても、睡魔はランルを包み込んだ。ランルは必死の抵抗を試みたが、睡魔にとっては些細な抵抗だったらしい。ランルは眠りに引きずり込まれた。
「あれ。ランル、眠った?」
 しばらくして李苑がランルを覗き込む。
 ランルの腕は力なく投げ出されていて、疲れた表情が紫の髪に隠されていた。
 李苑が気付く少し前からその事に気付いていた響希は黙って頷く。腕にかかる重みも増していた。
 ランルの眠りは深いようだ。李苑が服を軽く引っ張ってみたが、起きる気配はない。
 当初、ランルの意識がなくなっても道に危険はないのかと心配だった響希であるが、今のところ目立った変化はなくて安心している。
「道は、直ぐに分かるのかな」
「とりあえず上に行けそうな所ならどこでもいいだろう。おい、翠沙」
 今は大丈夫でもいつ道が崩壊するか分からない。響希は早く見つけろと李苑に迫り、直ぐ隣を歩く翠沙に声を掛けた。
 翠沙はランルの手を握り締めたまま緩慢に響希を見上げる。顔色は悪く、瞳は精彩を欠いたかのように覇気がない。
 響希は眉を寄せる。
「無理はするなと、李苑も言っていたが?」
「無理なんかしてないわ」
 明らかに強がりである翠沙の言葉に「どうだか」と返した。
「そのうち李苑がお前を担ぐと言い出すぞ」
 少し前を、探るように見ながら歩いていた李苑が振り返った。響希の言葉に右手を掲げて力こぶを作る。
「担いで欲しいなら担ぐけど?」
 決して冗談ではない李苑に、翠沙は即座に否定した。