第三章 【四】

 深い眠りの闇から意識が浮上していく。
 とても幸せな夢を見ていた。
 体の疲れが取れているのが分かり、今日は良い気分で過ごせそうな予感がしている。
 今日の予定は何だったかしらと考えながら瞼を開ける。梁が剥き出しの天井を見て瞬きをし、息を吸い込む。
 慣れた部屋に眠っているのではなかった。
 ランルは体を緊張させる。
 眠る前のことを思い出そうとしながら起き上がる。
 横たわっていたのは簡素な寝台で、固い。背中が痛い。起き上がって初めて痛みに気づく。
 馴染みのない小屋の中だった。
 けれど知らない場所ではない。何度か来た小屋だ、と思い出す。
 分からないのは、自分がなぜここで眠っていたか、ということだ。部屋に自分の姿がなければ両親は良い顔をしないだろう。最近の行動は彼らの目に余るものだと自覚している。
 寝起きで混乱しているのかもしれない。
 ランルは額に手を当てて、軽く頭を振った。
「気分はどう?」
 背後からの声に驚いた。肩を揺らして素早く振り返る。
 視線の先には柔らかな笑みを浮かべた少女の姿。
 ランルは直ぐに思い出した。しかし声が出ない。彼女の瞳を見ていると吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。
「大丈夫?」
 いつまでも硬直しているランルに表情を崩し、心配そうに近づいてくる。
「スイサ……」
 彼女をきっかけとして次々と甦る記憶にうろたえる。翠沙から視線を逸らす。
「私」
「とても良く眠っていたのよ」
 まるで皮肉に聞こえた。
 翠沙に視線を戻すと、彼女は安心したように笑いながらランルの胸元を指さした。思わずのけぞる。
 翠沙が差していたのはランルが首から提げている宝珠だった。
「それはかなりの体力を消耗する物なのでしょう? 貴方の体力が追いつかなかったのね」
 淡々と告げる声を不思議に思いながらランルは受け止め、双眸を瞠った。
「私、眠ってたって、いつから? どうやってここまで来たのっ?」
 つかみかからんばかりの勢いで翠沙に迫る。
「何を騒いでるんだ」
 翠沙が両手を挙げてランルを宥めようとしたとき、引き戸の音がしたあとに響希の声が割って入った。木で出来た扉を開いていたのは響希だ。何の怪我も見られない様子に、ランルはますます分からなくなった。
「どうして」
 ランルの呟きに響希は眉を寄せる。言葉の意味が分からなかったのだろう。
「李苑は?」
「あいつなら飽きもせずに城を眺めてるよ」
 肩を竦めて呆れたように響希は答える。重たげに椅子に座る動作が彼女の疲労を物語っていて、翠沙は苦笑した。
 洞窟から出た三人が目を奪われたのは、遠くにそびえる大きな城と、そのふもとに続く城下町だった。日本ではあり得ない西洋の街並みは李苑を虜にし、小屋にも入らず、今も外で城を眺めている。
 響希はため息をついてランルを見た。
「ここはあんたが掌握してる小屋だと認識していいんだろう?」
 丘の中腹に建てられた小屋は無人だった。
 咎める翠沙の声も無視して物色した響希は、そこにランルの私物と思われる物をいくつか見つけて腰を落ち着けることに決めたのだ。
 彼女の問いかけにランルは頷いた。密かに造らせた小屋だった。
「あの川から、貴方たちは一体どうやってここまで……?」
「お前の宝珠ってヤツが助けてくれたんだろ? 便利なもんだな。持ち主が意識を失くしても力を発揮するようになってるのか」
 ランルはますます混乱して顔をしかめた。
 宝珠の力は使用者が意志を持って初めて発動するもの。だからランルが意識を失えば宝珠の力は霧散し、川は流れ、洞窟は冷たい水を湛えたまま人間を閉じ込める。宝珠が使用者の手から離れて発揮する唯一の力は、すべてを巻き込んで消滅させる、破滅の力だけだ。
「私が無意識で……?」
 宝珠が手を離れても継続的に力を発揮するように操ることも可能ではあるが、それには長い準備時間が必要だった。その場限りでしかなかったあのような緊急事態の中で、そのようにする必要性も感じていなかった。無意識で宝珠を操っていたのかとも思ったが、やはりそれは不自然に思える。
「そのようなことより、これからどうすればいいのかしら?」
 ランルの思考を引き戻したのは翠沙の声だった。
