第三章 【三】

 ランルが眠りに落ちても路が崩れることはなかった。
 李苑たちは恐々と周囲を眺めていたが、危惧していた崩壊の予感はない。それでも注意を払いながら進んでしばらくした頃、先頭にいた李苑が声を上げた。
「道ってこのことかな」
 李苑が立ち止まって響希たちを振り返る。
 ゆっくりと歩きながら李苑に追いついた響希は、彼女が指した方向に洞穴を見つけて眉を寄せた。それは天然の洞窟に見えた。天井からは水が滴り、真っ暗な穴の中からは風の低い唸り声が聞こえてくる。こっちへおいでと手招きするかのように、風が洞窟へと流れ込んでいる。響希たちの背中を押すように。
「暗いな……」
「そりゃそうでしょ、普通この中って水に沈んでる筈だもん。明かりなんかつけてたって、ランルが道を閉じれば直ぐに消えちゃうよ」
 何を言っているのかと、李苑は呆れた声で響希を見た。響希は溜息を禁じえない。洞窟の入口を見ただけでも歩き難そうだと分かり、これからの苦労が忍ばれた。
 李苑がひょいとランルを覗く。
「ランルだったら明かりつける方法、何か知ってるかもしれないのにね。起こしちゃ悪いし」
「――まぁ何とかなるだろう」
 響希はランルを抱え直して呟き、李苑を見た。口の端を上げる。
「間違えても迷子になるなよ。誰も迎えに行かないからな」
 からかう口調に李苑は眉を寄せた。反論しようとしたが言葉が浮かばず、結局は翠沙と腕を組み、響希を睨むだけだった。
「凄い、冷気ね」
 洞窟に足を踏み入れた途端、辺りの気温が数度下がったのを感じた。
 翠沙が瞳を細めて呟いた。
 いつの間にか三人の吐息は白く色を帯びている。
 数歩進むだけで明かりは届かなくなり、これまで以上に慎重に進む。少し油断するだけで足は地面を素通りして体が傾く。
 李苑が転んだ回数が、三回を超えた時だ。
 ドオォン……という、まるで遠くで百の花火が打ち上げられたかのような、腹に響く低い音がした。
 素早く振り返った響希と李苑は絶句した。つい先ほどまであった水の通路は既になかった。洞窟の入口で三人の様子を窺うように、その場所を境目として洞窟の外を流れている。通路がついに崩れたのだろう。勢い良く水没した事を示すように、洞窟の外ではごぼごぼと細かい空気が無数に舞い踊り、水は白く濁っている。残すは洞窟だけ。この場所が浸食されてくるのも時間の問題だろう。
「……ちょっと響希。間違えてもランルを落とさないでよね。その衝撃でここにまで水が流れ込んできたら、さすがの私でも死んじゃうかもしれないよ」
 こんな時までどこか呑気な李苑だ。響希は苦虫を噛み潰した。
「落とすか。誰かじゃあるまいし」
「そうだよね」
 明るく笑う李苑に、響希は舌打ちを重ねる。
「お前のことだ」
 しかし李苑は聞いていなかった。死んでは大変、と焦ったのか先に進んでいる。響希の視線の先で直ぐに滑って転んだ。
 ――しばらく進むと辺りは暗闇となった。自分の手さえも闇が包んで曖昧にしている。先頭を務めていた李苑は何度か大きな声を出して場所を確認し、響希もそれに答えて李苑の位置を知る。ひとまず最後に翠沙をつけておけば、前の二人が調べた場所を安全に進むことが出来る。
 三人は壁伝いに進んでいた。
「……あれ?」
 不意に李苑が怪訝な声を上げる。後を歩いていた響希は眉を寄せながら立ち止まった。
「どうした」
 尋ねた後、洞窟内にぺたぺたという音が響いた。暗闇の中では想像しかできないが、李苑が辺りの壁を探っている様が目に浮かぶようだ。
「ここ、行き止まり?」
 李苑が振り返ったようだ。空気の流れからそれを感じた響希は顔を上げ、自らも周囲を窺った。もちろん視界は利かない。しかし暗闇にも慣らされた体は、常人より物の見方を知っていた。
「――いや。ここから上に行くようだ」
 ほんの微かな闇の深さや風の流れから推測し、響希は見上げた。呟きながらランルの言葉を思い出していた。洞窟から上へ登る道が続いていると言われていた。その言葉が真実であれば、道は上にしかない事になる。
「見えるか、李苑」
「んー」