「確かにな。ひとまず落ち着いたが、これから行く場所も、戻るあてもない」
 響希はお手上げだと乾いた笑いを零す。翠沙もため息をつき、ぼんやりと視線を小屋に巡らせる。
 ランルは逡巡したのちに顔を上げた。
「なら、私の所へ来ればいい」
 二人の視線が突き刺さる。ランルは引かなかった。
 行動を共にしながら考えて来たことだった。無闇に引き入れるのは愚かしい時期だと言えたが、彼女たちとこのまま別れるのは得策ではないような気がした。
 助けられた恩を感じているのも確かだ。
 更には、響希が持つ宝珠をこのまま野放しにしておくのは恐ろしいことに思えた。
 彼女は宝珠に関して無知だ。異界から来た人間に宝珠の知識を望むのは酷だと思えたが、自覚を説いたところで直ぐに為せることでもない。せめて自覚を持つまでは目の届く範囲にいて欲しいと思う。暴走する危険性は響希が持つ宝珠も同じだ。何も手を打たないまま厄災を招いては、宝珠の管理者としては失格だ。
 ランルの提案に二人は顔を見合わせた。困惑とも肯定とも言えない表情だ。
 その様子にランルは内心で焦る。
「利用、させて貰うと言ったしね」
 敢えてその言葉も引き合いに出す。本心ではないが、他に彼女たちを繋ぎ止める言葉が見つからない。
 響希は剣呑な笑みを浮かべたに思えたが、単に面白がっているだけだと気づく。証拠に、彼女の隣では翠沙が諦めに近いため息を落としている。
「異論はないわね?」
 畳みかけるように問いかけた。
「それでは早速行きましょう。ここで時間を無駄にしている訳にはいかないわ」
 反論を許さず、そのまま仕度に移ろうとする。
 寝台を下りて小屋の奥部屋に向かった。扉を開け放ち、直ぐ側の衣装棚から響希たちの服を見繕って投げ渡した。
「それに着替えて。貴方たちのその服では目立ちすぎるわ」
 響希は自分の服に視線を落として「確かに」とうなり声を上げた。
 学校指定のジャージだ。暗い夜道でも車に気づいて貰えるようにするためなのか、ジャージは鮮やかな蛍光色で作られている。普段は他の生徒たちに紛れるため違和感を感じたことはなかったが、ことここに至っては話が別だ。人目をはばかりたい時にこの服では邪魔である。
「私は李苑を呼んでくるわね」
 響希は露骨に嫌そうな顔をした。目撃した翠沙は明るく笑う。
「李苑は順応性に優れているわね」
「現実逃避したいだけだ」
 忌々しそうな響希の声に反論はしないまま翠沙は踵を返した。


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 翠沙は踵を返し、ランルがいる方向とは反対側の扉を開けた。
 外の風を浴びる。
 ――李苑が平常心でいられるのは、貴方が一緒にいるからだと思うんだけど。
 そんな独白をする。
 夜空を見上げながら瞳を細めた。
 響希は無条件で信頼できる。敵に回せば恐ろしいが、味方になればこれほど頼もしい人物もいない。彼女が近くにいてくれると思うだけで心強い。
 けれど自分は李苑ほど落ち着いていられない、と翠沙は視線を落とした。
 今にも足元が崩れていきそうな不安に襲われている。そんなことを口に出せば二人は必要以上に気遣ってしまうため、こんな弱音は口に出せない。これからどうなってしまうのか、馳せる想いはとめどない。
 丘の向こうに佇む白い城。まるで発光しているかのように、夜空から切り取られた城は存在感を強くしている。まるで現実味がない。幻想的な光が城下を包んでいるのが分かる。母の胎内で守られている赤子のように。
 翠沙は瞬いてその呪縛を断ち切り、視線を巡らせた。
「李苑?」
 洞窟へ向かう道の傍らに李苑は座っていた。
 少しも位置を動いていないように思えた。
 真剣な表情で城を一心に見つめており、翠沙の声は届いていないようだった。
「りーおん。中に入りましょう」
 直ぐ側まで近づいてから声をかけると、李苑はようやく気づいて顔を向けた。しかし表情を明るくしただけで動こうとしない。かぶりを振る。
「私、もうちょっとここにいる」
「ランルが目覚めたわよ」
 断るだろうと予想していたため、彼女の心が動きそうな事実で誘ってみる。案の定、李苑は目を丸くして嬉しそうな顔をした。
「本当?」
「ええ。だから、中に入りましょう」
 促すと李苑は力いっぱい頷き、勢いをつけて立ち上がった。
「入る入る!」
 李苑は翠沙をすり抜けると明るく笑う。振り返ると既に走り出しており、先に行くね、と翠沙を置いて小屋に向かう。嬉しさを隠せない様子に苦笑した。まるで小さな嵐だ。
 翠沙は先ほどまで李苑が座っていた場所に立ち、城を見つめた。
 白亜の城はただ静かに時を刻んでいる。篝火も焚かれていないようだ。ここからでは巡回の光が全く見えない。
 少し耳を澄ませると近くの洞窟から水の音が聞こえて来た。
 まるで浮島のようだと思いながら洞窟を上がって来たことを思い出す。
 翠沙は城から視線を逸らし、李苑を追いかけた。

 
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 李苑は小屋に飛び込んでランルを見つけた。
 響希の怒声も気にせず、歓声を上げて抱き付いた。
 そうしてひとしきり全身で喜びを表したのち、ランルから渡された服に首を傾げた。
「これに着替えるの?」
 服を広げた李苑は難しい顔をする。
 どこに腕を通せばいいのか、分からない服だった。まるで、仕立て前の布を数枚適当に丸めて縫い合わせたかのような服だ。しばらくは表にしたり裏にしたりして眺めていたが、お手上げとばかりにランルに救いを求めようとした。しかしその頃には既に、ランルは自分が着替える為に奥の部屋へ消えていた。
「ほら、李苑。こっちよ」
 途方に暮れる李苑を救ったのは翠沙だ。李苑の奮闘ぶりを見ていたらしい。おかしそうに笑いながら服を拾い、腕はここを通し、首はここから、などと手際よく指示を出してあっという間に着替えさせられた。
「ふぇー……何ていうか、アラビア方面の服みたいだねー……」
 先に着替えていた翠沙は、李苑のその言葉に笑った。
 響希に視線を向けると、案の定、不機嫌そうだ。それでもジャージから着替えている。
 二人の視線に気づいたのか響希は威嚇するように吊り上がった目で見返してきた。誰かに非があるわけではなく、単に、渡された服がスカートのようにヒラヒラとした布地だったための八つ当たりだと分かっていて、李苑は肩を竦めた。
「響希も着替えてたんだね。それにしても、何で二人ともこんなのの着方知ってるのさ」
「ランルが同じようなものを着てただろう」
「民族衣装に同じような物があったもの」
 李苑は頬を膨らませた。
 暗に「観察力がない」「知識が乏しい」と言われているようだ。
「……どこの民族衣装よ」
 拗ねて呟いたが、相手にしてくれる人物はいなかった。
 その時、奥の扉が開いてランルが姿を見せた。先ほどまでの動きやすい服から、丈の長いドレスワンピースを纏い、その上から外套を羽織っていた。
「なんか、翠沙が普段着てるドレスみたい」
「私、普段着でドレスは着ないわ」
 ランルの姿を見て呟いた李苑に、翠沙は唇を尖らせる。しかしその呟きを李苑は「どうだか」と一蹴した。古くから続く豪商の娘である翠沙は、俗にいう“お嬢様暮らし”を送っている。彼女が普段着だと思っている服は、李苑にとってドレスであることが多い。作法教室へも通っているという話だ。
「お嬢様って大変だ」
「あ?」
 近くにいた響希が胡乱な声を上げた。
 ランルはテーブルに置かれていた短剣を外套にしまい込んで、外へ出ていく。慌てて李苑もその後に続き、頭上の月が傾きかけているのを見た。
「もうこんな時間……」
 ランルは不本意そうに呟いた。ドレスの裾をつまんで足早に丘を駆け下りる。
「待ってよ、ランル。どこに行くの?」
 性急な彼女を、三人は慌てて追いかけた。
「城に戻るのよ。早くしないと怒られてしまうわ」
 ランルの視線は足元に落ちていた。この格好で転ぶと悲惨なことになる。
 李苑はランルの返答に眉を寄せたが、一拍置いて顔を輝かせた。
「城に入れるの?」
 どうやら好奇心が勝ったらしい。拳を握りしめる李苑に瞳を細める。あの城が、ランルにはそれほど良い場所だとは思えなかった。どのような憧れを抱いているのか知らないが、少しだけ苛立ちを覚える。
「どこにも行く場所がないのでしょう? 城に泊まれるように、私が口添えするつもりよ」
「やった!」
 李苑は元気よく飛び跳ねて響希を振り返った。