 李苑は必死で目を凝らしているようだった。そんな様子を感じ取り、響希は苦笑する。振り返って翠沙に手を伸ばす。翠沙はその手に気付かないようだったが、響希は構わなかった。翠沙の手首を掴むと翠沙は震えたが、直ぐに響希の手だと気付いたのか笑いながら溜息を吐き出した。
「驚かせないで頂戴、響希――」
「あ! あれだ! 分かったよ響希!」
 李苑の元気な声が木霊した。響希は肩を竦めて「そうか」と応じる。李苑の天才的な直感力は侮れない。
 李苑は道を見つけられた喜びに湧いていたが、ふと表情を強張らせた。
「あー……上って……これ、よじ登れって言うの……?」
 ようやくその問題に気付いたようだ。はなから李苑が浮かべる策など期待していなかった響希は、そっけなく「そのようだな」と頷いた。無理でも不可能でも、道がそれしかないならどうにかするしかないのだ。
 そんな響希の思いに気付いたのか、翠沙が溜息を吐き出した。
「無理よ……ほぼ垂直なのでしょう?」
「そうみたいだけど……でこぼこしてるみたいだし、手足を突っ張ればなんとか行ける……かも?」
「滑って落ちたら、怪我じゃ済まないわ」
 楽天的な李苑を諌めるように、翠沙の声が剣呑になった。
「それに響希はランルも抱えているのよ。まさか忍者みたいに跳んでいく訳にもいかないでしょう」
「……でも響希ならやってやれない事もないような……」
「李苑」
「うぅ……はい。確かに、いくら響希でも! 無理かもしれない!」
 ヤケクソのように李苑は叫んだ。黙って成り行きを見守っていた響希は苦笑する。
「仕方ねぇ。起こすか」
 響希はしゃがみこむと静かにランルを横たえた。地面に尖ったものがないか丹念に調べて体重を移動させる。そしてランルを揺らした。
「おい、ランル」
 三人の視線が見守る中で、ランルの胸元では宝珠が微かな光を纏っていた。その光がランルの表情を薄く浮かばせている訳だが、ランルに起きる気配は見られない。響希は次いで声の調子を強めて呼びかけたが、同じことだった。眉を寄せてランルを見つめる。
「……もしかして、疲労の他に原因があるのか?」
 響希の視線が宝珠に移る。不可思議な宝珠という物があるくらいなのだから、自分たちの常識だけで判断してはいけないのかもしれない。無理に起こしてはランルに影響が出るのかもしれない。
 響希は慎重になった。
「そうかも、しれない……」
 響希の問いを引き継いで翠沙が呟いた時だ。宝珠の光が微かに強くなった。洞窟内に蒼い光が満ち、先ほどまでより確かに現状を確認できた。
「うわ……」
 宝珠の明かりを頼りに天井を見た三人は声を上げた。
 天井には確かに穴が開いていた。しかし垂直ばかりではないようだ。奥で曲がりくねっているのか、先までは見通せない。当初抱いていた絶望感は消えない。それでも道を実際に見た今では何とかなりそうだというのが、響希と李苑が出した答えのようだった。
「ったくよ。何で俺がこんなこと……」
「でもそうするしかないでしょ。ランルをここに置いていく訳にはいかないし」
 響希も李苑も、既にやる気のようだ。翠沙はいい顔をしないが、確かに他に、選ぶ道がない。響希は再びランルを抱えようとした。
「待って!」
 翠沙が切羽詰ったように声を上げた。地面に膝をついていた響希も、既に登り始めようとしていた李苑も、翠沙を振り返る。二人の視線を受けた翠沙は溜息をついて腕を持ち上げた。
「見て」
 翠沙が指した先にはランルの宝珠がある。ランルの服の下に隠されてはいたが、宝珠が纏う光は先ほどよりも一層強くなったようだ。そして光は強まり続ける。三人が見守る中で、宝珠はランルの服の下から這い出てきた。ランルの胸の上にふわりと浮かび、不思議な煌きを見せた後、一瞬だけ鋭い光で洞窟内を照らした。
 三人は腕を翳して顔を背けた。それほど強い閃光だった。
「……っち!?」
 響希が短く呻く。慌てたように、いつも懐に入れている母の形見を引っ張り出す。
 ランルが「宝珠だ」と断言した、黒い宝石だ。
 ランルの宝珠が放つ光の中で、母親の形見を目にした響希は息を呑んだ。宝石は漆黒に染まりきっており、奥底に鬼火でも潜ませているかのような煌きを宿す。昨日までは単なる黒水晶にしか見えていなかった宝石が、今はまるで違う物に見えた。そしてそれは現在、甲高い音を立てて震えていた。響希にしか聞こえない小さな音だ。