「こんな経験滅多にないよね! ね、響希。響希もいいでしょう? 翠沙に野宿なんてさせられないよね!」
 瞳を輝かせて力説する李苑に響希は舌打ちする。嫌そうな顔ではあるが、反対する理由も見つからないのだろう。肯定の意味で頷いてくれた。
「よっし! じゃあ私、先に行く!」
「はぁっ?」
 李苑は速度を上げてランルを追い抜いた。誰が止める間もない。まるでそのまま城に突撃でもするかのような勢いだ。
「ちょっと李苑!」
 翠沙が声を上げたが、李苑には届かない。彼女との距離は既に開いている。
 呆気に取られているランルの背後で、翠沙はため息を零した。
「……頼むわ、響希」
「ああ」
 響希もまた疲れたように頷く。その直後に速度を上げて走り出し、こちらもまたあっという間に闇に消えていく。ランルと翠沙は足早にだが歩いたまま、二人を見送った。
 ランルが言い難そうに視線を彷徨わせる。
「何というか、貴方たちって、苦労しているのね」
「苦労しているのは主に響希」
 素早い同意にランルは視線を前に向け、響希に同情した。


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 響希に連れ戻された李苑は極端に口数が減っていた。
 追いつかれたその場で、響希に嫌というほど怒られたらしい。ランルたちの元へ戻って来る時、李苑はまるで猫のように後ろ襟をつかまれながらの姿だった。
「いいじゃん、近くで見てたって。何も一人で中に入ろうと思った訳じゃないし」
 響希の側で監視されることになった李苑はブツブツと呟いてたが、当然ながら黙殺される。自分の声も届かないと悟ると仏頂面で口を閉じた。
 城が間近に迫る頃だ。
 ランルが急に立ち止まる。弾かれたように振り返った。
 直ぐ後ろを歩いていた三人は驚いたが、ランルの視線は三人を通り越して後ろを見ていた。三人も振り返るが、闇しかない。埋もれる町並みには何の変化もないように思える。
「ランル?」
 李苑の問いかけに答えはない。
 ランルは険しい表情で闇を探り続け、やがてかぶりを振った。
「いいえ。何でもないわ」
 三人は顔を見合わせたが追及はしなかった。
 ランルはそれまでの歩調を緩めた。
「いいのか、急がなくて」
「間に合ったようだから」
 四人の前には壮健な門が姿を現していた。
 近づくと、門の両端には兵が1人ずつ直立不動しているのが見える。
 交代制の門番だ。彼らの表情までも分かるほど近づいていくと、左に立っていた兵が慌てたように門を開けた。右に立っていた兵も困惑したように声をかける。
「お待ちしておりました。今夜はずいぶんと遅くなられたんですね」
「ええ。心配させてごめんなさい。騒ぎにはなっていない?」
「あと少しで私たちの交代時間でしたので……」
 ランルは安堵したように微笑んだ。兵たちは困ったように首を傾げる。
「いつもありがとう。貴方たちの協力がなければ城から出ることもできないものね」
「けれど、最近は物騒になってきています。あまり城下を歩かれない方がよろしいかと存じます」
 ランルはそれには答えず、兵士の傍を離れた。門を開いた兵士へ近づく。
「ランル様。あの、そちらの方々は?」
「私の客人よ。王たちには先ぶれを願うわ」
 李苑たちの存在に気づき、槍を突き付けようかどうしようか、迷う。
 ランルは軽く諌めた。
 そして門の向こう側が少しだけいつもと違う様子に眉を寄せる。
「何事かあったの?」
「いえ……王と王妃が、捜しておられて……」
 ランルは心の中だけで舌打ちした。城を抜け出すため、親しい兵に無理を言って門を開けさせていた。兵が交代する時間までに戻ることを約束し、ようやく得た自由だ。兵が他の者に秘密を漏らすとは考えにくいが、王たちが捜しているとなれば直ぐに露見することだろう。
「ごめんなさいね、貴方がお咎めを食らわないように尽力するわ」
「いいえっ、私の個人的な判断でしたことです。隊長の安否は私たちも」
 実直な言葉にランルはかぶりを振って彼を遮る。彼の唇に人差し指を当て、硬直した隙に脇を抜けて城に入った。姑息な手段に心の中で彼に謝る。李苑たちも後に続いて城に入った。
 門には数名の兵が駆けつけようとしていた。静かな夜に小さな騒ぎが波紋を広げていく。
 ランルは彼らを一瞥して制し、城内へ続く石畳を外れて中庭に向かった。
 戸惑う兵たちの声を背中で聞く。誰1人して追いかけてこない。ただ困ったように見送るだけだ。
 誰もが無言のまま歩き、城の奥まったところまで進んだ時。
 突然、李苑が大きくため息をついた。
 全員の注目を浴びた李苑は慌てて両手を振る。
「ちょっと緊張してて」
「お前が? 珍しい」
 そっけない響希に李苑は唇を尖らせた。
「あっちの兵と同じようにいきなり乱暴働かれたらどうしようかと思ってたの。もちろんやられるつもりはないけど、そしたらなんか、ランルが困るような気がして」
 窺うように視線でランルを見ると、彼女は目を丸くしていた。
 李苑は頬を掻く。
「もしかしてランルって、この城のお偉いさん?」
 なぜか声を潜めて尋ねられ、ランルは苦笑した。
 中庭は月光を浴びて静かなきらめきを湛えていた。城自身が放つ光が重なり、ときどき小さな光が舞い踊る。丁寧に刈られた木々の周辺にガラス玉が光を放って漂っていた。月がない夜でもその光球があれば道に迷うことはないだろう。
「ここはガラディアという国」
「ガラディア……?」
 遠く聞こえる涼しい音は噴水の音。
 ランルは三人の様子を眺めて笑みを洩らし、視線を前に戻して唇を引き結ぶ。
 この場所は、兵士たちに進入を許していない場所だった。王族か、それに近い血族の者のみが進入を許された特別な庭だ。もちろん庭師などには許されているが、血なまぐさい、俗世的な雰囲気を纏う者は入れられない決まりだった。
「こちらの世界では、国王の血族には国名が刻まれるのが習わしとなっているの」
 そこまで聞いた李苑は「あ」と気づいた。何のことはない、ランルの自己紹介のときに“ガラディア”という単語を聞いていたことを思い出した。
「ライール=ガラディア=サランって言ったよな」
 腕組みをした響希が言葉を補足した。
 李苑は彼女を見上げる。たった1度しかなかった自己紹介なのに、よくぞ覚えていた、と尊敬を通り越して呆れが湧いた。むしろここまでの記憶力がなければ学年ベストを維持していくのは難しいことなのか。
 ランルは紫の髪を揺らせて振り返る。
「そう。もう貴方たちに隠す必要もないけど――私はガラディアの、第一王位継承者よ」
 李苑は驚きたかった――が、口に出た言葉は「へぇ」という平淡なものだった。
 ランルは苦笑する。
 まるでその言葉の後に「だから何」とでも続けられそうだった。
 今更この程度で騒がれても困る。態度を翻して敬ったり、取り入ろうとすることのない人物たちは好感が持てる。
 ランルは王家の庭から城内へ入った。深夜であるため使用人など姿はない。
 本来なら王たちも眠っているはずだがランルの不在を知っている。王はランルの姿を直接見るまでは眠らないと断言していたので、今も部屋で待っているのだろう。彼の怒りを明日に延ばすことは無理なのだ。
 もう少し早く戻っていれば王に気づかれることはなかったかしら、と無駄なあがきでもしもを思ってみたが、過ぎたことは仕方のないことだった。
 外景が見えなくなる内廊下を歩きながら、ランルの歩みは気持ちからか鈍足になっていった。
 統一された建築様式は落ち着く雰囲気だ。
 李苑は柱に刻まれた模様を観察しつつランルの後を追いかけ、時には手を伸ばして手触りを確かめる。そうしてふと、後ろを振り返った。すかさず響希にふくらはぎを蹴られて顔をしかめた。
「これ以上、迷惑かけるなよ?」
「誰に?」
 冷たい黒曜石の双眸が李苑を見下ろしてくる。負けじと琥珀の瞳で睨み返し、唇を尖らせる。蹴られたふくらはぎが痛みを訴えた。
 響希のこめかみが引き攣ったのを見た李苑は素早く翠沙の影に回り込んだ。翠沙は迷惑そうに眉を寄せたものの、何も言わない。響希が李苑を怒鳴りつけようとしたその時、タイミングを見計らったようにランルが足を止めた。繊細な細工が施された扉の前だった。何かの紋様が刻まれている。
「貴方たちの滞在許可を貰わなければいけないから」
 ランルは三人にそう告げて扉を叩いた。
「ランルです。入ります」
 ランルの宝珠が一瞬だけ光を帯びたが直ぐに沈黙した。
 なめらかな石でできた取っ手をひねり、ランルは扉を開けた。