「なん……?」
 響希は戸惑いながら宝石を見つめ続ける。いつも、手の平に包めば心の奥底まで冷え切るような冷静さを与えてくれた。しかし今はまるで溶けてしまいそうな高熱を感じた。鎖を引っ張って宝石を取り出している訳だが、触れてもいないのに熱が伝わる。響希は汗ばむのを感じながら宝石を凝視した。
 ふわりと。
 体が、重力から解き放たれたかのように軽くなった。そう思う間に、地面から足が離れる。
「うわわわわっ?」
 何事かと響希が顔を上げる前に李苑の悲鳴が上がった。いつのまにか宝珠の閃光は消えていて、響希を含む四人は宙に浮いていた。ランルはいまだ眠り続けたままだ。
 李苑は空中でバランスを崩して倒れた。しかし尻餅をつくはずの地面はなく、まるでトランポリンの上で転んだかのように弾んだだけだった。地面を離れた四人の体は上昇を続け、やがて、天井に空いた穴へと吸い込まれていった。

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 ――確かめたい事があるんだ。
 そう告げて見つめてきた瞳。真剣な眼差しをされては、頷くしか出来ない。
 ――直ぐに戻ってくるから。
 男は安心させるように手を伸ばしてきた。私は黙ったまま抱擁を受け入れる。髪を撫でられる感触に瞼を閉じる。この手をずっと覚えていようと思いながら微笑んで、彼を見上げる。
 ――忘れないでよ。貴方はもう、身勝手な行動は許されない身なの。そういう地位に就いたのよ。
 少しだけなじるように言うと、彼は苦笑した。そんな表情にすら、泣きたくなるほど愛しさを感じる。
 ――分かっている。戻ったら責務を果たすさ。
 ――本当よ? 初任務も決まらないまま捜索される私の護衛なんて、格好悪すぎるんだからね。
 ――それは御免被りたいな。
 男は肩を竦めて苦笑した。私もその笑顔につられてしまう。笑いたくなんてないのに、顔は勝手に笑顔をつくる。彼が欲しいと思ってるような、とびきりの笑顔。
 だめ。黙っていると泣きたくなる。せっかくの笑顔が台無しになる。
 ――明日、ここを出るから。
 ――うん。
 声を詰まらせて頷くことが私にできる精一杯の強がり。
 この手を離したら、もう貴方は行ってしまう。
 私には確信があった。
 もう、このような穏やかな時間を持つことはできなくなってしまうだろう事。
 貴方は知らない。私が知っている事を。貴方がやろうとしている事を、私が知っている事を。そして貴方は、やり遂げた後、きっともう戻ってはこない。
 ――……帰って来てね?
 守られない約束を取り付けるのは卑怯だろうか。守ることのできない約束を、それでも貴方は約束してくれる。
 男は私の前に膝をついて頭を垂れた。涙ぐんでいる私の気持ちに気付いているのだ。
 ――貴方に頂いた騎士の剣にかけて、誓いましょう。ここへ、私は再び戻ると。
 男は私の手を取って、甲に口付けた。
 ――これでいかがかな? ライール=ガラディア=サラン王女?
 覗き込んでくる瞳には、悪戯な子どもみたいな無邪気さがある。楽しそうに輝いていて、思わず笑ってしまう。
 ――行ってらっしゃい。
 私は、まだ片膝をついている彼に合わせて屈んで、彼の頬に口付けを送った。主と従者の、一般的な忠誠の証だ。
 ――ついでに恋人としても誓っておくよ。
 男は立ち上がって、そう言った。
 ――そっちはついでなわけ?
 私が腰に手を当てて怒ったふりをして見せると、男は楽しそうに笑った。
 ――じゃあな。
 トンッと。触れるだけのキスを私にして、彼は扉の向こうへ消えた。私は彼の背中を見送った後、足から力が抜けて座り込んでいた。不意打ちで耳まで真っ赤だ。頭を抱えて「バーカ」と憎まれ口を叩いてみる。
 幸せだった最後の時間。
 彼が国を去ってから消息不明の報が届いたのは、どれ程の時間が経ってからだっただろう。私の耳には入れさせないようにと、城の皆に緘口令が布かれていた事は知っていた。それでも私は耳にした。
 あの時、私は何を想っただろう……?